津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

おことわり

2008-02-05 20:10:01 | 歴史
 「大日本近世史料・細川家史料 人名索引」は、一時期閉鎖させていただきます。この企画は私がまったく独断により、東大史料編纂所発行の「大日本近世史料・細川家史料」全20巻の巻末に有ります「人名一覧」の、第二巻から十一巻をまとめたものです。事前に東京大学史料編纂所のご了解を得たものではありません。今般ご連絡をいただきご注意をいただいたところですが、大変好意的なご配慮をいただき、一部加筆をして再度アップしたいと考えております。

 現在、東京大学史料編纂所のホームページでは、近世史編纂支援データベース(下の方に有るデータベース選択画面から入る)において、大日本近世史料・細川家史料の第一巻から第十六巻までの分については、人名検索をすることが可能になり(書目・細川家史料、検索・対象索引型)、通巻の巻号も一覧でき本文の画像を見ることが出来るようになっています。大変ありがたく嬉しく思います。皆さんにもご活用いただきたくご案内いたします。
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ウフィツィ美術館

2008-02-05 13:42:47 | 徒然
「イタリアのフィレンツェにあるイタリアルネサンス絵画で有名な美術館である。1591年より部分的に公開されており、近代式の美術館としてヨーロッパ最古のものの1つである。またイタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大のものである。1982年に世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として認定されている。メディチ家歴代の美術コレクションを収蔵する美術館であり、イタリアルネサンス絵画の宝庫である。」(『ウィキペディア』より引用)

 日本の美術品は、浮世絵以外は収蔵されていないとされるここウフィツィ美術館に、熊本在住の版画家「浜田知明氏」の作品が収蔵される事になった。
      www.gallery-ritchie.com/artist/hamada_timei.html
      home.att.ne.jp/sea/hiro-g/chimeihamada-jp.html

 私が若い頃よく通ったスナックバーがある。先年店じまいをしてしまったが、そこに飾られていたのが浜田知明氏のエッチングだった。不思議な魅力有る作品ですっかり気に入ってしまった。機会あるごとに作品を鑑賞したし、作品集などでも親しんできた。今般のニュースを聞いて凄く嬉しい。ボッティチェッリ、レオナルドダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロらイタリアルネサンスの巨匠の絵画等に交じって収蔵されるのだ。一フアンとして大感激である。

 
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藩校時習館・・2 二代教授・藪孤山

2008-02-05 11:07:11 | 歴史
薮孤山 名は愨、字は子厚、茂次郎と称す、号は孤山又は朝陽・慎庵の次子、博く經史に渉り詩文を善くす。藩命を以て江戸及び京都に遊学し、諸学士と交る。業成りて時習館訓導となり、助教に進み、遂に第二代の教授となり、学政を管すること四十年。時に館中老師宿儒大半異学の人、孤山程朱の学を奉じ、周旋宜しきを得、特操を失はず、程朱の学遂に大に藩中に行はる。而して孤山は別に家塾を建てて教授す。来学の者日に多く、隣藩の教授其塾を出たる者多し。(一部略)人を教ふる各々其才の長ずる所に従って器をなす。故に門下の士或は徳行を以て、或は政務を以て、或は經術を以て、或は文学を以て顕はる。其教授を受けし、島田嘉津次、遠坂関内は国老となり、松下久兵衛、服部多門は奉行となり、脇儀一郎、宮田玄雅、大城準太ハ助教或は訓導となる。享和二年四月廿日没す。享年六十八。本妙寺山中(花園市営墓地)に葬る。(角田政治著・肥後人名辞書による)

薮慎庵 名は弘篤、久左衛門と称す、初め震庵後慎庵と改む。別に定軒、京山人、山陽散人の号あり。細川候に仕へ食禄三百石、鉄砲頭を務む。少より書を讀み、程朱の学を崇尚し、大野退野と往来講究し、頗る精奥を極む。此外菅野考間、中瀬柯庭、氏家復斎、牧確斎(慎庵の五畏友也)等と交る共に一藩の與望なり。嘗て江戸二抵役し物徂徠に文辞を質問す。其学術に至りては之を疑ひて終に従はず。(一部略)慎庵学実践を主とす。徒に文籍に耽り、実行なき者は斥けて学に入るの人に非ずとす。人と交る苟も合はず、学術操行に於て意の庵ぜざる時は、直に書を贈りて交を絶つ。延享元年三月廿九日没す。年五十六。熊本市本妙寺山中(花園市営墓地)に葬る。長子市太郎(槐堂)次子茂次郎(孤山)共に宝暦の改正に力を致し高名の人なり。其他の子女皆出群なり。( 同上 )
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藩校時習館・・1 初代教授・秋山玉山

2008-02-05 10:49:35 | 歴史
秋山玉山 名は儀、字は子羽、儀右衛門と称す。玉山は号なり、医を業とす。細川藩鶴崎の人、本氏は中山、秋山需庵の養子となり、医を業とす。三浦梅園、水足屏山に学び、博く群籍に渉り学業大に進む。細川宣紀、東髪□業を命じ、江戸参勤に随行せしめて林家に入学せしむ。林氏病に當りては聖堂に於て代講せしむ、人以て栄誉となす。宣紀逝去の後国に帰り、家中の子弟に指南を命ず、業を受くる者甚多し。既にして侍讀を命ず。宝暦四年重賢時習館を建設す。玉山に命じて教授となす。時習館最初の教授なり。学規章程を始め諸規則を制定し、門弟其他の学士を挙て教職に補す。是に於て熊本の学風大に興り、人材排出して文化諸藩に冠たり。宝暦十三年十二月十一日歿す。歳六十二。黒髪町小峯に葬る。(角田政治著・肥後人名辞書より)
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