地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

高市氏「捏造」発言

2023-03-16 04:31:22 | Peace Cafe


 高市早苗氏が総務大臣の時に、テレビ局が政府批判を繰り返しているとする安倍晋三氏の意向に従い、特定の放送局を停波する可能性を国会で答弁した。その発言があった頃からテレビ局は、報道機関としての批判精神を失っていった。

 同時に自民党から、企業にCMを止めるように圧力をかけていた。偏向報道など、CMを出さないといってテレビ局に圧力をかけさせた。NHKには安倍内閣の人事操作により、右翼的な人物を会長職に就けて、番組の担当が変わった。

 どのテレビ局もまともな批判精神を失った。テレビ報道に不可欠な批判精神がなくなることで、自民党一党支配が確立されたのだろう。そして日本人全体がは批判精神という活力を失い、台湾や韓国に経済で追い抜かれる、停滞国家になったと考えて良い。

 日本人は牙を抜かれて戦わなくなった。総評の会長の吉野氏は自民党支持者になったようだ。ストライキなど考えられないだろう。賃金は上がらなくなった。それでも労働組合の不安は聞かない。牙がない組合だから、無事が一番と考えているのかもしれない。

 この状況にいたっても、テレビ報道は相変わらず忖度報道に終始している。その結果いつの間にかテレビというものを見ないように成った。見たいような番組もないし、見る必要が無いからである。特に報道番組というものはまったく見ない。

 久しぶりにテレビで見たのはWBCぐらいだ。野球が久しぶりにおもしろいと思った。大谷のホームランで疲れが取れた。相撲も今やっているが、これも見ていない。みたい取り組みをユーチューブでみる。そうだ朝の連続小説はご飯を食べながら見ていた。

 高市氏がテレビ局に圧力をかけていたのは、明らかな事実だ。何を今更国会で「捏造」などと叫んだのかである。高市氏には捏造であると確信できる事実があったのだろう。おそらく文章には改ざんがあるのだ。しかし、当時の総務大臣として、その当たりを表明することが出来ないのだろう。

 総務大臣に対して総務省の官僚が腹を立てていたのだ。まだ増しな官僚がいるということだろう。いつか高市氏が総理大臣を狙う頃に使ってやろうと考えて作られている。ただ、その内容は高市氏を頼とんでもない人間に読めるように創作されたのではないだろうか。

 本来の高市氏であれば、偏向テレビ局など、何度でも潰してやると言うところだろう。問題はこの文章が総務省から出たところである。総務省も公文章である事を認めている。それがどういうルートで出されたのかも、すでに高市氏は気付いているはずだ。

 さすがに官僚の中に高市氏の報道への圧力に腹が据えかねた人間がいるのだ。安倍氏の後ろ盾を失い、様々なところに膿が吹き出している。五輪汚職や統一教会問題。トライベイ・キャピタル社の三浦清志容疑者の問題。秋本真利外務大臣補佐官の献金問題 。

 不思議なのは高市氏が「捏造」と叫んでしまったところである。たぶんこの総務官僚から出た文章には改ざんがあるのだろう。改ざんが分かるから捏造とした。この場合の答弁は高市氏は偏向しているテレビ局には問題がある。という持論を主張した方がまだ良かったのではないだろうか。

 自民党の中の勢力争いが起きているのだろう。安倍派にはいまだに後継者が居ない。アベ派を統一する後継者が現われず、分裂が起こるのだろうとされていたが、安倍氏不在のまま派閥は継続されている。継続されながら離脱者も出ないまま8ヶ月である。

 最大派閥を集団態勢で維持することが、岸田氏への圧力にもなると考えているのだろう。安倍派自体が思想集団ではない。強い者にしがみついて居ればそんがないという人達のはずだ。アベ記念幼稚園は国会にあったのだ。アベチルドレンと呼ばれている。

 奈良県知事選は二階俊博元幹事長に近いとされる現職と、県連会長の高市早苗氏に近い新人のどちらを支援するかで、県連内が二分しているらしい。この辺りの事情からすると、二階氏の捏造文章画策事件の背景にいる可能性を感じる。

 また岸田氏アベ派の意向を忖度している。そもそも総理大臣になれば、派閥の長は降りるのが慣例であるが、岸田氏は派閥の長のままである。高市氏の追求は次の総理候補という立場から下ろす事が出れば良いと言うことなのだろう。稲田朋美氏も同じであった。

 あのトンデモ差別議員の杉田氏も同様である。右翼の支持を得て議員活動をしている女性議員は、持ち上げられている内に制御不能になったら、何かの場面で足をすくわれることになる。いい加減にしないとこういうことになるという見せしめのようなものかも知れない。見えない怖い力を感じるところである。

 日本の政治がいかに古くさい形で動いているのだろうかと思う。政策の違いなどではなく、利害関係だけで動いている。報道の偏向を問題にするのであれば、堂々とそのことを議論すべきである。それを人事やCMの圧力で変えてしまうところが社会の公正の足をすくうやり方だ。

 しかし、日本ではそういうやり方の方が、社会を動かしているのだ。石垣島の自衛隊誘致の中山市長もまるで同じ手法だ。ともかく土木工事は金になると説得したのだろう。自衛隊が出来た場所にも元々ゴルフ場があったのは、宮古島と同じだ。宮古島ではそのことで市長が逮捕された。石垣では逮捕はされていない。

 政治家がまともな議論を出来ないのだ。議論が出来るのであれば、きちっと自衛隊基地の必要性を議論すれば良いだけのことだろう。その上で住民投票をやればいいではないか。中国の脅威論など大いに語れば良いだろう。安倍晋三だってきてくれたかも知れない。

 国会が議論の場に少しも成っていない。学術会議メンバー問題も結局は学術会議そのものを変貌させようということだったわけだ。それならば学術会議そのものの意味を問えば良いはずだ。それを人事で始めるという手法が最低である。スガ氏の不愉快さは今も続いている。

 こうした姑息な手段がいかにも自民党の政治手法を感じさせる。政治は政策が議論され、決められて行くように変わらなければならない。国会で政府が提案し、それを野党が批判する。そのやりとりを見て国民は次の選挙行動を決める。それが健全なことではないか。

 その意味で、テレビ局は批判的な視線を持ち続ける必要がある。政府の希望する情報を垂れ流すのでは、報道とはいえない。中国のような報道規制は論外だが、日本のように自由な報道に見せかけた、政府を忖度する報道では、国民を洗脳することになるのだからさらに問題が大きい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウクライナ戦争停戦の可能性が

2023-03-15 04:02:35 | Peace Cafe


 国連は、2月24日の第11回緊急特別会期の総会において、ロシアの戦争犯罪に対する「公正で独立した調査と訴追」の必要性や「露軍の即時・完全・無条件の撤退要求」などを盛り込んだ決議を採択した。この採択には戦争は終わらせろという、世界の思いが表れている。

 全加盟国193か国のうち141か国が賛成し、緊急特別会期の総会で重要問題の採択に必要な投票の3分の2以上を確保した。ロシアやベラルーシ、北朝鮮など7か国が反対したらしいが、困った国だ。中国やインドなど32か国が棄権した。

 この時期に併せたように、習近平のロシア訪問が発表された。ロシアは軍事支援を期待して、習近平のロシア訪問を要請していた。中国はロシアに武器提供ではなく、和平を進めるつもりなのだろう。中国がロシアの停戦を促すことが出来れば、中国のアフリカ諸国などの支持は高まるはずである。

 習近平がロシアに出向くと言うことは、平和停戦の方向性が導き出せる可能性を見ていると考えて良い。中国の外交部は、停戦や和平交渉の再開など12項目からなる「ウクライナ危機の政治的解決に関する中国の立場」と題する文書を公開した。良く出来ていると思う。

 アメリカは評価していないが、これは一つの提案としては価値があると考えるべきだ。この文章に基づき、プーチンに和平を推進するように説得すると言うことになる。プーチンと会った後、ゼレンスキーとの電話会談も予定されていると言うことだ。成功を祈る気持ちだ。

①各国の主権の尊重:国連憲章の趣旨と原則を含む、公認された国際法を厳守し、すべての国の主権、独立、領土の完全性を適切に保証する。
②冷戦思考の放棄:地域の安全が軍事ブロックの強化によって一国の安全が保障されることはない。
③停戦、戦闘の終了:紛争に勝者はいない。
 各当事者は理性と自制を維持し、火に油を注がず、衝突を激化させず、ウクライナ危機をさらに悪化させたり、制御不能となることを防止し、ロシアとウクライナが互いに歩み寄ることを支援し、可能な限り早期に直接対話を再開させ、徐々に事態の沈静化と緩和を進め、最終的に全面停戦を達成すべきである。
 早急に直接対話を再開し、最終的に全面的な停戦を達成することを支持する。
④和平交渉の再開:対話と交渉は、ウクライナ危機を解決する唯一の実行可能な方法である。危機の平和的な解決に資するあらゆる努力が奨励され、支援されるべきである。
 また、国際社会は和平を促し対話を促進するという正しい方向を堅持し、紛争の各当事者が危機の政治的解決への扉をできるだけ早く開くことを助け、交渉を再開するための条件を整え、プラットフォームを提供すべきである。
 中国はこの点で引き続き建設的な役割を果たす。
⑤人道的危機の解消:人道危機の緩和に資するすべての措置が奨励され、支援されるべきである。
⑥民間人や捕虜の保護:民間人及び民生用施設への攻撃を避け、女性や子供などを保護し、捕虜の基本的権利を尊重する。
⑦原子力発電所の安全確保:原子力発電所などへの武力攻撃に反対する。
⑧戦略的リスクの低減:核兵器の使用および使用の威嚇に反対する。
⑨食糧の外国への輸送の保障:ウクライナ穀物輸送の履行
⑩一方的制裁の停止:国連安保理の承認を経ていないいかなる一方的制裁にも反対する。
⑪産業・サプライチェーンの安定確保:世界経済の政治化、道具化、武器化に反対する。
⑫戦後復興の推進:中国はこれに助力し、建設的役割を果たすことを望んでいる。
 
 中国が全面的にロシア支持を打ち出すことは不可能である。ロシアの侵略が国連憲章の精神から完全に逸脱している。中国は常々、国家主権や領土保全を国連憲章に基づき、重視するとしてきた。その従来の中国の立場とも合致しない。

 ロシアはウクライナ東・南部4州の占領地域で住民投票を実施し、4州の併合を宣言したが、新疆ウイグル自治区や台湾問題という、中国は深刻な独立問題を抱えている。中国にとっては受け入れられる話ではない。台湾もウイグル自治区も、住民投票では、独立を主張するのははっきりしている。

