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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■花畑邸絵図で遊ぶ

2022-01-11 18:27:35 | 熊本史談会

             

 今日は午前中散歩で1時間ほどを過ごし、その他少々の雑用で1時間ほどをすごしたが、あとは閑である。
何をするでもなく、資料の整理などをしていたら「花畑邸」の図面が出てきた。
ご苦労なことに、小さな図面を青写真屋さんに持ち込んでA1サイズに拡大したものだ。
これを眺めていると、ふと15日の史談会の事が頭に浮かんだ。正月の三日には「九曜の間・中柱の間・佐野の間・鷹の間と入側」などを使って、「謡始め」の儀が執り行われる。
そんなことを考えていたら、史談会の事務局から電話が入ったので、これらをパワーポイントで取り込んで頂くことを急遽お願いした。
そして講師の中村勝先生にもご連絡をして、講演の中で取り上げていただくようお願いした。
泥縄もいいところだが、佳いタイミングで絵図を広げていたものだ。
これに見入っていると、夕食の時間を告げられても耳に入らずお小言を食らってしまう。


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■志賀休也御誅伐

2022-01-11 09:01:47 | 歴史

 新撰御家譜原本巻五忠利公の部に「(寛永十二年) 十二月廿三日、小笠原玄也妻子、下々迄惣而十六人於禅定院御誅伐、志賀休也こさいしょう、貴理師旦に付同日御誅伐被仰付候」とある。
小笠原玄也一族の誅伐は子供や使用人など含め16人にも及ぶ悲惨なものであったが、同じ日に志賀休也こさいしょうの二人も誅伐されている。
小笠原玄也と家族・使用人16人は、2008年11月24日列福された。1615年10月15日に玄也の妻・みやの父加賀山隼人佐が豊前で、隼人佐の従弟・加賀山半左衛門とその5歳の男子も同日日出でそれぞれ誅伐されたが、同様列福された。その他八代の11人・天草の1人、熊本県関係としてこれらの人々が上げられている。

 ところが寛永十二年十二月廿三日に誅伐された志賀休也こさいしょう(小宰相か)の二人は列福の対象とはなっていない。
こさいしょう」のことは全く判らないが、志賀休也については若干の情報がある。
一族であろうと思われる志賀左門の家に居る所を、踏み込まれて捉えられた。
志賀左門は大友義鎮の女婿である。志賀親度清田鎮乗志賀親成志賀親次戸次鎮連室、吉弘統幸室、左門等兄弟姉妹の末弟であり、細川家に仕え500石を拝領している。
義弟の松野親盛(大友義鎮末弟・バンタリオ)や、義甥・松野正照(大友義統・男)と共に慶長19年のキリシタン弾圧の際一度転宗している「転び」であり、その後キリシタンに立ち戻ったいわゆる「返えり者」でもある。寛永13年7月13日に改宗を届け出たとされる。
休也の誅伐と、左門の改宗の届の間には七ヶ月ほど重複する機関がある。しかし左門は既に禅宗に改宗していたらしく、書面を示して証明したらしい。

加賀山隼人や小笠原玄也については、高田重孝氏の著書がある。そろそろ注文した本が届く頃だが、これらの事にもふれられているだろうか?大いに興味深い。

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