津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■幕府と戦った天皇

2024-03-21 22:39:49 | 徒然

 焼酎片手にTVをつけチャンネルをカチャカチャやっていたら、なにやら「後水尾天皇」と聞こえる。
何?と思ってよくよく眺めてみたら、「BS朝日 あなたの知らない京都旅~1200年の物語~「幕府と戦った天皇」という、中村雅俊をナビゲーターとする番組だった。
今私は、熊倉功夫氏著、忠蒙ん子の「後水尾天皇」を読んでいる真最中である。 4月の熊本史談会例会でお話をする機会を与えられたが、この後水尾天皇に触れなければならないからだ。

 二条城行幸を受け入れながら、東福門院和子の子・明生天皇に後を託す形で譲位したのは、後水尾天皇の確固たる幕府への抵抗である。
隆慶一郎著「花と火の帝」は私の愛読書だが、幕府の後水尾帝に対する干渉は、余りにもひどかった。
隆氏はその才能をフルに発揮されてこの名著を世に送り出し、この世を去られた。
これは小説だから仮想の世界ではあるのだが、徳川の後水尾帝に対する仕打ちは異常とも思える。
細川忠興はその異常をかぎつけて、息・忠利に報告の書簡を残している。

 TVの解説を聞くと、退位した後水尾上皇は幕府から多大な援助を受け、寛永文化の昇華にこれを費やしたという。負けるが勝ちのその成果が修学院離宮や圓通寺の創建である。圓通寺に中村雅俊氏は足を運び、比叡山を借景とした御庭を前にして、感慨をあたらにする。
ご住職のご努力により8㌔はなれた比叡山の間に遮るものがない素晴らしい景色がある。景観条例がこの景色を守っている。後水尾上皇が御覧になった景色がそのまま残されている。

 片手に持っていた焼酎のグラスはテーブルの上に置き、聞き漏らすまいと必死で拝聴した。

日頃の行いが良いと??、偶然を偶然とせぬ出会いをもたらしてくれる。感謝・・

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■宇土支藩11代・立則公書簡

2024-03-21 10:36:14 | オークション

    1649【真作】 肥後宇土藩主 細川立則 佐々木顕発宛書状 江戸後期の大名 熊            

    正月の定例の挨拶状である。立則は宇土細川家の11代だが、嘉永4年に父・行芬の病気により跡式相続をしている。
宛先の佐々木顕発はその履歴が誠に不思議な人物で、一介の旗本の家来から御家人ー旗本となり、勘定奉行・町奉行・外国奉行
へと大出世をした人物として知られる。

立則は文久2年に隠居しているから、佐々木顕発はその時期すでに奈良奉行になっており、以降大阪町奉行・小普請奉行となり、
一時期反井伊直弼派で免職となり、その後徒頭・作事奉行となっている。町奉行・外国奉行となられたのは立則の隠居後である。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■オタンチン・パレオロガス

2024-03-21 07:13:59 | 書籍・読書

 漱石が新婚早々寝坊癖で起きられない鏡子夫人に言い放った言葉で有名である。
つまりこの漱石先生の造語は熊本に於いて明治29年に誕生したことによる。

鏡子夫人の著「漱石の思い出」によると、「オタンチン」は判るが「パレオロガス」が判らないので漱石に聞くが笑って教えてくれないからと、
訪ねてくる人に片っ端から尋ねている。


 この言葉は、「吾輩は猫である」に登場しているのは皆さまご存じのことであろう。多々良さんとのやり取りの中で出てきている。
漱石が熊本時代鏡子夫人をからかい続けたこの言葉は、漱石にとっては新婚時代の楽しい思い出として残っていたのだろう。

「吾輩は猫である」は鏡子夫人の記述によると、「この年(明治37年)の暮れごろからどう気が向いたものか、突然物を書き初めました。」と
あり、その「吾輩は猫である」がホトトギスの正月号に連載が始まるや大評判を得たという。
全てを書き上げたのは、39年の八月に11回を発表しているが「オタンチン・パレゴロノス」が登場しているのは、七月の第5回分に掲載されている。

熊本時代に鏡子夫人をからかい気味に発した言葉は、10年の歳月を経過して名著「吾輩は猫である」で復活を遂げた。

 「パレゴロノス」とは賢明な皆様はすでにご存じの通りの、ローマ帝国の最後の皇帝コンスタンチン・パレオロガスのことである。
江戸っ子で洒落ッ気がある漱石先生は「コンスタンチン」を「オタンチン」にしたことは容易に想像がつく。

なんで私がこんな皆さんが良くご承知の話を取り上げているかというと、「鏡子夫人は何時このことをお知りになったのだろうか」という素朴な
疑問からである。

鏡子夫人の孫娘(半藤真利子氏)聟・半藤一利氏の「漱石先生ぞな、もし」にもこの話は取り上げられているが、実は半藤氏もこの言葉がどこから
きているのかはご存じなかったとされる。
そうすると、鏡子夫人もご存じないままだったのかもしれない。
何方かご承知であればご教示いただきたいものである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする