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宮崎の口蹄疫

2010-05-16 05:35:39 | 自然養鶏
口蹄疫の流行地域から、種牛6頭の移動が行われた。特例措置というが、どういう特例なのか良くわからない。笹村農鶏園でも、笹鶏という種鶏がいる。これは特例で移動させてもらえるだろうか。もし、この地域でトリインフルエンザが起きた時に、たぶん有無を言わせず、全淘汰となるだろう。このことをどう考えたらいいだろうか。宮崎でも同じ思いがあったに違いない。6頭の貴重な種牛だけは残したいと考えたのだろう。その気持ちは分かるが、行政自身がそう言う事をしてしまった前例は、重大である。当然、私に命令が下ったとき、宮崎の特例を主張するだろう。実は、トリインフルエンザノ兆候があれば、卵を隠そうと考えていた。山に穴でも掘って、そこに埋めて置く。ほとぼりが冷めたころ、掘り起こして孵化すれば良い。そう思っていた。それは、命に代えても種鶏を守る必要があると考えていたからだ。

今はそれほどその思いは強くない。笹鶏の作出は失敗だったと思っているからだ。段々歳を取って、反逆心が萎えたと言う事もある。そこまでやっても馬鹿馬鹿しいと言うような気持ちだ。笹鶏はもう赤系統は20年近くの交配だろう。大館の大工さんをお訪ねして、種卵をわけていただいた所から始まった。その比内鶏はとても、元品種の特徴を残しており、小さな鶏であった。今は肉用と言う事でシャモのように大きな鶏になってしまった。ただ、欠点もあって、笹毛に黒状線が出ないところであった。笹鶏の笹はこの笹毛に黒状線が出る鶏と言う事である。笹村の笹ではない。赤系統はこの鶏にロードアイランドレットをかけたものである。これは岩手の畜産試験場から戴いたものである。兄からもらったわけではない。私の所に研修に来た方が、卵を持ってきてくれた。しかし、それだけを交配したのではない。あれこれ初期にかけている。

この笹鶏赤系統から、笹鶏白系統を作るために、ヤマギシの有精卵を孵化した、サセックス系の鶏と思われるものを交配した。この分離は10数年前となる。赤系白系の2系統を維持して、系統間交配で、雑種強制を行い、実用的に利用している。今も続けてはいるのだが、少々未来が無いことに気付いて、いまは毎年というのは止めにした。つまり、3系統を別飼いにして、維持する負担が大きすぎる事である。20代も近親交配を続けているのだから、笹鶏の純系は産卵率も極めて低い。当然の事である。この産卵性の低いものを維持し続けるのが、経済としては不可能という壁にあたった。こう言う事を食べる人に押し付けていいものだろうかと言うのがある。手掘り牛蒡の論理である。生産者のいわば趣味のようなものを、消費者に押し付けていいのか。確かに押し付けるべきなのだが、自分の心がそこまで強くない。

宮崎の口蹄疫は押さえ切る事が出来ないように、広がりを見せている。しかし、ある意味心配はない。広がるだけ広がれば収束する。今人間が動き回って広げている可能性が強い。どれだけ、消毒しても人間の身体の中は消毒できない。人間がウイルスを一時保有する。このリスクを考えるべきだ。茨城のトリインフルエンザの時も、結局うやむやにされたが、厚生省の発表では明確に指摘されていた。この情報が今は無いのは、これが表ざたに成ると、保証の問題がこじれるからではないかと推測している。宮崎の牛飼いの人達の悲しみは深いだろう。種牛だけでもという気持ちは良く分かる。しかし、肉を食べるのを止せば良いだけの事だ。ついこの前まで、4つ足は食べなかった。食べなくても別段大丈夫だ。私は僧侶だから戒律的にも、食べないと言う事か。

昨日の自給作業:種蒔きなど3時間 累計時間:22時間
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加藤一二三名人

2010-05-15 05:06:51 | 身辺雑記
奇人変人の珍しくない将棋界でも、加藤一二三元名人は伝説の人で通っている。名人になるような人だから、常人と同じ訳がない。14歳でプロ棋士になった人である。20歳で大山名人に挑戦したときは、神武以来の天才棋士と言われた。敬虔なクリスチャンで聖シルベストロ騎士勲章を戴く、洗礼名はパウロという。流行歌に歌われる坂田三吉さんと同等の伝説の人である。その人が猫の餌やりで、有罪判決を受けた。三鷹の10軒連なる高給テラスハウスで暮らしているらしい。残り9軒の17人の住人に訴えられたのである。何という時代なのかと思う。猫のえさやりぐらいで、何故裁判沙汰なのか。まったく解決能力が無い社会になったものだ。加藤氏はある意味、社会に適合できにくい人なことは確かだ。しかし、将棋が強い。その将棋は極めて一途で求道的である。だから、将棋好きの人の多くが、加藤ファーンになってしまう。坂田三吉氏だって、たぶん社会的には困った所はあっただろう。いや、そうで無くて、誰だって困った所はある。

