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絵画絵はがきの作り方。

2021-08-16 04:02:42 | 水彩画


 12枚の絵はがきが完成した。以前申し込まれた方にはすでに発送をした。もし届かないという方がおられたら、コメント欄から住所とお名前をもう一度教えて下さい。必ず送らせてもらいます。改めて絵はがきを欲しいと思われる方が居たら、やはりコメント欄にお名前と住所を書いてください。送らせてもらいます。

 何故絵はがきを作ったかと言えば、いくつかの理由があるが、主たる目的は絵を描いているときに不審な目で見られ事がある。当然のことだと思っている。しかし落ち着いて絵が描けないのだ。車を止めて何日もいるのだ。挨拶をして自分のことを説明する材料に絵はがきをお渡ししている。

 お渡ししている内に、以前から毎年水彩人展で作ってきた絵はがきは在庫が無くなった。自己証明する新しい絵はがきを用意する必要が生じている。先日絵はがきを渡しているのに、信用されないで、それならここで描いて見ろと言われた。描いて見せたのだが、一層不審がられたようだ。これはお望みのような写生の絵ではないので仕方がない。

 自転車で来た子供達は一緒に描いても良いですかといって、車に並んで絵を描いてくれた。アトリエカーを見て、家に絵の道具を取りに帰ったに違いない。私の絵を見てどう思っただろうか。何で目の前の風景を描かないかと思ったに違いない。

 次の絵はがきの必要性は、コロナで人に会えなくなり、絵を語る会をできなくなったと言うことがある。自分の絵を確認する場がなくなった。絵を語る会が年4回あれば、その日を目標に絵を描くことが出来る。見て貰い、語り。話を聞かせて貰い。次に進むことが出来た。

 何か目標が欲しいと思い、絵はがきの企画を考えた。12枚の絵はがきを作ると言うことで、一人で絵を描くことがのんべんだらりとしないようにする必要があった。ブログの日曜水彩画展示だけではなく、もう少し具体的な目標を立てる必要を感じた訳だ。

 あともう一つ考えている2つの企画に提案させて貰う為の、材料として使うつもりだ。これは企画段階なので、まだ公表は出来ないが、絵を描いて行く上で発表する方法の模索である。公募展というものが、もう意味をなさなくなっているような気がしている。

 肝心な絵はがきの作り方である。印刷をお願いしたのはプリントパックという京都の会社である。ネットで注文する印刷会社である。いぜん、あしがら農の会の25年記念冊子を印刷して貰ったところである。ここで印刷して貰う条件は完全原稿と言うことになる。すべてを依頼するがわで整える必要がある。

 絵はがきの原稿はホトショップかイラストレーターで作る必要がある。JPEGなどの原稿では、印刷に転換するときに、ボケて、暗いものになる。いままで何故印刷すると薄暗いものになるかがやっと原因が分かった。今回も完全とは言えないのだが、いままでの中では良いものが出来た。

 ホトショップもイラストレーターも難しくて手に負えなかった。1ヶ月無料で試せるというものがあるので、ダウンロードして挑戦してみた。試行錯誤しながら、なんとか色の調整方法は半分位分かった。ここで、あれこれ挑戦して、徐々に原画に近づけた。今回これをそのまま利用した。

 と言ってもそれほど完全に原画に近づけたわけでは無い。ホトショップの色彩調整について、自由に動かせるところまで行かなかったからである。でもそこそこ妥協点にまでは進んだ。結果としてはその調整結果の通りに印刷されてきた。

 次に、その作った原稿をプリントパックの用意するデンプレートに載せなければならない。これがついに私には出来なかった。無料版では出来ないのかもしれない。あるいは方法が見つからなかったのかもしれない。ここでお手上げになり、石垣島でこうしたウエッブサイトの仕事をされている、高梨さんという方に依頼をした。

 その日のうちに家に来てくれて、たちまちに目の前で処理してくれた。処理法を教わったのだが、難しくて無理だと言うことが分かった。よほど勉強しなければ理解できない、独特の手順になっている。一ヶ月無料版もその場で削除して貰った。と言うことで、無料で色調整だけはさせて貰ったことになる。

 プリントパックにまず1枚を印刷依頼して、その結果次第であとの11枚をお願いするということにした。一枚の絵はがきが完成して驚いたのは私がホトショップで色調整したとおりにきたことだ。こういう経験は今までに無いことだった。

 余りにホトショップ通りなので、もっとホトショップの色調整を正確にやるべきだと反省をした。どうせダメだろうと思っていたので、明るめに調整した。印刷というと暗くなるという先入観があったからだ。明るいのは悪くは無いのだが、絵が少し軽めになった。

 次回は高梨さんと対面で色調整をさせて貰うつもりだ。ここまで出来るのであれば、画集のような冊子も可能だと思える。写真集、両面カラー印刷でA4、1000部、58ページで117,137円とある。本当だろうかという価格である。

 なんと一冊117円である。高梨さんの制作費がこれに加わるとしても、15万円で可能かもしれない。水彩人展に提案したい。一人が5部ずつ貰って、2500円集めれば、毎回会の画集を作ることが出来る可能性がある。

 絵はがきは12枚の500部。印刷費用は26、000円である。12枚セットで52円である。石垣島でも送料無料なのは良い。いままでの印刷よりはるかに安い。その上印刷のレベルは今まで格安印刷よりはかなり良い。

 印刷のずれなどは全くない。絵の回りの白い部分の幅が祭壇の歳にずれると言うことがありがちなのだが、そういうことも無い。問題の一番は写真撮影と言うことになる。写真撮影が良くなければ、良い印刷は不可能である。

 写真撮影は明るさが一定であることと、ピントが合っていることだ。それをホトショップの色調整で、原画に近づければいいわけだ。絵を見ながらやれば誰でも、かなりの範囲で出来るはずだ。写真を撮り、その場で色調整を本人を交えてやるという方式が一番良いだろう。

 撮影班と色調整班に分かれて進める。一枚5分あれば流れるだろう。120枚で10時間で可能である。つまり都美術館で1日で可能だ。そのままデンプレートに乗せて依頼すれば、1週間で画集と絵はがきが可能である。初日に間に合うように出来るかもしれない。

 
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第69回 水彩画 日曜展示

2021-08-15 04:07:47 | 水彩画
第69回 水彩画 日曜展示






392「シーラ原田んぼ」
ファブリアーノ 手漉き水彩紙
2021.8






393「倒伏した田んぼ」
ファブリアーノ 中判全紙
2021.8







394「石垣:雲湧く」
ファブリアーノ手漉き中判全紙
2021.8







395「草地」
ファブリアーノ 中判全紙
2021.8







396「夕暮れ」
ファブリアーノ 中判全紙
2021.8






397「シーラ原田んぼ」
インドの水彩紙 中判全紙
2021.8






398「宮良川中流域」
ファブリアーノ手漉き水彩紙
2021.8


  どの絵も田んぼをやりながら描いたものである。毎日田んぼに行く。田んぼに行き、田んぼをみているのが、おもしろい。田んぼの脇にアトリエカーを停めて絵を描いている。田んぼでは水管理と、ジャンボタニシ拾いをする。それから水牛の世話。

 その時の気分次第である。水牛は可愛いし、おもしろいのであれこれやってみる。小さな寝転べる水たまりを作ってやった。そこでどろんこ遊びをやっている。体中に泥を塗りたくって喜んでいる。まあ汚くなってしまったが、それが良いらしい。

 田んぼにいる間のほとんどの時間絵を描いている。シーラ原田んぼは眺めが良いのだ。海も見える。西表島も見える。そして於茂登岳も見える。川もある。草原もある。密林もある。水の張られた田んぼ。実った田んぼ。その時々の面白さがある。

 目の前の風景を描く。まったく別の絵を描くこともある。何故そういうことになるかは考えていない。やりたいと思ったことに従うことにしている。一日3枚描く日もあった。一枚も描けない日もある。平均して1枚よりは多い。
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石垣島の農地貸借について

2021-08-14 04:21:44 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」


 どこの地域でも、農家になるためにはまず農地の確保が重要である。新規就農者にとってはこれが最大の関門になる。小田原周辺の状況については、随分と関わってきたので、だいたいのことは把握している。希望者に向いた農地が借りられるかについてもかなり詳しい人間だと思う。

 農家に成るためには、農林省などの広報している、表向きの要件も重要ではあるが、実際に生活をしてゆくための、背景となる条件も考えなければならない。例えば、養鶏をやりたいとすれば、建前では出来るとしても、騒音とか、匂いとか、色々な条件でまず出来ないと考えなければならない。

 それが稲作農家を始めたいとすれば、機械ををどのように準備できて、機械小屋はどうすれば良いか。お米の倉庫はどうなるのかなど、違った条件が必要である。野菜農家であればとか、果樹農家であればなど、それぞれの農業形態によって、就農の形も異なってくる。

 小田原周辺で新規就農を希望するのであれば、今でもそうした細々とした状況に応じた相談に乗ることが出来る。その上で、そういう希望であれば、この地域では不可能だとか。誰に相談すれば、判断が出来るとか。もう少し具体的な情報も相談できるかと思う。

 本来であれば、そうした相談ごとをするのが農業委員会や市町村の農政課のはずだ。しかし、実際に相談に行った経験では、90%ぐらいの行政が頼りにはならない。それどころか、たいていの場合いかにも面倒そうにしか対応してくれない。そのために、耕作放棄地が増えてきたという現実がある。

 私が就農した形は山を開墾して農地を作り出し、その土地を農地として認定して貰い新規就農した。当時の山北町ではそれくらいしか方法が無かった。今では小田原の農家である。就業日数を満たしているとかながわ西湘農協で先日計算して言われた。

 今回石垣島で水田農地を探してみて、石垣島らしい様々な状況が分かってきた。石垣島で農業をする気は無かった。技術指導はするから、その他の準備はしてくれたら協力すると言うつもりだった。ところが、始めて見ると田んぼが好きすぎるのだ。それで今も田んぼを探している。