 ロシアは強力な経済制裁を受け、国際的にも孤立し影響力が低下していくことは明らかになっている。ロシアに武器を提供するなどして、ロシアと歩調を合わせることは、中国への経済制裁が始まると言うことになる。中国は避けなければならないことと考えているはずだ。

 中国にはロシアとの関係を強化しておきたい理由がある。中国にとって、米国と戦略的競争を展開するためには、ロシアとの安定的な協力関係が不可欠である。また、中国とロシアは共に米国から強い圧力を受けており、ウクライナ情勢への米国の「介入」は中国にとっても他人事ではないと受け止められたのであろう。さらに重要な点はロシアとの経済関係である。ロシアが世界から経済封鎖される中で、中国は独占的に経済関係を持てる有利さがある。

 以上の状況を考えてみると、習近平はプーチンに武器提供は出来ないと考えているだろう。そして、ゼレンスキーにプーチンに停戦を求めるから、ここまでは譲れと言うのでは無いだろうか。このまま、ロシアの侵略が続けば、ウクライナ側も西側の武器援助を受けて、反撃能力が高まるはずだ。

 アメリカが今回の和平提案で納得するかどうかである。習近平の提案は全面的とまで言えないとしても、一定評価されるべきものだろう。この機会にアメリカが譲れるかどうかが大きい問題と思われる。アメリカがゼレンスキーに和平を進言できるかである。

 アメリカの本音は戦争が長引き、ロシアが疲弊するのを待ちたいのだろう。しかし、中国とインドが、ロシアとの経済的関係を強めるとすれば、ロシアへの経済制裁の効果はどこまでも限定的にならざるえないだろう。経済戦争のダメージはヨーロッパが一番影響が強いはずだ。

 NATOは戦略上ロシアの弱体化を望んでいるだろうが、これ以上長引くことも各国の国内事情から出来ないだろう。そろそろ、和平の時が来ているような気がする。それを踏まえて、習近平はロシア訪問に踏み切ったと思う。何とか和平が実現してくれるように祈っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

のぼたん農園で井戸水が出た。

2023-03-14 05:06:42 | 楽観農園


 今年の石垣島では水不足が前例が無いほどらしい。この小雨傾向というものも、実は石垣島全体ではない。家のある島の東側はまだ雨がある。石垣島には中央に於茂登岳を始め、500mほどの山が連なっている。島の気象はその山のにし東で、まったく違ってくる。

 島の東側で雨がふる時は案外西側では雨が降らない。島全体が雨降りになるときは案外少なくて、島のどこかで雨でどこかでは晴れていると言うような日が多い。もちろん島全体が雨の日もあるし、島全体が晴れているという日もないわけではない。

 晴れていると思っていても、突然の強い雨が振り出すと言うことも少なくない。そういうときにここは亜熱帯なのだと思う。スコールである。強い雨がひとしきり降り、また強い陽射しに戻る。雨は良く降ると思うが、案外台風以外の雨量は少ないのかも知れない。

 この島特有の天候を上手く把握しておかないと、石垣島で農業は出来ないだろう。その意味で、天気予報というものはほとんど役にな立たない。それでも農業をやる以上天候の様子は十分承知していなければならないので、毎日天気雨雲レーダー予報は色々調べる。

 それにしても水不足で、農業用水を汲みに行っている。200ℓで10円である。10円玉が何枚あっても足りない。みんなが10円玉を出し合っている。麦は雨がなくてもまったく良いようだ。生育は調子が良いようだ。これで収穫の頃になると案外雨が続くのかも知れない。

  ユンボを借りることが出来たので、ユンボがなければ出来ない作業を片付けている。果樹園の排水処理。水が溜まるところがあったので、水が溜まるところを解消した。と言っても水がないのだからこれで解消できたのかどうかは分からない。

 果樹園の上には田んぼを作りそこから水がやれるようにしてある。根付いてしまえば水も今ほどは心配のだろうが、植えて一週間だが毎日水遣りをしている。名札を見ながら楽しんで水遣りをしている。水遣りが終わる頃にはどの果樹がどこにあるか覚えることだろう。

 3番田んぼへの入水管も敷設した。3番は直接水の行く入水管が無かった。2番に入れた水が、回って3番に行くようになっていた。どの田んぼにも水が入ってしまえば、何とか水は回って居たのだが、水がここまで少なくなると、微調整が必要になるので、直接の塩ビ管を敷設した。

 水道管の道路下の敷設も行った。200m露出で配管しているのだが、道路を横切らないとならないところもあり、そこは道路の下を通さなければならなかった。道路は堅く固められているので、とても手で掘れる状態ではなかった。ユンボがあるのでなんとか地中を通した。

 地中を通した水道管は牧場の方にまで延びて、水牛の水やり場まで引き、バスタブの水遣りへ水が入るようにしたい。以前は自動給水を考えたが、毎日水牛を見た方が安心なので、普通の水道の蛇口を付けることにした。水遣りをしながら水牛の様子を確かめている。

 大抵は寄ってくるので、その時に鼻に付けてある紐を引っ張ってしばらくぐるりと歩く。時々紐を引っ張って従うことを確認している。家畜は余りにほって置くと、働かなく成ってしって人の言うことを聞かなくなる。働いて人の役に立つことを喜んでいる。

 家畜はいやいや仕事をさせられているわけではない。水牛のコロバシャだけでなく仕事を考えてやらないとなら無い。黒糖絞りが良いかと思う。ぐるぐる絞り器の回りを回って、黒糖を絞るようにしたいと考えている。やいま村では水牛の黒糖絞りが行われているらしい。

 のぼたん農園でもやりたいものだと思っている。水牛のワカバは先日宮良小学校に主張して、子供達と黒糖絞りをした。子供達が水牛を引いて、黒糖を絞った。あんな風に農作業を家畜が行う姿を残したいものだと思う。石垣島の水牛文化も100年を超えている。

 ユンボでもう一つやったのが、バイオガス装置に水が流れ込まないように土壌の均しをした。上の道路から落ちてくる水が、バイオガス装置に流れ込んでいた。バイオガス装置が水で浮んでしまっては壊れてしまうので、水が入らないように直した。

 この辺りも、土壌が堅く固められているので、とても人の力では無理だった。そこで周辺を平らにして水道を掘った。何とか出来たのだが、これも雨が降ってみないと水がどうなるかはまだ分からない。まだ流れ込むようなら今度は手作業でも何とか出来るだろう。

 ユンボがある内に、やりたい作業はまだある。のぼたん農園の回りの柵をワイヤーメッシュで補強する。現在バラ線で出来ているのだが、これにワイヤーメッシュを貼り付けて、水牛が外に出ないように補強する。動じにこのワイヤーメッシュは、イノシシの侵入も防ぐものになる。

 ワイヤーメッシュが張れるように少し整備しなければ、成らない場所がある。特にアダンのある当たりはアダンが柵のこちら側まで来ているので、一度アダンを片付けないと、ワイヤーメッシュを張ることが出来ない。アダンはユンボでなければかたづけられない。アダンの中が、イノシシの隠れ家になっている。

 この作業は私には少し困難かも知れないが、やれる場所だけでもかたづけたい。もう一カ所水が出そうな場所がある、あそこに溜め池が掘れれば水が湧きそうな場所がある。水が湧けば水牛を繋ぐことが出来る。水牛は水があれば、炎天下でも繋いでおける。

 溜め池作りの方がまだ楽そうだから、そちらを先にやることにしたい。そのうちに福仲先生が来てくれるかも知れない。その時に片付けてもらえれば一番良い。軽油を作業前に入れて置いた方が良いだろう。まだ大丈夫と思うが、入れた方が安心である。

 井戸に水が溜まり始めているので、3番溜め池まで、水中ポンプで水をあげたいと思う。距離にして120mで標高差が5mぐらいだろう。そこまで電線を引かなければ成らないのだが、距離は250mはあるだろう。これはなかなかの工事になる。

 電気を引くことが良いのかどうかも分からないのだが、電気を引いておけば、タイマーを付けて、ポンプアップできると言うことだ。確かに井戸水も上に上げられるのは、溜まる水の量になる。今ある池は15㎥ぐらいだから、これを1時間で汲み上げれば、しばらく待たなければ上げられない。

 用水の間隔を考えて、上に汲み上げれば良いと言うことのようだ。やってみなければ始まらない。水中ポンプのホースも120m必要と言うことになる。これも買いに言ってみよう。これを水道の蛇口に繋いで結わえておけば、苗の水遣りは出来るだろう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

のぼたん農園の整備が進んでいる。

2023-03-13 04:05:14 | 楽観農園

 機械小屋からの眺めである。見えているのが、前勢岳からフサキ岬である。毎日この美しい景色を見ながらの活動だから、楽しいはずだ。3月半ばではあるが、ほぼ真夏の強い陽射しが続いている。日焼けでヒリヒリする状態である。

 のぼたん農園はあしがら農の会の経験から生まれた。あしがら農の会は出来てから25年である。のぼたん農園は名蔵シーラ原での準備段階を入れて2年である。崎枝に移りまだ1年3ヶ月であるが、かなり急ピッチで整備が進んでいる。自分の持ち時間が限られているので、慌ただしく進めている。

 牧場の跡地だった場所が、今では田んぼが12枚。溜め池が5カ所となった。今年は前例のないほどの渇水が続いていて、昨日新たに一番下に溜め池を作った。その溜め池から、上の方にポンプで水を揚げる計画。4番、5番、9番、10番、11番には水が入れられるはずである。

 一番上の井戸が0番、1番、2番、3番、7番、8番の水をまかなうことになる。これで水不足が解消できるかも知れない。何とも嬉しい。福仲先生がここなら水が出るはずだと、ユンボで掘ってくれた。さすがの福仲先生だ。見立て通り、水がこんこんと湧いてきた。水脈を当てたと言うことになる。

 与那国島の天水田の経験は神業的なものだ。農業の総合力を目の当りにした。これで水に関しては一安心かも知れない。このようなに会が育ち、力を蓄えて行くと言うことは結局は人間である。農の会の時もそうだった。新しい人が加わるつど、会が成長した。

 石垣島ののぼたん農園でもこれからも様々な人が加わり、育って行くことだと思う。人が加わりやすい環境を作らなければならない。心地よい仲間の集団にしなければならない。それが私の役割だともう。居心地が良い仲間であれば、みんな楽しく未来を観ることが出来る。

 果樹を植え付けてから、1週間である。水遣りを続けているが、なんと根付いたようだ。もう少し水遣りを続ける。何しろこのところの渇水で土壌が極端に乾いてきている。朝1時間半はかかるので大変ではあるが、もうひと頑張りである。

