「歌仙幽齋」 選評(二十七)
・足柄の關ふきこゆる秋風のやどり知らるる竹の下道
東國陣道の記。「七月十五日、相わづらふに就て、御いとま也。歸陣には甲州どほ
りをと思ひ侍りて、足柄山を越て、竹の下といふ里に泊り侍りぬ」。同月十一日、小
田原城すでに降伏して、北條氏政らに死を賜はつたのであつたが、秀吉は引續き奥州
まで征討する豫定になつてゐた。幽齋、病によつて随行を免ぜられ、丹後へ歸つたの
である。第一日は、石垣山のほとりの陣を拂つて、箱根山中の竹之下に泊つた。御殿
場の東北一里の寒村、建武二年十二月の古戰場として有名だ。そのすぐ東に足柄峠あ
り、頂上近くに關所が据ゑられたが、とくに廢址となつてゐた。歌意、足柄の關を西
から東へ吹き越えて遙々とゆく秋風は、何處に宿をとるものかと思つたらば、竹之下
の名にそむかず、ここに生い茂れる一群の竹群の中に宿るのであつたわい。西風がざ
わ/\と薄暮の竹叢にそよぐを聽いて、擬人したのである。幽齋、おのれも旅人で今
夜ここに泊る、秋風も亦あひやどりするかと、想ひやつたのだ。「關ふきこゆる」と
いふ句は、天暦の御時壬生忠見が詠んだ歌、
秋風の關ふきこゆるたびごとに聲うちそふる須磨の浦浪
に始まつて、源氏物語に引用せられ、後には謡曲などにも入れられて、有名にたつ
た。〇風は東西南北するものなるゆゑ、しば/\擬人せられて、風のやどりと云ふや
うな語が和歌の上にも現れて來た。少しく例示すれば
花ちらす風の宿りは誰か知るわれに教へよゆきて恨みむ (古今集)
いく秋の風のやどりとなりぬらむ跡たえはつる庭の荻原 (新勅撰集)
ふくすぐる音はすれども秋風のやどりは荻の上葉なりけり (續古今集)
・幾かへりみののを山の一つ松ひとつしも身のためならなくて
東國陣道の記。七月下旬某日のこと、「濃州をのぼりけるに、みののを山、信長公
御代、公方御入洛の御使に度々見馴し所なれば」。これも幽齋傑作の一つだ。みのの
を山云々、古今和歌六帖、
わが戀ふるみののをやまの一つ松ちぎりし心いまも忘れず
に依つて、平安時代の昔から有名な孤松があつたものと知られる。幽齋の見馴れたの
は、幾代目かの植ゑつぎに相違ない。山は、現今の不破郡南宮山である。幽齋日記の
如く、彼は何遍か此處を往來して、孤松の下に休んだ。それは永禄八年五月將軍足利
義輝が三好・松永らに弑せられて後、弟の義昭を信長の庇護の下に將軍に据ゑてもら
はんと發願し、幽齋、當時の藤孝は、東奔西走し、遂に同十一年十月それが實現して
義昭(公方)の入洛するに至るまで、その間この孤松を何回見たことであつたらうと、
懐舊に堪へないのだ。第二句「みののをやま」美濃に見と詞を懸く。さて「一つ松」
を受けて「一つしも身のためならなくに、さやうな苦勞も、一つとして私の利害のた
めでなく、治國平天下の悲願ゆゑと、自分の心の中を振返つて見て、嘆息もし、満足
もしたのであつた。一首は作者の閲歴を背後にして、會蓄頗る深いと愚考する。戰國
時代無數の英雄の中に、「一つしも身のためならず」と明言し得る者が幾人あつた
乎。