津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■金峰山界隈を走る

2014-03-15 17:47:14 | 徒然

 今日は史談会の3月例会、「熊本城下の坂」を楽しく拝聴して無事終了。いつもの如く近所のホテルで昼食、その後Dr.T先生とN君と三人で道家之山、神風連の鬼丸競、加藤清正の従兄弟・中川寿林のお墓を見ようと車を走られせる。頼みはT先生の記憶力のみである。
中川寿林だけが、余りにも道路が整備されていて先生のナビゲーションが機能せず、うろうろしたものの成果なし、再度を期すことにした。

途中では放牛地蔵を二ヶ所で拝見、峠の茶屋の近くでは、見事に咲いている木瓜の花に囲まれた夏目漱石の句碑を写真撮影・・・・

                          木瓜咲くや 漱石拙を守るべく

「増殖する俳句歳時記」には、次のように解説している。
花そのものではなく、木瓜(ぼけ)という語感に着目した句だ。「拙を守る」とはへんてこな意志と思われるかもしれないが、漱石のような才気横溢した人にとっては、おのが才気のままに流れていくことは、たぶん怖いことだったのだろう。才気には、知らず知らずのうちに現実から遊離してしまうという落し穴がある。小説家にしてみれば、この穴がいちばん恐ろしい。だから、どうしても「拙を守る」強固な意志を持ちつづける必要があった。「世間には拙を守るという人がある。この人が来世生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」(『草枕』)。そして漱石ならずとも、現代人の多くはいま木瓜になるべきときかもしれない。シャープという名の小賢しさが一掃されたら、どんなに気持ちがよいことか。私が俳句を好むのも、俳人には「拙を守る」人がたくさんいるからである。とは、それこそまことに小賢しい言い方かもしれないが……。

天気が良くて汗が出るようなお天気、博識のお二人にいろいろ教えられてよい一日を過ごした。 

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■八景水谷まで船出浮きは如何・・・

2014-03-15 07:27:34 | イベント

ブログ「徒然なかはなし」に当方ブログをご紹介いただいた。 「瀬戸坂」についての説明がある。
坂の近くに「瀬戸(迫門)」つまり「海や川の狭まったところ」があったということだろう。今日、地域住民の間では常識となっているが、寺原田畑はかつて海だったという。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々とある。
大正期の地図を見ると、瀬戸坂の北の広い一帯に舟場と書かれていて、不思議に思っていたのだが大いに合点したところである。
昔は坪井川も水運で舟の行きかいも多かったのだろう。 

2008-03-02 14:35:41 のブログで綱利の舟遊びの事を書いた。 
八景水谷への出浮きは、往きは駕籠、帰りは舟であったらしいが、その舟は前日高橋から坪井川を登らせたというから流石である。なにせ殿様がお乗りに成る御座船は並の大きさではなかったろうし、御供の人達の為にも何艘かの舟がお供をしたことであろう。さすが殿様のなさることはスケールが違う。

八景水谷は熊本市の水源としても知られる場所である。西側を坪井川が流れ、先にかいた瀬田の井樋から取り入れられた白川の分流・堀川が八景水谷を挟むように東を流れ、八景水谷のすぐ南側で坪井川に合流している。当時は水量も多く、水深も深かったのであろう。当時の流れが現在と同じであったかどうかはわからないが、内坪井に至るまでの流れはそう変わってはいないのではないか。当時は内坪井で大蛇行していたが、これは人工的なものだという。現在時折熊本城の長塀下あたりで、イベントとして船を浮かべたりしているが、いっそのこと八景水谷まで登られては如何だろうか。

どなたかこのブログを見て「やってやろうじゃないか・・・」という、酔狂な人は居られないだろうか。 

 

 

コメント (1)
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