津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■今日の春風景

2014-03-23 22:14:50 | 徒然

今日は昼食後久しぶりに30分散歩に出てみました。
今月に入って血圧が高くて、ふらふらする状態がつづいていてちょっと足元がおぼつかないのですが、陽気に誘われて桜見物と成りました。
道端でスミレを発見してデジカメ撮影、我が家のスミレもついでに御披露・・・・ 

  

     我が家近くの老木の桜・・・5分咲といったところ                こちらは30分散歩道で              

 

  道端の野スミレ

  
  我が家のプランターのスミレ

    同上 白スミレ

                                 

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■お安く読む・ちくま学芸文庫「日本の歴史をよみなおす」

2014-03-23 10:38:37 | 書籍・読書
日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)
         網野善彦
         筑摩書房

 

内容(「BOOK」データベースより)

日本が農業中心社会だったというイメージはなぜ作られたのか。商工業者や芸能民はどうして賤視されるようになっていったのか。現代社会の祖型を形づくった、文明史的大転換期・中世。そこに新しい光をあて農村を中心とした均質な日本社会像に疑義を呈してきた著者が、貨幣経済、階級と差別、権力と信仰、女性の地位、多様な民族社会にたいする文字・資料の有りようなど、日本中世の真実とその多彩な横顔をいきいきと平明に語る。ロングセラーを続編とあわせて文庫化。
 
齢70歳を越え、少なからず歴史に触れてくると近世社会の多様性がわずかながらも理解できるようになった。
名著「無縁・公界・楽」は私の古い蔵書の内の一冊だが、建築学を収めるうえでの必読書と言われたものだが、これとて同様である。
いささか遅きに失したが、今歴史に親しんでいるとこの様な本を楽しく読めることを有り難く思うのである。
そしてお安く読めることにも又感謝である。
 
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■ある書状から 慶長五年八月一日

2014-03-23 09:33:23 | 史料

 非常に古い書状が熊本県史料「近世編第一」の「部分御舊記・御書附并御書部十六」(p689)にある。

       よろつ/\たしなみかん用候 わるき名とり候てからハかへらぬ物にて候已上
   備中よひこし道具とも遣様子とも申付候間申候 丹後江上方より人數下候由候間幽齋へうしろ
   つめとして北國通越事候 目出度本意ニ成候可入見参候 其方事中なこん殿江奉公かん用候
   岡田なと意見ニつかるへく候 色々此度遣候物とも所望かる仁候ハゝ何成とも可遣候 万事ニ
   心をつけ候 ハてハ人中成ましく候 たしなみかん用候 具ニ備中ニ申候 恐々謹言
           八月一日                 越 御判
               光(忠利)
                まいる

上記熊本県史料には見受けられないが(と思う)、遡る七月九日の書状は次のようにある。良く知られた書状である。

       尚々我々事来十七日ニこがまて必々可付候以上
   書状披見候 中納言殿十九日ニ御出馬之由候 御供仕可被出候 若又御供も難成候者夜をこ
   め二里も三里も御先へ出御陣着毎ニ御陣屋へ見廻れ候様ニ成共可仕候 かつて可為次第候
   先にてハ我々陣所へ可呼越候 謹言
           七月九日                越 忠 花押
               ミツ
                まいる 

この年の始め忠利は證人として江戸へ送られている。中納言(徳川秀忠)への忠節を盛んに説き、七月九日書状では会津攻めに出陣する秀忠にたいし、先に先に進んで陣中見舞いをせよといっている。大坂では七月十七日光の母・ガラシャ夫人が自栽している。
八月一日の段階では共にそのことは知る処であったろう。悲しみの中に在ったであろう光(忠利)に、「悪き名をとりては取返しのつかぬこと」重ねて秀忠への忠誠を説いている。そんな中にも親子の暖かい思いやりが伺える。忠利十五歳、長兄・忠隆、二兄・興秋は戦場に在って活躍している。
細川家の将来が忠利に託されるなど、この時期では思いもよらぬ事であった。 

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