こまった時にどう解決するか。社会の持つ自己解決能力のようなものが失われて居る事を痛切に感じる。近隣のトラブル解決が、けんか腰から始まる。クレーマー社会。距離の離れた人なら、大抵の人が加藤氏を愛すべき人と感じる。「将棋は戦いであると同時に人に感動を与えられる芸術だと思っています。モーツァルトは200年たっても人々に感動を与えている。私の将棋もそうありたいと願っています。」その発言通りの求道の棋士である。時代を貫いた信念で、ただ勝てば良いというような世知辛い将棋とはどこか違う魅力を持っている。将棋の美学というか、「こちらの方が確かに、勝ちやすいかもしれませんが、でも私ならこうさすんですね。」こう言う発言が多いい。勝ち負けを超えたさらにその奥にあるところまで、行きたいとする姿勢がいい。絵を描いているとき、こうすれば理解される。しかし、それでは何かおかしい。常にぶつかる所である。

17年前から、猫にえさやりを続けてきたらしい。猫を去勢もして、里親活動もしている。正直、これだけなら、何が悪いかはわからない。何かかけ違いがあるのだろう。加藤氏は控訴する。敗訴したからと言ってえさやりを止めないとしている。この問題は根が深い。年間20万匹の猫が殺処分されている。猫の殺処分は増加傾向である。殺処分問題が手付かずで、餌やりだけが云々されている事がおかしい。毎年20万の猫を殺さなければ成り立たない社会が、まともといえる訳が無い。このことに目をつぶっていて、餌やり問題だけを槍玉に挙げてもどうにもならない。ペットの問題でもない。結局人間の暮らし方のことである。野良猫、野外猫と社会の折り合いのつけ方である。餌やり行為の善悪。ルール作り。どうなっているのか。

糞尿被害と騒音が問題になる。新緑を見て嘔吐する社会になる前兆。鶏飼うなど論外であろう。もう一度、人間の暮らしがどうあるべきか、考えてみるべきだ。加藤氏の間違った一手は三鷹のテラスハウスに暮らしたことだ。もうそういうところには、猫を許容する社会は無くなっている。我が家のボス猫のリンちゃんは気に入らないと、布団におしっこをひっかける。確かにたまらなく臭い。だからと言って、そのぐらい許容範囲である。それ以上のものを与えてくれているからだ。人間が生きて死ぬという、短い期間に、どれだけの事を感じて味わえるか。どんどん狭くなっていやしないか。排除の論理はいけない。悪いことや嫌なこと、こう言う事が沢山あって、そういうものも受け入れて、かわしながら生きてゆく。暮らしてゆくは不都合ばかりで当たり前ではないか。不都合を不都合としないところに、暮らしの面白さがある。

昨日の自給作業:草刈1時間 累計時間:20時間
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種子の保存

2010-05-14 04:38:10 | 自給
自給自足をするには、種子の自家採種が必要である。江戸時代であれば、そうしたことは地域地域で当たり前の事として行われていた。京野菜、加賀野菜のような固定地域品種の存在。しかし、農産物が商品性を高めるにしたがって、農産物間の競争が高まってゆく。しかも、農産物は19世紀に入って国際取引される商品となる。こうなると、効率の良い、生産性の高い、揃いのいい大量生産に向いた品種。味覚重視の品種に、集約されてゆく。品種の発見だけでなく、より商品的品種の開発競争が起こる。ついには遺伝子組み換え品種まで、現れることになった。ここまで来ると誰しも、何か不安が起こってくる。自然界になかったような作物が現れて、地球の自然体系を壊すところまで行くのではないか。「何のための科学か。」種子についても充分な考察が必要になっている。

世界の野生植物の保存。これはどうしてもやらなければならない状況である。特に、作物となる有用植物の保存は緊急に行われる必要がある。ノルウェーのスヴァールバルには世界中の遺伝子バンクから続々と種子が送られてきており、現在50万種になったという。450万種の保存を目指している。永久凍土の島に深い穴をほって、冷凍保存しようとしている。もちろん、しまって置くだけではない。種子だから、10年もすれば発芽しなくなるものもあるあだろう。種子保存すると言う事は、常に更新すると言う事の方が難しい。それでも、既に遅いともいえるが今残っているものを、保存しなければ大きな損出になる事だけは間違えがない。それは、経済性重視と言う事で、貴重な性格を持った特殊品種がどんどん消えていっている。失われていく作物の中には総合性は無いが、特殊な性能を備えていたと言う可能性がある。