 昨日名札を付けてくれた。名札があると水遣りをしていても楽しい。だんだんに難しい熱帯果樹の名前を覚えて行きそうだ。島バナナの木をイノシシが食べてしまった。大きくなってきたものを3本食べてしまった。全体を食べ尽くしたので、どうも枯れてしまったようだ。情けない。

 こんど、農場全体をワイアーメッシュで囲ってしまう予定だ。これが出来れば、農場全体が保護される。まだまだやらなければならないことが沢山ある。一つ一つ確実にこなさなければならない。当面は水牛の水場を安全に作り直す必要がある。

 門柱を移動した後もきちっと整備する必要がある。扉を10トン車が通れるくらいに、もう少し広げたい。溶接をして、水牛が出れない形にしなければならない。入口の門だから、見栄えも良くする必要がある。のぼたん農園の名前も付ける必要がある。

 トイレを作っている。ちゃんとした水洗トイレである。トイレの作り方を始めて知った。トイレと流しを作り始めたときに、なんとそうした仕事に詳しい、福田さんという方が来てくれたのだ。のぼたん農園に新しく参加した人が、なんと水回りの専門家で、色々教えてくれたのでほぼ完成まで進んだ。

 バイオガス発生装置が出来れば底に流すことが出来る。バイオガス装置もあと一息である。これが出来上がれば、ガスが使えるという上に、液肥ができると言うことになる。他にはない素晴らしいものになるはずだ。そうだ、ユンボがある間に、バイオガス装置の周辺の水の流れを直す必要があった。

 周辺部をもう少し平らにした方が作業もしやすいはずだ。そういうこともユンボが無ければどうにもならない。今回貸してもらっている間にユンボ仕事をもう少し進めたい。道路もユンボが行き来するだけで、大分安定してきた。道路に入れた石が、上手く踏み固められてきた。

 そういえば、果樹園の水の回し方の整備も、この機会にやらしてもらった方が良いだろう。雨が多くなれば、果樹のところが水浸しになる可能性がある。水没してしまえば、果樹が枯れてしまう。この機会に果樹園整備もしたい。排水を考えよう。ユンボは配送にかかる費用が大きい。だからこの機会にユンボがなければやれない仕事は終わらせたい。

 残る課題は下の田んぼの方に、日除けが必要だと言うことだ。夏になれば、下の方にいることが出来ない。風邪があれば夏でも気持ちが良いのだから、日除けの屋根がどうしても必要である。眺めの良い場所に、日陰のテラスのようなものを作りたい。

 ツリーハウスを作る計画もある。下にある大きなヤラブの木の上にツリーハウスを作り昼寝をする。これも何とか夏までには実現したい。材料は廃棄パレットである。農協に山積みされているので、随分もらってきた。そういえば、先日は中川さんが、ケーブルドラムをもらってきてくれた。何かに使えそうである。

 かまど作りが必要である。バーベキュウが出来るかまど。竈石はどこかで出るのだろうか。黒糖を煮詰めるかまど。燃やす材料はいくらでももらえるので、かまどを作り、たき火のように燃やしたら良いと思う。かまどを作る場所にバイオガス設備の周辺の土壌を移動したら良い。

 たき火場は必要だ。夜たき火を囲んでユンタクする。星を見ながら語り合う。こういう場所があれば、普段は発想できない様々なものが出現する。人間が夜のたき火で、解放されるのだろう。酒匂川フォーラムはそうして出来たものだった。

 石垣島の星空は日本一と言われている。安全にたき火が出来る場所があれば、格別な場所が生まれるはずだ。まず下の方の水牛の水浴び場で出てきた粘土を上に運ぶ必要がある。あの粘土であれば、藁と混ぜて竈が出来るはずだ。上に運んでおけば、いつでも竈が出来る。ユンボがある間に粘土運びもやっておこう。

 軽トラダンプがあるから、粘土を運ぶのも可能だ。軽トラダンプ一杯粘土を運べば、良い竈が出来るはずだ。バーベキュウが出来て、ピザが焼けて、羽釜でご飯が炊ける竈である。どんな設計にするか考えるだけでおもしろくなる。上手く琉球石灰岩と組み合わせると石垣らしい竈になるだろう。

 やってみたいことがどんどん出てくる。竈作りは参加者募集で行うのも良いかもしれない。ドーム状のピザ窯と開放型のバーベキュー炉とへっつい型の羽釜の竈を並べられるような形は出来ないものだろうか。コレラが合わさる美しい形が出来れば最高である。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第152 水彩画 日曜展示

2023-03-12 04:49:37 | 水彩画
第152 水彩画 日曜展示

12号前後の作品






144「田植え」
2023.3








145「石垣の海」
2023.3






146「石垣の海2」
2023.3







147「岩礁」
2023.3







148「耕された畑」
2023.3






149「並木」
2023.3







150「下田港」
2023.3






151「半島」
2023.3








152「山北の家」
2023.3








153「天草の教会」
2023.3


 今週は農作業が忙しい中描いた絵が多い。農作業と絵を描くと言うことは繋がっていて、相性が良い。気分転換に農作業をする。一休みして絵を描く。車アトリエに戻ったとき、気付くことが良くある。絵を描いているときには分からなかったことが、そうだったのかとなる。

 実際に絵を描く時間はそんなに長くはない。描いては置いておく。上手く描き継ぐことが出来れば、最高である。だから一枚の繪が何度も、車の中で持ち出され描いてみている。家に持ち帰りアトリエにかけられていて、また描けそうな気がしたら、車に乗せる。

 車には30枚くらいの絵が乗っている。一日4,5枚の絵を手を付けているだろう。その中に完成してくる絵が出てくる。何度やっても終わりまで進まない絵も多い。どうしてもだめだと思う場合は、絵の倉庫に仕舞っておく。一年位してまた出してくる。何度も何度も手を入れる。中には20年前の絵が急に出来上がると言うこともある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

環境活動は守る会から、作り出す会へ

2023-03-11 04:08:26 | Peace Cafe


 多くの環境活動が、環境を「守る」を掲げている。それはもちろん大切だし必要なことではあるのだが、もう守るではどうにもならない状況だと考えなければ成らない。環境の豊かさを守るためには、環境を作り出す以外に無い。日々自然環境は劣化し様々な生物が絶滅を続けている。それほど地球は緊急的な状態に思える。

 環境を守る活動が環境を壊すものに対して反対運動になる。これは仕方がないとは言え、何かがおかしい。環境を破壊するものが次々に登場する。それに対して反対運動を掲げざる得ない。その行為は間違っては居ないが、環境を大切にするという精神から言うと、かけ離れていてどこか空しいことである。

 例え環境を破壊するものを防げたとしても、環境はどんどん劣化を続けている。その原因は人間の暮らしがおかしいからである。人の暮らしが自然を破壊するものになっている。その暮らし方を変えないで、環境を守ることはできない。地球には許容量があるのだろう。地球の大きさに対して、人間の数が多すぎるのだ。

 にもかかわらず、政府は少子化対策だそうだ。まあ、政府がどう躍起になっても少子化はさらに進むだけだろうが、政策としては子供が大切にされると言うことになるのだから、悪い事でも無い。人間の適正数と言えば、日本列島で5千万人ぐらいだろうか。

 環境を破壊しないで、食糧を自給できる規模ならば5千万人くらいだろう。人間が新しい暮らし方を見付けない限り、人間は環境をさらに劣化させて滅びゆくはずだ。そのような未来の姿はすでに見えてきているのだろう。人類の暴走と消滅。

 人類の進歩調和と掲げられたのが、1970年の大阪万国博覧会だった。あれから半世紀以上が経過したが、あのときの夢や希望が潰えた半世紀ではなかったのか。あの頃は金沢にいた大学生だったのだが、万博には何の興味も覚えなかった。茶番にしか思えなかった。

 岡本太郎には失望した。縄文を評価している岡本太郎が遊園地の看板のような、張りぼての太陽の塔を作る醜さを思った。ちゃちなテレビの恐竜の張りぼてと何ら変わらない太陽の塔だ。藝術は爆発ではなかったのか。進歩と調和をどのように爆発させたのか。完全にアバンギャルド精神を失った。

 奈良の大仏と太陽の塔を連続して見比べたら内容の違いが分かる。人類の劣化と不調和である。進歩してゆくという考え方自体が間違っている。確かに人の暮らし方は変わって行く。失われて行くものがあり、新たに生まれてくるものがある。ただそれを進歩とは言えない。

 進歩して、調和してだんだん良くなるどころか、半世紀経過して日本は停滞した。その原因は進歩するという思い込みにあったのだろう。絵画で考えれば、学生時代の方が日本の絵画の水準は、今より高かった。これはこの時代に絵を描くかなりの人がそう考えているところだろう。

 文学も同じではないだろうか。万博の頃には井伏鱒二や大江健三郎が居た時代だ。日本の現代文学はどうだろうか。村上春樹なのか。やはり宮沢賢治まで遡れば文学の水準も劣化を続けていると言わざる得ないのではないだろうか。

 「いのち輝く未来社会のデザイン」 これが次の関西万博のテーマだそうだ。いのちはどう輝くのだろうか。電球が切れる前のように、最後に一時輝くと言うことを意味するのだろうか。未来社会というものが果たしてあるのだろうか。資本主義の次の時代に人間は行けるのだろうか。

 未来社会を思い描くことが出来ない。むしろ過去の社会の良さを考え直してみる以外に人類の生存の可能性はないと思える。プラステックを作り出し、人間の暮らしは、想像を絶するように便利で、快適なものになった。小学生の頃までは、経木や竹皮で食品をくるんでいた時代だった。

 便利なプラステックが、マイクロプラステックになって、人間を滅ぼそうとしている。海岸のゴミ拾いぐらいでは到底追いつくことがない。ゴミ拾い活動など止めた方が良いのかも知れない。海岸がプラスティクゴミであふれかえれば、発生源を何とかしようと考えるのかも知れない。

 環境活動が問題解決に繋がっていない。むしろ問題を見えなくしているのかも知れない。こんなことを書けば怒られるかも知れないが、尻拭いをする環境ボランティアでは解決できない。私も海岸ゴミ拾いには参加している。余りに汚いから掃除をするが、何かを解決している気にはなれない。

 環境を作り出さなければならない。豊かな環境を生み出さなければならない。人間が生きると言うことは環境を破壊すると言うことだ。食料生産は必ず環境破壊である。食料生産は折り合いの付く範囲でやらなければならない。少なくとも折り合いを見付けながら行わなければならない。

 水田が最も環境と折り合いの付く食料生産方法である。小麦やトウモロコシよりも折り合いが付く。環境を守ろうという人は世界中どの民族も米を食べるべきだ。江戸時代の稲作は3000年の循環型農業の実績がある。イネは自然農法で生産可能な作物である。

