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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十七)

2022-01-07 06:43:45 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 選評(二十七)

・足柄の關ふきこゆる秋風のやどり知らるる竹の下道

 東國陣道の記。「七月十五日、相わづらふに就て、御いとま也。歸陣には甲州どほ
りをと思ひ侍りて、足柄山を越て、竹の下といふ里に泊り侍りぬ」。同月十一日、小
田原城すでに降伏して、北條氏政らに死を賜はつたのであつたが、秀吉は引續き奥州
まで征討する豫定になつてゐた。幽齋、病によつて随行を免ぜられ、丹後へ歸つたの
である。第一日は、石垣山のほとりの陣を拂つて、箱根山中の竹之下に泊つた。御殿
場の東北一里の寒村、建武二年十二月の古戰場として有名だ。そのすぐ東に足柄峠

り、頂上近くに關所が据ゑられたが、とくに廢址となつてゐた。歌意、足柄の關を西
から東へ吹き越えて遙々とゆく秋風は、何處に宿をとるものかと思つたらば、竹之下
の名にそむかず、ここに生い茂れる一群の竹群の中に宿るのであつたわい。西風がざ
わ/\と薄暮の竹叢にそよぐを聽いて、擬人したのである。幽齋、おのれも旅人で今
夜ここに泊る、秋風も亦あひやどりするかと、想ひやつたのだ。「關ふきこゆる」と
いふ句は、天暦の御時壬生忠見が詠んだ歌、

 秋風の關ふきこゆるたびごとに聲うちそふる須磨の浦浪

に始まつて、源氏物語に引用せられ、後には謡曲などにも入れられて、有名にたつ
た。〇風は東西南北するものなるゆゑ、しば/\擬人せられて、風のやどりと云ふや
うな語が和歌の上にも現れて來た。少しく例示すれば

 花ちらす風の宿りは誰か知るわれに教へよゆきて恨みむ  (古今集)

 いく秋の風のやどりとなりぬらむ跡たえはつる庭の荻原  (新勅撰集)

 ふくすぐる音はすれども秋風のやどりは荻の上葉なりけり (續古今集)


・幾かへりみののを山の一つ松ひとつしも身のためならなくて

 東國陣道の記。七月下旬某日のこと、「濃州をのぼりけるに、みののを山、信長公
御代、公方御入洛の御使に度々見馴し所なれば」。これも幽齋傑作の一つだ。みのの
を山云々、古今和歌六帖、

 わが戀ふるみののをやまの一つ松ちぎりし心いまも忘れず

に依つて、平安時代の昔から有名な孤松があつたものと知られる。幽齋の見馴れたの
は、幾代目かの植ゑつぎに相違ない。山は、現今の不破郡南宮山である。幽齋日記の
如く、彼は何遍か此處を往來して、孤松の下に休んだ。それは永禄八年五月將軍足利
義輝が三好・松永らに弑せられて後、弟の義昭を信長の庇護の下に將軍に据ゑてもら
はんと發願し、幽齋、當時の藤孝は、東奔西走し、遂に同十一年十月それが實現して
義昭(公方)の入洛するに至るまで、その間この孤松を何回見たことであつたらうと、
懐舊に堪へないのだ。第二句「みののをやま」美濃に見と詞を懸く。さて「一つ松」
を受けて「一つしも身のためならなくに、さやうな苦勞も、一つとして私の利害のた
めでなく、治國平天下の悲願ゆゑと、自分の心の中を振返つて見て、嘆息もし、満足
もしたのであつた。一首は作者の閲歴を背後にして、會蓄頗る深いと愚考する。戰國
時代無數の英雄の中に、「一つしも身のためならず」と明言し得る者が幾人あつた
乎。

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■「くまもとお大師廻り」順路-3

2022-01-06 10:19:54 | 熊本

                      「くまもとお大師廻り」順路-3      福田晴男氏の同著より引用

45-立町を行ケば大くわん(大願)成就院  立町赤鳥居-成就院覚勝寺の神明社「立田大神宮」の赤鳥居
46-昼上りする慈光院           ?          
47-気はもだえても(泰然自若の)泰陽寺
48-茣蓙打町の法(峰)雲院
47-かつてとまハれハ大師堂        ?
48-布屋の裏の東岸寺           廃寺
49-流長院はあともどり
50-誠こなたが常(静)国寺        ?        
51-壽正寺町の壽正寺と          廃寺
52-ならふ命ハ専念寺           ?
53-観音坂の観音寺            補陀洛寺観音堂・廃寺
54-人に相きよふ(愛嬌)愛染院
55-極楽浄土西方寺
56-雲晴庵や岩立の                                            岩立運清観音(前・宗嚴寺‐新坪井に移る)
57-極楽に往生院
58-鳥居立チたる観世音          池田八幡宮に観音堂あり
59-鳶尾(とびのお=富尾)の観音堂    熊本市西区池田3丁目43-7 
60-爰は殺生法生寺            熊本市西区池田4丁目25-17
61-最早鎌尾の常福寺           廃寺
62-又くだりたる岳泰院          ?
63-程無見ゆる山王社           日枝神社
64-誠定まる本妙寺
65-是ぞいつミ(泉)の威徳院       廃寺
66-ひよふし(拍子)岳林寺
67-月宮哉ト申所は石神社         石上八幡宮