植物ではないが、鶏の品種保存が私の役割と考えてきた。しかし、何十年もかけて結局出来なかった。今からもう一度という訳にも年齢的に行かないから、諦めざるえない事である。一人では出来ないと言う事である。このことは、有機農業研究会や、自然卵ネットワークでも呼びかけたことであるが、反応も無いまま今に来てしまった。国の研究機関では、死んだ中川昭一農水大臣の時に呼びかけがあったが、その後どうなったか。目指した事は、普通に自家採種できる鶏の品種である。そう言う事を農業の中で行おうとすると、連携が必要になる。地鶏一品種の保存は100軒くらいの集落があれば、否が応でも自然に品種の確立がされる。100種の作物の種子保存を続けるだけでも、たぶん1000軒ぐらいの循環の輪が必要である。しかし、1000軒がその気なら、難しい事ではない。江戸時代のどこにでもあった普通の姿である。

スヴァールバルの種子保存には、二つの不安がある。費用を提供している企業が種子を独占しようとしているのではないか。という疑問である。こう言う事があると、集まるものも集まらない事になる。もう一つは、発展途上国の不利になるのではないか。集められた品種が、企業利用の為にだけになるのではないか。あくまで不安であって根拠はない。一方モンサントのようなアメリカの種子メーカーは種子の独占を狙っている。利益追求が企業の目的だから、当然の帰結である。費用を掛けて集めても、投資に見合う見返りがあるのだろう。それを考えると、スヴァールバルの種子保存はやった方が、やらないよりはいい。結局人間の暮らしの方に問題がある。暮らしの循環が絶たれている。分業的になり、個々人が歯車になる。人の暮らしは、本来総合的なものである。全体性を保つ事で、人間は人間になってゆく。
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抑止力

2010-05-13 04:27:24 | Peace Cafe
沖縄から基地を減らせないのは、抑止力について勉強した結果と鳩山首相は発言した。理論的に間違った発言である。海兵隊は沖縄に存在しないでも、国内のどこかに存在すれば、日本の抑止力に少しの影響もない。あたり前の事だ。沖縄に我慢しろの根拠にはならない。日本本土人の傲慢である。沖縄を繰り返し犠牲にしてきたのは、日本人全ての責任である。薩摩藩の支配。戦争末期の地上戦の地獄。そして、占領地としての長い年月の切り離し。返還後基地の固定化。そして、最低でも県外とまで断言しながら、平然と辛抱してくれとは、驚くべき差別ではないか。「抑止力とは何か。」沖縄の米軍隊は何に対する抑止力であるのか。よく言われるのが、北朝鮮、中国である。それならば何故、アメリカは在韓米軍を大幅に削減し、近い将来全てを撤退する予定なのであろうか。韓国とアメリカの関係の精査が必要だ。

横須賀、嘉手納、三沢、横田の4つの米軍基地は、アメリカの海外5大基地だそうだ。何故アメリカは日本に基地を集めようとするのか。日米安全保障条約が背景にある。軍事力を大きくは持たせたくない、日本の軍備を肩代わりする形で、日本に経費負担を依存しながら、世界戦略の基本に日本での海外基地統括を想定している。それぐらいに、歴代の自民党政権はアメリカの言いなりであった。日本を海外拠点基地とみなし、自由に使うことをアメリカの権利としてきた。日本に対する抑止力など、おこぼれのようなものなのだ。日本に基地を置けば、日本に軍隊を持たせず、米軍経費だけを受け取れるというアメリカの利点がある。普天間移設問題に見られるように、アメリカの態度には、一貫して日本国民への説明がない。なぜ、移設が沖縄の中でなければ成らないのか。ヘリコプター訓練基地が、200キロ以内とか少しもれてくるが。もし、米軍を抑止力として必要とするなら、沖縄の負担を日本本土が全て肩代わりする必要がある。

具体的に沖縄の海兵隊が、どのような抑止力であろうか。イラク、アフガニスタンに派遣されている軍隊の基地である。ほんとうに、北朝鮮や中国を仮想的国というなら、韓国に海兵隊は置かれるべきである。海兵隊の目的のひとつは、在外米国人の救出だそうだから、韓国に居た方が効果は高い。私には、北朝鮮がいかに冒険的な国家であるにしても、海軍空軍を持って、日本を侵略するほどの戦力はなく、あるとすれば原子爆弾のミサイル爆撃を行うであろうことである。そのための抑止力とは、沖縄の海兵隊はほとんど関係がない。世界全体の基地であろうするなら、グゥアム・サイパン・テニアンいずれであろうと、変わりがない。その費用を日本が持つと言う前提で、交渉できるはずである。グゥアム移転費用をけちった辺りから、どうも話がこじれたように見える。韓国が腹案ではなかった。

以下は抑止力の構想である。沖縄をエコロジーアイランドとする。長年沖縄に負担をお願いしてきた、お礼として、沖縄を日本のユートピアとする。ひとまず一切の基地を本土に移す。そしてその負担の大きさを日本本土人全員が体験する。当然、近い将来は米軍基地は廃止することになる。沖縄で返還された基地跡地は循環型社会構築のエコロジー技術の開発拠点とする。様々な環境先端技術の集積を行う。国の環境予算も、沖縄に集中的に投入する。風力発電技術。蓄電池の研究。次の時代を切り開く技術の開発拠点に沖縄がなる。そうした学術的研究機関も沖縄に集約してゆく。一方に、地域の風光に調和した、老人天国を作る。日本人の老後は憧れの沖縄暮らし。それに相応しい、医療機関や福祉サービスの集中した整備を沖縄で行う。沖縄天国で暮す、老人たちからの収入で、沖縄の経済が成り立つようにする。当然熱帯的な気候を利用した、農業を展開し、日本の食糧基地としてゆく。あまりに沖縄に投資を集中するために、国内に不満は生れるだろうが、それは長年の償いとして、国民等しく我慢する。
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ギリシャの経済危機

2010-05-12 04:34:21 | Peace Cafe
ギリシャの財政悪化で、ユーロ全体の経済危機状況が見えてきた。これは突然最近起こったことでことではない。リーマン破綻以来何も改善されていない、ヨーロッパの銀行の財務悪化状況が遠因。ギリシャの国債はユーロ圏の銀行が7割購入している。ギリシャでも昨年10月、左派の新政権ができた。その結果前政権による、ギリシャ政府がまるで粉飾決算をしていたようなことが露呈した。国債の金利が急上昇した。国家破綻まで予想させ慌てた。ギリシャ政府が経済立て直しを根本から行う事を国会で決めた。公務員の給与・賞与の大幅カット、公的年金水準の凍結、消費税の19%から21%への引き上げ、ガソリン・タバコ・アルコールの税率引き上げなど。公務員所得が33%というから暴動的に反応する。ユーロ諸国が13兆円という巨額の出資を行うと言う事で、当面の危機を乗り切ろうとしている。どうも、財政破綻は日本だけでも、無いようだ。

日本の政府債務残高は来年3月末の時点でGDPの2倍に達する。国民全員が2年間飲まず食わずで働かなければ返せない。ギリシャの比率は124%にすぎない。日本国の借金は882兆円となった。10年度はついに100兆円に迫る状況である。よく言われるのが、国民が国家に貸しているのだから、いわば貯金のようなもので、大丈夫という考え方がある。また、政府の債務と成ると、様々な分析がでてきて、破綻寸前から、問題なしまで色々の角度から裏付ける数字が表れる。それでよく分からなくされてしまう。しかし、どのように解説する人でも、今の政府の経済政策をいい方向であるとは、誰も言わない。景気をよくすれば借金が減る。消費税を上げて税収を増やせ。公共投資はやめろ。もっとやれ。公務員給与を下げろ、上げろ。法人税を上げろ。下げろ。特殊法人、独立行政法人を止めろ。郵政を民営化しろ。元に戻せ。

百家争鳴で、何が正しい方角か見えにくい。分かるのは、鳩山政府のやり方はだめだという所で、共鳴している点。ギリシャ以上の危機なのだから、ギリシャ政府以上の緊縮財政を行うべきだ。これが正論だと思う。まず、政府及び公的機関の徹底的な縮小。公的無駄遣いの根絶。公務員の削減、給与の引き下げ。特殊法人等の廃止。公的業務のできる限りの民営化。その上でのあらゆる場面での増税。国民各層が等しく我慢しなければならない。我慢するのだから、格差を無くす。格差があったのでは、国としての我慢はできない。どこかで誰かが、甘い汁をむさぼっているのでは、耐えがたきを耐えられない。コンクリートから人へばら撒くな。これが一番である。農家にならばら撒いていい訳がない。今民主党政権がやっていうのは、税金を使って、票を買っている。子供手当て、高校無償化。農家戸別補償。買収容疑ではないか。

そう遠くない内に、一段とヨーロッパでは経済破綻が表面化する。しかし、ヨーロッパは蓄積が深い。植民地からの収奪の蓄積だけでも、まだまだある。切り詰めさえすれば、充分に乗り切れる。ユーロが行き詰っても、健全な国家が沢山存在し、充分の力がある。ギリシャの為に、各国が財政支出を出来るかどうか。ユーロが1国家になれるかどうかの瀬戸際なのだろう。ヨーロッパ各国間でも、ついこの前まで戦争ばかりしてきた。日本もアジア経済圏を目指すべきだ。その中で日本経済を考えるべきだ。そうすることが日本の安全保障でもある。長州と薩摩で戦争したことだってある。沖縄に対して、国民等しく懺悔しなければ、ならない状況であるとしても、沖縄と本土が戦争にはならない。世界中の人間が争わない社会を作るためには、経済的関係を深める事は大切である。
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竜馬ブーム

2010-05-11 04:42:12 | Peace Cafe
またまた、竜馬ブームが起きているようだ。土佐出身の私の育った家はいつも竜馬ブームであった。横浜のおじいさんは竜馬に抱いてもらった。という伝説さえ伝わっていた。しかし、柳田國男氏の弟子を自認していた父は、明治維新を評価していた訳ではない。だから、竜馬の話に成ると、生きていてくれれば明治政府もああはならなかったと、考えを譲らなかった。薩長土肥と言う事をよく言っていた。そして、薩摩長州の土佐藩排除の藩閥政治と富国強兵を国是とした、明治政府の問題点へと話が進んだ。「歴史のもしも」には、竜馬が生きていればという残念がある。竜馬は下士出身で、上士という土佐藩の武士ではなかった。差別されて育った人間である。封建制の強い土佐の風土の中で、封建制打破の思想をはぐくんだのは、出自が影響している。脱藩とか、自由な精神は庶民であったがゆえに生れた。

竜馬は欧米の帝国主義に対抗する、明治期における象徴である。ある意味ゲバラのような存在かもしれない。ゲバラより、カストロの方が大変なのは当然の事である。アメリカとソビエトの冷戦の狭間。そして、自主路線。キューバの幸福社会。国民の幸せ度と言う事が言われるが、こう言う事は比較と言う事がある。昔との比較。未来との比較。先進国との比較。幸せ度でいえば、ニューギニア高地人であると、本田勝一氏は書いている。社会が問題とするのは、客観的幸せの方になる。本人さえいいならという幸せを、周囲は認めない。また、社会福祉は認めない。そう言う事を、小学校で習ったのだが、その時も分からなかったし、今ももって理解できないことだ。医療の充実度と、生命という物の自然を受け入れていることとは違う。どんなに長生きしても、ボケない限り死は厭うべき物である。明治期と江戸時代とどちらが庶民は幸せであったか。

竜馬が33歳で死んでしまい不幸せである、とは誰にも言えない。充分に生きたといえる。素晴しく生きたといえる。殺されるというような、不幸な死に方も覚悟の上であっただろう。竜馬の特徴は感性である。船中八策など読んでも大した思想家には見えない。人間を動かすひらめきがあったのだろう。亀山社中というカンパニーの設立。この辺の発想が面白い。本当は次の時代など誰にもわからない。未知に立ち向かう意欲。こういうものが今一番求められるから、竜馬ブームなのだ。理屈では乗り越えられない、資本主義の行き詰まり。欧米の競争社会の原理の危険。進歩主義の限界。中国、インド、アフリカ。新しい競争者の出現。このままでは世界は危険が高まるに違いない。この予感が誰にも芽生えていて、たぶん日本人はこの点に早く気付いたのだと思う。

竜馬の評価は現実のあまりに不甲斐ない政治への反動もある。そして、英雄は期待しないほうがいいという事である。日本が植民地化されなかったのは、日本にあった国力である。きわめて厚く深かった、庶民の力量である。江戸時代を通して蓄積された日本人の力量である。明治政府の軍国主義は戦争への道をひた走る。鎖国の中で育てた、学問・思想・文化。そして類希な循環社会形成の技術力。食糧の自給100%を主張した小沢氏はどこに行ったのだろう。今の戸別補償1兆円はただの補助金ばら撒きである。確かにばら撒き先はコンクリートから人へ直接である。高校無償化も子供手当ても、同じである。こんな工夫の無い政策では、お金のない時代、課題の解決は遠のくばかりである。今のやり方では経済破綻はそう遠くない。竜馬の持つ、未来を展望する感性。ここに着目したい。
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小田原市の市議会

2010-05-10 04:44:53 | Peace Cafe
市議会と市会議員の役割はなんであろうか。「小田原市議会を考える市民の会」というものがある。月に1回集まり、市議会の仕組みを勉強している。全国の機能している市議会の仕組みを勉強している。小田原の議会事務局に沢山の質問もした。市議会の事を考えるということで、市会議員との対立を起こさないように穏かに進めている。ある意味、生ぬるい集まりである。何しろ、議員の賛否すら公表する必要は無いというのが、小田原の現在の議会である。市民感覚からすれば、相当不思議な集まりである。賛否だけを公表すると、議論の内容が誤解されると言うのが、議員各位の理由である。一体、賛否を公表するなど当たり前すぎて、馬鹿馬鹿しい限りである。何を考えているかさえわからない方がいいという事だろう。市民感覚とは違うようだ。何しろ奇妙奇天烈ホールも、城下町サミットも議会は素通りだった。