 毎日田んぼにいないといられないほどおもしろい。今2期作の間だけ、緊急で使わせて貰っている。これで田んぼが無くなるというのはちょっと耐えがたい。急に探すことに本気になってきた。それで石垣島の農地事情が大分見えてきた。

 自分で探さないで見ていた間は、随分田んぼ向きの土地が荒れ地になっているから、徐々に放棄地が広がっていると判断していた。ところがこれは違っていた。4つほどの理由で耕作されていない田んぼがあると言うことだ。

 

 1番目は背景にあるのは、遊休農地は確かにあるが、こうした場所を調べてゆくと、簡単には解決できないような、複雑な事情がある。リゾート開発業者が農地の先行買いを進めた時代がある。30年も前からのことのようだ。

 石垣島のリゾート地化を予測した業者は、将来の農地が転用されるだろうと踏んで、農地所有者から仮登記の形で土地を購入してしまったのだ。そしてその農地を抵当に入れてしまう。こうしておけば、誰も簡単には手が付けられない状態になる。そしてこうした農地を、行政に圧力とお金を使い転用をさせる手法である。

 農地は本来農業者以外は購入が出来ないはずである。ところが、仮登記は誰にでも出来る。理由があって手放したい人にしてみれば、売れないはずの土地を買いたいという人が居るのだから、仮登記でも何でも現金を手にできれば良いと言うことになる。

 但し、農地の仮登記というものは永遠に効力があるものではなく、5年を過ぎると一般にはその効力を失う。仮登記をしている間に、仮登記者が農業者になると言うことが想定されて出来ている制度では無いかと思う。農業者で無ければ購入できないはずの農地だから、法的にはこういうことになる。

 しかし、売ってしまった地主にしてみれば、代金は全額を受け取っている場合もだから、法的には所有者ではあるが、所有者という意識はすでに無い。もう売ってしまったと思っている。だから、30年経ったいまになっても仮登記の抹消を裁判所に申請するというようなことは無い。

 何故そういう心理になるかと言えば、農地の先行買い占めを行うような業者というのは、多くの場合得体の知れない業者と言う場合が多い。当然であろう、正式でも無い方法で農地の買い占めを進めるのだ。仮登記の抹消申請でもしようものなら、怖いスジから何が起こるか分からないという不安感を与えている。

 もちろん様々ではあるが、その農地に抵当権を付けてしまうような手法を取るのだから、それなり対抗策は打っていると言うことだろう。こうなるとなかなか解決が出来ない。これを解決できる人が居るとすれば、行政である。

 農地の徳政令である。10年を超えた仮登記の農地を一斉に無効にする手段である。そんなことをやる日本国ではないので、これは期待できない。政府という権力には、実はこの尋常では無い買い占めを行うような業者のお友達が多いようだ。もちろん多額の政治献金はしている。

 2番目にある遊休農地の状況は、所有者が石垣を離れてしまった農地である。石垣市には空き家がかなりある。これと農地も似たような事情と考えていいのだろう。空き家も近所が困るような崩壊住宅もある。石垣を出てしまい、出た親族も意識が石垣から離れてしまったのかもしれない。

 そうした農地は所有者がなかなか特定できない。もう30年以上が経過してくると、相続がされていない農地と言うことになる。こうした場合、どこの誰と交渉したら良いのかが分からないことになる。地主さんの息子さんが沖縄本島に居るらしいと言う噂だけの農地になる。

 3番目は水の問題である。近年水が減ってきているというのだ。水田だから、水が確保できなければ難しいことになる。水が来なく成ったために放棄されている農地がある。水が減ってしまったというより、水路が崩壊してきた事に原因していることがある。

 そうした田んぼを何カ所か調べてみたが、山の山林の状態は以前より密林化が進んだように見える。以前水があったと言うことだし、雨量は減少しているわけでは無い。ダムはいくつも出来たが、ダムの水系とは関係のまるで無いところで水が来なくなっている。

 水源林は自衛隊とゴルフ場用地以外では守られている感じだ。昔はそうした沢からの水しか無かったために、沢水を大切に瓦などを利用して水路を確保し、その管理維持をみんなゆいまーるでやっていた。ところが、今の石垣の水田の大多数は、土地改良整備事業で配管された水田になっている。

 そのために改良区では無い田んぼの水路管理は誰もしないことになったのだろう。欲しい沢水を大事に維持しながら耕作を続けている見事な水でもある。こうしたところは一人の方が、やられている水田がほとんどで、他の人が入ることは不可能なような状態である。その周囲が耕作されずに空いていると言うことがある。

 最後の4番目は、道が無い水田である。昔は歩いて傾斜地を登りその上で田んぼを作っていたらしい。今も道路が無いから、当然水田としては誰も使わなくなり、山に戻りつつある。こうした場所ではどうやって田んぼまでたどり着くかが問題になる。山に戻ったのであれば、それなりの役割を果たしているのだから、それで良いのかもしれない。

 さてどうするかについては、改めて書く。

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ひろい草についてと石垣島田んぼの経過報告

2021-08-13 04:43:42 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」

 田んぼに出てきているイトミミズ。写真が下手で分からない。

 コメントでひろい草についての意見があった。確かにひろい草という言葉を使っている。深く考えもせずやっていることを言葉にしたものだ。確かに草取りでは無い。田んぼでやっているのひろい草という感覚がある。草を的にせずと言うよう無いことではない。

 田んぼの雑草は一本も無いことが良いに決まっている。雑草を取らない稲作法というものも、あるようだが、雑草が増えれば収量は減少する。もし雑草を取らないで、お米がとれるのであれば、世界中の稲作がそうなっているはずだ。誰があれほど辛い草取りをするはずもない。

 ひろい草という言葉を夏の田んぼの草取りに使うようになったのは、ソバカス抑草の結果である。ソバカスでうまく草を抑える事ができれば、夏の草取りは、拾うぐらいで済ませると言うことである。いくらか残っている草を拾い歩く。

 だから、これは雑草を敵とせず、と言うよりも雑草は一本残らず取り去るという意味を含んでいる。いずれにしても、夏の田の草取りが余りに辛い作業なので、気持ちを楽にする意味で、ひろい草という言葉にした。この言葉に気をとめてくれた人が居たことは嬉しい。



 ところが、石垣島に来て少し考えが変わった。田植え2週間で草がまるで出ない。ジャンボタニシが食べてくれている。当然イネも食べることは食べた。しかし、5葉期で植える大苗作りの田植えでは、ジャンボタニシは外になるほどの食害をしない。

 これは以前から小田原で観察した結果予想していたことだ。ジャンボタニシなど大苗イネ作りにすれば心配いらないと散々主張してきた。稚苗田植えが問題なだけだ。大苗では機械化でき無いと考える人も居るかもしれないが、稲葉式であれば、大苗田植えで20ヘクタールも有機農業で耕作している人が居る。

 しっかりした苗を作る技術がますます求められる。苗作りがますます、イネ作りの決め手になる。今回石垣島というまったく違う環境で、有機農法による苗代での苗栽培をやってみた。田んぼは一枚一枚違うと言うが、小田原での環境と、石垣島での環境の違いは、大きな違いである。

 小田原で学んできた苗作り法が、石垣島でも通用することは分かった。今回は慣行農法の一期作が終わった直後に、緊急に苗床の準備をして、促成的に苗床を作った。その田んぼで収穫されたお米を播種した。完全な有機農法とは言えない、経過段階のイネ作りである。



 ここまでの手順のあらましを改めて整理してみる。
5月16日 田んぼが借りられることが決まる。
6月19日 田んぼの参加者を決める。今回は勉強会とするので自由参加。
6月20日 周辺の整備 草刈り、水の取り入れ口の整備など。苗代を作る。苗代部分の荒起こし。畦作り。1メートル幅。長さ20メートル。
6月27日 牛糞堆肥13袋。肥料撒き田んぼ水入れ。苗代と畦作り、ぼかし肥料を3袋苗代に入れる。2キロの種籾を川に漬ける。
7月4日  苗床の種まき。1メートルに100グラム。20メートルで2キロ。蒔いたならば、防鳥ネット張り。
7月11日 水牛による田んぼの代掻き。
7月18日 水牛による田んぼの代掻き
7月25日 水牛による田んぼの均し。
7月30日 苗取り 10名参加
8月1日  田植え。 30名参加。午前中でほぼ終わる。
8月2日  以降一週間ジャンボタニシ拾い。30分を10時4時を毎日。
8月10日 10日目でやっとイネ活着、早朝朝露が宿る。
8月15日 米ぬか7袋まいて、コロガシをかける。

 こうしてみると、田んぼが借りられることが決まって、まだ3ヶ月と言うことなのだ。この3ヶ月で、ジャンボタニシ対策が見えてきたと言うだけでも、大きな成果である。

 ジャンボタニシ対策は、大苗を2本植えにする。2本とも食べられることは無い。田んぼの畦際に田んぼを一周する溝を掘る。タニシは水のある場所に集まる。畦際に集まるようにしておき拾ってしまう。これは田んぼを渇かすときにも有効である。

 石垣島の田んぼではこの間2回のの台風が通過した。比較的小さい台風で風速30メートル程度である。台風で分かったことは土が風下から風上に打ち寄せられると言うこと。苗床はしっかり囲っておかなかったために、泥で埋まってしまった。

 田植え後3,4日目に、2回目の台風が通過して、かなり倒された。随分揺すられてしまい、分ゲツが10日目でも出ない。10日目にやっと活着したぐらいである。ただし、比較的良かったのは2本植えの部分である。風の強い地域では1本植えは難しいという結果である。

 ジャンボタニシの食害が怖いと言うことで、田植え後の米ぬか蒔きが、2週間後8月15日の米ぬか撒きになった。米ぬかを撒いて、それからコロガシに入ることにした。

 生育はいいとは言えない。この暑さの中、ひとめぼれを作ると言うことが無理なのだと思う。2期作を作るとすれば、2期作目に向いている品種で無ければ、十分には出来ないと言うことも、この段階で分かってきた。これは予想していたことである。

 ひろい草から田んぼのことになったが、石垣島の田んぼではひろい草は無理だ。ジャンボタニシが完全に雑草を食べてしまう。今のところ、地表の出た、田んぼ周囲にヒエが生えてきている。これを食べるか観察のために残してある。地表に出てきたヒエは食べない。