     参考:肥後熊本西国三十三ヶ所観音霊場

 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十六)

2022-01-06 07:15:55 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(二十六)

                    ひとつやなぎ
いと毛なき具足をかけて鐵炮の玉にもぬける一柳か

 東國陣道之記。天正十八年、五十七歳。此年二月廿九日尾州熱田居陣より筆を起
し、五月廿七日の夜まで誌す。箱根山中にて細川勢の一柳某が戰死したるを、丹後田
邊の一如院といふ僧傳聞し、

 あはれなり一つ柳のめも春にもえ出でにける野べの煙は

と弔問して來たのに對し、返歌。緑の絲の抜けたやうな粗末な鎧を著てゐたので、鐵
炮玉に打貫かれた一柳かよと誹諧歌にしたのであるが、古今集巻十一、遍昭、

 淺みどり絲よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か

を本歌に取ったのだ。なか/\よく出來てゐる。〇初句「いと毛なき」「はいとけな
き」すなはち稚き、若さ、の意をも持ち、一柳が若武者なりしことを想はせる

             にらやま    すりこぎ
・ひかせえずもみおとすべき韮山は手を摺古木の音のみぞする

 東國陣道之記。小田原の支城韮山の險は勇將北条氏規が死守したので、容易に落ち
ない。この噂を聞いた一如院が、又、幽齋宛てて、

 山の名のにらみあひたる攻め衆よにんにく慈悲に引かせてもたべ

と辛辣に揶揄して來たので、又返歌、城兵を引き退かせることも出來ず、否が應でも
揉みおとさねばならぬ韮山には、實のところ我等も手古摺つてゐるのでござる、と正
に云つたのだ。もみおとす、手を摺古木、共に韮山の韮に因んだ縁語。幽齋、機智
諧謔にも富んでいる。
嚴格の武將なりし幽齋が、一面諧謔に富んでゐたことに就いて、非常に愉快な逸話が
戴恩記に記されてゐる。左の如し。

 幽齋公は生得ものをかりそめにのたまう事も、一節ありてしほらしき大名也、ある
時、信長公、その方は何の年ぞと御たづねあれば、うへさまと同年と申さる。さては
午の年かと仰せられければ、午の年には候へども、かはりたる午にて侍ると申されけ
れば、何とかはりたりとはいふぞと仰せらる。上さまは金覆輪のくらおき馬、私は小
荷駄馬にて、常にせなかにおひ物たえずと申されければ、満座ゑつぼに入り侍りき。

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■細川興秋は切腹してはいなかったという真実

2022-01-05 11:04:15 | 歴史

 今年の元旦、三宅藤兵衛のご子孫M様から頂戴した年賀状に、「細川興秋(生存説)についてめとめられた書籍をご子孫の方が出版されました」とあった。
早速メールを差し上げたが不通であった。
いろいろ語句を打ち込んで検索してみるがヒットしない。しかしついに「高山右近研究室のブログ」に「 細川興秋 生存説 」400年目の真実( 1 )という記事がある事を発見した。
この記事によると、「全国かくれキリシタン研究会」の会誌29号(2021.5月)に、宮崎県在住の高田重孝氏の同名の論考が発表されているというのだ。
高田重孝氏と言えば、
  天草五和町御領の伝承『細川興秋と專福庵』に関する調査報告
  試論:細川興秋公の大坂の陣以後 【大坂の陣以後の行動についての確定事項と推論】などをWEB上で発表されている。
上記会誌29号によると、氏は熊本県立美術館藏の元和7年 ( 1621 ) 5月21日付の 「長岡与五郎 ( 細川興秋 ) 宛細川忠利 ( 内記 ) 書状 」を取り上げてこの時期細川興秋がまさしく生存していたことを実証しておられる。
興秋が切腹したとされる元和元年 ( 1615 ) から、6年経過している。
これはBIG NEWSだ。これは全容を知りたいと思い、入手方法をさぐった。
いろいろ調べるが会の情報が全く見えない。手がかりはさきの「高山右近研究室のブログ」に会長のご自宅の電話番号があった。
お正月早々ではあったが昨日お電話を入れ、会誌の購入についてお願いした。

「どこでお知りになりましたか?」とのことで、縷々お話申し上げたが、さきのM様のお話はまだ未刊のものであるらしい。
これらの事をまとめられたものが近々発刊されるということのようだ。

この「興秋生存を裏付ける書状の存在」は、まだメディアでも取り上げられていないのではないか。
私がここでこのようなことを書いていいのかとも躊躇するような、極秘の中で刊行が進められているのかもしれない。

 興味がおありの方は、上記「高山右近研究室のブログ」をご覧いただきたい。
二三日後には会誌29号が到着するが、私は氏の御著「小笠原玄也と加賀山隼人の殉教」を購入すべく手配をした。
Amazonの著者のくわしい紹介欄には「小笠原玄也関係のイエズス会史料の中に一六一五年六月六日、大坂の陣の責任を取らされて切腹をしたはずの細川ガラシャ夫人の次男・細川興秋の実在を指摘、細川興秋の天草への一六三五年の避難までの二一年間の追跡調査の論文は『細川興秋の生存に関する史料と状況証拠』と題してキリシタン学界で発表、日本史の定説を覆す最大の発見として認められた。」とあり、私が得た情報が大変遅きに失した事を認識した。
キリシタン学会に発表されたこの論文も是非読んでみたいと思うが、これもWEBでは見つけ出せないでいる。

 随分以前細川護貞さまは、天草の「興秋生存説」を確かめるために当地を尋ねられたが、確証が得られなかったと仰っていた。
今その真実の扉が開かれようとしている。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十五)

2022-01-05 07:08:38 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(二十五)

・いかばかり舟よそひしてこぎよせむ我が家島と思はましかば

 九州道の記。七月廿一日條「明方を待て舟を出し、家島を漕廻るとて」。家島、播
州播磨郡の海上、家の津の南七海里に在る小嶼。萬葉集巻第十五、

家島は名にこそありけれ海原を吾が戀ひきつる妹もあらなくに

幽齋は、右の古歌と同じやうに感傷的になつたのであつた。「名のみして、我が家島
にてはなきものを」とさびしく思つた。乍併、さすがに凱旋軍の一將だけあつて、け
ちなことは言はない。もしも我が家なりせば、いかに立派に舟を装つて華々しく漕ぎ
歸らんものをと、述懐したのである。

 みなかみ          しかまがは
 水上に幾むらさめか飾磨河にごりは海に出でて來にけり

 九州道の記。さて家島をよそに眺め、姫路の白鷺城を遠望しつつ來ると、「しかま
                         みなかみ
川近きわたり、海の面濁りたるを、船人に尋ねけるに、水上に大雨ふり侍れば、かやう
に有と云」。前夜には月明の海上を航行して來たのであつた。只今も、空は晴れてゐ
るに、この海濤の赤く濁れることよ、と幽齋は不思議の感じをした。播磨川の河口に
近いのである。船頭に訊いて、はじめて、川の吐き出す濁水なること、みなかみの方
に大雨の降つたことを知つた。「濁りは海に出でて來にけり」何といふすばらしい實
景の描寫であらう。この歌は幽齋の傑作にして、同時に當時斯界屈指の絶唱である。
否、古今の和歌中に於いて、見逃してはならぬ一首でもある。「幾むらさめか」播磨
川は古名で、船場川・御祓川・雲見川などの異穪を持つ。神崎郡の山中に發源し、姫
路城の西北を流れ、手柄山の東を過ぎ、播磨湾の西方にて海に注ぐ。川は大ならざれ
ども、幾多の山谷を貫いて來てゐるので、山雨處々に降り、「幾むらさめ」の語が實
によく利いてゐる。第二三句、むらさめがすると、しかま川に詞を懸けてあること勿
論だ。後世、大隈言道の作に、

 見渡せばかつまの沖のひろの海の幾ところかにか時雨ふるらむ

驟雨處々を詠じてこれも立派ではあるが、幽齋の方が一段のすぐてれゐる。〇幽齋の
一首には。萬葉集巻第十五、

わたつみの海に出でたる播磨川にたえむ日にこそ吾が戀やまめ

といふ輕い意味での本歌がある。單純なる敍景、しかも實感の歌にさへ古歌を踏まへ
たところが、二條流の好みであつた。本歌取りといふことは、平安末期から定家の
時代に流行したので、其後の和歌にも傳統した。現代の歌人らは、さやうのことに全
く興味を持たない。筆者の如きは極めて稀に本歌取りを試みたのであるが、そこまで
鑑賞してくれる人はなく、又、今日の讀者にわかりもしないのである。本歌を取ると
いふようなことが善いか悪いか、うたとして上であるか下であるか、その論は別とし
て古人はさやうなことが好きであつたらしい。漢詩には、これに類した技法が殊に
夥しい。或る句や語の典據や古事は、うるさい程で、それが和歌の本歌取に類似して
ゐる場合が多い。みづから古を成した李白にさへ、古事や典據がうるさくある。和歌
の本か取りは畢竟唐詩の影響に違ひない。ついで乍ら、契仲阿闍梨の釋教歌、

 末の露もとの雫も播磨川海に出でてはかはらざりけり

も、萬葉の「播磨川」を本歌としてゐる。〇幽齋の歌を既刊小著の戰國時代和歌集に
                    みなかみ
擧げた際、初句を「水の上に」としたが、「水上に」の誤であつた。同書重版の場合
に訂正しようと思ふ。刊本の一つに「水の上に」とあつたやう記憶して、つい聞
違ひ、又「水の上に」とある方が一首の括りがよくなつて其方がただしいのだらうと、
                             みなかみ
早呑込みしたのであつた。九州の道の記にも「船人に尋けるに、水上に大雨ふり侍れ
ば」云々とあるので、疑問はない。

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■御意之御密事

2022-01-04 16:47:21 | 歴史

 嘉永二年(1849)正月二十四日付の興味深い書状がある。
これは熊本史談会の会員K氏のご親族岐部家に残る、同名弥三左衛門の「御意之御密事」とする文書である。
先祖附によると、弥三左衛門は安政四年(1857)六月に57歳で亡くなっているから、この記録を書いた年の嘉永二年(1849)は49歳であったことになる。
殿様の親し気な会話ぶりが興味深い。

                                         

                                     ( / 改行を示す)

 今日四半時分大槻弾蔵/同道 清田新兵衛一同ニ被召出/申候段 大槻内意ニ而罷出/候處 壱人〃〃ニ召候よしニて/始新兵衛御用相済下り候上/弾蔵同道 御人払候テ御二ノ間平伏仕居/候處 中居間近進候得■段々/結構ナル御意御座候而尚近ク寄候様/頻爲被有御沙汰候間/御密事ト奉恐察/御側近ク進候へ者/六之助俄国元出立いたしタ二/無滞早速調弥三左衛門格別/心配いたし 熱暑之時分昼夜/不怪世話いたし 人も少ク/嘸気削タデアロウしかし/無何事大安心いたしたり/御意に而暫奉伺御様子 御二ノ間迄/下り候處 又 弥三左衛門ト被遊御意候而乍恐/御側エ参り候へ者/其の方事去年/六之助国元へ下り候以来/格別心配いたし只今之處/大事處ナレド此元二テハ其ノ方/存念通二も参まひ朔月二/立カ御答申上候 下り候上は/二ノ丸に而指はまり少しも無遠慮/稽古事ハ不及申萬事/さしはまり/澄之助始三人子供世話/いたせ 御受申上候 これて大安心之/いたした 頼そ 嘸/澄之助始待テ居ルだろふ/当年ハ詰年 来年ハ/弥下ると申せ 只今か大事/文武稽古いたせと/申せ 呉々も指しはまり/世話致せ/御意乍恐御受申上御次/下り候處又弥三左衛門と被遊/御呼返 又御側エ罷出處/野口忠太ハ同役助勤せよ 同役は/誰々屋らと被遊/御尋ね候付 財津儀左衛門 松岡/甚九郎 不破大蔵 弥三左衛門共四人ニて/御目付本役にて御附助勤三人/岡田平八 松浦儀右衛門 野口忠太ト/申上候 被遊/御聞届 久野達者か大勢/子供能世話いたし大安心/いたすと弥三左衛門エ咄タト/心得而申セ 表向の様ニ/なり而者能ナト弥三左衛門か/心得而申セ あの久野者/正直ナル者二て 女ニテハ稀ぞ 奥の事ハ/何事相談いたし世話セヨ/来年下カラ其侭之處トおもい能世話いたせト申せ/其の時久野事始終/御答申上候處 夫テ大々/安心いたしたぞとの/御意之趣長ク御座/候得共要用之御用/筋 自然忘共いたし/申間敷 乍恐御意之趣/御言共其侭ニ書記 追而/火中いたし候筈ニて/誠冥加之程恐敷事ニ/御座候 以上/嘉永二年正月廿四日

 岐部弥三左衛門は四つ半(午前11時)時分に大槻弾蔵(300石)が同道して、江戸御留守居の清田清兵衛(300石)と共に殿様に召し出された。
細川家江戸上屋敷の辰口邸であろう。

大槻弾蔵とは御側取次や用人を勤めた人物だが、この時期の職務についてはどちらであるのかはっきりしない。
弾蔵がご内意につき罷り出ると、一人づつ召されるとの事で始め新兵衛が罷り出た。
新兵衛の御用が済み退出すると、入れ替わりに弥三左衛門は弾蔵に付き添そわれ、御人払いの御二の間に進み平伏して御出座を待った。

御出座があると中居間近く迄進むようにとの御意があり、膝を進めると猶近くまで進むようしきりに御沙汰がある。
これは御密事であろうと拝察して御側近くへ膝を進めた。

 出座をお待ちしているその御当人は、細川家の12代当主齊護(46歳)のことである。
過ぐる前の年、嘉永元年(1848)四月十四日齊護は嫡男・慶前23歳を亡くしている。
そのために二男・六之助を継嗣として幕府に届け出、国元に在った六之助を急遽江戸に呼び寄せたのである。
六之助とは齊護の二男であり、後の13代の当主となる慶順(よしゆき・後韶邦)のことだが、当時はまだ15歳で護順(もりゆき)と名乗っていた。
弥三左衛門はその六之助の御供をして江戸へ下ってきたのである。
「熊本藩年表稿」によると、六之助一行は七月十六日に熊本を発して、九月七日江戸に入った。
そして九月十八日幕府は六之助の嗣子たるを認め、この日に慶順と名乗ったのである。
細川家記によると六之助一行は辰口の本邸ではなく、下屋敷の白金邸に入ったものと推察される。

 弥三左衛門が御側近くまで膝を進めると、「六之助の俄の出立に際し、滞りなく早速万端を調え格別心配致し、熱暑の時分昼夜人も少ない中、不怪さぞ気遣いをしたことであろう。何事もなく大安心した」とのお言葉を賜った。
不怪は「けしからず」と読むが、「思いもよらず」の意である。
まさしくその道中は、真夏の真っ盛りの中であり、六之助を継嗣にするための慌ただしさが見て取れる。
一時二の間に下がっていた弥三左衛門に対し直接「弥三左衛門」と声をかけられたので、恐れながら御側へ参ると、「其方去年六之助が国元へ下って以来、格別心配致し、只今の處大事なる處なれど、此処では其方の存念通りには参るまい。朔月には立つか」との仰せに、その心つもりをお答え申し上げた。
「其方去年六之助が国元へ下って以来」云々とは、弘化四年(1874)九月廿八日の六之助のお国入りを示している。去年ではなく「去々年」である。
つまり、弥三左衛門はこの時分から、六之助のお付であったことが判る。そして今回の江戸入り後、特段の御付のお勤めもなく帰国が打診されていたのだろう。
弥三左衛門は帰国する旨をお答え申し上げた。

                        さし           
 すると斎護は「二の丸にて少しも遠慮することなく指はまり(指図)いたし、稽古事は申すに及ばず指図いたして澄之助はじめ三人の子供の世話をいたせ」との御意を受けて是をお受け申し上げた。
三人の子供とは六之助の弟たちで、すなわち澄之助・後の護久(12歳)、寛五郎・後の津軽藩主承昭(10歳)、そして末弟の良之助・後の護美(8歳)である。二の丸とは「二の丸御殿」のことで、現在移築された細川刑部邸があるあたりである。
すると「これで大安心致した。頼むぞ、さぞ澄之助はじめ待って居るだろう。今年は詰年(江戸詰めの年)、来年はいよいよ帰国すると申せ。只今が大事、文武稽古に出精いたせと申せ。くれぐれも指図いたせ」との御意を受け恐れながらお受け申し上げた。そしてお次へ下がったところ、再度お呼び返しがあり又御側へ罷り出ると「野口忠太は同役助勤せよ」そして同役は誰々かとのお尋ねがあったので、財津儀左衛門・松岡甚九郎・不破大蔵と自分の四人であり御目付本役として御付し、助勤は三人でありそれぞれ岡田平八(100石)・松浦儀右衛門(150石)・野口忠太(御中小姓)である事を申し上げた。
それから齊護は「久野」なる若殿様のお世話係と思われる女性について触れている。
「久野は達者か、大勢子供をよく世話をいたし大安心いたすとお前(弥三左衛門)に私が話したと心得て申せ。表向きの様になっては能なとお前が心得て申せ」とある。
これは表向きにて話すことではなく、弥三左衛門の裁量で密かに「久野」に申し伝えよという含みであろう。
個人の評価が表向きに成る事を避けている。

そして「あの久野は正直なる者で女にては稀なる者だ。奥のことは何事も相談して世話をせよ。来年は帰国するからその侭の処と思いよく世話をいたせと申せ」とのことに、始終承りたる旨を申し上げると「それで大々安心した」との御意である。
弥三左衛門は斎護との長いやり取りを「要用の御用筋であり、忘れないようにと書き記す、追っては焼却するつもりだ」「冥加のことで恐ろしいことだ」と記している。

このような内容の文書は表向きに現れることはない。弥三左衛門は追って焼却するつもりだと記しているが、これが岐部家に於いて密かに所蔵され、今日このように陽の目を見ることは、有難いことである。
先祖附によると、弥三左衛門は「同三月罷下」とあるから、この文書が記すように朔月つまり月の初めには江戸を立ったということであろう。

 以降は剣術師役を仰せ付けられている。「肥後武道史」によると弥三左衛門の流儀は新陰流である事が判る。
寺原に道場があったらしいが、「熊本所分絵図-寺原之絵図・68-8」には「岐部弥左衛門」とある。
その場所は「改正禄高等調」によると「大一大區六小區寺原壽昌寺丁二拾四番」とあるが、寺原は地名が替り、現在の熊本市壺川1丁目8-16あたりだと思われる。

