津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■どこいった蟬・・・

2022-01-28 13:33:48 | 徒然

 散歩の途中、真新しい空蟬を見つけました。多分昨日・今日に蝉が生まれたものと思われます。
ここ数日昼間は10度前後で、おおいなる季節はずれの光景です。さすがに桜の狂い咲きは有りません。

             

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■細川興秋と米田是季(略系図)

2022-01-28 12:59:57 | 歴史

                                         米田是政
                                                ‖ ーーーーーー+ーーー 是季 天正14年(1586)生~万治元年(1658)1月8日歿・73歳
                                            雲仙尼    |
                      +ーーー
                        ‖ 
     飯河山城守信堅ーーー飯河豊前宗祐ーーーー長岡肥後宗信
                             ‖                                                
         +ーーー ●     
       |
  沼田光兼ーーー+ーーー清延
       |             +ーーー 忠隆     
       |             |
       |             +ーーー 興秋 天正11年(1583)生~寛永19年(1642)6月19日天草で歿・59歳
        +ーーー麝香          |      
          ‖ーーーーーーーーー忠興ーーーーーーー+ーーー 忠利
       細川藤孝

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■細川興秋と米田是季

2022-01-28 07:13:22 | 歴史

 細川興秋が弟・忠利に代り江戸證人に父・忠興から命ぜられ出発したが、京都に於いて僧形となって出奔した。
慶長九年(1604)十一月十九日の事であり22歳であった。
この事件はその後細川家の黒歴史を生み出す。興秋付の飯河豊前・長岡肥後父子の誅伐事件である。興秋の出奔から一年八か月後の慶長十一年(1606)七月二十七日の事である。
飯河豊前(3,000石)本姓・篠山五右衛門宗祐)は細川幽齋室・麝香の姉(飯河山城守信堅室)の子であり、細川忠興とは従兄弟の関係に当たる。
息・長岡肥後は本名篠山与四郎、忠興から長岡姓を与えられて長岡肥後宗信と名乗った(6,000石)。


 一方、長岡肥後室は米田是政と雲仙尼の長女である。雲仙尼は明智光秀の姪にあたり、米田是季の姉になる。
飯河肥後とは結婚後疎遠であったとされるが、肥後の最後にあたり駆け付け、最期を共にした貞女である。

この是季がこの誅伐事件に抗議する如くして細川家を去る事になる。慶長十二年(1607)の事である。
慶長十九年には豊臣秀頼の乞いにより大阪城に入城、興秋とも行動を共にしたのかもしれない。
是季が細川忠利の要請を受けて豊前に帰るのは出奔から15年後の元和八年(1622)の春の事である。

大阪城に入城した興秋は、元和元年(1615)西軍の負けが決まるといづ方かに潜んでいたが、徳川家を慮ってか父・忠興から自刃をめいぜられて、伏見の東林院で切腹したとされる。
しかし伝えられる東林院の存在は確認されないし、介錯役をつとめたとされる松井左近のその後の行方も判っていない。
今般、その後の興秋の生存を確定する忠利の書状がでた。その日付は元和七年(1621)五月廿一日であることからすると、米田是季の動きと重なる部分が見え、二人が何らかの形で機密を講じながら行動をしていたことが伺える。

二人は誰かに仕えるでもなく長い年月をどこで過ごしたのであろうか。
興秋は祖父・幽齋の庇護を受けていたであろう。是季は母・雲仙尼の父・真賀法院を頼ったかもしれない。
真賀法院は、明智家ゆかりの坂本の西教寺の関係者だと思われる。米田家のお墓も又この西教寺にある。

興秋生存の書状や是季の帰参が共に、忠興の隠居後、まさしく忠利の代に入ってからの事である。
この時期の忠興は病に倒れ生死が危ぶまれるほどであったと伝えられるし、眼病がひどく書状も認めることが出来なかった。
其の後の興秋の天草移動の状況などを考えると、米田是季の助力がなければでき得なかった。

これまでに記した人間関係が、二人のきずなを確固たるものにして、興秋が天草を安住の地としたことが伺える。
そして、天草島原の乱の勃発迄の間には、三宅藤兵衛との幾たびかの接触も行われていたことであろう。
この後、これらを補強する新たな資料が出てくることを祈りたい。

(只今、略系図作成中)

 

  

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