津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■手討達之扣-(21)種々三件

2024-03-14 08:01:16 | 史料

35、文化二年六月十八日 吉田卯三郎手討
    堀次郎右衛門組
      
    私弟吉田卯三郎儀下益城郡中山手永茂七と申者慮外いたし候ニ付手討仕候 此段御達仕候 以上
      六月十八日       吉田小次郎

      
    私弟吉田卯三郎儀昨十八日手討しそうろう次第書付を以御達仕候通ニ御座候 右始末之儀は卯三郎儀昨夕かた
    用事有之甲佐町江罷越用事相仕舞罷帰候途中暮比横田村往還ニ而何方之者とも相知れ
    不申後ゟ態と行懸り申候ニ付相尋候処悪口雑言いたし理不盡及手向重畳不届いたし方ニ付其侭難差
    置手討仕候事ニ御座候 其節外ニ壱人連有之候様子見受候得共右手討いたし候内何方江迯去候哉相知レ
    不申候 討捨候者は横田村庄屋儀助方へ引渡置申候 右慮外者何方之者共相知レ不申候ニ付甲佐手永御
    惣庄屋岩永新助江承合置候處下益城中山手永原田村茂七と申者ニ而當村下早川村左七と申者
    抱置候由右新助ゟ紙面を以相知せ申候 手討仕候始末右之通ニ御座候 以上
      六月十九日        吉田小次郎

36、文化三年二月朔日 宗本文平下女手討
    志水九左衛門組
      口上之覚
    私数年召置候下女今日不届之儀有之何ぶん難差通御座候ニ付只今打放申候 此段御達仕候 以上
      二月朔日         宗本文平
        岩崎武兵衛殿
        江嶋傳四郎殿

      
    私数年召置候下女打放申候次第書付を以御達仕候通ニ御座候 右始末之儀連々申付等不相用平日我
    侭ニ振舞必多度雑言ニおよび對■女ニ候而も不届之儀間々有之其侭ニ難差通儀も御座候へども老年之
    祖父数年召仕候者之儀ニ付對祖父當時迄差赦置申候 然處用事御座候而出懸申候処高聲ニ而種々悪
    口等仕候ニ付誤り居申候様申付候処其儀をも聞入不申弥以雑言相募既ニ及手向何分難差通有之候ニ付
    今日打放申候 始末之様子右之通ニ御座候 此段御達仕候 以上
       二月朔日         宗本文平

37、文化二年六月 神邉岩男手討仕損御知行被召上
    西山大衛組
                   神邉岩男
    岩男儀家内惰弱ニ有之去年六月沼山津古閑村出小屋ニ居候太助と申者を致手討候所存ニ而
    育之兄并妻をも連銘々抜身之鑓手刀等を携罷出太助を尋在宅近邊徘徊いたし候へとも
    行方不相知始末をも不遂由相聞重畳不埒之至ニ付被下置候御知行被召上旨被 仰出也

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■計量をごまかして造酒屋に蔵が建ち

2024-03-14 06:53:55 | 徒然

「熊本御城下の町人」を読んでいたら、酒の値段が書かれていた。
天保元年のことだが揚酒屋(酒販売店)での店頭値段が一升上酒で2匁4分(銀)であり、造酒屋では1匁9分5厘が公定であった。
天保頃の近・銀・銭の関係は1両=銀60匁=銭6,500文くらいだとされるから、揚酒屋での値段は270文ほどとなる。
一番日当が高かった大工は一日5匁4分貰っていたというから、大工さんの夕食には一・ニ合の徳利が付いたことであろう。
100石取りの侍では上酒を飲むなどというのは難しかったかもしれない。

 処で、この本では、造酒屋が揚酒屋に酒を下すとき、正規の升を使わず独自の升を使ってごまかしていたことを取り上げている。
2斗5升の樽で1升ほど足らなかったと書かれている。
造酒屋はほとんどが財を成している。このような悪手を使ってのことであった。
これはさすがに揚酒屋でも気づき、藩庁に申し入れ、一升ますで目の前で計り入れるように御沙汰があった。

 いつの時代も酒好きは絶えず、揚酒屋を繁盛させ、造酒屋に蔵を建てさせた。

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