 コロガシが終わった頃から徐々に水位を上げて行くつもりだ。これで畦際のヒエが無くなるのかどうか。楽しみである。

 田んぼの鳥追いの凧は、棹を本格的な釣り竿に換えた方が良い。風速30メートルを超えた風でも、釣り竿がうまく風をかわして、凧がちぎれ手トンで言ってしまうようなことが無かった。
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大野将平選手と喜友名亮選手の言葉

2021-08-12 04:44:31 | 身辺雑記


 東京オリンピックで優勝した柔道の大野将平選手のことは深く心に残った。大野将平選手は世田谷学園の生徒だったと言うことがある。後輩である。美術の講師をしていた私としては生徒でもある。残念ながら、直接教えたことはないので顔も知らなかったのだが。

 三軒茶屋でスポーツ品店をやっていたので、弦巻にあった講道学舎の人達は店にときどき遊びに来た。余りしゃべらない生徒ばかりだった。地方出身者と言うことと、外に出る機会がほとんど無いので学校帰りに寄ることが出来る場所がスポーツ品店ぐらいだったのかもしれない。

 東京の環境になじんでいなかった。彼らは顔を合わせても私が、教師だと言うことには気付かないようだった。できるだけ長居できるように、色々の訓練機具などを出して上げて、遊べるようにして上げた。

 優勝すると何か柔道用品がもらえるようだった。生徒はお金は払わないから、あとで理事長横地さんの娘さんがいつも払いに来た。勝手に買ってしまう生徒もいたように見えた。お母さん役という印象だった。娘さんも柔道をやられていたとおもう。へーシンク選手に敗れた日本柔道復活のために出来た私塾である。

 講道学舎に対する批判も様々あった。現代社会の中で、社会から隔絶した武道の道場を行えばそういうことになる。大野選手の現代離れした、武道家としての姿は講道学舎と世田谷学園で学んだ人だと見える。こういう人が育つために、特別な環境が必要なのだ。横地氏が語られたこと。世田谷高校の教育。そういう物が大野選手の姿に現われている。

 講道学舎は 1975年、 ダイニッカ株式会社代表取締役社長 横地治男により創立され、2015年閉塾。これまで古賀稔彦(6期生)、吉田秀彦(8期生)、瀧本誠(13期生)、大野将平(30期生)と4名のオリンピック金メダリストおよび6名の世界柔道選手権優勝者が活躍した。 

  大野選手は中学生の時から高校卒業まで講道学舎にいた人だ。講道学舎が閉校する最後の時代の生徒である。40年間講道学舎は続いたことになる。日本の武道の精神を育てようという、厳しい場だったとおもう。

 大野将平選手は世田谷学園の禅による教育の影響も受けていると思いだした。話す言葉からそのように感じる。世田谷学園は毎年10名以上東大に進学する学校である。東大に柔道部からも進学している。世田谷学園を止めて随分たつので、今のことはほとんど知らないが、独特の学校だったと思う。

 先日無くなられた古賀稔彦氏、オリンピック2連覇した大野将平選手。いずれも知性派である。成績も悪くなかったはずである。古賀氏は世田谷学園に大学に行ってから、教生として来ていたこともあった。とても繊細な人で柔道家と言うより弱い感じの人あった。吉田氏とは偶然、焼き鳥屋で一緒に飲んだことがある。その時の態度が昔の生徒として接してくれたことは、嬉しかったし驚いた。

 武道家として道を究めると言うこと知性的なことなのだと思う。二人とも口にしていることは、武道家としての道は終わりがないと言うことだ。金メダリストは成し遂げたあとの生き方にこそ、真価を問われることになる。

 人生の修行の日々は、武道の道以上に厳しいはずだ。若く達成した人はその重荷を背負って生涯修行の道を生きなければならない。若く評価された絵描きの大半がその後成長しない姿を見れば、評価されることでダメになる理由がよく分かる。古賀氏はその厳しさをよく知っていたから、寡黙だった気がする。

 大野将平選手は3度目のオリンピックを目指すのであろうか。今の自分を打ち破れるほど強くなれることは無いと考えるのであろうか。これからのきびしい道を見事に歩んで貰いたいと思う。大野選手ならそれができる人に見える。

 もう一人の傑出した武道家が、喜友名亮選手である。空手が生まれた沖縄の傑出した武道家。この人も、日本の武道という修行の道がなんたるかを示してくれた。動きの中に籠って行く精神。空手の本来の意味を世界に示したのではないか。ただのスポーツとしてみる人にはこのことは分からないことだ。

 武道は相手を戦うものである以上に、自分を高めるためのものなのだろう。国宝の絵を描いた剣豪が宮本武蔵である。空手の型の演武というものがどれほどすさまじいものであるか教えられた。動きの中にすべてが表現される。日本の武道の姿の発出。

 太極拳や八段錦をしている。動禅体操をしている。動きの中にどのように自分を込めて行くのかと言うことは日々取り組んでいる。もちろん、へなちょこではある。それでも、喜友名選手の精神の身体的表現には教えられるところが、多々あった。

 肉体と精神の統一。世田谷学園は空手型では何度も全国優勝している。前山本校長が空手をやっていたと言うこともあり、教師の中に型に取り組んでいた人が二人居たと言うことがある。空手道と禅の考え方は通じるところがあるのだと思う。

 空手は武道ではあるが、攻撃する武道では無い。琉球王朝という武器を取り上げられた国が、唄と舞踊と空手道を武士のたしなみとして、平和国家を作り上げた。空手に先手なし。あくまで自らを究める為の武道。組み手が空手を充分に表現できていないのは、スポーツとしてのルールがあるためである。

 太極拳が型と組み手としてユースオリンピック種目になる。これをみると、中国の考える武術と日本の武術の違いがよく分かる。中国では禅が消滅したように、精神性という曖昧さが理解しにくい民族だと言う気がする。

 何故、ヨガが達磨大師によって禅としてインドから伝わり、中国では変貌していったが、むしろその中国から伝えられた日本で、禅というもののは完成したような気がする。こういう所は日本文化の学んで育てる事ができる良さでは無いだろうか。

 太極拳や八段錦が、日本で洗練されて行く中で、禅的な物を取り入れて行く。ところが中国ではより演舞的な物になり、より曲芸的な動きになる。自己鍛錬というよりは、見世物的武術になる。太極拳の中国の中心人物は大道芸として、木戸銭を集めて活動していた人だという。

 お金を取れるいわばシルクドソレーユのような芸は、武道とは言えない。大道でお金がもらえる芸になることで、失われる精神性がある。精神性は大多数の人には分かりにくいから、宗教にならなければ、お布施はもらえない。

 この点でみれば、現代中国の絵画がつまらないものであることと呼応している。ところが、今の日本はこの中国の商業主義を後追いをしている情けなさである。拝金主義は文化にとっては実につまらないものだ。

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 東京オリンピックが終わって

2021-08-11 04:35:12 | 水彩画

 水の来たシーラ原田んぼである。今度この風景を描いてみたいと考えている。水が田んぼに来る緊張感。耕作のいよいよ始まる緊張感。期待感。代掻きをして、来年まで待つ田んぼが多い。この環境が水鳥たちにとって、とても良いのだと思う。

 ただこういう風景は写真でもう十分というところがある。絵はこういうものを描くものではないと言う意識。そう思いながら、この一週間この風景を見ながら、他の絵を描いている。

 東京オリンピックが終わった。無観客という特別のオリンピックが終わった。テレビ観戦している分には、観客が居ようが居まいが変わることは無かった。選手にはどうだったのだろう。応援があると、選手の力が発揮されて地元が有利だと言うことを言う人が居たが、そんなことは無かったようだ。

 何しろ、日本選手が58個ものメダルを獲得したのだ。観客がいないでも頑張る人は頑張れたのだろう。むしろ、観客がいなかったために、本来の力が出せた人が居たと考えてもいいように思う。開催された事への感謝を語る選手が多かったのも印象的である。

 日本選手はオリンピック開催反対の70%の世論の中でオリンピックの開催を願った。苦しかったことだろう。この引き裂かれるような現実の中で全力を出すことができなかった人も多かったのかもしれない。選手は少しも悪くない。選手の頑張りで大いに励まされた。日本人のどん底での頑張りのすごさをテレビで見せて貰った。

 見られていると言うことはなかなか難しいことである。無観客と言うことは、選手にとっては海外で開かれたオリンピックに近かったのだろうか。期待されていると言う気持ちはある。しかし、それが目の前の観衆という現実では無い。

 描いた絵が見られると言うことは、描くと言うことに、どんな影響を与えるのだろうか。日々描いていてもまったく見せなかったという人が居る。描いていることすら人に見せなかったという人が居る。ゴッホも発表したいと思いながら、発表は出来ないまま描いていた。

 会津の牧師さんで発表しなかった人が居る。名前を今思い出せないが、一枚絵を持っている。無くなられてから、渋谷にあったゆうじん画廊で遺作展が企画された。画廊のオナーが会津の人で、そういう不思議な絵画あると言うので遺作展をされたのだ。

 なかなかおもしろい絵だった。夜の絵だけだ。風景画なのだが、夜の絵だけである。昼前を描いていれば、人に見られてしまうので、夜になるとこっそり町に絵を描きに出たらしい。だから明かりのある街灯の下で遠くから絵を描いたのだ。

 その人にとって絵は何だったのかと思う。見せない前提で描いているのだから、表現で無いことは確かだ。自分の楽しみであったとすれば、ずいぶんくらい趣味である。たぶん趣味では無い。やむにやまれる思いが絵にある。夜の町の風景ばかりなのだから、どこか陰惨な感じがする。

 私の持っている絵は、夜の街角で、集まってたき火を囲んでいる路上生活者の絵である。牧師さんが路上生活者を遠くから見て、隠れて絵に描いている。この状況は興味深いものはあるが、どう考えて絵を描いていたのかは、絵を見ると分かる。