小田原では市会議員は先生である。お会いした場合、一歩下がって礼をする空気が、いまだに、ある。市会議員の先生は、多額の給与をもらって、市民の為にどんな仕事をしてくれているのだろう。まさか、北条五代祭りで行列するのだけが仕事という訳ではない。市会議員は自分のしている仕事を、報告する義務があるのではないだろうか。せめて、活動報告をホームページに業務報告として、乗せるぐらいはしてもらいたい。経費がかかるわけではない。是非ともお願いしたい。既にやられている議員のかたも居る。武松議員はとても丁寧に日勤表のような形で、報告がある。とても好感が持てる。ブログという形で、かなりの頻度で書かれているのが、田中リエ子議員と檜山智子議員と今村よういち議員である。時々というレベルで書かれているのが、佐々木ナオミ議員と大村学議員であろうか。そういうところから、一番議会の様子が伝わってきている。

かなり熱心に読ませていただいている。武松議員は公開した、井戸端会議という掲示板もある。田中リエ子議員もブログにコメントがかける。佐々木ナオミ議員も最近コメントが入れられるようになった。私も書かせていただいたこともあるが、きちっとした返事もいただけた。議員が市民の質問に答えてくれることは、大切だと思う。それだけで、武松議員は好印象である。こうした事は市会議員であれば、市民に対する義務だと考えている。他に公開した掲示板を持つ議員は居ない。と思うが、居たら教えていただけたらありがたい。同じことでも多面的に情報が分かる。公開での議論を避けるのは、自信がないからだと、そう想像している。どんな事でも、賛成も反対も当然ある。それを、きちっと議論する空気を作り出してゆくのも、市会議員の役割では無いだろうか。これからの市会議員は、公開したホームページを持つのは、当たり前の事になるだろう。その日その日の報告義務をお願いする。小田原市の仕事内容を市民に伝える事が仕事の一つだとおもう。

公開の掲示板を持つことも、大切だろう。市民の意見を聞くこと。これも市会議員の大きな役割である。市会議員は公開の場で意見を表明する事が、大事な仕事だと思う。そういう過程を経て、小田原市民の民意のようなものが形成されるのではないか。いま、市会議員が自治基本条例に対してどう考えているのか、意見を言うべき状況である。しかし意見は少ない。具体的にいえば、自分の分野である、農業で小田原の市議会は農業に対して、何か意見はあるのだろうか。市の農業政策への批判、特に有機農業偏重ではないかなどの意見はあった。小田原の農業がどうあるべきかの。一番欲しい議論がない。大きな展望のようなもの、方向性のような議論は探せなかった。本来議会はそう言う事を活発に議論し、模索する場ではないだろうか。そういえば、議論はできない仕組みになっている。質問だけだそうだ。
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稲直播の実験

2010-05-09 05:12:31 | 稲作
直播にはいくつかの、問題点はあるが、省力の長所も大きい。何度も失敗しているので、今回はどこが一番問題かを、整理して考えておきたい。まず、スズメの食害。播種さえ出来るなら、草の中に播種する方法は、スズメの害は少ない。最近スズメが減っているという心配な朗報もある。クローバーやレンゲを一面生やしておいて、その中に播種する。播種の精度に問題があってこれは失敗した。一箇所ごと手で蒔いてゆけば可能だったが、それでは2畝の田んぼが限界である。自給ならそれも良いが。播種機によっては可能なものがあるのかどうか。岡戸式直播機ではだめだった。今回は、出来る限り浅く耕した。草が残った状態の方が、スズメも気が付きにくいのでは。一面に30センチほどの草が土に混ざる程度である。耕して、一日置いて岡戸式で種蒔き。草が邪魔をしたが、ある程度は蒔けた様だ。播種精度はないが、7畝で1キロの種籾は使った。

6日に蒔いたのだが、9日時点ではまだ発芽はしていない。スズメは耕したとたんに集まってきたので、かなり食べられる覚悟はしなければならないだろう。しかし、徐々にスズメは居なくなってきた。どの程度食べられないかのレベルの方に興味がある。今食べているのは、むしろ雑草の種、や虫のようだ。種籾にスズメが嫌がるものを塗る方法。そのようなもので安全なものはあるのだろうか。水を張ってしまう方法。こちらは、鉄コーティング法ではスズメに対して影響はあるか。カルパーとは過酸化石灰らしい。石灰でもどうも気になる。水を張るのなら、作業全体の見直しが要る。どのタイミングで水を入れるか。春水田んぼでも可能か。春水田んぼでの土壌はどうなるか。この場合緑肥はどうなる。どうもいい土になる気がしない。冬水では、とても管理がやりきれない。棚田では無理。

次に大きな問題が、雑草対策。草は浅い緑肥を耕す方式で行く。ある程度草が出たところで、深水に切り替える。しばらく置いて良い頃合いで、コロガシを入れる。稲がある程度伸びて来た所で、補植田植えを行う。そこでソバカス抑草に入る。こちらも想定では、何とかなりそうな気がいつもするのだが、何か抜けている。これではまだだめなので田んぼを見に行き考えてみる。田んぼでは、隣の田んぼに置いてある、セルトレーがいい状態の生育である。4月10日に蒔いた、親子田んぼのものが200枚、ラブシートが剥がされ、2葉期になっている。そろいもいいし雑草の混じりもない。生育も揃っている。いい苗になりそうだ。2,6反分で200枚蒔いたのだろうか。やはり、セルトレー苗との混合法がいい。両者の長所を生かす。両者の欠点を補い合う。

苗が2センチになった所で、これはかなり小さいわけだが、ここで水を入れる。たぶん16日頃になるか。水のたまるようになるのに、1週間はかかるだろう。手間はかけたくないので、自然にどの程度たまるのかも次の課題。生育に併せて、徐々に水を深くしてゆくのが普通だろうが、それだと雑草が枯れない可能性が高い。この辺の変化もよく観察する事。種蒔きの精度を挙げる課題。播種機の問題。種籾の事前処理の工夫。スズメをどう避けるか。まだ課題は山積みである。今の目論見としては、半分ぐらいの確立で直播稲が育つ。そこにセルトレーで育てた手植えする。補植のような感覚。いずれ土壌の熟成というようなものが大きく作用する可能性が高い。

昨日の自給作業:お茶摘6時間 累計時間:18時間
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続けて知り合いが亡くなる。

2010-05-08 04:49:46 | 地域
佐藤さんの死は先日書いた。その後、まさに連続的に知り合いがなくなっている。隣の隣の家一寸木良三さんがなくなる。同じ舟原の田んぼの傍の下田さんがなくなる。そして、田中ひろみさん。さらに、岡本俊策さん。一寸木さんが確か72歳で、他の方はさらにぐんと若く。岡本さんは佐藤さんと同じく40代である。何という理不尽かと、悲しい。辛い。何しろ皆さん地域で一緒に頑張っている方々だ。どうしてもこうも一辺にこんなに早く、行ってしまうのかと、残念でならない。人間はいつかは死ぬ。諦めるしかない事だが。こうも続くと打ちのめされた気持ちになる。岡本俊策さんとは、10年ほど前市民活動応援補助金の事で出合った。とても穏かで、理路整然とされていて、頼りになる人だった。山の仲間たちという活動をされていた。様々な場面で出会うことが多く、市民活動の仲間という連帯感があった。

最近は久野の里地里山活動で、山の仲間たちには手助けしてもらうことが多い。久野幹線林道の清掃活動。久野川の環境調査。川沿いの茂りすぎた林の伐採。とても頼りになる実戦部隊として、活躍してくれている。つい最近も欠ノ上の大木の伐採では、高い所に登ってくれて、さすが登山家だと思ったものだ。一見どちらかといえば、冷静な知識人と言う感じが、本領というか素晴しい働きで、さすがだと思った。一緒に登った人の話ではとても慎重で、安全対策が万全な人だとの評価だった。それが、まさか、富士山の訓練登山中の事故とは、驚くばかりである。マッキンリーに行くための準備だったようだ。富士山を甘く見るような人ではないし、今年は富士山には気象的な激変があるようだ。富士山の突風は遮るものがないだけに、激烈なようだ。それにしても、残念である。同志を失った無念がある。これから小田原周辺の森林に本腰を入れるところだ。その中心を担うはずの人を失ってしまった。森の仲間たちの打撃は大きいものがあるだろう。

下田さんも一寸木さんも久野に越してきて以来、とても親切に接してくれた。優しい面倒見のいい方だった。舟原地域にとっては、あまりに大きい損出となってしまった。私のように他所から来たものが、地域の中で養鶏農家として良い形で入れてもらえたのは、見えない形で新参者に分からない所をフォローしてくれる人が居たから、と言う事を良く分かっている。下田さんに助けていただいたことも、良三さんに助けていただいたことも、後から知った。何も恩返しも出来ない内に、亡くなられてしまった。田んぼを村内で始めてからは、より地域の農家のかかわりの深さをしった。見えない所で、支えあってこそ地域の農業は成り立つと言う事が分かり始めた。

田中ひろみさんもまだまだ若かった。久野全体を引っ張ってゆくべき農業者であった。農業関連の地域作業所の立ち上げを考えた時に、相談に乗ってくれた。農地を借りる世話もしてくれた。人の生き死にの無常を思い知らされる。こうして自分より若い人が、普通になくなっていってしまう。死というものが、他人事ではない。実感を持って我がこととして思わざる得ない。今年の稲作は、直播はなどと思って計画しているが、先々の事より、今の事を十分にやれているか。最近自転車操業というより、オートバイ操業だなと思った。自転車はゆっくり自分でこいでいる。何か、疾走しているオートバイ乗りのようなものだ。ただ車体のしがみついているのか。運転しているのか。いずれ止まれば転ぶ。
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口蹄疫

