津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

地図で散歩

2008-02-26 09:17:41 | 歴史
 江戸期の地図を睨みつけているが、現在地を確認しようとすると中々分かり辛い。コピーをして赤鉛筆で現況道路を落としてみると、いろいろ面白い発見が出来る。
あちこちに点在するお寺は、まったく位置を変えていないから、これを元にゼンリン地図とにらめっこしながら確認していく。川の流れは後の改修により随分位置を変えている。あちこちにめぐらされていた堀は埋め立てられた。現在のNHK放送会館下の坪井川の流れは大きく東に蛇行していたのだが、直進化して跡の土地はすっぽり熊本大学附属幼稚園の敷地になっている。近くに行き詰まりの道があるが、かっては其の先は改修前の川につながっていたことによる。宮本武蔵旧邸の川を挟んで東側や、信愛女学院西側に不思議な狭い三角地が残っているが、道路が拡幅されたさいに残された江戸期の道路とに挟まれた残地である事がわかる。

 無茶飲みをしていた頃通っていた飲み屋街は、かっては藩主のお屋敷・御花畠裏手の、追廻の馬場やそれにつながる田圃が埋め立てられた場所で、追廻田端(畑)町という名前が一時期あった。ギターが得意なマスターが「ああー霧に咽ぶ・・下追廻田端町」と、下らない歌詞で即興の歌を歌っていたのを思い出す。町の名前の講義を受けてそれが今役立っている。

 地図での散歩は数時間に及んだ。暖かくなったらこの地図を手に実際歩いてみようと想っている。そして各家の場所を侍帳に書き写す作業に入った。
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細川家臣・佐久間角助

2008-02-26 08:11:05 | 歴史
 佐久間盛政・勝之兄弟の弟だとされる佐久間角助は、加藤家侍帳に並川志摩守与力・佐久間角介(五百石)と記載あり、「熊本県史」に佐久間角助(正頼)宛 清正判物二点が紹介されている。細川家資料としては、寛文四年六月・御侍帳に「長岡帯刀組 七人扶持二十石」という記載で初見される。

さて今般、細川家文書・御印之物より、次のような物を見つけ出した。

  有馬にて討死仕候牢人衆妻子ニ被下候御扶持方之事
     一、七人扶持方 佐久間角助跡
          角助せがれ  佐久間藤七
          同人女房
          同人姉
     (大西弥左衛門尉・柴田吉左衛門に関する記述略)
      右之前永被為拝領 御印被仰上可給候、已上
         寛永拾五年四月廿一日 tadatoxi(忠利印)  
                       有吉頼母佐(花押)

 この文書からすると、角助は牢人として嶋原の乱に参加して戦死し、倅藤七に御扶持が与えられた事が分かる。藤七がのち名前を改め角助と名乗ったのだろう。

熊本県史料・解題に於いては「佐久間氏は平姓、太々良四郎義晴の嫡子家村のとき、安房国朝比奈郡佐久間村に住し、佐久間太郎と称した。その子孫勝之は、佐々成政の壻養子となり、関ヶ原役後信江常三箇国のうち一万八千石を賜り旗本列に列した。所傳の二・三号文書は、勝之の弟正頼(角助)に與えられたもので、正頼は慶長五年清正が大友追討の軍を起こしたとき、その先鋒に加わり、宇土城攻めの功によつて五百石を與えられた。子孫は細川家に仕えた。細川氏肥後入国後百二十人扶持で召し出され、のち三千石を領した佐久間半之丞は正頼の子であろうか(以下略)」と紹介されている。

 「細川氏肥後入国後百二十人扶持で召し出され」 と 「せがれに七人扶持」では、随分話が違う。
さて又、先祖附をコピーしに出かけねばならない(今日は休館日だー)

 

 
 
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