津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■無くなった段山の姿は・・?

2022-03-23 08:04:47 | 熊本

 先の史談会の跡、U様が「槙島坂の位置は何処か?」とお尋ねがあった。
「槙島さんの屋敷前の坂」であるのは承知しているが、現在はどうかと言うとなかなかその場所ははっきりしない。
その槙島さんの屋敷が記載されている絵図は少なく、熊本市史の地図篇の「二ノ丸之絵図」に登場する。
八旛宮(藤崎宮)の目の前である。そこに片山邸と槙島邸がある。のちにはこの二つの敷地が「片山邸」になった。
いわゆる段山(だにやま)と熊本城域がくびれたあたりに薬師坂があり、その先にこの槙島坂が北の本妙寺田畑へ至る陣橋へ下りていた。
熊本城域から舌状に伸びるこの「段山」と言うところは、一段下がった小高い丘陵地だったと思われる。
7~8mくらいの高さでスロープ状で島崎地区に下っていたのだろうと考えているが如何だろう。
このくびれ部分が後に開削されて、現在路面電車が走り、片岡・槙島邸の西側にはJRが通っている。
故に薬師坂は藤崎台童園に上る道で右手に藤崎台球場がみえる。その先に駐車場が広がりつながっているはずの槙島坂は現在は存在しない。

 その片山邸は西南戦争の際には、この場所に官軍の砲台が置かれ、攻めあがってくる薩摩軍と大激戦の地となった。
桐野利明は鎮西鎮台(熊本鎮台)の司令長官として熊本に明治5年に赴任し熊本城には詳しかった。
薬師坂も槙島坂もここを破られると二の丸方面へ薩摩軍の侵入を許すことになる。
かっては薩摩藩の人々が、参勤で利用した脇街道であり、かって知ったる場所であったろうが、「簡単に破る」と豪語した桐野のも方策が付き、清正が作った名城は破られることはなかった。
改めてこの坂道や、大激戦が行われた段山をよく理解しなければと、古地図や大正初期の都市計画図、ゼンリン地図、WEBの国土地理院地図で断面図で眺めたり、グーグルアースで眺めたり、大掛かりな地図散歩であった。

 人の上げ足を取る訳ではないが、熊本城おもてなし武将隊のブログに写真付きで槙島坂が紹介されているが、残念ながらこれは間違いではなかろうか。この立派な坂は何処だろう、そちらの方が気になっている。
また、あのGoogleさんの地図も間違いを犯していた。ほつともつと熊本店の裏手にある坂道に槙島坂の書き込みがあった。
いまはない段山の姿はどういうものであったろうか、今後の課題としたい。
写真など残っていないものかと思うのだが・・こんなことをしていたら、昨日はほとんど一日を過ごしてしまった。

                         

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