 人口増加が環境破壊の元凶である。調和の取れる未来社会のデザインであれば、先ずは人口減少を考えなければ成らないだろう。森林を燃やして、農地を作らなければ、食料が足りないという現状では、人道的観点から環境破壊である、農地開発をせざる得ない。

 すでに地球は調和が取れなくなっているのだ。すでに危機的なところに来ている現状を認識するところからだろう。すべての人が生活を変える以外に人類に未来はないだろう。パン食からご飯へ変えるだけでも地球はひと息をつけるはずだ。

 そのように考えれば、経済活性化のための次元の違う少子化対策を行うなどとんでもないと言うことになる。経済は縮小しなければ、地球が終わる。人類は未来に危機を抱いているから、本能的に人口増加を止めようとしているのだ。もちろん子供の暮らしに手厚く税金を向けるのは正しい政策だろう。

 環境活動は環境を作り出すものにならなければならない。守っていても守り切れない状況に来ている。食糧を自給する。田んぼをやって食糧自給をする。少なくともそうした活動を支援する。自給が出来ないものは自然農法を試みる農家からお米を買う。それが環境を守る唯一の道だと考える。

 自然農法の水田は環境を作り出している。たくさんの生き物の生活を支えている。石垣島の希少生物をなんとか持ち堪えているのが水田である。お米は高いと行っても、パンに競べればはるかに安い。石垣島産の自然農法の米を食べれば、それだけでも環境を作り出すことに一歩前進である。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民負担率47.5%

2023-03-10 04:36:38 | Peace Cafe


 写真がおかしいが、小麦が出穂してきている。12月30日に播いたニシノカオリである。何かおかしい。やはり稲と同じで葉の数が少ない。十分稔るとは思えない。それでもいくらかでも取れれば、初めてのこととしては良いだろう。

 国民負担率47.5%。国民負担率とは国民の所得に占める税金や社会保険料などの負担割合のことだが、財務省は2022年度に所得の47.5%となる見込みと発表した。収入が1000万円あれば、475万円は税金やら社会保険料などで払わなければならない。使えるお金は525万円と言うことになる。

 1000万円は高収入の方だが、それでもこのところの電気ガス、ガソリン価格の高騰。様々な消費財の値上がりを考えると、生活はそれなりの範囲のものと言うことになりそうだ。しかも老人の社会保障は先細りだから、不安が募りそうだ。

 政府は投資を奨励する。投資が奨励されるのは、貯蓄を吐き出させるためだ。老人が生活不安のため貯蓄ばかりしていて消費しない。こんな先行き不安の停滞社会では、貯蓄しておく以外に方法がない。そこで、株式投資をさせて、貯蓄を社会に吐き出させようとしている。

 それは一定成功しているのだろう。最近投資の宣伝が目立つ。「私はこうやって10万円を1000万円にした。」こんな宣伝ばかりがネットでは入ってくる。1000万円を手にして、心の中がお金だらけになったと言うことだろう。株価の上下に一喜一憂する。そんな欲に満ちた精神状態は最悪なものだろう。

 日本社会の経済停滞は日本株への不安を増している。そして円安である。海外投資となると、岸田政権の貯蓄吐き出させ策も功を奏さないことになるのかも知れない。それでも政府が株価を買い支えてくれるという、後ろ盾があるから、実質の伴わない株価が暴落しない。

 この綱渡りには渡る先がない。どこまでもみんなで渡る以外に方法を失っている。今のうちに思い切って飛び降りることが一番だと思うが、それも怖くて出来ない状態ではないだろうか。こうして、お金のことで一喜一憂するという最悪の精神状態に突入する。

 あの最近盛んになったポイント制度と言う奴がわたしの精神をむしばんでいる。ポイントを付与するから。ポイント2倍デイ。旅行奨励クーポン。こうして何もしなければ、あなたは損をしますよと、どこかから脅かされ、踊らされている気がして成らない。

 本当は得しているのか損をしているのかがよく分からない。お金ではなくポイント言うところが味噌なのではないだろうか。江戸時代の年貢は5公5民と言われるが、実際の所は3公7民とも言われている。日本人が一番生活が苦しかったのは、明治時代である。

 富国強兵の明治政府が税金を集める為に、厳しい税制を行い。江戸時代どころではない、生活の困窮が起きたのだ。今の北朝鮮のようなものだろう。それがついにアジアを軍事侵略することになり、みじめな敗戦と言うことで終わったのだ。負けてまだ増しだったようなものだ。

 ではこうした国民負担が大きくなって行く時代にどういう生き方が可能なのか。自給的に生きる方法を考えることでは無いか。自給には税金がかからない。私の田んぼで出来たお米を自分で食べる文には、税金として上納しろとはさすがに言わない。

 副業を余り税金のかからない程度に行うのが良いだろう。食べるものが自給できるならば、何とか生きて行ける。地方の山の中には放棄された農地や家はどんどん増え続けている。過疎化してゆく地域で助け合って暮らすのが、菅元総理大臣風に、「最後には自給生活があるから大丈夫。」

 自給生活で暮らすことにすれば、1公9民くらいでやれるのではないだろうか。消費者にならないことだ。消費すると言うことは生み出さない暮らしと言うことだ。消費者という生み出さない立場が押しつけられると言うことになる。消費の喚起策などと位置付けられている。

 どうせ政府は軍備費やら、原発やら気に入らないことばかりやっているのだ。税金を多く上納したところで腹が立つばかりである。1割負担ぐらいなら我慢も出来るだろう。消費税も物を余り買わなければ払わないですむ。たばこは吸わないから良いが、酒税は払わざる得ないのは残念だ。

 経済至上主義から抜け出すためには、政府や社会から一定の距離を持つ必要がある。社会の価値観から抜け出す必要がある。自分の今日一日に何が一番必要なのかと問わなければならない。その必要なことをやるためにはどうすれば良いかを考える。

 その第一歩が食糧の自給だと考えている。食糧の自給が出来れば、社会の拝金主義的価値観から距離を取ることが出来る。自分というものの意志に沿って生きることが選択できる。現在73歳であるが、まだ身体が動く。身体が動く間は自給生活を続けたいと考えている。

 自給生活を続けられる限り続けて、絵を描く。残りの時間はそういう暮らしで生きてゆきたい。結局今日一日やりたいことと言えばやはり絵を描くと言うことになる。絵を描くことが、ますますおもしろくなってくる。やっと分かり始めた気がしているからだろう。

 自分なりの絵が描ければ、もう他のことなどどうでも良い。絵は自由だ。何にも制限を受けない。良い絵とか、上手な絵とか、価値のある絵とか、そういう物からも自由だ。自分が描いたと言えるような絵を目指して進んでゆくだけで良いと思う。

 自由であることが一番好きだ。絵を描くという目的からも自由でいたい。描きたくなくなれば、明日からでも描かないという気持ちでいる。ただ絵を描きたいから続ける。好きなことだけやって生きていられるというありがたさは格別である。

 今日一日、何をやるかを自由に選んで生きる。それが出来ることを幸運だと考え、喜びを持って一日一日を生きたいと思う。のぼたん農園を作り上げることと、絵を描くことで十分なようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

株価の不自然さからおもうこと

2023-03-09 03:59:08 | 暮らし


 株価の暴落しない不思議。日本の停滞ははっきりしているのだから、株価は値下がりするのが自然だ。日本に明るい見通しは極めて少ない。何時株価は下がり始めるのだろうかと思って居るのだが、意外に下がらない。その理由は他にお金の使い道が無いと言うことだろう。

 政府が投資を奨励することがある。お金は使い動くことで経済に有効なものになる。銀行が有効な貸出先があれば、それでもいいことになるが、銀行には高い金利でお金を借りてくれる企業がない。それで貯金に利子が付かないと言うことになっている。銀行が出来ないのであれば、政府が貯金に偏ったお金を投資に引っ張り出そうと考えている。

 株にお金を投資する背景には、自分というものに期待できないと言うことがある。お金があるなら自らに投資するのが一番と考えたほうがいい。どこかの知らない会社に投資するくらいなら、一番分かっている自分というものに投資すべきだと考えている。人生を少しでも良くするというのはそういうことではないか。

 お金を自分に投資するとによって、新しい体験すると言うことになる。今のぼたん農園に投資している御陰で、石垣島での田んぼの体験が出来ている。その結果はお金が返ってくるわけではないが、素晴らしい体験を経験させてもらっている。この喜びは他に代えがたい物だ。

 生きていると言うことはそういうことではないのだろうか。お金は死ぬときに使い切っているのが一番良い。平櫛田中は100歳になってから、大量の彫刻の材料の素材を購入したという。材料に不安がっては仕事は出来ない。投資というのはそういうことなのではないだろうか。自分に価値を見ることが出来れば、一番有効な投資先は自分である。

 今の株価を見ると世の中の大半の人が、自分というものが投資するほどのものでないと自覚していると言うことになる。自分に投資したところで、たいした意味が無いとみている。お金が見返りはないと考えている。自分が暴落するかも知れないと考えているとしたら、それほどみじめなことはない。

 ソフトバンクの孫さんは投資で大きな損失をしたらしい。なぜソフトバンクの事業に投資をしないのかが不思議だ。自分の会社より他所の会社の方が儲かるだろうと考えている。仕事自体にやりがいがあるのであれば、儲かる儲からない以前の問題ではないか。

 そういう企業がどうも多いようだ。企業や政府がどこかの企業へ株式投資するというのは、どうもおかしい。政府が有効な公共事業を行えば、それが税金になり戻るのではないだろうか。江戸時代の新田開発はそういうことだった。政府がもっと有効な事業を行うことが出来れば、豊かな国が作れるのだ。

 結果として株価は高止まり状態。この高止まり状態は実に危うい高止まりである。もし暴落すれば政府が一番大きな損益を生む。政府は仕方がないから、大量な資金で買い支えしている。政府が着いているから大丈夫だというので、危うい高止まりを承知で、株式投資を続ける。

 しかしどこまで行ったとしても、必ず自転車操業は疲れて止まらざる得ない時が来る。ここらが精一杯なのではないだろうか。政府の奨励策に乗せられて、株式投資を今から始めるなどと言うことは、かなりまずいことにしか見えない。

 自分を信じてこれからやって行こうという人は、自分の仕事に全力を費やすために、すべてのお金を自分の会社に投資するはずだ。金儲け自体が目的化している。仕事よりも金儲けなのだ。それで上手く利益を上げれば評価される世の中がおかしい。

 拝金主義者。守銭奴。倫理無き資本主義。それが今風の生き方と言うことらしい。金色夜叉ではないが、お金では買えないものがある。自分の日々の体験という充実である。投資に熱中して成功するというようなことには、人間をだめにしてゆくだけだ。

