津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お安く読む・ちくま学芸文庫「日本の歴史をよみなおす」

2014-03-23 10:38:37 | 書籍・読書
日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)
         網野善彦
         筑摩書房

 

内容(「BOOK」データベースより)

日本が農業中心社会だったというイメージはなぜ作られたのか。商工業者や芸能民はどうして賤視されるようになっていったのか。現代社会の祖型を形づくった、文明史的大転換期・中世。そこに新しい光をあて農村を中心とした均質な日本社会像に疑義を呈してきた著者が、貨幣経済、階級と差別、権力と信仰、女性の地位、多様な民族社会にたいする文字・資料の有りようなど、日本中世の真実とその多彩な横顔をいきいきと平明に語る。ロングセラーを続編とあわせて文庫化。
 
齢70歳を越え、少なからず歴史に触れてくると近世社会の多様性がわずかながらも理解できるようになった。
名著「無縁・公界・楽」は私の古い蔵書の内の一冊だが、建築学を収めるうえでの必読書と言われたものだが、これとて同様である。
いささか遅きに失したが、今歴史に親しんでいるとこの様な本を楽しく読めることを有り難く思うのである。
そしてお安く読めることにも又感謝である。
 
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■ある書状から 慶長五年八月一日

2014-03-23 09:33:23 | 史料

 非常に古い書状が熊本県史料「近世編第一」の「部分御舊記・御書附并御書部十六」(p689)にある。

       よろつ/\たしなみかん用候 わるき名とり候てからハかへらぬ物にて候已上
   備中よひこし道具とも遣様子とも申付候間申候 丹後江上方より人數下候由候間幽齋へうしろ
   つめとして北國通越事候 目出度本意ニ成候可入見参候 其方事中なこん殿江奉公かん用候
   岡田なと意見ニつかるへく候 色々此度遣候物とも所望かる仁候ハゝ何成とも可遣候 万事ニ
   心をつけ候 ハてハ人中成ましく候 たしなみかん用候 具ニ備中ニ申候 恐々謹言
           八月一日                 越 御判
               光(忠利)
                まいる

上記熊本県史料には見受けられないが(と思う)、遡る七月九日の書状は次のようにある。良く知られた書状である。

       尚々我々事来十七日ニこがまて必々可付候以上
   書状披見候 中納言殿十九日ニ御出馬之由候 御供仕可被出候 若又御供も難成候者夜をこ
   め二里も三里も御先へ出御陣着毎ニ御陣屋へ見廻れ候様ニ成共可仕候 かつて可為次第候
   先にてハ我々陣所へ可呼越候 謹言
           七月九日                越 忠 花押
               ミツ
                まいる 

この年の始め忠利は證人として江戸へ送られている。中納言(徳川秀忠)への忠節を盛んに説き、七月九日書状では会津攻めに出陣する秀忠にたいし、先に先に進んで陣中見舞いをせよといっている。大坂では七月十七日光の母・ガラシャ夫人が自栽している。
八月一日の段階では共にそのことは知る処であったろう。悲しみの中に在ったであろう光(忠利)に、「悪き名をとりては取返しのつかぬこと」重ねて秀忠への忠誠を説いている。そんな中にも親子の暖かい思いやりが伺える。忠利十五歳、長兄・忠隆、二兄・興秋は戦場に在って活躍している。
細川家の将来が忠利に託されるなど、この時期では思いもよらぬ事であった。 

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■373年

2014-03-22 15:50:09 | 人物

 少々日にちが遅れたが3月17日は肥後細川藩初代・忠利公の命日である。寛永18(1641)年が没年だから373年となる。

                   

