新撰御家譜原本巻五忠利公の部に「(寛永十二年) 十二月廿三日、小笠原玄也妻子、下々迄惣而十六人於禅定院御誅伐、志賀休也、こさいしょう、貴理師旦に付同日御誅伐被仰付候」とある。
小笠原玄也一族の誅伐は子供や使用人など含め16人にも及ぶ悲惨なものであったが、同じ日に志賀休也とこさいしょうの二人も誅伐されている。
小笠原玄也と家族・使用人16人は、2008年11月24日列福された。1615年10月15日に玄也の妻・みやの父加賀山隼人佐が豊前で、隼人佐の従弟・加賀山半左衛門とその5歳の男子も同日日出でそれぞれ誅伐されたが、同様列福された。その他八代の11人・天草の1人、熊本県関係としてこれらの人々が上げられている。
ところが寛永十二年十二月廿三日に誅伐された志賀休也とこさいしょう(小宰相か)の二人は列福の対象とはなっていない。
「こさいしょう」のことは全く判らないが、志賀休也については若干の情報がある。
一族であろうと思われる志賀左門の家に居る所を、踏み込まれて捉えられた。
志賀左門は大友義鎮の女婿である。志賀親度、清田鎮乗、志賀親成、志賀親次、戸次鎮連室、吉弘統幸室、左門等兄弟姉妹の末弟であり、細川家に仕え500石を拝領している。
義弟の松野親盛(大友義鎮末弟・バンタリオ)や、義甥・松野正照(大友義統・男)と共に慶長19年のキリシタン弾圧の際一度転宗している「転び」であり、その後キリシタンに立ち戻ったいわゆる「返えり者」でもある。寛永13年7月13日に改宗を届け出たとされる。
休也の誅伐と、左門の改宗の届の間には七ヶ月ほど重複する機関がある。しかし左門は既に禅宗に改宗していたらしく、書面を示して証明したらしい。
加賀山隼人や小笠原玄也については、高田重孝氏の著書がある。そろそろ注文した本が届く頃だが、これらの事にもふれられているだろうか?大いに興味深い。