「歌仙幽齋」 選評(二十三)
・名にしおふ龍の都のあととめて波をわけゆく海の中道
九州道の記。翌廿四日、幽齋らの乗船は志賀島から漕ぎ出して、博多湾に入つた。
「立出見侍りけるに、砂の遠さ三里計も海の中をわけて、島にるづき侍り。取分て細
き所は十町ばかり、廣さは十四五間計も有と見えたり。文殊などもおはしませば、橋
立の事など思ひくらべられき。當社は安曇磯良丸と云て、神功皇后異國退治の時、龍
宮より出て、兵船の楫取して海上のしるべせし神なり。しば/\打眺めて」。さて和
歌二首を詠み、「當社」に奉納したが、「名にしおふ」云々は其の一首である。文中の
しがのわた
「當社」とは前夜泊つた志賀島の志賀海神社のこと。一首、祭神の故郷なる竜宮(龍
の都)を偲びつつ会場を航く趣で、武將の作らしく颯爽としてゐる。「龍のみやこ」
といふ語は鎌倉時代までの古歌に見えず、「海の中道」も詠まれてゐない。風景が天
橋に酷似し、而かも文殊菩薩さへ祀られてゐるので、幽齋は居城丹後の地を思ひ出し
た。英雄の郷愁とや云はん。
・海原やしほじはるかに吹く風の香椎のわたり浪立つらしも
九州道の記。六月十日過ぎ「香椎の浦見にまかりて」。五月八日、島津義久は降伏
したので、秀吉軍を班し、幽齋も大宰府から引返して歸路に就いた。秀吉に随ひ筥崎
の濱で納涼などしたが、やがて一人で香椎詣した。右歌は、多多羅濱あたりから遠望
した趣である。濱つづきの香椎潟のあたりに磯浪の白く煙つてゐるのを、かやうに詠
んだが、一首の力張つて、古調を帶びたやうであるけれども、初句「海原や」は明ら
かに近風である。古近兩躰混用してゐながら、破綻は示さず、なか/\佳吟とおもふ。
参考:万葉集の三首
「いざ子ども 香椎の潟に 白妙の 袖さえぬれて 朝菜摘みてむ」(大伴旅人)
さあみんな、香椎潟で着物の袖までぬらして朝餉の海藻をつもう。
「時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈てな」(小野老)
風が吹きそうになった。香椎潟の潮干の浦で、海藻を刈ろう。
「往き還り 常にわが見し 香椎潟 明日ゆ後には 見む縁も無し」(宇努首男人)
大宰府の行き帰りにいつも見ていた香椎潟だが、(都に帰るので)明日から
・遠島の下つ岩根の宮ばしら浪の上より立つかとぞ見る
九州道の記。七月十二日條、前夜は上ノ關に碇泊し、今曉出帆して岩國山を左舷に
眺め、それより右舷に「巖島近くなりて、社頭を見るに、鳥居は海の面二町計りとお
ぼしくて立たり。廻廊も、柱は皆しほにつかりて有。船より見て」。「下つ岩根の宮
柱」は西行の、
宮柱下つ岩根にしき立てて露も曇らぬ日の御影かな
〇 〇
を思はせる「下つ岩根」とひ「浪の上」といふは、照應の妙といはんか。一首は宮柱
の如く、太く一本に立ち、構造が頑丈である。輪奐の美を盡くした巖島の社殿、浪の
上より立つかと見て、幽齋は龍宮城を夢想したにちがひない。彼は此の歌を書いて、
宮司棚守左近将監へ遣わした。
参考:西行の歌ー新古今和歌集 巻第十九 神祇歌 1877
大神宮の御社は、宮柱を地下の岩にどっしりと立てて、そこには少しの曇りのない日の光が輝いているよ。
『新日本古典文学大系 11』p.547
ほととぎす
・死出のやま送りや來つる子規魂まつる夜の空になくなり
九州道の記。七月十四日條を讀むと、次のやうに記してある。幽齋は巖島の棚守宮
司に招かれ、饗應せられて、その子息少輔三郎といふ者の亂舞を見、奥の坊に泊めて
もらつた。丁度盂蘭盆の夕であつたが、子規が二聲三聲鳴いたので、「ここにはいつ
も斯様にあるか」と問へば、「珍しきことなり」と答へた。そこで一首。
ほととぎす思へば悲しあす散らむ桐のはやまの夕暮の聲
といふ江戸時代歌人の作もあつて、晩夏に鳴くさへ珍しいのであるが、既に秋に入
り、魂祭の夜に鳴いたのは、まことに不思議である。面かも、幽齋は西征の歸路で
幾多の人々が戰死したのを目撃して來たばかりなのだ。「死出のやま送りや來つる」
しでのたをさ
は月並の死出田長ではない。