 人間が生きると言うことの充実は日々刻々の行為にある。今日一日をどれだけ充実して生きるのかがすべてだ。お金があるのであれば、その一日のやることにすべてを投資するのが最善だと考えている。自分というものがすべてである。それが生きるといことだろう。

 そう思って生きている。お金を借りるというのも嫌いだ。利息分を生み出さなければならないということを考えたくない。お金生み出す能力がないとおもっている。農業をやってきたとはいえない。業という言葉に相応しいことをやれたのかと思う。

 幸いなことにお金に困ったことはない。父親の御陰と言うことが一番であるが、お金を残してくれたという意味ではなく、早くから自立を要求してくれたと言うことがある。好きなことで生きると言うことは自分の手で生活してゆくことだとした。

 大学に行く以上後は自分の力で自活しなさいと言うことだった。何しろ家で食事するなら、食費を出しなさいと言う考えの家だった。高校生の頃から自分で作って食べる家だった。その御陰で、自活能力が高まった。厳しい親と言うより有り難い親だと思っていた。

 恥ずかしながら、小学校から高校まで家庭教師の先生に見てもらっていた。親が見てやれないから、そうすると言うことだった。それで大学に行けば後は自活しろと言うことだった。年1万円の学費だった国立大学しか行けないと考えた。今より良い時代だったので、自活できたのだろう。

 フランスに行くお金も自分で作ることが出来た。世界のどこに行っても何とか暮らせる自信が生まれた。親の御陰でお金の使い方も稼ぎ方も理解できた。それは不労所得ほどよくないものはないと言うことだ。自分の力で生きると言うことを最優先に考える。

 日本が不労所得を奨励するような倫理のない国になってしまったことが情けない。お金持ちが偉いというような間違った国になったことが悲しい。清貧と言う言葉が死語になった。清貧とは貧しくとも、心が豊かであり、むしろすがすがしいということだ。

 バブル崩壊後中野孝次著の「清貧の思想」高い評価を受けた。日本の文化にある、心の豊かさを大切にする良寛のような生き方である。しかし、時代は引き返すことが出来ず、さらなる拝金主義の時代につき進んでしまった。お金にならない仕事には価値がないとする情けない時代にまで進んだ。

 拝金主義は金持ちも貧乏人もすべての人に蔓延している。むしろお金のない人に拝金主義が浸透している。それは貧困層には仕方がない結果だ。人のことはともかく、清貧の思想を良寛禅師の生き方を学びたいと思う。托鉢に生きると言うことは、世の中にそれだけ返す生き方である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王将戦挑七番勝負 第6局 藤井聡太王将 vs 羽生善治九段

2023-03-08 04:40:56 | 身辺雑記


  藤井聡太王将 と 羽生善治九段の王将戦第6局が行われる。現在王将藤井聡太が3勝2敗である。これまでの5戦私なりに見せて貰ったが、過去最高の将棋だと思う。どの戦いも今までの将棋の水準を一段抜けた物になっていると思う。

 藤井壮太5冠は棋王戦で渡辺棋王に挑戦している。簡単に勝つと思われた終盤で、ああ詰んだと私にも分かった寄せ手順を、なぜかあの最強の棋士藤井が間違えた。玉頭に歩を打てば詰んだ。私が知る限りこういう凡ミスは今までに無いことだった。

 藤井5冠は羽生永世7冠との厳しい将棋が続き、さすがに疲労しているのかも分からない。以前から負けてもいい将棋では案外に負けるところがある。ここぞという所では負けないのだが。凡ミスで負けたことが後を引かなければ良いと思うのだが。なぜ渡辺棋聖が投了しないのかと思ってみていたのだが、最後まで刺せばこういうことも起こるのが将棋だ。

 羽生さんとの王将戦はほぼ互角の戦いでここまで来ている。現在藤井5冠に対して、互角に2日制のタイトル戦を戦えるのは羽生さんだけだろう。羽生永世7冠が登場したときも、新しい将棋の登場で刮目した。それ以来羽生将棋のおかっけのようなものだった。

 それほど羽生将棋はおもしろかった。どこで羽生マジクが出るのかとわくわくしてみていた。将棋を見るゲームにしたのは羽生永世7冠だと思う。忠勝だけではなく、予想外の奇抜な勝利が見所だった。そういえばその羽生さんも1手詰めの将棋を逃したことがあった。

 羽生将棋は画期的なものであったが、まだ理解が出来た。その後登場した豊島将棋当たりから、私の理解を超えた将棋に変わった。なぜ豊島さんがあれほど勝つのかがまったく将棋を見ても理解が出来なかった。豊島将棋は正直面白さを感じることが出来ないくらい難しかった。同時にあたわれた渡部将棋の方がまだその勝負術が理解できた。

 豊島、渡辺、永瀬の3人が羽生将棋を追い越した。羽生永世7冠は3割台まで年間勝率を落とした。そしてそれに入れ替わるように、藤井壮太が登場した。AI将棋が生んだ新しい将棋へと進化させた将棋だった。藤井将棋は豊島将棋を完成させたような将棋の気がする。

 豊島将棋がどうしても理解できなかったのは、新しい将棋の考え方を発案していたものだったと言うことが今になると分かる。豊島将棋は強く見えないのだが勝利して行くというような感じだった。古い将棋の発想の私には分からなかったものを藤井将棋にいたり、なるほどそういうことだったのかと今は感じている。

 羽生将棋はいったんは勝てなくなった。新しい将棋に凌駕されたのだろう。普通50歳を超えれば、将棋指しとしてそれが普通のことだ。ところが、藤井将棋の登場で、羽生さんは再生した。これは本当に驚くことだ。もう一度藤井将棋というか、AI将棋というか、新しい将棋を身につけて復活したのだ。

 王将戦ではまったく、藤井王将と互角の戦いである。新しい将棋の頂点の戦いは、やはりわずかな失着が敗着になって行く。その敗着が、よほどの中盤戦でのことである点が、これまでの将棋とは違う。中盤戦以降の読みが余りに深く正確なために、そう考えざる得ないのだ。

 終盤の読みの深さと速さが藤井将棋の特徴だと思うのだが、それはAIがまさにそうなのだ。羽生永世7冠は終盤力でそれに対抗している。長年培った、勝負術がさすがに上回っている。それが正確で深い藤井王将の読みを微妙に迷わせている。

 今までの5戦の内3戦の羽生の圧勝以外はどちらも中盤まで勝つ可能性がある将棋だったと思う。最先端の両者の戦いは一方的な将棋になることはほとんど無い。いよいよ、第6戦である。第六戦は羽生永世7冠に勝利してもらいたい。そして第7戦の最終局が世紀の対戦が見たい。

 この戦いはたぶん将棋の歴史に残る戦いだ。この戦いで将棋が新しい時代に入ったと言われるように思う。AIと人間の関係である。AIが切り開いた将棋を、人間が自分の使えるものに消化して、人間の思考の元に将棋を指すという形である。

 これは将棋だけの問題ではないと思って注目している。例えば政治的な政策であれば、様々な資料に基づきAIを利用して、様々な最善を想定しながら、最終的に人間が選択をする。まだまだAIの利用は将棋や囲碁のゲームの上での話であるが、必ず、新しい商品開発等に有効なものになって行くはずだ。

 スタッドミサイルが憲法違反であるかないか。コンピューターに出してもらえばすぐに分かる。AIを参考にしながら政策は立てるべきだ。内閣法制局よりも、コンピュター法制局の方が客観的で正確な判断が出来るはずだ。少なくともコンピュターを活用するくらいは早く始めるべきだろう。それをしないのは曲解をしたいからと言うことなのだろう。

 世界は崩壊に向かって進んでいるかのように見える。気候変動、マイクロプラステック、食糧問題。環境汚染。人口問題。新型感染症の登場。資本主義の限界。どれ一つとっても一筋縄では解決不能に見える。解決が可能な方法を検討するためには、人間の能力を超えている。さらに優れたAIの登場が必要なのだと思う。

 人間の能力を超えた発想と分析能力で、人間の未来を切り開くAIの登場。それを将棋は見せてくれている。政治が憲法違反の幅が余りにひどいと言うことを続ければ、客観的に人間ではないものに見てもらう必要が出てくるはずだ。どこかそ言う機能を持つ政党はないのか。

 そう将棋のことだった。将棋の発想が絵の描き方に出ていると思う。先を読むと言うことは、絵では瞬時に繰り返されている。王が詰むというようなことを想定してそこまでの手順を読むわけだ。この読むという行為は絵を描く上でもよく現われる。

 頭の中で自然に出来上がりの画面が想定されている。そこに向かうための手順を巡らせることは将棋と似ている。羽生さんは盤面で読むらしい。藤井さんは棋譜で読んでゆくらしい。棋譜で読むというところがまさにコンピュターなのだ。その意味では絵を描くということは画像で読むと言うことになる。

 将棋を梅原龍三郎は好きだったという。確かに梅原の絵にはそういう読みがある。井伏鱒二も将棋好きだったらしい。梅原龍三郎や井伏鱒二さんに、将棋なら勝てるのではないかと思う。もちろん絵でも文章でも、到底及びも付かないところである。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美の考え方

2023-03-07 04:11:23 | 水彩画



 子供の頃から絵を描いていて、美術というものをやっているのだと思っていた。小学校でも中学校でも美術の時間と言うでそう思ったのだろう。しかし、高校生の頃になると、絵を描いていながら、自分のやっているのはどうも美術と言うことでは無い。そうした疑問が湧いてきた。

 大げさに芸術作品を作りたいと考えたが、美術品を作ろうなどとは思わなかった。飾れる美しい作品を作りたいと言うより、絵画作品は自分を絞り出す表現なのだとする小林秀雄の考え方を、浅い読み方で考えるようになったのだと思う。その頃から、絵を描くにはむしろ美術という考え方は遠ざけなければならないものと考えるようになった。

 大学に入り岡本太郎の芸術論を読んで、ますます日本の美術工芸は遠ざけなければならないものだと確信するようになった。日本の美術は床の間芸術だ。床の間におかれて、座りのよいものは恥じなければならないと考えるようになった。絵描きは建具屋ではない。居心地の良い部屋の収まりの良いような作品は芸術から遠ざかる。

 自己表現すべき自分というものに、向かい合う必要があると考えるようになった。岡本太郎の考え方は日本の芸術論の中で最も優れていると今でも考えている。正しい考え方であるにもかかわらず、作品が魅力が無いのは、岡本太郎と言う人間に魅力が無いからだと考えた。つまり、自己表現だとすればそういうことになる。

