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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お見舞い有難うございます

2022-01-22 08:30:51 | 徒然

 今般の日向灘地震につきましてお見舞いを頂戴し恐縮しております。
未明、突然のTVのアラーム音で起こされ1~2秒後に少々長い横揺れが来ました。震源地では震度5強でしたが熊本も震度4を記録しました。
熊本地震の折は、4クラスの地震は何度も/\経験しましたが、久しぶりに体験するとやはり身構えてしまいます。
台所にある棚の引き出しが二段2~30㎝飛び出しましたが、まさに震源地を真正面にするような位置にありますから、東西方向に引っ張られて飛び出したようです。
今のところ大分や宮崎でも大きな被害の報告はないようですが、当方からもお見舞いを申し上げます。


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■不運な姫君

2022-01-22 06:47:50 | 歴史

    細川綱利の正室本源院(正保元年生~延宝三年二月ニ十日没、年32)は、讃岐高松藩松平頼重(水戸頼房・嫡男)の養女である。
その実は水戸藩徳川頼房女であり、頼重・光圀の実妹である。水戸徳川家の継嗣問題は非常に複雑で、頼房の跡は三男光圀(二代)が継いだ。
光圀は兄・頼重の息綱方・綱条の二人を養子となし、綱条(三代)を継嗣子とした。実子頼常は頼重の養嗣子とした。
その本源院は五人の子をなしたがすべて女子であった。菊(松平豊後守頼路室)、光(酒井左衛門尉忠眞室)、松・(西園寺中将婚約中死去)、楊(松平志摩守直丘室)、吉(細川采女正利昌室)等が枝葉を広げた。
綱利という人は大変律儀な人であったようで、本源院がなくなる前には側室に子をなさしめていない。
以降三人の側室に二男三女をなしている。その内、仁田氏が二男一女をなした。長女は熊本生まれだが、嫡男・與一郎と次男・吉利ともに江戸で生まれている。そして江戸で亡くなっているから、本源院死去後は継室ともいうべき地位を占めていたものと思われる。

   さて昨日もふれた嫡男與一郎は、水戸家3代目・綱條の養女と婚約をしていたが、14歳で死去した。
3歳年下の二男吉利は14歳の時に婚約をしているが、兄の婚約者であった綱條の養女であったらしい。
結婚の運びの中で、吉利は疱瘡に罹患した。これが原因ではないと思われるがその一年後に18歳で亡くなった。宝永三年(1708)のことである。
父・綱利や祖母・清高院、生母の仁田氏の悲しみは如何ばかりであったろうかと推察される。
綱利が弟・細川利重の二男宣紀を継嗣と決断したのは宝永五年(1708)、隠居するのは正徳二年(1712)、そして正徳四年(1714)十一月十二日死去する。(72歳)

 一方不運なのは水戸の姫君である。
熊本藩年表稿では「方姫」と記しているが「万姫」だと思われる。ウイキペディアでは「益姫」と紹介されている。
其の後、水戸親藩の2万石常陸府中藩主・松平頼明に嫁がれた。

             讃岐高松藩・初代
             +---頼重---+--綱方
             |     |
             |     +--綱条
             |     |  二代  三代
             |     +===頼常---頼豊
             |     |
             |     +====本源院
             |                                ‖               
             |                         細川綱利ーーーー+ーーー*與一郎   
            水戸   |                                            |
            頼房---+--●光圀---+===綱方    +ーーー*吉利 
             |        |
             |          +--頼常
             |        |
             |        +===●綱条========*益
             |
             +--*本源院


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