マンション住まいしている友人が、「地上に降りたい」と言い出した。
熊本地震以来の話だが、大きな揺れが記憶に残り、田舎の広い土地でも求めて畑仕事でもして余生を送りたいという。
「80にもなって遅かろう」と言うと、「そこが問題たい」という。
どうも妄想の世界で終わりそうに思えるが、お付き合いと思って聞いてやった。
土地は1反(300坪)は欲しい、雑木の林があり、ここを程よく伐採して小さな家を建てる。時々はテントをはって野宿と洒落込み、星空を見上げながら一杯やるという。
そして、ここを「オルガスタン」と命名するという。
「なんだそれは?」と聞きながら、ああ成程と思った。
熊本弁で「俺が(俺の)」を「おるが」という。スタンは語尾に「スタン」をつけた幾つかの国々があるが、「□□族の国」という意味がある。
「オルガスタン」は、つまり「俺の国」ということになる。
「はいはい、どうぞご自由に・・・。ときどき加勢にきてやろうたい。」というと、「そるがたい・・・」と急に声が小さく成った。
「オルゲントがいやて言うとたい。」オルゲントは「俺の妻」という意である。
ああやはりと思ったが、「精々奥さんを説得せなんたい」と力づけると、「別居すると言われた」と・・・
80爺の悲しい妄想の話である。
私はと言えば、友達とは反対に奥方が時折転居をいいだして戦々恐々としている。
本や資料の山を眺めていると、もう引越しの苦労は味わいたくない。
高田重孝氏の「小笠原玄也と加賀山隼人の殉教」を読んでいる。さきに■接点は薮氏を書いたが系図に間違いがある事に気づいた。
実は高田重孝氏はWEBで「加賀山隼人正と小笠原玄也」という一文をUPしておられる。
これは上妻博之先生の一文を清書して公開されたものだが、昨日あらためてこちらに眼を通していたところ、伊丹親興については伊丹次郎親興と書かれている。
これは通常、伊丹城主としてWEBで紹介されている親興とは別人であり、加藤重徳関係の系図をみると伊丹親興の四男の次郎右衛門親興とあり、この人物であることが判る。
この事を特定された上妻先生は、奥田氏の御一族だとお聞きする。つまり加賀山隼人正の弟・源左衛門の四男・権左衛門正慶のご子孫である。
その故をもって豊前・肥後に於ける細川家キリシタンの研究を為されてきた訳であり、この人物特定は事実であろう。
2代・奥田権左衛門も転切支丹であり「寛永十三年七月十三日 禅宗に罷成り(勤談跡覧-肥後藩之切支丹)」という記録が残る。
母方の姓をもって明治に至った。
初代・加賀山源左衛門(殉教・加賀山隼人正・弟)
2代・奥田権左衛門・正慶(四男)
(1)持筒頭 五百石 奥田(於豊前小倉御侍帳)・・加々山権左衛門
・原城にて武功被賞 御加増千石 (綿考輯録・巻五十)
(2)御鉄炮頭衆 三千八百石 (真源院様御代御侍名附)
(3)三千八百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
・真源院様代~明暦二年五月(病死)鉄炮五十挺頭
これらの事から「接点は薮氏」に掲げた系図を下記の如く修正した。
加藤重徳関係の系図を見ると、次郎親興に三男四女の名前が記されているが、長男の欄は「某」とされている。
この「某」こそが隼人興良の父朝良であろう。「隼人興良は伊丹親興の孫」とするいくつかのWEBの記載に合致する。
播磨守(甲斐徳美藩初代藩主伊丹康勝とは別人)
+----伊丹康勝------------ 加藤重徳
| ‖---------------------------次女・あや
+----伊丹親興ーーー+ーーー次女・はる ‖
| ‖
| 薮市正
| ‖
+ーーー次郎親興ーーー朝明ーーー+ーーー隼人興良 ‖
| ‖
+------------ルイザ(ルイス)
伊丹氏と細川家のかかわりは深いものがある。
幽齋の女加賀(木下右衛門延俊室)の生母が加藤重徳の妹
忠興側室・藤(松井興長室・古保)が伊丹親興の三男・郡主馬首の長女 等々である。
その中に隼人興良も組み込まれていることが判る。