                   光尚に宛てた忠利の最期の書状 右のてくひゟ手なへ申計ニ候 シ(死)に可申様ニハ無之候 可心安候 以上

又病状急変の報を聞いた父三齋が、孫の光尚(当時・光貞)に送った悲痛な書状は、三齋の万端の思いを感じる。
そして、追々多くの家臣が殉死を遂げていく。周囲の冷たい目や言動にさらされて阿部弥一右衛門は日遅れて自栽したとされるが、これは「阿部茶事談」や森鴎外の「阿部一族」の影響であり、4月26日に全員が殉死したと記録されている。
阿部家についてはご存知の如く不幸な誅罰事件へ展開していく。

強烈な父忠興の許に有りながらも、名君と呼ばれるにふさわしい一生であった。
今墓所妙解寺がある北岡自然公園は桜が美しいところである。殉死者の墓に守られて室・保壽院、息・光尚公の墓を左右にねむっておられる。
遅ればせながら妙解寺を尋ねてみようと思っている。 

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■「軍陣之作法少々聞書」余滴 竹原氏

2014-03-22 11:46:41 | 人物

 昨日のブログでは、堀平太左衛門を推挙したのは 竹原勘十郎(6代・玄路)であることを書いた。
又その前に書いた「軍陣之作法少々聞書」を記したのは竹原清太夫(分家初代)である。この軍陳之作法は武田吸(ママ)松斎から清太夫の父(2代・金左衛門)が指南を受けた記録(寛永八年)である事が奥書に記されている。
その2代目について、寛永十二年の三齋の書状にその消息がある。

         以上
      切紙拝見申し候有玄(有馬玄蕃?)ゟ我等所江も使を今朝給候
      めいけんの事竹原少左衛門むす子ニて候 武田流を少左衛門               
      覚申候きとくなる儀ニて候以上
         六月七日                三齋
            越中殿 
               御返事

それ以前、寛永九年十月七日同じく三斎の忠利宛書状として、次のようなものがある。
三齋がいかに庄(少)左衛門を重用していたかをうかがわせる文書だが、これは二代庄左衛門の跡を二男・清太夫が受け継いだことを顕している。
                                                       (綿考輯録・巻二十二)            

      竹原少左衛門以之外相煩、半死半生之体ニ候、此もの心安ニ付、
      いか様之事も書せ申候処、果候へは、はたと事をかき申事ニ候、
      幸むすこ清太夫能所へ参候間、これを親ニ付て上せ申度候、左
      様ニ被申付候ハゝ満足可申候、為其申候、已上
         十月七日                三斎
            越中殿

さらに時代を遡る記事が綿考輯録にある。(第一巻・幽齋公p185) これは家祖・市蔵(墨斎玄可)についてである。

      幽齋君丹後へ被召連、慶長元年正月御児小性被召出、知行百石被下、後に庄左衛門と改候、三齋君百五十石の御加増被下、御伽に被仰付
      候、能書なるを以、幽齋君御代筆被仰付、書礼の事、故実をも御伝へ被成、呼松斎へ御相伝の御取次并写本等も仕り、一色一遊齋へも仕付
      方の弟子に被仰付候、三齋君よりも御口授等被遊、御両君御卒去以後も猶稽古不相止、隠居名を墨斎玄可と云

竹原家は阿蘇家の庶流であるが、この市蔵(後・少左衛門)は幼少期、阿蘇家65代惟種の代「不測の事」があって薩摩に逃れ島津氏に仕えた。
幽齋が薩摩を訪れた際、市蔵(9歳)なる人物の才知・能書を愛し龍伯に請い京都に連れ帰っている。阿蘇を出でて心ならずも薩摩に赴いた竹原氏が、幽齋公に出会ったことが運命的であり、偶然は豊前へ肥後へと古里へ近づけた。
 
     (1)庄左衛門・墨斎玄可   (2)少左衛門     (3)            (4)           (5)             (6)
         市蔵惟成---金左衛門---+---少(庄)左衛門)---甚十郎惟秋---市蔵惟重(惟清)---勘十郎
                         |  分家・初代
                         +---清太夫惟永              