 突き放した感じである。対象としてみている。路上生活者だとは分かる。特別な感情は無いようだ。絵を描くと言うことが、外科医が物として手術をしているような感触である。そう真っ暗な空から雪が舞っている。これは隠れて描くしかないような絵だ。描いているところが見つかれば、ただではすまないだろう。

 そんな絵を描いて、何百枚も仕舞ったまま死んでしまった水彩画家もいる。私はその人の絵を見て、この絵は絵描きのひとりだと思って購入した。その絵は写真を撮って公開しても良いのだが、そうしたことは望まない人だった気がするので、公開はしない。私が死んだときに失われるのかもしれない。

 水彩画日曜展示を続けている。見られるという意味を考えてのことだ。人との交流を絶ってしまい、絵がおかしな物になってしまった人を知っている。石垣島で絵を描くと言うことの危険はあると思っている。禅の修行もひとりで行ってはダメだと山本老師は言われていた。

 インターネットでの絵の公開は、今可能な公開法だと思っている。日曜展示を始めなければ、描くだけで公開しない状態になる。日記と公開日記が違うように、人に見せる作品という意識で絵を描くことは意味があると考えている。

 私絵画に置いては、表現の位置の置き所は難しい。自分のために描く絵であるが、絵を自分の内的表現にまで食い込ませて行くためには、公開する必要があると考えている。人に見て貰うと言うことが無ければ、方向を誤る。

 ただ、インターネットで公開すると言うことと、画廊や美術館で絵を見て貰うと言うこととは違う。直接見て貰い、意見を聞かせて貰えると言うことは確かに重要である。千日回峰行の行者は京都の町中まで歩く。町を行き交う人が尊い行者として手を合わせる。修行を見せると言うことの必要性。お布施を頂く人間であると言う自覚。托鉢修行。

 人間のための学問と言うことが言われる。人間の幸せのための科学。人間社会を滅亡に導くような科学的発見が、ますます増えて行く。科学者が象牙の塔の中で、真理の追究だけしていて良いはずが無い。学問科学の研究の公開。見られていることで、人間は過ちを減らすことが出来るのかもしれない。

 見られていることで正しい方向の努力が出来る。努力は一人ですることではあるが、辛い努力になればなるほど、人間性を失う可能性がある。耐えることだけを身につけるとすれば、間違った努力になる。

 人間のための絵画。人間を豊かにするための絵画。そういうことは直接の方角ではないと思っている。自分の絵画を探求することが、人間のためでもあると言うことだ。そのためには、自己探求の為に描いた作品を何らかの形で、公開してみて貰う必要がある。

 オリンピックは無観客であったが、何らオリンピックの意味を減ずることは無かった。いつも以上の物であった。日本選手のいつも以上の頑張りが見れた。選手には平時の開催が出来なかったことを申し訳なかったと思う。

 
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動禅体操をやり続ける意味

2021-08-10 04:01:41 | 暮らし
 先日の台風で倒れた3番アコウの大木。樹齢250年以上とのこと。今はきれいに整えられ、新しい葉が芽吹いている。

 毎朝動禅体操を1時間弱行う。だいたいの所、目をつぶって行っている。眼を空いていると、視覚に頼ってしまうからである。動禅体操はすべて目をつぶったまま行うことが可能な体操である。視覚に頼ることは禅に置いては望ましいことでは無いと思う。

 禅は半眼で行うように指導された。眼は空いたまま行うようにと、臨済禅の僧侶が書かれているのを読んだことがある。色々あるのかもしれない。師である山本素峯老師から、眼は薄く開けて、見えていて見ないという状態で行うように言われた。

 世田谷学園には座禅の授業があり、その授業の時に教えていただいたことである。山本先生は永平寺から戻られて、世田谷学園に来られた。禅坊主という者の、格段の人間力に魅了された。週一回早朝禅も行われていた。

 禅はすべての感覚を、自由な状態に置くと言うことなのだと思う。人間の脳の中は雑念がひっきりなしに通り過ぎている。これを無念無想にする。これが最も困難な修行だと思う。50年を超えてやってきて今も出来ない。出来ないために、動禅という動きに頭を集中させることにした。

 音楽を聴きながら動禅体操を行うとすれば、音楽の動きに合わせて呼吸をすることになる。呼吸は自分の吸気呼気の間隔で行わなければならない。自分の中で一番深い、長い呼吸の速度で行う。人の速度とも合わせる事はできない。

 目を開いて視覚に頼って動禅を行うと、体重移動の安定を視覚に頼ってしまうことになる。体内感覚としての体重移動を重視したいとすれば、視覚的では無く、内的感覚を呼び覚ますように体重移動をした方が良い。それはなかなか出来ない動きと言うことになる。

 身体の中にある。体内感覚を呼び覚まし、鍛えて行く。見ていてみないことが出来ない以上、目を閉じてしまうことにした。そうするといままで出来ていた動きが、急にたどたどしい物になる。思わず転びそうになることも出てくる。

 うまく出来ない動きをあえて動いてみる。この揺らぎを修正しようとする感覚が徐々に育ち始める。ここが重要だと考えている。出来ないことを何とかしようとやることだ。いつの間にか目を閉じたまま出来るようになっている動きもある。このいままで出来なかったことが出来るようになる過程が、学びの重要性である。

 生きて行くと言うことは、出来なかったことを出来るように努力することである。もしかしたら、出来ないまま死ぬのかもしれない。それでも出来ないことを何とかしようと努力することこそが、大切なことだと考えている。身体を整えると言うことはそういうことでは無かろうか。

 出来ることを出来る範囲でやっているのが、ラジオ体操である。それはそれで意味はあるわけだが、努力して獲得して行くという身体的感覚を育てることは出来ない。身体の動きは意識的なことではない。歩くためにどのように足を出すかなど考えていない。

 身についた自然の動きで日常は出来ている。この身体的動作感覚が重要なことになる。知らないうちに動ける。知らないうちに動禅体操が進んでいる。動禅体操の途中でどの動作を動いていたのかが分からなくなることがある。

 書を描いていると、字を忘れている。動禅体操も似たようなことで、動いている内に、動きそのものになり、どこをどう動いているのかが分からなくなる。知識で動いているのではないので、とつぜん順番が分からなくなるのだ。

 そこで、5段錦とか、動きには名前がある。その動きの名前を思い出すと、その動きに戻る事ができる。しかし、何段だったのかも分からないこともある。そういうときは余り気にせず。思いついたところから続けることにしている。覚えたことを完全に忘れてしまうことが重要である。記憶する能とは違うところで動く。

 名人伝にある。弓を見てこれは何に使う物かと、聞いた弓の名人の心境に近い。知識から離れると言うことの重要性。足はどう出せば良いかと考えている内は、立ち止まり動けなくなる。歩くと言うことは、意識を消して正しく足が出せるようになるまで、反復練習をするほかない。

 絵も同じだと考えている。絵を知識で描いているのでは、それなりの範囲である。絵という物はこういうものであるという観念で描いていることになる。今何をやっているのかさえ分からないまま、描けるようになる必要がある。その状態の意味は出来上がった絵が示している。

 おかしな方角に進んでいれば、改めて絵を見て正せば良いことだ。出来れば、仲間と絵を挟んで語り合うべきだ。水彩人をそういう仲間だと思ってきたのだが、いまは会うことも出来なくなっている。それも運命なのかもしれない。明日は会議があるが、私には行くことが出来ない。

 仕方がないと言うこともあって、日曜水彩画展示を始めた。せめてもの事である。決してそれが良い発表方法だと考えているわけでは無い。ただ描いているだけよりはいい。一日一枚は描いて、100歳までやるつもりで居る。

 出来ないことをやる。24式の太極拳も目をつぶってやっている。もちろん出来ないでよたよたする。時には動いている方向も分からなくなり、とんでもなくムキに成っていることすらある。それでもいつか出来るだろうと考えて、出来ないなりに進めている。

 動禅の終わりから2番目の動きに「片足立ち金魚運動」という動きをやっている。両手を頭の上で組み、片足立ちをして片足は前に上げる。そのまま静かに金魚運動を220回行う。足を変えて又20回。合計80回。これができない。たまに出来る日もあるが、ほとんど5回ぐらいである。出来ない動きがあることは、重要なことだ。

 1年ほどこんな具合で進めてきたら、何とか全体を目を閉じたまま、それなりによたよたしながらやれるようになった。パラリンピックに太極拳があれば、視覚障害者部門の練習のようだろう。しかし、目を閉じた動禅体操は内容は以前より深くなった気がしている。実は絵を描くときの心境が、近い物になってきた。良い絵を描こうという意識が少し薄らいできた。

 呼吸も意識せずとも動きに応じて少し一定に進化している。やれば出来る物だと思う。動禅体操を毎朝するようになったのは石垣島に来てからである。つまりそろそろ3年目と言うことになる。すぐ忘れてしまうのだが、ブログを調べれば、そういうことは分かる。

 覚えるのに1年はかかっただろう。もちろん眼を空いたままやっていた。2年目は太極拳を自分なりに動禅体操に変化させた。3年目は目を閉じたままやるようにした。今でも今日は一通り、やり抜くことができるだろうかと言うぐらい、自信なく頑張ってやっている。

 すぐに止めになりそうだ。やりたくてやっていると言うことでも無い。修行のつもりで、努力しているという感じだ。目を閉じてやるようになり1年が経ち、動禅の意味をすこしづつ感じ始めているらしい。進んでいる感じがするので、もう一息である。これは頭がぼけてきて、若い頃のように、雑念が湧かないせいかもしれない。

 全体の中に、立禅と仰臥禅を入れているのだが、静かにすべてを受け入れられるような気持ちでやれるようになった。空手の型はすごかった。是非、喜友名亮選手の演舞を拝見したいと思っている。動禅は採点競技ではないので、何点かは分からないが、すこしづつ深まっているので良いかと思う。

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台湾現代小説

2021-08-09 04:41:52 | 

 3羽のタカが台風余波の風に煽られて、ちぎれそうに飛んでいる。風を切る音が、ビュービュウーとまるで泣いているようだ。風が無ければタカは地に落ちてしまう。風が強すぎれば糸が切れて飛ばされてしまう。風に従うだけなのだが、その運命を受け入れきれないようなタカの凧。