 最近岡本太郎の作品は素晴らしいという人に出会った。そして話を聞いている内に、私にとって岡本太郎がつまらないのは、岡本太郎という人格と私が大分ずれているからのようだ。人間のできの問題では無いと言うことかもしれないと。中川一政が素晴らしいと言っても、岡本太郎評価の人には何のことか到底理解できないだろう。

 自己表現の芸術とは、そういう物になるはずだ。その人の人格と共鳴する人は限られている。人間の思想や哲学、好みはそれぞれのものだから、芸術作品ということになれば、いよいよそれぞれに共鳴するものが違って当たり前である。本来優れた藝術は出会える人も限られているのだろう。

 現代社会は資本主義末期である。ありとあらゆるものが商品化している。当然芸術作品も投機対象になる。値上がりをする作品が評価できる商品であり、作品と言うことになる。そうした美術界の構造が、芸術作品をますます混乱させるものにした。

 商品としての絵画販売に、飾り物としての美しいと言うことが重要な要素になる。美しいという概念にはかなりの共通性がある。美学という学問の領域がある。美とは何かを考える学問。時代や民族によって美というものは変わって行く。平安美人と江戸の美人そして現代の美人。その理由を探るような学問らしい。本当はよく分からない。

 そこで言う美というものは芸術表現と考えて見れば、一つの社会の傾向ぐらいのものだと思う。私が問題にしたいのはそういう意味の美のことではない。真理としての美というものがあるのだろうかという疑問だ。あるとすれば美は絶対的なものになる。

 なぜそれを美しいと感じ、美という概念が出来上がるのかを考える。単純に美というものを、芸術作品とつなげて考えて、その時代の美はその時代の絵画にあると考える人さえ居る。これは間違いやすい狭い考えなのだ。どれが美しい作品であるかと作品を見ているのでは、作品の表現している本質からはずれて行く。

 芸術表現はそれぞれの人間の哲学の表現であるとすれば、美学がと言うものが哲学の一つの枠に過ぎない以上、美は芸術作品の一つの要素に過ぎないと言うことになる。美しいという一要素から作品を考えることは、芸術の全体性から見れば歪んだ見方になりかねない。

 美をどういうものと考えて作品制作をしてゆく必要があるのか。美というもの捉え方を広げなければならないと思う。真善美という言葉がある。ギリシャ哲学に起源がある考え方で、そこでの美の捉え方は、美しいこと、良いこと、価値のあること、調和していることを意味している。

 哲学で考える美とはかなり総合的な美の見方と言うことになる。その社会が追究する方向を美と考える。その意味で美はかなり幅広い考え方と言える。最近になって、美を軽視しないで、美についてもう一度洗い直してみたいと考えるようになった。

 それは動禅を進めていて、一番良い動きをしたいと考えるようになったからだ。一番健康に良い動きでありたいと思っている。一番心が洗われる動きでありたいと考えている。自分というものが無の状態には入れる動きを目標にして行っている。

 すると一番分りやすいことは美しい動きなのだ。自分がどれほど無様に動いているのかは、よく分かっていることなのだが、それでも少しでも美しい動きにしようと考えると、だんだん無の状態に近づくことが多くなってきたのだ。この辺りに美しい動きと自分が考えるものに何かがあると気付いた。

 眼を閉じて行っているので、自分の動きが実際どれほどのものかは分からない。欧州少林寺八段錦と言うユーチューブの動画がある。この動画を見ると美しい動きというものが分かる。なるほどと思うところが沢山出てくる。自分に出来るわけではないと言うことも分かるが、一つの目標として時々見る。

 私が行っている八段錦とはかなり異なる動作である。動きの美しさというものに込められてゆく精神の集中というものがよく分かる。この動画とは逆に力を抜こうとしている。力んでいたのでは、無には成れない。どれだけゆるくゆっくりと動けるかを重視している。つまりそれが美しいと思う動きなのだ。

 膝の曲げ方。その膝に乗る腰の位置。そして上半身の姿勢。よほどの鍛練を積まなければ出来ない動きである。できる限りゆっくりと動く。そして呼吸を深く行う。特に呼吸を止めることを重視している。呼気吸気は深くゆっくりと考えれば良いのだが、同呼吸を止めるかも呼吸を考える植えでは重要である。

 美し動きと考えるて行くうちに、美しい絵というものもあるのではないかと気付いた。今まで美しいと言うことを毛嫌いしてきたわけだが、自分なりの絵の持つ美というものも、考える必要があると思うようになった。これからの絵の課題だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地方移住傾向は終わった。

2023-03-06 04:15:22 | 石垣島


 麦畑、ニシノカオリである。早くも穂が出てきた。どうも12月30日という播き時期が間違っているような気がする。それにしても2ヶ月で穂が出てしまうのでは、収穫は期待できないかも知れない。

 コロナでの地方移住傾向は早々と終わった。ますますの都市集中が進んでいる。東京圏への集中は相変わらずのようだ。普通の暮らしをしたいと考えてれば、地方はどんどん暮らしにくくなるので都会へ出る。と言っても普通の暮らしが日本ではどんどん減少している。

 階層化が進んでいるからだ。富裕層とそれに使われるものに二分してきている。拝金主義の経済だから、設けるための労働者は大いに求められているが、あくまで労働者は金儲けの手段の範囲だ。それでもそれが安定した暮らしと考える人が多数派なのだろう。

 この再燃した都市集中は、過疎化した地方での自給自足の暮らしはいよいよやりやすくなっていると言うことでもある。自分らしい生き方を探そうとするものには悪くない傾向である。ただ、地方の過疎地域のインフラはますます失われて行くのだろうから、この天よほどの覚悟が必要である。

 この地方消滅現象は、得に地方の山間部の消滅である。廃村集落という物が日本のいたるところにあるが、地方の山間部では普通の暮らしを考える人には、暮らし続けたくとも、暮らせなくなっているのだ。隣の家まで2キロ余りの自動車道で繋がっているとしても、この道を誰かが整備してくれるわけではない。

 自分で草刈りを年何回かやるほかない。自分達と言える間はまだやれるかも知れないが、一人で2キロの草刈りを続けるのは可能だろうか。道は整備をしていなければ崩れて通れなくなる。車が通れなければ、まず暮らせ無い。当たり前の事だ。

 そうした道の繋がっていない場所で暮らすということは、ちょっとしたケガや軽い病気でも、死ななければならないということになる。その覚悟がある人なら、そういうことは乗り越えられることかもしれないが、誰しも必ず年を取る。何歳までそうした暮らしができるだろうか。

 普通の人にはそれは無理なことだろう。子供が居れば、学校に通わなくてはならないのだから、なおさら無理なことになる。自分が死ぬ覚悟はまだしも、子供の死ぬことまで勝手に受け入れるという事はできない。だから多くの集落が消滅を続けているのだ。

 日本中にそうした場所が急速に増加している。この先10年で人口が半減する自治体という物が恐ろしいほどにあるのだ。これが自治体単位で起きていると言うことは、部落単位で考えれば、部落消滅は年何百とある事になる。北海道が一番すごい状態のようだ。

 確かに北海道では、自給自足はきつい。暖かい場所を選んだ方が楽だ。その温かい石垣島でも小学校がなくなる地域がある。人口はわずかずつだが増えて、人が中心部に集まる。中心市街地は広がっている。農地を宅地に転用する案が出ている。石垣島の中心部は実に暮らしやすいので、引っ越した私が満足している。

 それでものぼたん農園のある、崎枝では人が増えている。それは日本一美しい場所だから特別である。車の運転が自由に出来れば、崎枝はなかなかいい。週に2回生協の配送車が来ると言われていた。週一で買い出しをするから大きい冷蔵庫が必要ともいわれていた。

 小中学校もある。道路も立派なものがあり、草刈りなど必要ない。それでも時々草刈りや掃除をされている人を見る。たぶん人が出てやる日があるのだろう。のぼたん農園でも出た方が良いのかも知れない。少ない人数で地域を維持すると言うことが、大変なことだと言うことはよくよく分かっている。

 なぜ地方暮らしが出来ないかを考えるべきだ。「多様な仕事がない。優れた病院がない。大学がない。」この3つの必要条件が無ければ暮らせないと言う人が多数派ということになる。地方再生というのであれば、この3つを何とかしなければならない。

 しかしそうした期待は政府にしても無駄だ。人口減少を止めることが出来ないのは、人間という生き物の集団としての本能的な流れなのだ。生活が豊かになりながらも、息苦しい何かに支配されたような状態では、人間は希望を失って行く。希望の感じられない社会では人口が減少するのは当然だろう。

 豊かでありながら、不幸な時代。もちろん豊かさと言っても比較の問題で、スガ氏が言い放った、「生活保護がある」という豊かさである。年金を3万8千円もらい、生活保護費を4万1千円もらい、何とかギリギリに都会で電気も付けずに暮らしている豊かさである。

 私の子供の頃同級生の弟が栄養失調で死んだことがあった。小学校の同級生で新聞配達で家計を支えていた人は一人ではなかった。あの頃に競べれば随分と豊かな社会になっている。それでも何か失われたものがあると言う、喪失感がある。それは希望ではないだろうか。頑張れば何とかなるという空気だ。

 日本が停滞社会になったと言うことを認めることが出来ないのは、豊かになったという成功体験を引きずって居るからだろう。まだ団塊の世代は巌ばっえよくなってきたと言う実感がある。60代ぐらいの人でも、まだ暮らしが良くなったという感触はあるのだろう。正直その辺は想像がおかしいかも知れない。

 地方の中心都市以外は過疎化して行く。これはますます深刻化して行く。それは産業の構造が、一次産業から、3次産業に変わったからなのだから、大きく変わることは無い。その上過疎地域は政治的にも力を失うだろうから、政策的にも無視されて行くと考えなければならない。

 そういう前提で私は、石垣島を選んだ。離島でありながら、人口が増加している島なのだ。宮古島もそうだ。子供達が街で遊んでいる島なのだ。この情景を見るだけで、喜びが湧いてくる。子供は希望を感じさせる。小田原では子供を見かけると言うこと自体が希だった。

 南の青い海と緑の島という観光の要素があるからだ。そして、自給生活の可能な島というもう一つの要素がある。これが北海道の離島であれば、到底無理だろう。過疎地域で自給生活をする。その時重要なことは一人の自給を、みんなの自給につなげることだと考えている。

 一人の自給の半分の労力でみんなの自給は可能である。一人の自給では自給そのものが目的になってしまうが、みんなの自給であれば、かなり余裕のある暮らしが考えられる。他の仕事をやりながらの自給が可能になる。食糧自給が出来ていればその仕事も、自分らしいものやれるだろう。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第151 水彩画 日曜展示