そのご子孫は現在、武田流流鏑馬の家元として熊本で活躍されている。 

 
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■ある書状から 一石 ≒ 一両 を考える

2014-03-22 08:43:43 | 史料

 寛永十年二月廿四日付忠利宛て三齋の書状の中の一項に次のようにある。

    一、八木無之ニ付壹万石分之銀子貮百五十貫目借用有度由請取者給次第渡可申事

細川家の肥後入国は寛永九年の暮である。忠利は十二月九日に熊本城に入り、三齋は十二月廿二日に八代城に入った。
その二か月後のことである。いわゆる借金の申し込みであるが、「 壹万石分之銀子貮百五十貫目」という記述が興味深い。

当時の熊本の蔵納免率は四ツ二分八朱五厘だとされる。(森山恒雄氏・肥後五十四万石の成立 から)
金銀の両替相場がよく判らないが、江戸初期の「金1両 = 銀50目」というデータを使うと、銀250貫目は金換算すると5,000両ほどになる。
これからすると1石=1.1668両という数字が導き出される。

1石=1両とよくいうが、奇しくもこの記述でほぼ近い数字が見える。こんな記述に出くわすと謎解きにわくわくする。

ちなみに細川藩の米による一年間の総収入は、実高75万石に単純に蔵納免率を乗じると、375億円ほどという事に成る。

 

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■逸話 「是非櫻馬場を・・・」

2014-03-21 12:05:13 | 人物

 宝暦の改革の立役者とされる堀平太左衛門を重賢公に推挙したのは、御側御取次(後・用人)竹原玄路によるものであることはよく知られている。
「秘録御遺事草案」に次のようにある。

        霊感公(重賢)御代に相成、何卒人才を御用成れ度思召れ候、大奉行益田彌一右衛門、堀平太左衛門
        両人撰に相成、既に益田殿に可成哉と御詮議有之候節、竹原殿両度迄御袖にさがり、是非櫻馬場を御
        擧遊ばされ候様にと、思召をまげ申上られ、仰付られ候事

ここに櫻馬場とあるのは堀平太左衛門の事である。堀の屋敷が櫻馬場近くにあったことに依る。
一度は益田彌一右衛門に決まりかけていたことが伺えるが、これは執政たちの意見を入れての事であったのだろう。
主君の袖にすがるという事は、事が為さぬ時には死を意味している。まさに竹原玄路の命がけの進言であった。

のち安永三年益田弥一右衛門は、堀平太左衛門の政治に対し「上書」をもって十八ヶ条の意見を上げている。
重賢はその一ヶ条ごとに平太左衛門に回答を求め、これを弥一右衛門に呈したとされる。これをもって弥一右衛門は非を認めたとされる。

政敵ともいえるこの二人は非常に近い縁戚関係にある。平太左衛門の娘が弥一右衛門の嫡男に嫁いでおり、二人は舅同志である。

現在の桜橋(当時は存在しない)を渡るとすぐ左手(現在の県立第一高校グランド)に平太左衛門の屋敷があった。このあたり一帯を含め櫻馬場と呼ばれていたことが判る。
坪井川にそって緑地帯が設けられている。また屋敷から坪井川に向かう舟着きの跡などが残されている。
このあたりの石垣に多くの刻印が刻まれた石が使われていることで知られている。
 

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■軍陣之作法少々聞書(三・了)

