津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「細川興秋生存説」400年の真実

2022-01-07 08:57:25 | 書籍・読書

                  

 先に注文した「全国かくれキリシタン研究会会報・第29号」を早々にお送りいただいた。4日の夕方に注文してわずか2日である。
早々に目次を開くと、お送りいただいたご本人・安東邦昭会長の「豊前国細川藩におけるキリシタン禁教政策の展開」24頁、久保田典彦氏の「細川ガラシャの愛と死と」7頁、それにお目当ての高田重孝氏の「細川興秋生存説-400年目の真実」36頁、それに地元天草の中村社綱氏の特別寄稿「長岡興秋の生涯とその心」7頁と、細川家関係の記事が全11件の記事の内4件を占めている。
そして高田重孝氏の新刊の情報なども知ることが出来て、大いに満足している。

 さて、元和元年大坂陣後、伏見の東林院で切腹したとされるが(綿考輯録など)、実はその7年後、細川内記(忠利)が長岡与五郎(細川興秋)に宛てた書状が出現した。熊本県立美術館所蔵の「後藤是山コレクション」の書状である。
これは先にご紹介した「高山右近研究室」のブログですでに公開してあるが、当方でも改めて以下の如く引用ご紹介して置く。

 そして改めて氏の情熱をこめてこの真実にたどり着かれた熱意に改めて敬意を表したい。新たに発刊される本は「細川興秋の真実」という名前であることが判明した。発刊を首を長くして待ちたいと思う。


              元和7年 (1621) 5月21日付 細川与五郎(興秋)宛 細川内記(忠利)書状     

                               (本文)                                                                                        (意訳:高田重孝氏)

       一筆申候。                          一筆申し上げます。

       然者其方 肢煩候処、                      あなたが、手足を患っていたところ、

       与安法印 療治候て 本復之由、                 与安法印が療治して 回復したことは、

       一段之事候。                          一段と喜ばしいことです。

       然者 湯治候て、可整之由、                   さらに 湯治をして、体を整えてください。

       法印も御申候。 通尤候。                  法印も そう申しており、もっとものことと思います。 

       更に、三斎様 我等も 在国にて、                    更に、三斎様 も私も、在国 ( 豊前 ) にいて、

       其元 人質ニ有之者候と                             あなたは人質で有る者として、

       心侭ニ 湯治させ申度とハ 難成事候間、           心易く湯治をさせてあげることは 難しい事ですので、

       半左衛門尉と申合、                                 半左衛門と申し合わせて、

       伊喜助殿へ相談候而、                              伊喜助殿 ( 伊豆野喜助 ) へ相談してください。

       兎角、喜助殿之次第ニ仕 可然候。                  とにかく、喜助殿の考え次第です。

            此方、相易、事も無之候間、可心易候。            私の方は何事もないので、ご安心ください。

       我等も 六月廿一日ニ 小倉へ移り申筈候。           私も、六月二十一日に、小倉へ移る予定です。

       尚、近日 可期申候。 謹厳。                       尚、近日、書いてお知らせします。  謹言。

       己上。                                                                以上。


       又 申候。                                               追伸ですが、

       法印へも、其方 煩候様を 被入候事、               法印へも、あなたの煩いを治療して頂いたことに

       於礼にて、書状遣申候。  以上。                 御礼状を遣わします。  以上。

                    内記                   (以下略)

           五月廿一日    ( 花押 ) 

        長岡与五郎殿

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 選評(二十七)

2022-01-07 06:43:45 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 選評(二十七)

・足柄の關ふきこゆる秋風のやどり知らるる竹の下道

 東國陣道の記。「七月十五日、相わづらふに就て、御いとま也。歸陣には甲州どほ
りをと思ひ侍りて、足柄山を越て、竹の下といふ里に泊り侍りぬ」。同月十一日、小
田原城すでに降伏して、北條氏政らに死を賜はつたのであつたが、秀吉は引續き奥州
まで征討する豫定になつてゐた。幽齋、病によつて随行を免ぜられ、丹後へ歸つたの
である。第一日は、石垣山のほとりの陣を拂つて、箱根山中の竹之下に泊つた。御殿
場の東北一里の寒村、建武二年十二月の古戰場として有名だ。そのすぐ東に足柄峠

り、頂上近くに關所が据ゑられたが、とくに廢址となつてゐた。歌意、足柄の關を西
から東へ吹き越えて遙々とゆく秋風は、何處に宿をとるものかと思つたらば、竹之下
の名にそむかず、ここに生い茂れる一群の竹群の中に宿るのであつたわい。西風がざ
わ/\と薄暮の竹叢にそよぐを聽いて、擬人したのである。幽齋、おのれも旅人で今
夜ここに泊る、秋風も亦あひやどりするかと、想ひやつたのだ。「關ふきこゆる」と
いふ句は、天暦の御時壬生忠見が詠んだ歌、

 秋風の關ふきこゆるたびごとに聲うちそふる須磨の浦浪

に始まつて、源氏物語に引用せられ、後には謡曲などにも入れられて、有名にたつ
た。〇風は東西南北するものなるゆゑ、しば/\擬人せられて、風のやどりと云ふや
うな語が和歌の上にも現れて來た。少しく例示すれば

 花ちらす風の宿りは誰か知るわれに教へよゆきて恨みむ  (古今集)

 いく秋の風のやどりとなりぬらむ跡たえはつる庭の荻原  (新勅撰集)

 ふくすぐる音はすれども秋風のやどりは荻の上葉なりけり (續古今集)


・幾かへりみののを山の一つ松ひとつしも身のためならなくて

 東國陣道の記。七月下旬某日のこと、「濃州をのぼりけるに、みののを山、信長公
御代、公方御入洛の御使に度々見馴し所なれば」。これも幽齋傑作の一つだ。みのの
を山云々、古今和歌六帖、

 わが戀ふるみののをやまの一つ松ちぎりし心いまも忘れず

に依つて、平安時代の昔から有名な孤松があつたものと知られる。幽齋の見馴れたの
は、幾代目かの植ゑつぎに相違ない。山は、現今の不破郡南宮山である。幽齋日記の
如く、彼は何遍か此處を往來して、孤松の下に休んだ。それは永禄八年五月將軍足利
義輝が三好・松永らに弑せられて後、弟の義昭を信長の庇護の下に將軍に据ゑてもら
はんと發願し、幽齋、當時の藤孝は、東奔西走し、遂に同十一年十月それが實現して
義昭(公方)の入洛するに至るまで、その間この孤松を何回見たことであつたらうと、
懐舊に堪へないのだ。第二句「みののをやま」美濃に見と詞を懸く。さて「一つ松」
を受けて「一つしも身のためならなくに、さやうな苦勞も、一つとして私の利害のた
めでなく、治國平天下の悲願ゆゑと、自分の心の中を振返つて見て、嘆息もし、満足
もしたのであつた。一首は作者の閲歴を背後にして、會蓄頗る深いと愚考する。戰國
時代無數の英雄の中に、「一つしも身のためならず」と明言し得る者が幾人あつた
乎。

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