2023-03-05 04:11:27 | 水彩画
第151 水彩画 日曜展示

 今回は小さい作品です。







131「与那国島」
2023.3





132「崖の眺め」
2023.3







133「下田港」
2023.3







134「やらぶ岳」
2023.3








135「庭の情景」
2023.3







136「牧場から海」
2023.3








137「田子漁港」
2023,3







138「牧草地」
2023,3






139「宮古島の畑」
2023.3






140「蘇我富士」
2023.3





141「鳥海山」
2023.3






142「夕照」
2023,3





 143「海辺のヤラブ」
 2023.3


 小さい繪ばかりにした。今回描いたものだけではないのだが、小さな絵を3月最初の絵ということにした。小さい繪には小さい繪の面白さがある。水彩絵の具の色は小面積の方が美しく使える気がする。水彩絵の具は大きくなればなるほど、微妙な調子や透明性という特徴を失う。

 大きさとしては中判全紙ぐらいが限界だと感じている。クレーは水彩画を描くことがほとんどだった。最大の大きさが30号ぐらい。大きくなるともう一つおもしろくない。クレーらしい知的で静謐な雰囲気が、失われている。

 その人その人に丁度良い絵の大きさがあるのかも知れない。私には小さな絵の方が合っているのかもしれない。そういうことが分かるのはまだまだ先のことのような気がする。ともかく今は絵の大きさもその時の気持ちで選んでいるだけだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軍事攻撃に対する国民保護

2023-03-04 04:49:57 | Peace Cafe
 

 田植えの終わった2番田んぼ。

 石垣島に中国軍が攻めてきたときに、住民はどこに、どのように逃げるのか。どう考えても方法がない。中国からミサイルが飛んできたときにはどうしたら良いか。ミサイルは正確だから、軍事施設や飛行場以外は撃たないと政府は主張するが、ウクライナを見ればそんなことはあり得ないことが誰にでも分かる。

 軍事施設以外にはミサイルは来ないと本気で思うなら、そういう人はウクライナで起きていることを何も知らない人なのだろう。ウクライナではロシアが意図して病院、学校、劇場、市役所、住宅、がミサイル攻撃を受けている。しかし、ロシアの主張ではウクライナが自らがミサイルを撃っていると主張している。戦争における情報戦とはそういう物だろう。

 国民保護法によって、国民はすべて保護されなければならないから、石垣島の住民は九州まで船で逃げると言う方針が示された。一体5万人が乗れる船などあるのだろうか。本島からも、宮古島からも脱出するのだから、石垣島の住民の避難の船は石垣島にある船で行わなければ間に合わない。

 それともどこからか豪華客船でも来てくれるのだろうか。自衛隊の船はだめだ。戦争になれば軍隊の船は攻撃を受けても仕方がないことになっている。そもそも竹富島に行くような船で九州までは行けないだろう。少し波が荒ければ欠航になるぐらいだ。

 与那国島ではシェルターを政府に要求した。どんなシェルターなのかは分からないが、ミサイル爆撃に絶えられるシェルターなどあるのだろうか。地下深く巨大なシェルターを作り、1ヶ月ぐらいは持ち堪える食料や水が必要になるだろう。石垣島の5万人では、考えても不可能である。

 石垣島からの脱出は、戦争になる前に自主避難をするほかない。危ういと感じたときに、たぶん世間ではまだそんなことはないと考えているときに、自己判断で逃げ出す事ができた場合以外に方法はない。何しろ日本の政府のやることでまともに機能していることは最近ではまず無い。

 ミサイル先制攻撃の軍事基地の島になると言うことは、戦争になったら間違いなく命が危ないと言うことだろう。こんな島にした責任は自衛隊基地を誘致した愚か者の中山市長と自民党市議と公明党市議のやらかしたことだ。愚かにもほどがある。

 自衛隊が来れば、必ず未済基地の島もなることは誰の目にもあきらかだったではないか。今度は自衛隊基地の米軍共同軍事演習が始まる。そのうち基地は共同利用に進むだろう。今は政府は認めていないが、いつか米軍は恩着せがましく、自分たちが守ってやると言い出すに違いない。

 米軍は南西諸島全体を対中国の前線基地と想定している。日本人の命など軽いものなのだ。使い捨てで良いと考えている。南西諸島から中国をにらんでおけば、アメリカ本土は守られると考えている。中国の訳の分からない気球ぐらいであれほど大騒ぎする国だ。

 日本に3年前あの気球が来た時、日本ではUFOがきたと、極楽トンボだった。アメリカはずーとそんなものは把握していたのだ。把握しながら、一番効果的なときに撃ち落として、中国との対立を高めようと考えていたのだ。上空からの偵察で分かることは限定的だ。ウクライナの状況が煮詰まってきて、まさに今がその時だったのだ。

 偵察に関してはアメリカは沖縄から飛び立つ偵察機と宇宙からの偵察衛星から徹底して行っている。自分がやっていても、相手がやれば大騒ぎをする。つまり、敵を作り国防意識を盛り上げようと言うことだ。あんな気球は何年も前からあった。

 ロシアと中国は同類だと言いたいのだろう。ロシアのウクライナ侵攻2週間前にアメリカは関係者の脱出を始めたとある。今の戦争はそういう物なのだろう。2週間前から脱出を始めても、石垣島の住民全員は逃げることは出来ないだろう。私は3週間前には逃げようと思う。飛行機の切符が買える内に逃げようと思う。

 と書きながらも、台湾侵攻は間違いなくこの先5年はないと考えている。これは確信できる。その先もたぶん無いと見ている。中国人はロシア人とは違う。中国人はさらに経済を拡大して、台湾を買い取ると言うことの方を選ぶだろう。中国は商売の国だ。今中国はさらなる経済勢長の最中である。

 5年経てば、アメリカとの経済の差は縮まる。そして10年すれば並ぶかも知れない。それが予測できるのに、何も今台湾を軍事侵攻するようなバカ泣くに等ない。ロシアはこのまま居れば、さらに資源に依存した後進国化してゆくことが分かっているから、つい焦って軍事侵攻を選んでしまったのだ。

 中国の経済成長は未だ中堅国家のレベルである。成長を続けている。何しろ13億人の人口を要するあれだけ大きな国だ。まだまだ停滞には入らない。経済成長している間は、経済での世界制覇を目指すだろう。自民党の中には経済音痴が居て、未だ中国経済は崩壊するとしている有様だが。こんな状況判断ではとても国の運営など出来ない。

 そういう人達は去年の間に台湾軍事侵攻があると、発言し続けた狼議員である。去年軍事侵攻がなかったのだから、騒乱罪で議員辞職すべきだ。狼発言は日本の軍備強化のためである。確かにその意味では成功したのだが、日本は完全に道を誤ってしまった。

 日本は中国を仮想敵国にしてはならない。米中等距離外交で良い。どうやってアメリカと中国が平和的関係を持てるかの、仲を取り持つ役割が日本にはある。このまま、アメリカの手先になって、アメリカの犠牲になるほど馬鹿げたことはない。

 中国とあらゆる角度から、関係を持つべきだ。民間レベルでもそうだし、政府も同じである。互いを深く知り合えば、アメリカ人よりもよほど、深く付き合える人達だ。アメリカ人の顔は読めないが、中国人の顔はすぐ読める。互いに以心伝心出来る民族なのだ。

 中国の方向を軍事的覇権主義から、商業的な覇権主義に変えることが日本の役割なのだと思う。中国が経済成長することが、日本にとっても大きな恩恵になることは明らかなことだ。日中貿易の大きさは、日米貿易を2004年に超えてから、年々拡大してきているのだ。

 同時に米中貿易は世界最大のものになっている。ロシアとは比較にならないほど世界経済にとって重要なものになっている。中国に対してアメリカは経済で負けることを恐れて、様々に経済障壁を行っている。しかし、それでもアメリカよりも中国の方が経済成長をしている。すでにアメリカの経済制限では中国への影響は限定的なのだ。
 
 この島から脱出など出来ないのが現実である。そうであれば、仲良くなりともに経済成長を目指すのが一番の選択である。平和外交である。アメリカを忖度して、中国と親しく出来ないのは愚かなことだ。先ずは尖閣問題の平和的な解決である。なんとしても中国と親しくなるべきだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自給の島石垣へ

2023-03-03 04:16:43 | 楽観農園


 一番下にある6番田んぼ。少しずつ水が入り始めている。大雨の時に代掻きが出来れば水の維持は出来るはずなのだが。1月2月と水が十分に溜まるほどの雨はなかった。2月は過去に無いような小雨だった。この少雨傾向はこの先も続くと天気予報は言っている。

 天水田の難しさなのだが、この6番田んぼの田植えは3月25日26日になる。それまでに一度だけでも大きな雨が欲しい。どうしても雨が無いのであれば、溜め池の水を思い切って流すのが、最後の手段である。これはその後が怖いからなんとか避けたい。

 石垣島は自給の島の聖地になるのではないかと思うようになった。水共生ワークショップ以来、なんとなく考えていたことなのだが。石垣島では自給農業の地域を目指せば良いと言うことだった。石垣の気候や水土の条件は一般の稲作には向いていないが、自給農業には向いていると言うことである。

 言い換えれば大規模農業には余り向いては居ないが、市民が行う自給の農業には最適な場所なのだ。水が島のあちこちで少しだが湧いていて、小さな田んぼであれば、適地がいくらでもある。そうした場所は昔は天水田であったが、今は放棄された場所が多い。

 一年中稲が育つ地域は日本では南西諸島以外にない。石垣島では田植えをずらし、毎月稲刈りが可能な地域なのだ。もしこのやり方が実現できれば、自給農業が一段と楽になる。お米の保存がいらないことになる。石垣島の自給農業は楽しいものになるはずだ。

 日本は停滞している。政府は有効な政策を出せない。政府の方針として、食糧自給、子育て支援、地方創生、財政再建、政府の方針はどれも空しい。耳たこほど聞いたが、少しも実現したものがない。口だけの無策にあきれ果て、政府に期待などしていないで、自分がやれることをやるいがいにないという覚悟になる。

 これから石垣島の自給農業の研究を始めると言うには余りに、残り少ない時間ではあるが、伊能忠敬の晩年の仕事に思いを巡らせ、それにかけてみようと考えるようになった。とにかく出来るところまではやるつもりだ。身体がなんとか動く時間を延ばすほか無い。当面の目標は80歳までやれる農作業。そう思うと毎朝の動禅はいよいよ欠かせない。

 一年中稲が作れる地域で、毎月稲刈りをする稲作は考えただけでも愉快ではないか。それにはひこばえ農法が意味を持つはずだ。ひこばえ農法が日本で可能な地域は八重山諸島と、与那国島だけだろう。石垣島は自給的に生きたいと考える人には素晴らしい島なのだ。