2014-03-21 08:31:13 | 史料

一、具足着初之時之酌出陳之酌と同前也 但馬尾鼠尾の唱ハ無候事也 膝仕か候也様躰無相替事也
   自然武勇之人相伴之事有其時ハ是も三ツ盃也
一、具足をからひつ(唐櫃)より取出時ハ先甲を取出候 其後具足の袖を持上て袖の下よりわたかみを
   取て出也 人ニ見せる時はからひつの蓋のうらに具足を置其上ニ甲を置二人してかきて出てたゝミ
   置前を見せて左を見せさて右をミせる也 後をも所望ならハ見すへし 無其儀は三方計可見也
   右之ふた共ニおし直して見也 自然ひつたてゝ見するとも同事也 わたかみを取ひつたてゝよし 鎧を
   取出す時は先甲を取出して脇立を取出し其後筒を取出し二人して持出也 賞翫の人跡の方をかくなり
     又五領十領臺に預てつミ披露之事あり 此時は主人之右之方ニ横ニ置て懸御目也 いむけと宗(胸)
     板の間を被成候 纔様ニ出し候也
一、具足を人に被遣時も右之ことく被下候ヘハいむけと胸板の間いたゝきて吉
一、甲を主人ニ掛御目時は左の手を甲の内に入指をそへ手のうらニ居て右の手をしころニそへて向を
   御目ニかけ扨左之方を懸御目其五右をミせ申へし 是おうしろを見せよと所望あらハ可見也
   貴人も下輩もミせ様大かた同前也 是も向を御目ニかけ其後いむけ懸御目也なお口傳有
一、籠手計主人江進上之事身着之方を主人方ニなしてゆひの方を我前江なす也
一、首を見て軍の吉凶を知事頭の目の右の方開きたるハ首の味方まけと可知也 同左の方ひらきたるハ
   首の味方勝なるへし 真向の眼ハ陳長引と可知也 地眼ハ早く果て和睦と可知事也 首ハ真向地眼ハ
   何れニ而も穴を見目ハ終ニ不見及候 後人ニ可願しと云々
一、軍陳之時馬乗様之事庭ニても何所ニ而も乗出三足ふミ出せて乗出へく候 必左へ廻て可然事也
   此儀太刀打之時右之手を用ニ立ニゟて此分ミ由也 乗納なるも本の所江乗寄て又三足乗出してから
   下馬すへき事口傳
一、出陳之時主人貴人の前ニ而馬を乗出し候時之事必右方江廻りて我右之方へ乗廻也 三へんのり
    乗そめニも三足乗出乗納も三足乗出して可下馬事也 猶口傳あり

             以上

 

討取った首をみて、その軍(いくさ)の吉凶を占うと有る。全く根拠のない非科学的な話だが、これが一体どのような役にたったのだろうか。
総じて様式を論じており、実戦とは程遠いものがある。
 

 

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■欲しい本「泰平年表」「続泰平年表」

2014-03-20 17:40:52 | 書籍・読書

 泰平年表は、早稲田大学の「古典籍総合データベース」で見ることが出来、プリントアウトして楽しんでいる。
又、続泰平年表は、日本銀行貨幣博物館のサイトで 第三巻第四巻 を見ることが出来る。

この様な貴重な史料を簡単に見ることが出来るのは大変ありがたいことだが、老い先短い私としては古文を読み下し楽しむ余裕がなくなってきた。
熊本県立図書館にも所蔵されていない。地方図書館の実力の程が伺えて悲しい。

インターネットでは、部分的にしか見えないが活字化されたものも、こんなところでも見ることが出来る。
これは、続群書類従完成会を引き継いだ 八木書店 が提供しているようだが、刊本としては次のようにある。

      続泰平年表
         発行:続群書類従完成会

         竹内秀雄校訂
         初版発行:1989年
         本体価格:7,767円を
         A5判・上製・函入 420頁
         ISBN4-7971-0491-0 C3021 

      続泰平年表1
         発行:続群書類従完成会

         竹内秀雄校訂
         初版発行:1982年
         定価5,460円(本体5,200円+税5%)
         A5判・上製・函入 240頁
         ISBN4-7971-0493-7 C3321  

手元に置きたいとつくづく思うのだが、しかしこの値段は年金生活者には応える。ならばと「日本の古本屋」を眺めてみると、相当数並んでいて割とお安い。
このくらいの値段であれば、希望が出てくるではないか。只今購入検討中である (ほかにも購入候補がいろいろありまして・・・)