 石垣島の古書店で本を物色していたら、「3本足の馬」という台湾の本があった。翻訳されたものである。台湾現代小説選Ⅲというものだ。1985年出版、山本書店出版部から出た本である。この本を読んで、少しだけ台湾の理解が深まった。

 古本探しが出来る島というのもいいものだ。石垣島が台湾に近いので、こういう本が古本屋さんにあるのだろうか。ちょっと無いくらい大きな古本屋さんなのだ。アトリエカーの中で読んだ。アトリエカーは昼寝をしたり、本を読んだり、カンムリワシの観察をしたり、色々具合が良いのだ。

 これがなかなか重たい本だった。本が醸し出す匂いが、台北の現代美術館で見た絵と共通のものだった。血が匂うような激烈さが潜んでいる。台湾の置かれた、政治的苦境のようなものが、表現の背後に横たわっている。この暗い重さのようなものは、今の台湾社会のどこか緊張した空気にも通じているのかもしれない。

 台湾は優しい国である。しかし、その優しさの奥に、常に人を意識しているという国民性があるような気がしている。複雑で、深刻な物を抱えているからこそ、人に対して優しい社会が生まれるのだろう。人間の奥行を感じる国だ。そういうことを、台湾の現代美術館で感じた。

 その台湾の人々の根底にある重圧のような物が、小説の中にもある。但しそれは80年代のことだ。今から40年も前の小説である。今の台湾は繁栄して、重さは無いかのような賑わいである。それでも、どこか日本には無い緊張を感じた。

 台湾の方が日本より、現実の社会という気がした。疎外されていない人間が生きている社会である。絵も生きることから生まれたような絵画だった。日本の美術展が趣味的な商品絵画に溢れている理由を改めて感じた。日本の社会が精神という物を失いっていると言う現実。

 日本社会は疎外が進んで、現実というものから距離を持たされていると言うことなのかもしれない。日本の現代美術館で感じる、絵空事感との違いが気になるところである。その台湾が日本の現代美術に強い関心があると言うことも、また気になるところでもある。

 この辺の空気感違いは、感じるところではあるが本当のところは分からない。分からないのだが、何かこのあたりに重要なことが潜んでいる気がして成らない。何なんだろうと思いなが、台湾の40年前の80年代の本を読んだ。

 「3本足の馬」チョン チンウエン と言う人の作品である。1932年桃園で生まれる。日本の軍事支配。日本の敗戦。日本人への報復。蒋介石軍が本土から台湾へ逃亡し、台湾を支配。そして日本支配とは比べられないほど中国の本省人から弾圧される台湾人。

 その後高度成長期が始まり、価値観が劇的に変貌して行く。その80年代の台湾の置かれた情勢の反映。蒋介石軍によって徹底的に弾圧された、台湾の民主主義、共産主義。日本時代に培われた物すべての否定。この複雑な社会構造から生まれた小説。

 一本足の無い馬の彫刻。その説明はどこにもないのだが、足の無い馬とはどこにも行けないと言うことではないか。逃げることもできない。飛躍することも無い。ただ過酷な運命の受け入れた、多分使役用の馬だろう。日々を重荷として生きる馬に象徴される物。

 絵のことを考えた。絵は生きると言うことを反映しているはずだが、現実が存在しないかのような日本社会の中にあって生きることと絵とは距離がある。生きることに向かい合う所に行こうとしている私絵画、そうあればそうあるほど社会の空気と離れて行く。これが日本の現実。現実である以上その空白のような物に向かい合う以外無い。

 コロナの対応でも政府が、感染した人の対策で考えついたのは、自宅療養。ワクチンを打たないで、感染するのは自己責任。冷たい政府。人間性を放棄したような対応が、この疎外社会の現実。経済優先の邪魔になるなら、すべて切り捨てるのが経済合理性。医療の充実などお金がかかりすぎる。政府が堂々と国民の選別を行う国に日本は成ってしまった。

 このことがどのように絵に反映してくるのだろうか。石垣島で、天国のような暮らしをしながら、このひどい社会の現実を避けるだけなのだろうか。道元禅師の時代は過酷な戦乱の続く時代である。その中で日本が禅という哲学を模索した意味を考える。

 この美しい石垣島に、ミサイル基地を誘致する人達がいる。金儲けの為が主たる理由であろう。理由付けは様々するが、要するに経済が頭の中にある社会。土建の仕事になる。土地を高く売ることが出来る。人口が増えれば、消費も増える。国の安全保障も金儲けの理由になる。

 このどうしようも無い日本の現実を、台湾の80年代の小説が明確にしてくれている。どこまでも日本に対する精神を破壊する悲惨な、反植民地の抵抗運動の存在。日本の現代社会には無い世界である。天国のような石垣島で、改めて考えれば、どこにでも地獄への道が開かれている現実。

 しかし、抵抗すら場所すら見いだせないむなしさはどこにあるのだろうか。高度成長によって金権主義に押し流されて行く人間性。他人ごとではない恐怖に襲われた。ため息をつきながら読んだ小説。台湾へもう一度行ってみたいと改めて思った。

 台湾の高度成長は中国以上に箱庭的である。誰もが当事者のような台湾。台湾の今を知ることは日本の自分の現実を改めて考えることになる気がしてきた。もう少し台湾の小説が読みたくなった。
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第68回 水彩画 日曜展示

2021-08-08 04:03:54 | 水彩画
第68回 水彩画 日曜展示

台風の強風下、写真撮影をしたので、絵が曲がってしまった。







378「西表島」
ファブリアーノ 中判全紙
2021.8







379「ブーゲンビリヤ」
インド水彩紙 中判全紙
2021.8







380「シーラ原田んぼ」
ファブリアーノ手漉き紙
2021.8








381「小さな夜に」
インド水彩紙 中判全紙
2021.8







382「松本の明かり」
ファブリアーノ 手漉き水彩紙
2021.8








383「シーラ原田んぼ」
ファブリアーノ 中判全紙
2021.8







384「幸福牧場」
ファブリアーノ 中判全紙
2021.8

  色々の絵が出てくる。描いていると急におもしろくなってきて、その方向に進んで行く。描き出す前に意図があるわけではない。描きだした絵に従っているだけである。時にはまるで試行錯誤だけで、糸口が見つからない日もある。

 どんどん進んでしまい。すぐ出来上がってしまうこともある。そういう日は一日で3枚も出来る事もある。別段急いでいるわけはどこにも無い。絵が終わってしまえば、次の絵を描くことになる。描きたいという気持ちは限りなく出てくる。

 描いていればおもしろくて止まらない。やはり、進んでいるような気がするので、おもしろいのだと思う。本当に進んでいるのかどうかは分からない。絵が描きたくて仕方がないのだから、ともかくこうやって行こうと思う。
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コロナ入院制限とは何事か。

2021-08-07 04:37:22 | Peace Cafe


 菅義偉首相は新型コロナウイルスの急増地域では、入院を重症患者や重症化リスクの高い患者に制限し、自宅療養を基本とする方針をまとめた。4日夜、菅義偉首相は「必要な医療を受けられるようにするための対策である」と述べ、撤回しない考えを示した。  

 コロナには間違っても感染できない。何しろ感染しても病院には入れてもらえないことになるらしい。自宅療養しろというのが政府得意の自助努力だ。ひとり暮らしだったらどうなるのだろう。ああ恐ろしい。ついに日本はここまで落ちぶれた。

 日本での感染者数は100万人を超えた。これは125人に一人が感染したと言うことだ。死亡者は1万5261人 。死亡者数も昨日は20人と増えてくる傾向も見られる。ワクチンが遅れている間に、ウイルスが手強く変異した。

 必要な医療というのは、重症者の医療と言うことだろう。それならまず自宅療養者にどういう対応をするのかを説明して貰いたい。ここまでやるから自宅療養で頑張って下さいと言うことだろう。

 自宅療養者が出歩いて感染を広げることはかまわないらしい。ひとり暮らしであれば、どうしたって生活のためにスーパーに行ったりする。軽症の人は外食に出かけてしまうかもしれない。

 ついこの間まではコロナは指定感染症2種。設備が整えられている感染症指定医療機関(特定、第一種、第二種)に原則入院する対応が取られています。行政による勧告での入院 。現在でも指定感染症期間が2年に延期された状況である。

 指定感染でありながら、自宅療養を政府が主張するなど、まともとな事では無い。要するに医療崩壊が近づいていると言うことだ。医療崩壊しないためには、軽症の人達は医療機関は対応できないという現実である。医療を準備できなかった政府はどう責任を取ってくれるのだ。

 また、自宅療養者が感染を広げることをどのように防ぐのだ。まず、自宅療養の十分な対応策を示すことだろう。食事などの暮らしの基本を保障しなければならない。そして、重症化への以降の監視を行政の責任でおこなわ無ければならない。

 すでに東京には自宅療養者が1万6000人居るとテレビは叫んでいる。これから、自宅で死亡してしまうコロナ患者は増えて行くに違いない。コロナに感染したと言うことは、重症化する可能性は誰にでもある。この危険な病気で寝ている人が、一体どうやって冷静に重症化の判断ができるのだろうか。

 心配になったひとり暮らしの若者が、東京都に感染したときのためにどんな準備をしておけば良いか保健所に尋ねたそうだ。その応えがなんと、水とのど越し良い食事を準備しておけと言われたそうだ。行政はもう人間としての対応の限界を超えているのだろう。

 これは要するに棄民だ。国民を投げ捨てたのだ。病気になったのは自己責任だというのだろう。自宅で無く、せめてホテルに収容すべきだろう。食事も自己責任。自宅療養者にパルスメーターすら配らないという。政府は要するに対応を放棄したと言うことと考えざる得ない。ひどい国に生まれた哀れを見つめるほか無い。

 政府はコロナに対応する有効な手段が見いだせない。能力がないので、国民を切り捨てたのだ。オリンピックは開催しておきながら、一体どういうことだ。何が大切なのかがまったく分かっていない。国が一番大切にすべきことが国民の命である。今は国威発揚どころではないのだ。