岐部氏は大友氏の被官であった。大友氏の没落後、初代の弥三左衛門は大坂の陣に於いて細川忠興の陣に属して働く。
帰陣後細川家に召し出された。この項の主人公弥三左衛門は7代目である。

   ■岐部太郎
    1、弥三左衛門
    2、弥三郎   子・田中宗碩別家あり
    3、善甫
    4、市助
    5、弥三
    6、弥左衛門(養子 弥三左衛門)百石 細川斎樹公御書出(弘化四年)
    7、弥典太(弥左衛門・太郎)

       

 

 

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十四)

2022-01-04 07:46:24 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(二十四)

・曙やふもとをめぐる雲霧に彌高山のすがたをぞ見る

 九州道の記、七月十八日條、此朝備後の名勝の津から舟出し、終日終夜東航し
て、十九日の曉、「備中國にありと云彌高山、たしかにはなけれど、嶺つづきの中な
りと云へば」。彌高山、たしかには知り難きも、兒島半島の中の高峯ならんと考ふ。
曉の海霧濛々とたちこめた中に、さすがに彌高山、名にそむかず、屹然として姿を現
はしてゐる。拾遺集巻第三、深養父の歌、

 川霧のふもとをこめて立ちぬれば空にぞ秋の山はみえける

と全く回想ではあるけれども、幽齋の一首、亦捨てがたき野趣を持つ。


夕波のたての浦より弓張の月も光を放つとぞ見る 

 九州道の記。七月廿日のことなるべし。月明の夜舟に興じて備前蟲明の瀬戸を通過
し、「たての浦と云所に上り、人里もなき所に旅ねし侍り」。楯の浦、今究めがたい
が、蟲明と播州室の津との中間に在る海村にちがひない。一首は、楯の縁語で弓張月
   弓の
を出し、縁語で放の字を點じ、文字の技巧で作り上げてゐるやうだが、全躰がしつか
りと張り切つてゐるので、さやうな技巧が少しも障らない。これも武詠にふさはしき
佳作である。初句「夕波の」は立つと、楯に冠した枕詞だが、同時に實景をも現はし
てゐる。

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■本で床は・・・抜けた

2022-01-03 14:04:04 | 徒然

 大晦日見るでもなくTVの「探偵・ナイトスクープ」の音声を聞いていたら、本の重みに耐えかねて二階の床が抜け落ちたといっている。
これは面白そうだとTVの前に陣取ると、本当に二階の6帖ほどの床が見事に抜けていた。

今年のベスト3を放送していたようだが、このスクープが№2を獲得したというから、ただ物理的な現象ではないようだ。
なんと購入した本の金額は2,000万円ほどになるといい、数十年それが全く読まれることもなく新品のまま保存されていたという。
古本屋さんが驚きながら見積もりをしてみると、一部を残して処分することにして700万円、6時間ほどを懸けて搬出、6トンに及んだという。
700万円で抜けた床を直し、内装を新たにして残した本に初めて目を通したという。

1,300万円の「ー」となったわけだが、ご本人はあまり頓着がなさそうですっきりされている。
吹っ切れたという感じだが、さてこの後本の購入はどうされるのだろうか。

 二階の床が抜け落ちたということは、建築の専門家としては大いに気になる。
運び出した量が6トンに及んだというが、6帖というとほぼ10㎡、1㎡当たりの積載荷重は600㎏になる。
これでは落ちるだろう。建築基準法では、一般の住宅の床の積載荷重は180㎏が規定だから3倍以上に及んでいる。
図書館の床荷重が600㎏で設定されているから、まさに木造床構造の図書館といった状況があった。
多分、中央部で梁が折れ根太が折れ、連鎖的に崩れ落ちたのだろう。ご本人はどこに居られたのか知らないが、命あっての物種である。

 熊本地震の時、本の山の下敷きになった人の話をいくつか聞いたが、床が抜けたり命を亡くしたりした人の話はほとんど聞かない。
「本の下敷きで死ねば本望だよ」という人もいるが、「本で床は抜けるのか」の著者西牟田靖氏の文章を読むと、崩れ落ちた本の山の中で亡くなった某氏が発見されたのは、探し始めて二日目だったとある。
数万冊が崩れ落ちると床は抜けずともこのようになる。

私はといえば、たかだか6~700冊の本と、本の1/2程の要領の資料類に取り囲まれているが、いまだ奥方にしかられながらも本や資料が増殖している。
精々本棚が倒れてきた時のことは頭に入れて置かなければならない。そしてそろそろ本の終活も考えておかなければならない。

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■元旦に知った一つの事実

2022-01-03 07:30:14 | 歴史

 昨年私は細川家家臣であった松宮家の先祖附の解読の依頼を受けた。偶然にお住まいが我が家から至近の処で何度かお会いもしてお話もした。
おばあ様が、先祖は柴田勝家の家来だったと言って居られたらしいが、実際はご先祖様は武田元明の家来であって賤ケ岳の攻撃に親子共々参加し戦死されたら。
まだ小学生の坊ちゃんが大変な歴史好きらしく、そんなことを説明したら「えっ」と驚かれたことであった。
遠祖はウイキペディアでも紹介されている松宮清長(玄蕃)である。
先祖附には次のようにある。