(中には280,000円という値段がついていて驚いたが、こちらは「精写本」とあった。版木転写本もありこちらは35,000円、他にも写本が見受けられる)

 

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■ある書状から 老中・稲葉正勝の死

2014-03-20 07:19:15 | 人物

寛永十一年正月廿七日付 三齋の許へ宛てた(魚住傳左衛門宛て)忠利書状に、老中・稲葉正勝の死去の報が次の様にある。

           一、稲丹州一昨夜死去(廿五日)被仕候 春日殿・伊豆殿へ御状も可被遣哉塚田杢と申候小性追腹を切申候
           一、丹後殿存生之内 従三齋様我等ニも見せ申候へと被仰候由ニて丹後殿ゟ被申入候ご返事とて書物春日
              殿使にて拝見仕候事
           一、丹後殿存生之内 三齋様ニ南蛮之ねとこ御座候つる是ニね候て見申度候間御留守居へ申かり申度由ニ
              付則御屋敷へ其通申丹後殿へ渡申候つる

春日局の子・稲葉正勝は、肥後・加藤家の改易に当たり熊本城請取の大役を勤め、後老中を勤めるなど将来が嘱望された。
前年の夏ころから日頃の激務が嵩じこの日を迎えることに成る。38歳。明智氏の血縁を以て細川家とは非常に親しい間柄であった。
三番目の文章は、そんな親しい間柄が垣間見える。意訳すれば次のようになろうか・・・ 

             稲葉正勝殿存生の内に、三齋様がお持ちになっている南蛮の寝床(ベッド)に寝てみたいと望まれ、
             借りたい旨留守居へ申入があり正勝殿御屋敷に御渡しした

この時期がよく判らないが、この書状で初めてこのことが取上げられており事後報告となっているから、以外と近い時期であったのだろう。
正勝は死の床にあって、忠長卿の処分に対し連座の罪に問われた弟・正利の配流先を忠利の領国・肥後國に出来るよう尽力したという。
このベッドで死を迎えたのであろうか。

この書状は非常に長い内容が綴られているが、該当するのはその中のわずかの文章だが、それぞれの人達の思いが交錯して窺える。 

                                                     (熊本県史料近世偏一 御書附并御書部・十一 p153 から)

 

 

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■小林一茶、愛妻家の証明…自筆の手紙見つかる

2014-03-19 16:39:42 | 新聞

今日の読売新聞は「小林一茶、愛妻家の証明 自筆の手紙見つかる」と報道している。

江戸時代の俳人・小林一茶(1763~1827年)が妻に宛てて書いた自筆の手紙など、これまで未確認だった資料45点が京都市内で見つかったと、長野県信濃町の一茶記念館が19日、発表した。手紙は自宅にいる病気がちな妻・きくを気遣う内容で、鑑定した矢羽勝幸・二松学舎大客員教授(68)は「愛妻家だった一茶の優しさがうかがえる」と話している。一茶は、出身の柏原村(現在の信濃町)に戻り、52歳の時に24歳年下のきくと結婚した。3男1女をもうけたが、いずれも幼い頃に亡くなり、きくも結婚から9年後に病死した。妻への手紙の現物が確認されたのは2例目。縦約15センチ、横約32センチの和紙で、宛先は「柏原 留主様」となっている。長野市の善光寺周辺にいた一茶は、9月6日から10日まで長野市の門下生方、11日以降は小布施町の寺に滞在するとして、「(あなたが)もし病気にでもなったら、寺に使いをよこしてほしい」と書いている。これまでに見つかっている日記から、1817年か20年のものとみられる。中村敦子学芸員は「門下生への手紙と違って崩した字が少なく、読みやすい。妻への思いやりがうかがえる」と分析。「宛名に『きく』と書いていないところに、一茶のちゃめっ気が感じられる」と話す。                      (2014年3月19日15時39分  読売新聞)

私は俳句つながりで、田辺聖子の小説「ひねくれ一茶」を所蔵している。548頁に及ぶ大作だが、田辺氏の洒脱さが文面に満ちて、一茶の人となりはこんな物であったろうと伺わせる佳作である。きゃんきゃら(お転婆)娘・おきくとの出合や、その死に至る貧しくも豊かな時の流れなど一茶の喜びや悲しみを堪能したものだった。
この手紙をじっくり見て見たいものである。 

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■軍陣之作法少々聞書(ニ)

2014-03-19 08:05:53 | 史料

一、大将之御出立御為衆未革胴服革袴刀脇さし太刀此三■也 床木ニかゝり太刀計三寸程御むき出しニ而
   得入無道(上)道則成就佛身(得入無上道 即成就仏心)と三偏唱尻日ニ而被成御覧中其侭かゝへて居て右之
   唱を遊し終たる時太刀をはたと御さし候 其時一度ニ頭を取て我左の方へ人立捨る也
   大将床木にかゝり給ふ様左の足をふみ出し其ニ應して右之足もふみ出し給ふ也 第一日を撰也 時も入也
   敵の方へ相生之日せぬ事也 こくしたる日吉 又中なおり和睦之時ハ相生之日吉と云也 

       相生(そうしょう) 五行思想の相生参照のこと

   我取たる首を主人江御目に懸様之事たふさを取て懸御目也 心持之事右同前也 是ハなま頭之事也
   此字寿頭と書也
一、當座打捕たる頭ハ右の手ニ刀を持 左之手ニ而たぶさを取刀のひし(斐紙・刀のぬぐい紙か)にのせて懸御目也
   但人ニより余りいかつ(厳つ)
に見へ候得は寿頭の如くにして掛御目ても吉
一、首を鞍に付候様躰之事塩手の緒ニたぶさを結付計也
一、首こしらへと有時之事 ちかやニ水を付てあらふ也
一、首の目の出たるを御目ニかけ様有之言説無子細也 直ニ懸御目ニさるゟ之分別之説事也
一、出陳之時之酌
之取様の事主人ハ床机懸りて御座候 御前へ御くきやうの上ニ小角ニ熨斗五本おき向の左ニ
   置て同かち栗七ツ右之方に置也 前之右に昆布五本置也 左之方ニ土器三ツ置て置也 御前ニ近ク寄て両之
   膝を立なからてう子(銚子)ニ而御酒を入候也 御盃一ツ/\ニ而肴を参候なり
一、一番にのしを大キ成方よりそひ/\はひと参候也 盃に酒を入ル そひ/\はひて入也 扨其後かち栗七ツ
   有を中成を一ツ参也 其後昆布を中成を一切レ参候也 但のしのことく参納候也 酒の入様何も同前也
   但参納之盃ニそひ/\とはひとの間ニ加申也 委細口傳有少もしさる足を嫌ツゟ初ゟくきやうのきはへ寄候也
   立時もつと立候也 かへハ酌の右に居たる口傳有之

            そひ/\はひ(鼠尾/\馬尾) お酌(三献)の仕方・「鼠の尾の如く細く二度、馬の尾の如く太く一度」注ぐ

  

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■sobi sobi babi

2014-03-18 17:41:51 | 徒然

 「軍陣之作法少々聞書」は読んでいると、全然わからない語句が登場してすっかり戸惑っている。しかし面白い・・・・・

そひそひはひという語句が出てきたときには、こりゃ~何だと絶句したほどであった。(明日ご紹介する)
正解はsobi sobi babi、漢字に直すと「鼠尾 鼠尾 馬尾」 口に出していう訳ではないのかもしれないが、三献におけるお酌の仕方だそうな・・・・
あの三々九度でも行われるお酌の仕方、一度目と二度目は鼠の尾の如く細く小さく、三度目は馬の尾の如く太く長く注ぐのだという。
出陣式に於いて当たり前に行われていたらしい。

語句が判ったのでいろいろググっていたら、sobi babi とか sobi babi sobi とかいろいろあるらしい。
神社の巫女さんとかはとっくにご存知の言葉のようだが、はじめてこんな言葉に出くわして、解決するのに時間を相当費やしてしまった。
ビールなどもこの様に注ぐのだという人が居られるようだが、私は知ったからと言ってそひそひはひなどやりませんよ・・・・・ 

(実はそひそひはひと書かれた次の頁には、馬尾・鼠尾という語句が出ていたのだが、こちらを読んでいたらもう少し早く解決していたのに・・・・・・) 

         参考:   鼠尾 - 日経トレンディネット

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■軍陣之作法少々聞書(一)

2014-03-18 10:05:19 | 人物

「雑兵物語」を読むと、戦場における雑兵たちの生々しくも健気でたくましい有様が見て取れて大変面白い。
細川家の資料の中に表記のようなものを見付けたが、「雑兵物語」のようには参らぬ。
寛永八年竹原清太夫が沢村大学助に送った「軍陣之作法少々聞書」である。「堅ク可被禁御他見」とある。 
 

一、軍陳ニ而扇つかふ事日月扇の裏表には昼は日の方を先にしてつかふ也 夜は月の方を先になしてつかふ也
      軍扇 (ぐんせん)
                       武将が陣中で軍勢を指揮するのに使った扇、多くは骨を黒漆で仕上げ、地紙には易占と呪術的な意味で表面(扇面)
                       昼と太陽と陽を象徴する「火の丸」金か朱で描き、裏面には夜と陰を象徴する星辰文もしくは三日月文を描く。

                主な使い方は、合戦を行うのが昼間であれば表面、夜間や悪天下であれば裏面と、使う面と開ける面積を適切に加減するこ
                とで運気を呼び込んだり、表面を全開にして合戦に臨むことで凶日(陰)を吉日(陽)に変えたりするというもの。

一、軍陳の扇拵様之事一尺弐寸長サ也 裏表に日月■(有カ)日は朱月ハ黒月の方には破軍星を書也
     要の事 しとゝめにする也 紫の御兎の革にて緒を付る也 むちむすひニむすふ也
      破軍星(はぐんせい)  
               ほう北斗七星の第七星、柄の先端にあたる星。陰陽道(おんようどう)では、その星の指し示す方角を万事に不吉として忌んだ。破軍。
      しととめ(鵐目)
            《形が鵐の目に似ているところから》金属・革・木などの製品にあけた穴の縁を飾る金具。刀の鞘(さや)の栗形・和琴(わごん)・箏(そう)、その他の器物のひも通しの穴の縁などに用いる。 
  

一、はち巻寸法の事白き細布五尺也 真中ニ少し明て其所を黒革を細切てそれニてゆひ置也 黒革の所をひたひに置てうしろにニてゆふ也
  結様之事鞭むすひにもする也 又ハ真結ニもする両様なり
一、主人江敷革進上之覚悟之事ゆばニてハ白毛之方御うしろ方ニ成候也 けいこの時は白毛の方御前ニ成也 頭はうしろの方ニ成候也
一、軍陣ニテ敷革を以鞍をつゝむ事無別儀事也
一、主人より床木(ショウギ)参らせ様之事無別儀事也
一、塩手の緒長サ一尺二寸也
      
塩手緒  明月記の記述に「塩手以錦縫、塩手緒」とあるが、詳細がよく判らない。
一、軍陣ニ乗馬必二重腹帯也心掛之事ニ候得ハ腹帯しめ直して乗る物也 又女出家抔か風目に見ゆる事あり
  其時は上帯しめ直して出る也 猶口傳有之
一、鯨波の上様之事敵の調子を請て上ル也 調子次第也 火剋金金剋木抔と等くする様ニ上て吉相生悪し 
一、出陣の時はた棹おるゝ事有中よりおれたるハ吉事也 上下へよりておれるハ不吉也 其時は馬よりおりて上帯しめなおして心持にて
  吉方へ方角をかへて吉猶口傳有之 
一、実検の作法之事 大将之頭位有之人の頭計也 先頭板八寸四方・足の高サ四寸也 二方に有之足付之ことくなり
  頭板ニ頭のする次第之事 扨頭を板の上ニのせて両方手ニて板懸てかゝゆる時両方の大指両の耳ニかけて地に居て御目に懸る時も
  手をはなさぬ事也 何時も頭の向を御目にかけぬ物也 扨掛御目時之出立装束之事具足を着し申にてもはち巻ニ而も吉 又革胴服ニ
  口(革)布袴ニ而も吉 たひ脚半革鞋ニ而掛御目也 又勿論はひ立にてもよし
      
首実検 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E5%AE%9F%E6%A4%9C 


よく判らない言葉や形容、表現が多く見受けられる。勉強が必要である。

   

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■図書館→江津湖

2014-03-18 07:14:11 | 徒然

 先に借りた「中院通勝の研究」が中々面白くて、返却日を越してしまった。昨日はあわてて返却の為に図書館に向かった。
良い天気で暖かく窓を開けて走る。成るだけ歩かなくていいように、図書館に近い奥の方へ車を止める。
血圧のためには運動が必要なのだが、ここ一両日は高止まり状態で体がふらふらするからだ。

郷土コーナーで目的の資料のコピーをとる。約50枚、最近はこの作業が辛くなってきた。

2階と3階とを行ったり来たりしていると、暖かさに汗ばんでくる。少し風に当たろうと、裏手の江津湖畔にでてみる。
水前寺成趣園から流れ出た湧水は深さ2~30センチの流れで江津湖にそそいでいる。

            夏目漱石は    上畫津や青き水菜に白き蝶 (明治30年)
                        湧くからに 流るるからに春の水 (明治31年)       等と詠んでいる。

図書館は細川内膳家の跡地である。漱石先生も訪れたことがあるのではないか。そう思いながら爽やかな風を楽しんで帰路についた。
ようやく春の気配である。 



 

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■武蔵のお墓は何処・・・・?

2014-03-17 11:13:34 | 人物

ブログ「徒然なか話」では昨日は、宮本武蔵と熊本のはなしを書いておられた。
お墓が武蔵塚・泰勝寺・西の武蔵塚といろいろある。遺骨が納めらえているお墓というと私の中では確定できないでいた。
寺本直廉の「古今肥後見聞雑記」に面白い記述があった。この記述によると、遺骨は泰勝寺に埋葬された(当時墓石なし)ようで、その理由として「武蔵には諸国に敵が多いので遺骨を掘り起こされるかもしれないから」という、光利(まだ光尚の名乗り前)公の深謀遠慮によるものらしい。
中々面白い話ではある。 

  一、飽田郡弓削村邊に松山の月に武蔵塚あり石塔五尺七寸程
    暑さ九寸計幅下の方にて二尺壱寸計り二重臺之上の臺石
    高壱尺五寸程幅三尺二寸四方下の■ハ四尺余也将棊頭也銘に云
            正保二乙酉年
      兵法第一 新免武蔵居士之墓
            五月十九日
    右武蔵塚明白なりといへ共予曽て聞しハ武蔵死去の時
    光利公御意にして此所ハ石塔にて等して骸骨は龍田の無雙
    寺境界に葬しと云墓石なし是 國君の賢慮ゟ出たり武
    蔵事諸国に為敵人多若又尋来り死骸を堀て仇を報ん
        イてかくハ被仰付しものならん
    事を恐れさせ及ふ故也ときけり

だとすると、「徒然なか話」でご紹介されている写真が、まさに遺骨が納められているお墓という事に成る。
しからば墓石はいつだれが建てたものであろうか。また疑問が生じた。

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