津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■是は何事・・・・ 中根市左衛門のこと

2014-03-26 19:12:43 | 人物

 いつごろの事か判らない光尚にあてた忠利の次の様な書状がある。内容はこの文章のみである。(熊本県史料・近世編一 p433)

         一筆申候 中根市左衛門事御前相済候哉南光坊へ被
         相尋様子早々可被申越候為其如此候 恐々謹言
                                越中
             十二月廿(日)            忠利 御判
                 肥後殿
                    進之候

 光尚が肥後守を名乗ったのは寛永12年7月23日、この日から忠利が亡くなる同18年3月17日の間の出来事である。
「御前相済」とは一体何事なのか、御前といえば将軍家としか考えられない。

中根家については、ここでも何度か取り上げその出自について調べてきた。 

            
細川家家臣・中根氏
            
細川家家臣・中根氏・・2
            細川家家臣・中根氏・・3
            細川家家臣・中根氏・・4

その出自については、HNぴえーるさんや HN代書屋さんに大変貴重な情報をいただき、その先祖が織田信長の弟(中根忠実)につながることが判った。
そんな家柄からすると将軍家の御前へ伺候する事も有りうるのかもしれない。それゆえ忠利の心配ぶりが理解できる。

その真実とは何か・・・・解決の資料を見つけ出すのにまた相当の時間を要しそうである。 


 

            

 

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■加藤清正の出自と家紋

2014-03-26 08:37:11 | 史料

                                          

  東京大学史料編纂所に「美濃国諸家系譜」というものがある。ここに加藤伊勢守光高を家祖とする加藤清正の系図がある。家紋を虵(蛇)之目と記す。
肥後加藤家は蛇の目紋と共に桔梗紋もあわせて使っているが、これは讃岐城主・尾藤知宣の没落に伴い、武具一式を受け継いだことによるとされる。
この説明には少々舌足らずの処がある。そもそも加藤氏は土岐氏であり以前から桔梗紋を使っている。
尾藤氏没落の時秀吉の許しを得て、加藤家と同じ桔梗紋が施された武具その他を受け継いだと解するべきであろう。

                光高---光虎---虎時---義時---正時---正吉---頼方---清方---清信---清忠---清正

加藤頼方という人物について次のようにある。
                                             

 土岐郡明智城主明智頼常の四男頼方が正吉の婿養子として加藤家に入り、土岐氏の桔梗紋を蛇の目紋と共に使い始めた。
清正は頼方から四代目の孫ということになる。
祖父・清信は若くして死に、ときに五歳であった父・清忠も35歳で亡くなっており、清正を語る時このような正統の出自に触られることがない。

関係する機関のホームページなど、加藤家の出自・桔梗紋使用の由来など正確な紹介をお願いしたいものである。
尾藤家の武具を譲り受け、その桔梗紋が加藤家の紋となったという誤った認識は大間違いである。 

 

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■肥後天草--富岡藩主・山崎家治

2014-03-26 07:38:00 | 人物

 寛永16年のものと思われる、卯月廿七日付山崎甲斐守宛ての忠利書状がある。天草島原の乱後、肥後天草の富岡藩主となったのが山崎甲斐守・家治である。
赴任早々切支丹狩りなどを行い四五人を捕まえたことや、城の修復にかかる苦労などを称えると共に、江戸の情報を伝えたりしている。(熊本県史料・近世編1 p206)
家治は中々の能吏であったらしく、父親の若桜藩(30,000石)を継ぎ、成羽藩(35,000石)から富岡(40,000石)へと移封を重ねる毎に加増されている。荒れ果てた富岡の復興や、城の修復、離散した農民の帰参に尽力し、その功が認められて丸亀(53,000石)藩主となっている。室は池田長政養女(長吉・女)、継室は木下勝俊女である。 


家治の父親の家盛は、攝津三田の城主で慶長五年には西軍に在って、幽齋がこもる田邊城の攻撃陣の一人として働いた。
代々播磨の池田家との婚姻関係がある。家盛などは西軍であったにもかかわらず、岳父・池田恒興のとりなしも有って加増されて初代・若桜藩主と成っている。
祖父は片家、その妹は加藤清正の糟糠の妻、弟は清正の養子と成り後に離縁となった百助である。ウィキペディアを見ると、その妻は明智光秀女とあるが、これは確認のしようがないでいる。

まさに戦国の荒波を乗り越えて名を成した山崎家だが、数代後継嗣たる男子が早世し絶家した。傍流が旗本として明治に至った。

加藤清正に係る家柄であり、田辺城攻撃の一員であり、天草富岡の復興に尽力した人であり山崎家の存在は忘れがたいものがある。

 

                 志摩守      左馬允     甲斐守
       +---片家-------家盛-------家治

      |
       +---- ●
      |   ∥
      | 加藤清正===百助
      |          ↑
       +---百助-------・ 

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