 こんな事態に陥った背景にはワクチンが遅れていることがある。一番ワクチンが遅れている国が日本なのだ。この能力不足は外交力の不足。判断力の不足。医療水準の遅れ。結局は金儲けにならないことには力不足なのだろう。

 政府には有効な手立てが無い。病院も医療崩壊が近い。唯一の手立てが、入院制限ということになった。医療崩壊しないために病気になった人を病院が挙止する。こんな馬鹿げた政府を持った我々が、哀れだ。許せない無能な悪人として菅氏を記憶に止めておこう。これほど馬鹿げた総理大臣は滅多にいないだろう。

 これはワクチンを打たない人への生命の脅しなのかもしれない。ワクチンを打たないで居れば、感染しますよ。感染しても病院には入れませんよ。恐怖の自宅療養して下さい。ワクチンを打たない自業自得なのだから、自己責任は当然です。嫌ならワクチンを早く打つことです。こう言いたいのだろうか。

 いくら打つ手なしでも、これは無いだろう。「だから早く、ワクチンを打て。」政府の本音ではこう言っているのだろう。それならもっと早くワクチンを確保して、どこでもいつでもワクチン接種できるようにしなければダメだ。

 アメリカでの菅氏とファイザー社の社長との電話での約束はどうなったのだろうか。ぜんぶ嘘だったのか。たしか、オリンピックにも来て、菅氏は会ってお礼を述べたたはずだ。とすると、オリンピック選手のワクチンの依頼だけだったのか。

 企業での集団接種も止まったままだ。打ちたくとも打てない人が若い人の大半なのだ。まあ、打てるのに打たないで居る若い人は論外であるが。確かに副反応は一定ある。ワクチンだから当然である。しかし、感染して重症化する可能性よりはるかに低い。

 しょうが無い。これも我々が選挙で選択した政権である。諦めるほか無い。諦めるしか無いが、泣きたくなる。これほどに無能な人間が何故総理大臣なのだ。政府を頼るな。あんたが入院できる病院はもう無いとへいぜんと自助を述べることのできる政府。

 今は町では火事が起きている。その最中に、町内ではお祭りをやっている。お祭りは確かに楽しい。しかし、火事は誰かが消さなければならない。火事の方はひとまず置いておき、それぞれが対応して下さいでは、火事は広がるばかりである。

 金メダルを取ったという、次のニュースがコロナで東京4000人の感染が3日連続になった。近々1万人もあり得ると言うことになる。頭が切り替えられない。オリンピックが終わったときに来る、脱力感は、祭りの後の恐ろしさということになるのだろう。

 空手で喜友名 諒 選手が金メダルは嬉しくて、沖縄県人として、万歳を叫んだ。沖縄のコロナ日本一の蔓延も、一時は忘れた。心よりおめでとう、ありがとうである。コロナでの一年延期の精神的重圧を見事に空手家として乗り越えた。コロナ感染もあったのだ。心の中が分裂してしまいそうだ。
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石垣島田んぼ田植え4日目の様子

2021-08-06 04:01:43 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」

 石垣島田んぼは8月1日に田植えをした。今日で5日目になる。昨日は台風余波の強い風が続いたので、今朝田んぼに行くのが怖い。苗が元気にしていてくれるだろうか。タカの凧は3つとも下ろしてある。下ろしたら、途端に白鷺が来た。

 上の写真は田植え後3日目の補植したあと。前後5日間水が止まり、川から水をポンプアップしてしのいだ。川にも充分に水があるわけではないので、しばらく溜めてはポンプを稼働させて、しのいだ。一部枯れた苗も出てしまった。

 8月4日に補植が終わった。一部ジャンボタニシに食害にあっている。許容範囲であるが、これも気になるところである。小さい倒れた苗は倒されて食べられている。早くしっかりした株になってくれることだけだ。タニシ拾いはさして大変なことではない。

 4日目になり、台風が近づき、かなり強い風が海から吹き込んだ。多くの株が倒されつつある。黙ってみているしか無い。心配だがどうにもならない。今日風が収まったらもういちど手直しをしたい。どれだけ被害を受けるだろうか。

 草がまったく出ないのだから、タニシ取りだけですむなら、どれだけ楽かと思う。タニシ対策はやはりしっかりした大苗を作ることだ。それは石垣島の強い風邪対策にも成る。今年は慌ただしく苗を作ったので、不十分な苗である。しっかりした苗になれば、ジャンボタニシも大風も被害は小さくなる。



 来年は畦際に溝を掘るつもりだ、畦をしっかり作ろうとすれば、自然畦際には溝が出来る。その溝に田んぼの水を落とせるようにする。そしてその溝にジャンボタニシを集める罠を仕掛ける。黙っていても水のあるところにジャンボタニシは集まってくるようだ。

 罠は色々タイプがあるようだが、要するに水のある場所にエサを置けば集まる。集まって出られないようにしておけば、自然確保できる。そうしておけば、ジャンボタニシの密度が減る。密度が減れば、食害も当然減る。

 そしてイネの株が堅くなって食べなくなった頃には雑草を食べてくれるようになる。実際に田んぼで雑草という物を見ることがほとんど無い。草取りの手間を考えれば、ジャンボタニシ拾いぐらいはたいした手間では無い。これからもジャンボタニシ観察と研究は、結論が出るところまでやるつもりだ。



 水鳥対策はタカの凧3羽で何とかなっている。海側から水鳥は来るので、この谷間の入口に、3羽の鷹を飛ばせた。凧を飛ばしてから1羽の水鳥も見ていない。いつ頃成れてしまうのか。これも重要な要素になる。今後はイノシシと、孔雀の問題である。

 電気柵、ネット、準備はしておかなければならない。必ず現われるだろうから、あらかじめ用意しておく必要がある。まず山側にネットを張る必要はあるだろう。孔雀がネットぐらいで来なくなるかどうかはまだ分からない。ただ、ハブを見かけたことが無いのは孔雀の御陰と考えていいようだから、目の敵にするほどのこともないかと思っている。

 石垣島でのハブに噛まれた被害は年々減少している。一月に1件くらいのようだ。減少の原因は孔雀が増加していることにあると思われる。石垣島にいるハブはサキシマハブである。サキシマハブに噛まれる人は2019年には15件。内2件が血清を使ったとある。



 田んぼの周辺ではセマウルハコガメは見付けたが、ヘビそのものを一度も見ていない。小田原では田んぼでヘビを見ない日が無いのだから、いかに石垣島はヘビが少ないのかと思う。孔雀が増えたことが原因しているのだろうか。申し訳ないことだが田んぼの活動にはハブの心配がないことは有り難いことだ。

 田植えしてから、水が来ないこともあり、淺水を続けている。淺水を続けることが、ジャンボタニシの移動を妨げ、被害を減らすことになる。水たまりを中心に拾い歩けば良いと言うことになる。田植えがしっかり出来ないで、倒れた苗は確かにジャンボタニシに食べられる。

 少し深植えになるとしても、苗は倒れないように植えなければならない。これは来年は田植えの時の重要な指示項目になる。初めての人が田植えをするのだから、分りやすく説明をする必要がある。今年も最初の時間に来てくれた人は良かったのだが、遅れてくる人が多く説明を聞かないで始めてしまう人がかなり居た。

 苗は3日目に水が来て遅れて活着した。水が来て葉の緑色が一気に上がってきた。一部に葉先に水滴がついた苗が現われた。植え痛みもかなり目立ったのだが、補植をかなりしたので、3日目には全体ではそこそこの田んぼになった。

 線引きはかなりうまく行った方だろう。田んぼでは縦横だけで無く、斜めの線もきれいに出ている。今回の新しい田んぼは、学ぶことが山ほどある。沢山学んで次に備えたい。必ず石垣島の有機のイネ作り法が見つかるはずだ。

 一番学んだことは7月の苗作りは、大変と言うことだった。苗が早く生育しすぎて、がっしりした物になりにくい。1月の苗作りであれば、こういうことは無いはずだ。石垣での良い苗作りを研究すること。苗床と本田の関係も、分けないと難しい。

 田んぼの土壌をよくして行くための、緑肥作りも必要である。ヘヤリーベッチならばうまく育つのだろうか。今から少しヘヤリーベッチを蒔いて様子を見てみたいと思う。
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オリンピックで学んだ諦めない生き方

2021-08-05 04:38:00 | 水彩画

 田んぼに上げた、鳥追いの凧。棹は釣りざをを購入してその先に付けた。付属品の棹よりも、改めて購入した棹は具合が良い。かなり強い風に吹かれても、棹が対応してくれている。元気な魚を釣り上げる棹だから、けっこう強い物だ。棹が風に対応している姿は実に見事だ。

 オリンピックを見ていると、人間のすごさというものが形に表われている。人間の極限が形になって、現われていて人間はすごいものだと思う。人間はあそこまでやれるのだと言うことが、目の当たりに出来る。選手は大阿闍梨と言うことになる。諦めてはならないと言うことである。

 オリンピック選手と比べたら、誰だって恥ずかしいくらいのことであるが、人間は誰もがそれぞれの、千日回峰行をしている。10歩歩くことが、限界の人も居れば、10万歩毎日歩ける人も居る。その人の限界で努力することが大切なことだと思う。

 オリンピックには勝ち負けがある。勝ち負けは分りやすいことだが、力を出し尽くして負けたのであれば、やはり見事だと思う。オリンピックの試合が自己最高のものであれば、なんの悔いも無いはずだ。悔し泣きをする選手を見ていると必ず学んだ物があると思う。

 絵を描いているわけだが、人と比べて見れば、どうにもならない程度のものかもしれない。それでも、諦めずに行けるところまで行ってみたいと思っている。今描く事のできない、おぼろげながら見えている次の世界を、画面に表してみたい。自分の目が見えているところが、画面に現われてくるところまではやってみたい。

 見えているのだから、出来ないはずが無いと思っている。技術語り無いから出来ないと言うことや、努力不足で出来ないと言うことだけは嫌だ。自分がまだよく見えていないからかけないのであれば、それは仕方がないことである。