 もちろんひこばえ農法とは限らない。毎月直播きをして、毎月稲刈りをする。こういうことでも良いはずだ。しかし、ひこばえ農法が実現すれば、年3回の収穫になる。上手く取り入れれば、毎月の稲刈りだけになる。さらに楽な自給になる。

 一人の人が、60坪の田んぼで、5坪ずつ毎月田植えを行い、毎月稲刈りをする。一月に5キロから10キロのお米が取れる。それで食糧自給になるとすれば、どれほど楽であろうか。これにひこばえ農法の技術が加われば、田植えをすることなし、毎月5坪ずつ稲刈りだけだから、せいぜい手刈りで1時間の作業になるだろう。

 人一人は一日1時間の労働で、食糧自給が出来る。のぼたん農園でその石垣島での技術を完成する。そして食糧自給を考える人に来て貰える島にしてゆく。この構想は決して夢ではないとおもう。日本は階層化してゆく。と言うことは人間の価値観も多様化していく。

 金持ちが上等と言うことでは無く、お金に関係なく生きたいという人も現われるはずだ。そういう人が自給自足的に生きたいと本気で考えるようになるかも知れない。その時に石垣島ではその方法を教えて貰えるとなれば、学びに来る人は必ず居るだろう。そしてそれが世界に広がる。

 サリブ農法が可能なお米の品種の選定が必要なのだろう。あるいは作出選抜までやらなければならないかも知れない。中国ではサリブ農法向きの品種が作出されているようだ。山岡先生は早刈りだけの問題だと言われているが、どうもそれだけではないような気がしている。

 お米だけではない。麦、やサトウキビではサブリ農法の可能性はある。今度麦刈りをした後、どうなるか様子を見てみよう。大豆、ジャガイモ、里芋、田芋、サトウキビ、様々な果樹。常備作物を中心に共同で作れば、食糧自給は誰にでも可能なものになる。

 ネズミや鳥による獣害の問題が、一番大きなことになる。先ずはイノシシを入れないために、農場をネットで囲うつもりだ。ネット程度ではだめだという意見もあるが、少し入りにくくすれば入らなくなるとみている。他の農地でイノシシを防いでいないからだ。

 自給農業が可能になるためには、自給農業のための技術の完成に尽きる。様々試してみながら、あと4年で一定実用に耐えるところまでの自給の技術のの完成を目指したい。まだまだ課題はあるが、一つずつ粘り強く試してみてゆきたい。

 ひこばえ農法は中国南部では完成しかかっているようだ。スマトラ島にひこばえ農法はネズミの害で潰えた、と言う話を聞いたが何かおかしい。ネズミの害はひこばえだろうが、普通の農法であろうが同じにあるはずだ。稲刈りまで水を入れておけば、ネズミはかなり防げると考えている。

 ネズミがひどいというのは確かに石垣でも起きている。それでも防げないはずはないと考えている。ネズミをある程度防ぐには水である。水があれば、稲がすべて食べられてしまうほどひどいことは起きない。また、しっかりした防風ネットで覆った苗床はネズミにやられていない。

 もう一つは5坪ずつの収穫であれば、1ヶ月5坪の範囲だけをネズミが入れないようにすれば良いのだ。10畳の蚊帳を考えれば良い。その囲いを1ヶ月ごとに移動させれば良い。ネズミの対応策は必ずある。ネズミを毒でころすとか、罠で捕まえるというのでは他の動物まで問題が出る。

 世間には一人で自給自足をしている人は多い。しかし、のぼたん農園はゆるい協働の自給だ。人に伝えてゆく自給だ。協働の自給は一人の自給の半分の労働時間で可能になる。どこまでゆるい関係でいられるかが問題である。もう人間の方が歪みきっているから、ゆるい関係を理解できない人が必ず現われる。

 そういう人まで含無難しさがある。ゆるい関係とは実はとても神経細やかな関係なのだ。これがカリスマが居るような組織とか、宗教とか、政治的方向とか、で結びつく組織であれば強い関係になるが、これではだめだと考えている。

 ただ自給を共に行うという方向だけの協働を、一人一人が神経を使いながら作り上げる。ここが重要である。自給を自足を考えるならば、まず石垣島に行ってみたら良い。と言われるようなのぼたん農園にしたい。日本は必ず近いうちにそういう場所が必要になるはずだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飲酒健康法と納豆健康法

2023-03-02 04:02:51 | 暮らし


 少量のお酒は健康に良い。コーヒー毎日5杯飲む人が一番長寿である。と言う考え方もある。その一方で、わずかな酒もガンのリスクを高める。コーヒーのカフェインは1杯でも身体に悪い。コーヒーも酒も習慣になると止められない飲み物だから、健康論議が繰り返されるのだろう。

 コーヒーもお酒も私には止められないものだから困る。止められないのであれば、健康に良いものと考えて飲むに越したことは無い。身体に悪いのではないかと不安な気持ちで飲んでいるのでは、悪い結果に繋がる。スパシーボ効果である。

 実証主義のつもりである。良いか悪いかはやってみなければ分からない。私に良いことも、他の人には悪いと言うことはいくらでもある。自分のことは自分で検証しなければならない。私の身体が特例なのかも知れない。ただ、100歳まで生きて証明したいと考えているのだが、残念なことに証明はまだまだ先のことだ。

 酒の少量は泡盛100ccである。大して量は飲まない。年に何度か大酒を飲むことはあるが、日常はこれ以上飲まないで居られる。しかも、体重が55キロを超えたらば、飲んではいけないという決めているので、週に2日は飲まない日が出来る。昨日はまんじゅうを食ったのだから、仕方がないと言うことになる。

 そのために我慢して、甘いものを食べない。甘いものが嫌いなわけではないが、酒を飲む方が勝るので、食べないで我慢は出来る。夜の飲む酒のことを考えるからだ。そう夜以外に酒を飲むことはない。甘いものよりもお酒の方が、比べて見たら上位に来る。

 要するにすべての食べものに、良い所も悪い所もあるのだ。すべての食べ物を多種類、適量に食べるのが一番である。ばっかり食というのが問題になる。そ言う意味で野菜だけというのも私には合わない。タンパク質に、大豆、魚、肉とあれば、どれでもえり好みせず食べた方が良い。そして自分の身体で確認する。

 酒自体がそれほど美味しいかというと、そうでもない。別に美酒を味わうと言うようなことではない。すべては中毒的に、気分の問題である。酒を飲んだ気分が良いのだ。良い気分になり、日々の後悔や、心配事や悩み事を忘れたいわけだ。そんなには無いのだが、いくらかあるような気もする。

 人間が眠るのは頭の回復のためである。別段眠るのが楽しいというわけではない。起きて何かをするという目的があるから、そのために寝て身体と心を回復させる。夜寝るときよほど辛いことがあっても、朝になればかなり辛さが軽減していることがある。

 お酒を飲むのは心を回復させるためと言うことになる。甘いものを食べて回復できる人も当然居る。自分の健康は自分で決める以外にない。お酒は少量でも身体に悪いというような説は、モルモン教徒か、イスラム教徒か、仏教もそうか。悪意のある目立ちたがり屋の主張だと決めつけておくことにする。その方が身体に良いからだ。

 納豆は毎日食べる。自分で作った納豆は必要不可欠なものだと思っている。買ってきた納豆についている醤油は使わない方が良い。変に美味しいからだ。納豆自体も不自然に美味しいものがある。どうも一工夫して美味しくしていると思われる味がする。今の時代美味しいものは怪しんだ方が良い。

 変に美味しい大量生産品はこの拝金主義の時代では気を付けた方がだいたいは良い。毎日自分で作った納豆を食べていると、市販の納豆とは味が違うから何か疑問を感じる。小糸在来種の大豆を自然栽培で作り、その大豆を発酵して納豆にして毎日食べている。この味が本来の納豆の味だと考えている。

 納豆菌というものがいかに強力な微生物であるかを痛感しているからだ。養鶏をしていた頃は、鶏の餌を毎日納豆菌で発酵させていたのだ。温度が80度以上に上がる。温度をここまで上げれば、かなりの悪い菌が死滅するからだ。死滅したからそれで安心かと言えば、もちろんそれでも危険な菌で生き残るものも居る。

 しかし、25年自然養鶏を続けて、納豆菌発酵の餌を与えて、産卵率が下がるというような事故は一度も無かった。納豆菌を使ったエサが、一定の安全性を保ったと言うことだ。余計なことだが、家畜保健所では危険だから止せと言っていた。魚のアラと米ぬかを混ぜて、そこに納豆菌を加えて発酵させる。

 エサは800キロ入る回転ドラムで、連続的に作るので、時に納豆を加える程度のことで、全体が納豆菌の発酵になる。手など入れられないほどの高温になる。マグロの大きな頭なども貰えることがあったのだが、そのまま入れるのだが、1週間するとその頭が姿すらなくなる。

 この経験から、納豆菌の強さを痛感するようになった。100度を超えても納豆菌は死なない。胞子を作り生き残るのだ。もちろん冷凍庫でも死ぬようなことはない。腸の中で活躍できる強さを持っていると感じた。だから納豆健康法はいいと考えた。

 納豆を作るには大豆も作る必要がある。大豆も色々の大豆を作って見た結果、味を比較して一番美味しかったのが小糸在来種である。この豆で味噌造りをする。豆腐も素晴らしい味になる。醤油を作れば絶品である。醤油は市販の醤油とは味が異なる。なにか市販の醤油に疑問が残る。

 醤油以上にこの豆を納豆菌で発酵した納豆は、市販の納豆とは味が違うのだ。色々変化させてより美味しい発酵をした納豆を目指している。この場合市販の納豆には何か秘密があると考えるほか無い。市販の納豆は乾燥納豆のような味が強い。何かその辺に工夫があるのだろうか。

 自分の味覚が強い味に反応するようになっている。微妙な大豆の味わいよりも、化学調味料のきいたような味の方に引きつけられる。大豆そのものの味わいを感じられるような繊細さが失われてきているのだろう。歳をとると微妙な味に反応できなくなり、強い味にだけ反応するのかも知れない。

 歳をとると舌が劣化する。強い味しか感じなくなる。たぶんこうした傾向があるかも知れない。丁度良いが強い方にずれてゆく。まだ劣化が進んだほどではないが、どこか味に鈍くなっていると考えても良いだろう。塩分糖分控えめにして、気をつけて暮らした方が良い。

 餃子とか、小籠包とか、大半のものに醤油を付けると言うことは無い。それくらいでも少ししょっぱいと感じている。醤油を付けるのは刺身ぐらいだ。さらに意識してそのものの味で食べるように気をつけることにする。年寄の丁度良いは行き過ぎと言うことなのだから。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする