津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■目白通り

2024-03-12 12:04:01 | 徒然

  

目白台の細川邸正門に、町名の元となった老松がにほんあったが、それが「鶴亀の松」である。
細川家が目白に屋敷を設けたのは、弘化4年1月24日細川藩白金邸は類焼した際、齊樹公の未亡人・蓮性院が2月14日にこの地に避難されている。

もっともこの地は蓮性院のご実家・一橋家の下屋敷であった。
そこを細川家が購入されてからのことである。
その前の道が現在の「目白通り」だが、上記二枚の写真を見るとまさに隔世の感があり、左の写真などを見ると田舎町の風情が残されている。
一橋家の時代からあったのかもしれないが、左手が「鶴の松」、右手の低い松が「亀の松」であり、文京区の説明によると「鶴の方は1905(明治38)年
頃に枯れ、亀の方は1933(昭和8)年頃に枯れた。」とある。

この「亀の松」は切り倒されたのち切株は火鉢に加工されている。
護貞さまの御著「茶・花・史」にその写真が掲載されているが、その説明には「大正六年に枯れた」とあるが、文京区の説明とはずいぶん誤差がある。
右の写真ではまだ鶴の松も元気に見えるが、文京区の説明を信じると明治38年以前の撮影だということになる。
「目白通り」も随分整備されていることが判る。道が随分広げられているが右側部分に一方的に広げられたのであろうか。
この時期の細川邸には、今に残る「和敬塾」の前の、豪壮な洋館が存在していた。大正12年の関東大地震で倒壊した。
護貞さまご兄妹は、その豪壮な御屋敷で過ごされたのであろう。

                 

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■手討達之扣-(19-4)清原寿吉郎・貴田小十郎手討不覺

2024-03-12 07:22:54 | ご挨拶

      口上之覚
   清原寿吉郎儀於是法村手疵を蒙候次第不覚悟之躰ニ付乍恐被下置候御擬作高并家屋敷差上申
              家老・有吉氏

   度一類共ゟ奉願度申断候 清助殿思召寄無御座候ハゝ願書差出可申候間此段御同意奉伺候間可然様奉願候 以上
      二月             白石又助
                     清原藤蔵
          一宮次左衛門殿
          稲津嘉久馬殿

      
               清原寿吉郎
   右は二月十日於是法村手疵を蒙り候次第ニ付被下置候御擬作高百石家屋敷とも差上申度一類中より
   奉願度段清原藤蔵・白石又助ゟ内意之趣直ニ達尊聴候處其節之一件御糺も可被 仰付候処此節は
   御様子有之内意之通寿吉郎江被下置候御擬作家屋敷被 召上旨被 仰付候条一類中江可被
   申渡候 以上
      十月晦日

              清原寿吉郎
                    母
   右寿吉郎儀一類中ゟ内意之趣ニよつて御擬作被 召上候 依之母江五人扶持被下置候間此段一類江
   可申渡候 以上
      十月晦日
                         小笠原5代か
     右は一学殿宅ニ而清原藤蔵江被申渡候事 右ニ付組脇一人完身分伺候処連名ニ而一同ニ相伺候様
     一学殿より被申聞候間一同ニ相伺候へ而は相組御用差使可申哉と猶又相伺候処右伺被受置候節は取斗
     之筋有之候段一学殿ゟ被申聞候間直ニ連名にて一同ニ相伺候事
        但身分伺書一学殿ゟ御用番江相伺被申候処差扣等不及段即答被申聞候由被申達候事

      口上之覚
   私実方之兄清原寿吉郎儀當二月於是法村ニ手疵を蒙り候次第ニ付被下置候御擬作高百石家屋敷共

   差上申度私共より奉願候段御内意書付をもつて奉伺置候処御内意之通被下置候御擬作家屋敷被
   召上旨被 仰出依之寿吉郎并従類とも私支配に仕候 此段被成御達可被下奉願候 以上
      十月           清原藤蔵
          一宮次左衛門殿
          稲津嘉久馬殿

      
   八助育之従弟久光丑蔵儀當二月於是法村清原寿吉郎・貴田小十郎ニ手疵を負せ候次第病乱相違
   無之候由ニ而手堅いたし置候段相達候趣達 尊聴候處丑蔵儀病乱とハ申ながら未練之仕形
   不埒之次第士席被差放軽輩牢人ニ相心得候様被仰付弥手堅囲ニ入置可申旨被仰出候
        右之通可被申渡候 以上
        十月晦日

                  (了)

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 この事件は侍の特権だとされる無礼討ちの有様について大いに考えさせられる事件である。
 被害者清原寿吉郎・貴田小十郎は暗闇の中で病乱(精神障害か?)の久光丑蔵から不意打ちに切りかかられ重傷を負った。
 被害者・加害者側に周囲に人が居り、被害者については介抱に勤め加害者確保には至っておらず、加害者側も周囲の人が取り押さえた。
 加害者側から加害者の引き渡しがなかった為、又重症の身であったため討果すには至らなかった。
 それゆえ、討果すことができない「不覚悟」な行いと認定され、両人は扶持放ちという厳しい結果を招いている。
 つまり、自らの身分を確保するためには、何とか相手方を討果さなければならないという現実が見て取れる。
 理不尽な暗闇の中の「不意打ち」という現実よりも、侍の行動規範が重要視されている。
 

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