 誰にでも夕日をを見て美しいと思うことは一度はあるだろう。その美しいは、えも言われ無いものである。絵にも描けない美しさである。それをなんとか画面の上で表したいのだ。美しいと言ってしまうと少し違うのだが。それが一番近い。

 自分に見える田んぼの美しさは、きっと田んぼをやっている者にしか見えていないものだろう。あの田んぼの土の感触は田んぼを散々歩いてみなければ、分からないはずだ。堅いところもあれば、軟らかくドロドロの所もある。

 そうした体感した物をふくめて、人の眼は見ている。それに加えて、知識という物も絵には加わる。水は冷たいとか、この水は除草剤の入れられた危険な水だとか、同じにしか見えないようでも、見ると言うことは総合性の上で、見えている。

 絵ではそうした違いも、肉眼では見えないかもしれないが、表現されることになる。そのあたりが、絵のやっかいなところなのだ。自分の栽培する田んぼと人の栽培する田んぼでは当然、異なって見える。こうした違いこそ、描こうとする物になる。

 私にとって、絵を描くと言うことはそうした見える物と、こうありたいという思いの融合である。だから、いくらマチスがすごいと言ってもああ描けたところで、空しいことになる。自分の世界観が絵なのだ。そこまで諦めずに描きたいと言うことになる。

 まだまだ、自分と画面との距離は大きい。どうしても学習したような絵空事が、入ってくる。観念である夕日が美しいという所から抜けきれない。今この眼が見ている夕日に余計な影響がある。眼を曇らせている。それを絵にしているのだから、画面は二番煎じ感満載である。

 私の夕日が見えて来ないのであれば、私絵画の夕日の絵は描くことは出来ない。見えると言うことはなかなかやっかいなことだ。美しいと感じたことは見えたからなのだが、そこには記憶や観念が加わり、ありきたりの美しいと言うことになっているのだろう。

 美しいという言葉以前に、空そのものがあらゆる時刻に、空そのものである。そのものであることを、そのものであるままにとらえることが出来るのかどうかなのだろう。眼前に、そのものの実態が現われたときをとらえられるかである。

 眼はいつもそのものと直面している。常日頃見続けているが為に、その真実性が立ち現れた、刹那の物が眼を通り過ぎている。絵に描こうとすれば、するするとすり抜けて行く。日常的すぎる見ると言うことのために、自分の中で絵を描く見るが混同されてしまう。

 刮目して見る。絵を描く目で見る。そこに転がっている石も宇宙である。その石一つを描ききることが出来るかどうか。美しいと言うことはその反映であり、実はどうでも良いことでもある。絵でもない、絵らしき物を見すぎたのかもしれない。

 絵を随分誤解させられてきた。それでも今日の一枚が、新たな一枚である。未知なる挑戦である。過去に引きずられる事無く、自分の目を信じて描いてみるほか無い。まだ、今日も描けると言うことは実に有り難い。何でもやってみることだ。

 どれほど失敗したところで、恐れることはなにも無い。オリンピック選手は試合に負けて学んでいるのだと思う。むしろ勝って間違ってしまうことの方が多いのではないだろうか。絵を描く人で、若い内に評価をされて絵がそこで終わった人は実に多い。

 安井賞を受賞した人の晩年の絵と、授賞したときの絵とを比べると、ほぼ全員が、受賞したときが一番良い。美術学校の卒業制作が生涯で一番良いというような、大家も少なくない。人間をみがくと言うことがいかに難しい物かを痛感する。

 むしろ試合に敗れたことを生きる力にすれば良い。負け犬がこういうことを書けば、遠吠えにしか聞こえないだろうが、負け犬の法が粘り強く生きて行くのかもしれない。

 それにしてもコロナ下のオリンピックは、辛い物がある。自粛生活をしろと言われても、気持ちはどうしても浮かれるところがある。選手は少しも悪くはない。大いにこの辛い時代の明かりになってくれている。

 問題は、安心安全なオリンピックを開催するとした政府にある。少しもそういう手立てが打てないで居る。毎日オリンピック関係者から、10名以上の感染者が出ている。これを見ていて、安心安全では居られない。

 
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田んぼを始めてから、同じ場所で描いている。

2021-08-04 04:58:15 | 水彩画

 そろそろ水牛のわかばともお別れである。二ヶ月間世話をさせて貰ったのだが、水牛の気持ちが分かるというところまでには、まだ至らなかった。私の飼い方だと、だんだん甘えが強くなる。午後に成ると川に行かせろというのだろう。水をひっくり返してしまう。

 田んぼを始めてから、シーラ原田んぼの脇に車を停めて絵を描いている。水牛が居ると言うことだから、水牛の水やりなど、どうしても朝晩見てやらなければならない。他の場所で描いているよりどうせなら、田んぼにアトリエカー停めて絵を描くことにした。

 昨日、田植えに参加された方が忘れものを取りに田んぼにきた。笹村さんはここに住んでいるのですかと、言ってくれた。とても嬉しくなってしまった。軽トラアトリエに暮らしていたい気持ちはある。全国の田んぼの脇で車を停めて絵を描く。そして田んぼの作業をさせて貰ら得れば言うことが無い。

 作業が終われば、そのままスーパー銭湯に行く。サウナに入り、一寝入りして食事をする。そして又、車に戻る。銭湯の駐車場に一晩キャンピングカーを駐車している人は時々見る。これで何か困ることがあるだろうか。そうかどこかに、貸倉庫だけは無いと困るな。

 貸倉庫に水彩画を預けておく。季節ごとに貸倉庫に行けば良い。衣類や本などの捨てられない物も湿度調整のある貸倉庫に置いておけば言い。車で移動しているのだから、日本全国どこの貸倉庫であってもよいだろう。なにか不都合はあるのだろうか。

 住所不定と言うことになる。こうした場合、住所は兄のところに置いて貰えば良いのだろうか。描いた絵はネットの日曜展示を続ける。そうだ、ブログも続けておけば、今どこの当たりで絵を描いているかは、ひとに伝わるだろう。

 画材などを通販で買う場合は、ファミマ受け取りとか、クロネコのステーション止めにすれば大丈夫だろう。郵便局留めというのも可能なのだろう。EBEYなどでも可能なものか、試しておく必要がありそうだ。アトリエカーが家になる夢。

 そ言う放浪の妄想が昔からある。長谷川利行のような放浪の画家に憧れているのかもしれない。でも自分の絵はどうもそういう絵ではない。放浪と言うより雲水画家に憧れているのだろう。至る所青山あり、と全国の修行道場を尋ねる暮らし。描画禅雲水。

 子供の頃、向昌院に尋ねてきた雲水修行者がいた。おばあさんが本堂に食事を運んでいた。おじいさんも朝一緒に読経をしていた。その雲水の人は永平寺を出て、どこか東北のお寺まで行き、永平寺までまた行くと言われていた。

 おじいさんはいつになく真剣な面持ちだった。最初に見えたときに書状のようなものをおじいさんに渡していたから、おじいさんも次に行く寺への紹介状のようなものを書いて渡したのかもしれない。お寺であり、戦争前は精神疾患の人の泊まる施設だったので、尋ねてくる人は時々居た。

 尋ねて見える人は、実に不思議な人が多かった。どうやって暮らしているのかまったく不明だった。ただ、異世界から現われたような空気を持っていて、恐ろしいことでもあったのだが、その怖さに惹きつけられるものがあった。

 おじいさんがそういう人を受け入れて、雲水を尊敬していることがよく分かったので、どこか雲水というものに憧れることになったのかもしれない。そんな暮らしを選択できる根性もないので、アトリエカー雲水と言うことぐらいがせいぜいだろう。なんとなくエセぐらいがいいところが私らしくてちょどうである。

 来年、コロナが収まったならば、アトリエカーでどこかに出かけてみようかと思う。出来れば台湾が良いのだが、ちょっと様子が分からない。誰か、車を台湾に送り、戻る方法が分かる人が居るだろうか。そう台湾の国際免許申請も難しそうだ。

 先ずは九州に渡り、小田原まで絵を描いて移動してみようかと思う。九州から山陰に回り、そもまま金沢に行く。久しぶりに金沢の友人に会いたいものだ。まだ人に会うことは出来ないのかもしれないが。白山を描くのも良い。

 それならば、東京港から石垣まで車を送ることは一度やっているので方法はわかる。費用もそれほどはかからない。昔、絵を描いた平戸とか、阿蘇とか、もういちど全国の田んぼを尋ねて、絵を描いてみたいと思う。

 体力がある間で無いと出来ないだろうから、来年やらないといけない。いつ何があるかは分からない。出来る間にやっておきたいことの一つだ。そうすると、田んぼの作業が集中しない時期と言うことになる。なかなか二カ所の田んぼとなると難しい。

 1月2月石垣の田んぼの種まきから田植えを終わらせる。4月5月が小田原の田んぼの種まきから田植えになる。すると石垣の田んぼの田植えが終わる3月頃出発して、4月の小田原の田んぼの種まきに間に合うように出かけるのが良いかもしれない。2ヶ月ぐらいの写生旅行と言うことになる。

 問題はコロナが来年の3月に収まっているかどうかになる。そうも行かないのかもしれない。今は水彩人会議で、8月11日に東京に行く予定を中止しようかと思っている。行かなければならない集まりであるので苦しいが、行くわけにもさすがに行かない状況である。

 6月に石垣の田んぼの収穫をして、小田原の収穫が10月。石垣で2期作をやらなければ、来年の7月から10月ならば少し空くだろう。台湾旅行が可能かもしれない。台湾については、これからすこしづつ研究をしてみたいと思う。

 田んぼで絵を描くようになり、絵に元気が出てきた。かってにおもっていることだが。田んぼをやりながら絵を描いている状態というのは悪くないのかもしれない。気分転換に田んぼの周りを一回りする。田んぼで気がついたことがあれば、少し作業をする。そして又絵をみる、気がついたことがあれば今度は絵を描く。

 時々誰かが田んぼに来る。しばらく話をする。そして又絵を描く。どうもこんな調子の描き方が自分に向いているのかもしれない。田んぼで絵を描いてはいるが、目の前の田んぼを描いているとは限らない。急に遠くを思い出しながら描いていることもある。

