江戸町奉行を勤めた、嶋田利正という人が居る。
徳川秀忠に仕へ慶長九年使番。慶長十八年江戸町奉行。寛永二年正月従五位下彈正忠。寛永十二年剃髪して幽也と稱す。五千石。寛永十九年九月十五日歿。年六七。
寛永八年利正は「小便通不申候ニ付、くるしみ被申候」状態になり、「小刀にて腹を切り被申候」と忠利は国許に伝えている。十月二十八日の書状でそう報告したのだが、十一月十九日の書状で改めて報告をしている。「小便通シ不申候故、主とありのわたりをは針にてきりあけ被申候へハ、それより小便通シ、事之外よく御座候」とある。そして腹を切ったのは「偽にて」と前便を訂正し、「然とも、小便の通シ覚無御座ニ付而」公儀からは二度とは「不成儀」と多分お叱りを受けたのだろう。「ありのわたり」とは前と後ろの排泄器官の間の部分をいうが、此処を針で切り明けたというのだから、凄い話しでは有る。寛永十八年まで長生きしたところによると、この荒療治功を相したのだろう。笑ってしまう光景だ。
細川藩士・某は、奥方の病を治すべく自ら治療に当たった。なんと咽喉に針治療をしたというのだ。こちらは「お奉行様」のようにはいかず、手元が狂って少し深く入りすぎてしまった。結果は奥方を失ってしまうのだが、どういう処分が成されたのか定かではない。
細川家史料にしろ、日帳にしろ「病」や「薬」そして「治療」にかんする記述が非常に多いことに気が付くが、「なんとかお医者様に行かれたが良いのではないでしょうか」
徳川秀忠に仕へ慶長九年使番。慶長十八年江戸町奉行。寛永二年正月従五位下彈正忠。寛永十二年剃髪して幽也と稱す。五千石。寛永十九年九月十五日歿。年六七。
寛永八年利正は「小便通不申候ニ付、くるしみ被申候」状態になり、「小刀にて腹を切り被申候」と忠利は国許に伝えている。十月二十八日の書状でそう報告したのだが、十一月十九日の書状で改めて報告をしている。「小便通シ不申候故、主とありのわたりをは針にてきりあけ被申候へハ、それより小便通シ、事之外よく御座候」とある。そして腹を切ったのは「偽にて」と前便を訂正し、「然とも、小便の通シ覚無御座ニ付而」公儀からは二度とは「不成儀」と多分お叱りを受けたのだろう。「ありのわたり」とは前と後ろの排泄器官の間の部分をいうが、此処を針で切り明けたというのだから、凄い話しでは有る。寛永十八年まで長生きしたところによると、この荒療治功を相したのだろう。笑ってしまう光景だ。
細川藩士・某は、奥方の病を治すべく自ら治療に当たった。なんと咽喉に針治療をしたというのだ。こちらは「お奉行様」のようにはいかず、手元が狂って少し深く入りすぎてしまった。結果は奥方を失ってしまうのだが、どういう処分が成されたのか定かではない。
細川家史料にしろ、日帳にしろ「病」や「薬」そして「治療」にかんする記述が非常に多いことに気が付くが、「なんとかお医者様に行かれたが良いのではないでしょうか」