    一私先祖松宮玄蕃丞正勝と申候 若州爪生村前武嶽之城主ニ而御座候 天正十一年(1583)江州於志津嶽戦死仕候
    一松宮右馬允儀玄蕃丞嫡子ニ而御座候 若州天徳寺之城主ニ而御座候 其比和田長者共申候 柴田合戦之砌於志津嶽戦死仕候
    一知行高若州爪生・井ノ口・天徳寺三ケ所ニ而千七百七十石

 私は熊川城主で細川幽齋藤孝の室・麝香の父・沼田光兼が、何故この城を手放すことになったのか、大いなる疑問をもっていた。
このことは■最近知った二つの事実で書いたが、少々誤解があった。
光兼に敵対して玄蕃・左馬允親子が攻め取ったと理解してきたが、今年の元旦、沼田家の系図を何となく眺めていたら、大変なことに気づいた。

 光兼の子・清延に10名の子女の名前が記されているが、二番目の女子が「松宮左馬允久住嫁」と記されていた。
この左馬允は松宮玄蕃正勝(清長)の嫡子だとされる。細川忠興の弟・興元とは相婿ということになる。
先のウイキペディアによると、「元亀元年(1570年)4月22日、織田信長朝倉義景討伐のため越前へ侵攻する際(第一次越前侵攻)、若狭国内の諸将と共に信長を出迎え、熊川城を「若州熊川松宮玄蕃所」として提供する。」とあるところからみると、沼田光兼が永禄三年(1560)に死去し、嫡子光長が永禄八年(1565)には義晴生涯の時戦死しており、熊川城は松宮氏の手に委ねられたとみるべきで有ろう。これらの事は沼田家記に於いても書かれていない。
其の後賤ケ岳攻撃(1587)の際に松宮玄蕃と左馬允親子は共に出陣して戦死し、熊川城の支配も沼田・松宮氏から離れたものと思われる。

 松宮氏は武田元明の没落と共に表舞台から消えているが、時を経て細川家に召し出されることによる。
沼田一族としての事であろうと推測している。

松宮様にもご連絡しようと思っているが、「今年は春から縁起がいいわえ・・」

  熊川城主   同   同        足利義昭臣・戦死
   光建ー光延ー光兼ー+ーー光長
            | 
            |玄蕃允正勝
            | 松宮清長ーー松宮左馬允久住       
            |         ‖
            |      +ーー女

            |      |   幽齋・麝香二男
            |      +ーー女(細川興元・室)
            |      |
            +ーー清延ーー+ーー延元ーー延之・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・沼田家

            |       
            +ーー麝香
                ‖
              細川藤孝(幽齋)

 

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■「くまもとお大師廻り」順路-2

2022-01-02 13:09:35 | 先祖附

           大師廻り  ‐(2)        


23-誠に爰は安楽寺        

24-護国寺成就いのるらん      廃寺(清正公古町立て~明治まで)、現東本願寺教務所 
25-33の尊像の立像なしの常座院   常在院・廃寺ー現五福幼稚園
26-町内のじゃ法正法院       普光山浄願寺
27-裏道しのべ源覚寺
28-長イ山崎登ルなら菅原天神    山崎菅原神社
29-  (同上)  即心寺     廃寺
30-田畑とおりる高琳寺       廃寺、高琳寺通りという地名が残る
31-朝のたくみは養寿院       戦災焼失、墓地とも整理 
32-安養寺とぞ移り行く       現在は泰巌寺、忠興建立の八代泰巌寺(織田信長の供養寺)の末寺
33-東と行けば西岸寺
34-開運山の知足寺や        明治期廃寺
35-あんしんしずぎた長安寺     廃寺、現在の手取菅原神社の場所、長安寺通りの名が残る
36-牛馬のための法然寺
37-正福寺でも御そふりよふ     
38-千体佛の尊像を直ニ拝する観世音 報恩寺
39-一寸(ちょっと)観音拝ム内   正蔵院・西南の役で焼失、廃寺
40-たずぬる人も極楽寺
41-肥後の阿闍梨の源空寺
42-松雲院と尋ね来て        旧・春光院(筆頭家老松井家菩提寺→八代に移転)
43-物に手がとふ(手固う)護念寺
44-大はた小はた八幡社       小幡八幡宮

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十三)

2022-01-02 07:02:27 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 選評(二十三)