 そして描いた絵でその日の食事を分けて貰う。私の絵もお布施と言うことになる。それはあくまで夢の話だ。
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石垣島田んぼ田植え終わる。

2021-08-03 04:01:59 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」

田植えが終わって、ポンプで水をあげ、帰るときの田んぼ。

2日目の夕方の田んぼ、ポンプで川から水を入れて、すこしづつ水位を上げている。

 8月1日、シーラ原田んぼ1反4畝の田んぼの、田植えが終わった。2ヶ月前から準備をして、田植えが終わるところまできた。田植えにはおおよそ30人ぐらいの人が参加をした。朝9時から田植えを始め。午後2時くらいに田植えは終わった。

  よく短期間に30人もの人が関わる田んぼの準備が進んだと思う。石垣島には、潜在的に食糧自給に興味のある人が居たと言うことだと思う。それは日本中どこでも同じだと思う。是非こうした食糧自給活動が、日本全国で広がることを願っている。

 今朝、足が痛い、腰が痛い。そういうことは全くない。いつもと同じ身体の様子である。まだ半日程度の田植えなら、身体はついて行けるようだ。石垣島で田植えをやるとは、考えていなかったので大変なことになったという思いはある。

 雨が降るという天気予報だったのだが、ついに少しも降らなかった。水はついに少しも来ない。田植えをしているのに、お願いしても水をくれない、石垣島ではこういうこともあると考えておかなければならないのか。一体どうなっているのだろうかと思う。

 仕方がないので、川から電動ポンプで水をあげてしのいだ。それでも水は川には水が少ししかないので、田んぼ全体に広がるまでには至らなかった。田植えをして水が無いという事態はまったく初めてのことである。やはり、私たちの耕作が変則的だから、こういう結果になったのだろうかといろいろに想像している。

 もしかしたら、いや、たぶん。余り歓迎されていないと言うことかもしれない。よくあることではある。この先もこういう状態が続くのであれば、田んぼは不可能と言うことになる。それはそれで受け入れるほかないと思っている。

 苗は背丈は伸びたのだが、軟弱な感じだ。水も来ないし、この後がどうなるのか少し心配なことである。見えないところ色々摩擦があるのかもしれない。今までに無いことをやろうと言うばあい、そうすんなりとは行かないのも仕方がないのかもしれない。

田植え前の田んぼ。

 手で植える田植えは大半の人が初めてのことだったと思うが、小田原の農の会の田植えと大きくは変わらなかった。水が全くない田植えは手が泥だらけで、大変だったと思う。石垣島の田んぼは粘土質が強く、手に粘り着くような土だ。

 手についた泥を洗うことも出来ないので、苗の葉が泥だらけになってしまう。泥だらけのままでは良くない。乾いてきて苗を干からびさせようとしている。葉が重くなって田面に倒れているものもかなりある。今日も水をポンプアップしながら、手直しを進めるほか無い。

 ジャンボタニシは倒れた苗は食べてしまう。だから、苗が立ち上がるまでは食害があるはずである。ジャンボタニシ拾いを2,3日はしなくてはダメだと思う。苗が活着するまではできるだけ拾ってみる。苗床などでは苗が大きくなってからは食害は無かった。

 試しにジャンボタニシが沢山居る中に事前に植えて、様子を見た2本の株は、3日目に倒されて食べられてしまった。すぐやられたわけでもないので、最初が肝心かと思う。ここで拾って歩けば、何とかなると見ている。

 天気予報では今日も雨と言うことになっている。是非雨が降って貰わないと困る。雨乞いをしたい気分だが、どうなることだろうか。10日間天気予報では、雨が続くようだ。雨が水が来ないという危機を救ってくれるかもしれない。

 

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コロナ蔓延とオリンピック開催

2021-08-02 04:26:30 | 暮らし


 3本花芽が立ったコウトウシランイエロー。農協のゆらてーく市場で買ったものだ。石垣島では普通の草花と同じように蘭が栽培できる。強すぎる日照でダメかと思うが、湿度が高いせいか、蘭は元気である。花があるとゆたかな気分になる。

 やはりオリンピック開催時にコロナ感染爆発が起きた。感染症学者の皆さんが予測されたように、東京では急激な感染爆発が起きている。それが全国に波及を始めついに1万人超えである。しかし、このパンディミックに政府の責任の追及と言うことは余り言われない。

 もう政府を追求したところで仕方がないという感じがでている。オリンピック報道が中心になり、コロナを忘れられていると言うこともある。このまま医療崩壊まで進むと言うことなのだろうか。10日から東京に行く予定も止めざる得ないようだ。

 すべてが当然の結果だとすれば、政策が間違っている以外には考えられない。「国民が自粛しないから、こんなことになった」という、政府には逃げ道が作られている。政府が逃げられるように世論が誘導されている。

 コロナ感染爆発に対して、本当に打つ手は無いのか。そんなことは無い。政府は経済を止めることを恐れて、対応が中途半端になっているだけだ。若者の自粛離れと言われるが、これも予測に入れなければならない、人間が起す当然のことだ。

 石垣島で見ているところでは観光客の来島数と、感染者の増加は比例している。観光客が増えてきたなと感じると、一,二週間ずれて感染者が現われてくる。もし、石垣島へ来る観光客を、未感染証明書を義務付ければ石垣島での感染はかなり押さえ込めることは間違いない。

 今はこれが出来ていないだけのことだ。ワクチンの接種証明か、PCR検査の陰性証明書の提示。それが無ければ、飛行機に乗せなければ良い。政府と飛行機会社が連携を取りやろうとすれば、出来ないことは無いはずだ。

 今回の第5波のパンディミックはベーター株の感染力の強さである。以前であれば、この程度の人との密な接触では感染しないという経験が通用しないのだ。若い人の感染増加の原因はここにある。この程度なら大丈夫という経験が、裏目にでていてパンディミックが起きている。

 感染がここまで長引いてくると、もう若い人の気分としては限界を超えた。若い人は経済との直接の関係は薄い。しかも感染しても重症化する確率も低い。馬鹿馬鹿しくてヤッチャラレないという気分では無いか。実際に若者にとって、自粛生活は余りに失われるものが多すぎる。

 年寄の私が自粛したところで、たいした問題は無い。そもそも年寄が生きていると言うことが、不要不急のようなところがある。若い人の一日は輝ける一日で無ければならない。その輝きを消すかのように自粛要請では通用するわけも無い。

 やってみて分かったことは1年以上の自粛政策は無理と考えるのが、日本の社会の当たり前の事ではないだろうか。経済の問題である飲み屋の事は大騒ぎであるが、高校生は選挙権も無いのだから、ただただ自粛をしろと要請されるだけである。政府は完全に手段を失っている。とうぜん、ワクチン接種も消極的である。

 この緊急事態の場面でオリンピックである。日本選手が見事に金メダルを取れば、嬉しくて気分も晴れる。コロナで閉塞され気味の心が解放される。よっしゃと言うことで走り出したくも成るだろう。私は円谷選手のマラソンを見て、走り出した。

 心が解放されれば、どうしたって何かしたくなる。スポーツの力である。これが菅氏が国会答弁で語った、東京オリンピックの女子バレーの力だ。確かに、日本中が励まされ、もうひと頑張りしようとなったのだ。今だって日本柔道の活躍に良しやるぞと思う人は多いのだろう。

 年寄ではあるが、老骨にむち打つ気が強まっている。あれほど頑張れる人が居るのに、動禅体操ぐらいでくじけてはダメだと考えている。あのスポーツ選手の努力は千日回峰行なみだろう。柔道の選手の人達は金メダルインタビューで必ず、コロナ下にオリンピックを開催してくれたことに感謝の言葉を述べる。それは山下氏が会長と言うことも感じる。

 残念ながら国民は張り切って頑張ってはいけないという、コロナの足かせがある。心が分裂して苦しい。運動部の選手であれば、練習に力が入らないはずがない。しかも練習はほどほどにして、全国大会はやれない状況。予想通り、中国が一番強い。コロナを早く抑えた結果だろう。

 オリンピックの選手を見ていても、コロナ対応で失敗した種目もある。バトミントンはそんな感じがする。国際試合の不足。日本国内での選手層の薄さ。柔道の場合、国際交流が制限されれば、日本のように国内に選手層が厚い国が強くなる。

 コロナで一番問題になるのは、人間の成長と言うことのようだ。人間は人間と交流することで、人間性を形成する。孤立すればするほど、ゆがみが固定されてしまう。特に若い人は人と接する機会を失うことは致命傷だ。

 若い頃に同年代の友人との交流を持てないと言うことは、人間としての成長の機会を失うと言うことになる。小学生の時の友人。中学生の時の友人。高校生の時の友人。大学生の時の友人。思い出す沢山の友人の御陰で学ぶことが出来た。

 友人が居なければ、自分というものになれなかったことは間違いが無い。様々な友人から教えられた。どうしようも無い人間であったのだが、何とかここまで生きることが出来た。もし、子供の頃の様々な人との出会いが無ければ、手に負えない人間になったことだと思う。

 若い人も可能であるならば、ワクチンを早く打つべきだ。ワクチンを打てば友人とも会えるだろう。ワクチン不安説が広がっているが、科学的に考えるべきだ。失うものと、得られるものを冷静に比較してみれば、ワクチンを早く打つ方がどれだけ得られるものが大きいかが分かるはずだ。早く同年代の友人と交流をすべきだ。

 コロナワクチンデマに騙されては成らない。不妊になるとか、遺伝子が組み換えられるとか、ワクチンを打って死んだ人が多数存在する。ワクチンには有効性が無い。みんなとんでもないデマだ。えせ科学に騙されては成らない。

 これは人類とウイルスとの戦いなのだ。勝たなければ人間は終わる。今後も繰返し新型のウイルスが登場するはずだ。素人考えであるが、大規模畜産が新型ウイルスを生み出している。コロナウイルスもミンク養殖が生み出したと考えている。大規模畜産を禁止すべきだ。とくに、毛皮の養殖は許されないだろう。


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