津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■373年

2014-03-22 15:50:09 | 人物

 少々日にちが遅れたが3月17日は肥後細川藩初代・忠利公の命日である。寛永18(1641)年が没年だから373年となる。

                   

                   光尚に宛てた忠利の最期の書状 右のてくひゟ手なへ申計ニ候 シ(死)に可申様ニハ無之候 可心安候 以上

又病状急変の報を聞いた父三齋が、孫の光尚(当時・光貞)に送った悲痛な書状は、三齋の万端の思いを感じる。
そして、追々多くの家臣が殉死を遂げていく。周囲の冷たい目や言動にさらされて阿部弥一右衛門は日遅れて自栽したとされるが、これは「阿部茶事談」や森鴎外の「阿部一族」の影響であり、4月26日に全員が殉死したと記録されている。
阿部家についてはご存知の如く不幸な誅罰事件へ展開していく。

強烈な父忠興の許に有りながらも、名君と呼ばれるにふさわしい一生であった。
今墓所妙解寺がある北岡自然公園は桜が美しいところである。殉死者の墓に守られて室・保壽院、息・光尚公の墓を左右にねむっておられる。
遅ればせながら妙解寺を尋ねてみようと思っている。 

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■「軍陣之作法少々聞書」余滴 竹原氏

2014-03-22 11:46:41 | 人物

 昨日のブログでは、堀平太左衛門を推挙したのは 竹原勘十郎(6代・玄路)であることを書いた。
又その前に書いた「軍陣之作法少々聞書」を記したのは竹原清太夫(分家初代)である。この軍陳之作法は武田吸(ママ)松斎から清太夫の父(2代・金左衛門)が指南を受けた記録(寛永八年)である事が奥書に記されている。
その2代目について、寛永十二年の三齋の書状にその消息がある。

         以上
      切紙拝見申し候有玄(有馬玄蕃?)ゟ我等所江も使を今朝給候
      めいけんの事竹原少左衛門むす子ニて候 武田流を少左衛門               
      覚申候きとくなる儀ニて候以上
         六月七日                三齋
            越中殿 
               御返事

それ以前、寛永九年十月七日同じく三斎の忠利宛書状として、次のようなものがある。
三齋がいかに庄(少)左衛門を重用していたかをうかがわせる文書だが、これは二代庄左衛門の跡を二男・清太夫が受け継いだことを顕している。
                                                       (綿考輯録・巻二十二)            

      竹原少左衛門以之外相煩、半死半生之体ニ候、此もの心安ニ付、
      いか様之事も書せ申候処、果候へは、はたと事をかき申事ニ候、
      幸むすこ清太夫能所へ参候間、これを親ニ付て上せ申度候、左
      様ニ被申付候ハゝ満足可申候、為其申候、已上
         十月七日                三斎
            越中殿

さらに時代を遡る記事が綿考輯録にある。(第一巻・幽齋公p185) これは家祖・市蔵(墨斎玄可)についてである。

      幽齋君丹後へ被召連、慶長元年正月御児小性被召出、知行百石被下、後に庄左衛門と改候、三齋君百五十石の御加増被下、御伽に被仰付
      候、能書なるを以、幽齋君御代筆被仰付、書礼の事、故実をも御伝へ被成、呼松斎へ御相伝の御取次并写本等も仕り、一色一遊齋へも仕付
      方の弟子に被仰付候、三齋君よりも御口授等被遊、御両君御卒去以後も猶稽古不相止、隠居名を墨斎玄可と云

竹原家は阿蘇家の庶流であるが、この市蔵(後・少左衛門)は幼少期、阿蘇家65代惟種の代「不測の事」があって薩摩に逃れ島津氏に仕えた。
幽齋が薩摩を訪れた際、市蔵(9歳)なる人物の才知・能書を愛し龍伯に請い京都に連れ帰っている。阿蘇を出でて心ならずも薩摩に赴いた竹原氏が、幽齋公に出会ったことが運命的であり、偶然は豊前へ肥後へと古里へ近づけた。
 
     (1)庄左衛門・墨斎玄可   (2)少左衛門     (3)            (4)           (5)             (6)
         市蔵惟成---金左衛門---+---少(庄)左衛門)---甚十郎惟秋---市蔵惟重(惟清)---勘十郎
                         |  分家・初代
                         +---清太夫惟永              

そのご子孫は現在、武田流流鏑馬の家元として熊本で活躍されている。 

 
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■ある書状から 一石 ≒ 一両 を考える

2014-03-22 08:43:43 | 史料

 寛永十年二月廿四日付忠利宛て三齋の書状の中の一項に次のようにある。

    一、八木無之ニ付壹万石分之銀子貮百五十貫目借用有度由請取者給次第渡可申事

細川家の肥後入国は寛永九年の暮である。忠利は十二月九日に熊本城に入り、三齋は十二月廿二日に八代城に入った。
その二か月後のことである。いわゆる借金の申し込みであるが、「 壹万石分之銀子貮百五十貫目」という記述が興味深い。

当時の熊本の蔵納免率は四ツ二分八朱五厘だとされる。(森山恒雄氏・肥後五十四万石の成立 から)
金銀の両替相場がよく判らないが、江戸初期の「金1両 = 銀50目」というデータを使うと、銀250貫目は金換算すると5,000両ほどになる。
これからすると1石=1.1668両という数字が導き出される。

1石=1両とよくいうが、奇しくもこの記述でほぼ近い数字が見える。こんな記述に出くわすと謎解きにわくわくする。

ちなみに細川藩の米による一年間の総収入は、実高75万石に単純に蔵納免率を乗じると、375億円ほどという事に成る。

 

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