・名にしおふ龍の都のあととめて波をわけゆく海の中道

 九州道の記。翌廿四日、幽齋らの乗船は志賀島から漕ぎ出して、博多湾に入つた。
「立出見侍りけるに、砂の遠さ三里計も海の中をわけて、島にるづき侍り。取分て細
き所は十町ばかり、廣さは十四五間計も有と見えたり。文殊などもおはしませば、橋
立の事など思ひくらべられき。當社は安曇磯良丸と云て、神功皇后異國退治の時、龍
宮より出て、兵船の楫取して海上のしるべせし神なり。しば/\打眺めて」。さて和
歌二首を詠み、「當社」に奉納したが、「名にしおふ」云々は其の一首である。文中の
               しがのわた
「當社」とは前夜泊つた志賀島の志賀海神社のこと。一首、祭神の故郷なる竜宮(龍
の都)を偲びつつ会場を航く趣で、武將の作らしく颯爽としてゐる。「龍のみやこ」
といふ語は鎌倉時代までの古歌に見えず、「海の中道」も詠まれてゐない。風景が天
橋に酷似し、而かも文殊菩薩さへ祀られてゐるので、幽齋は居城丹後の地を思ひ出し
た。英雄の郷愁とや云はん。


海原やしほじはるかに吹く風の香椎のわたり浪立つらしも

 九州道の記。六月十日過ぎ「香椎の浦見にまかりて」。五月八日、島津義久は降伏
したので、秀吉軍を班し、幽齋も大宰府から引返して歸路に就いた。秀吉に随ひ筥崎
の濱で納涼などしたが、やがて一人で香椎詣した。右歌は、多多羅濱あたりから遠望
した趣である。濱つづきの香椎潟のあたりに磯浪の白く煙つてゐるのを、かやうに詠
んだが、一首の力張つて、古調を帶びたやうであるけれども、初句「海原や」は明ら
かに近風である。古近兩躰混用してゐながら、破綻は示さず、なか/\佳吟とおもふ。

                                         参考:万葉集の三首
              「いざ子ども 香椎の潟に 白妙の 袖さえぬれて 朝菜摘みてむ」(大伴旅人)
                 さあみんな、香椎潟で着物の袖までぬらして朝餉の海藻をつもう。

              「時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈てな」(小野老)
                 風が吹きそうになった。香椎潟の潮干の浦で、海藻を刈ろう。 

              「往き還り 常にわが見し 香椎潟 明日ゆ後には 見む縁も無し」(宇努首男人)
                 大宰府の行き帰りにいつも見ていた香椎潟だが、(都に帰るので)明日から 

遠島の下つ岩根の宮ばしら浪の上より立つかとぞ見る

 九州道の記。七月十二日條、前夜は上ノ關に碇泊し、今曉出帆して岩國山を左舷に
眺め、それより右舷に「巖島近くなりて、社頭を見るに、鳥居は海の面二町計りとお
ぼしくて立たり。廻廊も、柱は皆しほにつかりて有。船より見て」。「下つ岩根の宮
柱」は西行の、

 宮柱下つ岩根にしき立てて露も曇らぬ日の御影かな

       〇               〇
を思はせる「下つ岩根」とひ「浪の上」といふは、照應の妙といはんか。一首は宮柱
の如く、太く一本に立ち、構造が頑丈である。輪奐の美を盡くした巖島の社殿、浪の
上より立つかと見て、幽齋は龍宮城を夢想したにちがひない。彼は此の歌を書いて、
宮司棚守左近将監へ遣わした。

              参考:西行の歌ー新古今和歌集 巻第十九 神祇歌 1877
                  大神宮の御社は、宮柱を地下の岩にどっしりと立てて、そこには少しの曇りのない日の光が輝いているよ。
                     『新日本古典文学大系 11』p.547

            ほととぎす
死出のやま送りや來つる子規魂まつる夜の空になくなり

 九州道の記。七月十四日條を讀むと、次のやうに記してある。幽齋は巖島の棚守宮
司に招かれ、饗應せられて、その子息少輔三郎といふ者の亂舞を見、奥の坊に泊めて
もらつた。丁度盂蘭盆の夕であつたが、子規が二聲三聲鳴いたので、「ここにはいつ
も斯様にあるか」と問へば、「珍しきことなり」と答へた。そこで一首。

 ほととぎす思へば悲しあす散らむ桐のはやまの夕暮の聲

といふ江戸時代歌人の作もあつて、晩夏に鳴くさへ珍しいのであるが、既に秋に入
り、魂祭の夜に鳴いたのは、まことに不思議である。面かも、幽齋は西征の歸路で
幾多の人々が戰死したのを目撃して來たばかりなのだ。「死出のやま送りや來つる」
    しでのたをさ
は月並の死出田長ではない。

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■ご挨拶を申し上げます。

2022-01-01 07:35:23 | ご挨拶

                                      謹んで新年の御祝詞を申し上げます。
                              本年もどうぞよろしくお願いいたします。

                                   

                                                                          三福を一福にして大福茶  仙涯義梵

                                                                                 令和四年 元旦  津々堂敬白
                       

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