2010-05-07 04:24:00 | 自然養鶏
口蹄疫は牛と豚に感染する、ウイルスによる伝染病である。鶏に対する、鳥インフルエンザと良く似ている。実は人間に対しても、同じようなものである。「人間に対してまったく安全である。」という赤松農水大臣の発言は、科学的にはさしたる根拠はない。人間に感染したとする報告も無いわけではない。この点でもトリインフルエンザと良く似ている。宮崎県で4月23日に最初の感染の確認があった。現在、7日時点まででは感染は広がる一方で、新たに川南町では12箇所で見つかったようだ。殺処分数で5万頭に及んでいる。感染の広がり方からして、初期の防疫には失敗していると思われる。宮崎県では自衛隊の出動を要請し、殺処分や消毒を進めている。しかし、こうした対応が、茨城県でのトリインフルエンザの際での事例のように、感染の拡大をむしろ誘発する場合もある。検査の為に全国から動員された、家畜衛生職員がウイルス保有者となり、他の農場へ伝播してゆくこともありうる。

ウイルスの型はアジア全域に広がるタイプと同型とされている。空気伝染もありうるというのだが、どう考えても人間による感染が、一番可能性が高い。感染が一定広がってしまえば、収束まで根気良く対応する以外にない。しばらくは根絶は無理な状態と考えた方がいい。こういう時恐いのは、無知による感染の拡大である。慌てて、畜産関係者を一箇所に集めて、口蹄疫対策の復習を繰り返し行う、家畜保健所などがきっと現れる。人から人にウイルスの保有が広がり、そこから次の家畜農場での感染が起こる。絶対に、畜産関係者は意味の無い畜産関係者の集会に出かけないこと。これはどの場合も鉄則である。畜産関係者が、アジアの畜産の見学に行く。こう言う事の後は、1ヶ月は他所には行かないことである。まず、宮崎県の担当者のウイルス保有をチェックする必要がある。この保有というのは感染とは違う。

今の家畜はきわめてウイルスに弱いと考えなければならない。飼育方法が経済性だけで導き出されている。こうした感染性の高い伝染病の場合、防ぐ事が極めて難しい。難しいあまり、さらに消毒を強化してゆく。外部の環境と遮断して行く。その結果家畜はさらに免疫力の極端に低いものとなる。豚の場合は、回転が速いから、鶏のブロイラーと良く似た結果になる。牛の場合は産卵鶏と良く似た経過になる。現状では自然が吸収してくれるのを待つ以外にない。中国では、口蹄疫のワクチンを使用している。トリインフルエンザでもワクチンを使用している。日本では禁じられている方法である。中国は正に、日本では行ってはならないと言う方法で、日本以上の大規模畜産が行われ始めている。ヨーロッパが、養鶏ではケージ飼育を禁じようとしている。この危険な実験状態をどのように見るべきか。

人間と家畜の関係はとても危険な状態にある。今のままの家畜飼育では、人間への新しい感染症が防げない事になる。口蹄疫やトリインフルエンザはまだ序の口である。手に負えない、共通伝染病の登場はこのままでは登場する。もし、100万人の人間が垂れ流しで、1箇所で暮らしていたらどうなる。外部と遮断すればするほど、消毒をすればするほど、その中で起こることは新しいウイルスの登場を促しているようなものだ。いつか、必ず、怖ろしい事が起こってしまう。その前に世界全体で、家畜の飼育の制御をしなければならない。人間は肉はめったに食べない方がいい。たまに食べる範囲にしておく必要がある。世界の多くの宗教が、肉食を禁じているのは、それなりの理由があると考えた方がいい。まだ間に合う。打つ手はある。江戸時代の日本の文化の価値を見直すことだ。

昨日の自給作業:稲播種3時間 累計時間:12時間
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お茶摘み

2010-05-06 04:16:27 | あしがら農の会
夏のような日差しの下、5月5日恒例となったお茶摘が行われた。今年もまた素晴しいお茶摘みになった。身心がお茶畑の緑にすっかり染まった一日になった。身体の中まで空気が入れ替わった気分だ。新緑を摘むのだから、贅沢な事である。摘んでいると、指先にお茶が香るようになる。6キロが摘み終わったのが、3時頃になった。以前、6キロ摘み終わったら、暗くなっていたこともあった。6キロを単位としてお茶摘みをするのは、これが1,2キロのお茶になり、毎月100グラムのお茶の自給である。費用は3000円。製茶料、機械購入費、お茶畑の地代である。30グループぐらいの人が集まった。今回分かったのだが、一人で1グループもあれば、5人のグループもある。今年のように、お茶の葉が小さめだと、1人で6キロ摘める人も居れば、5人でも難しいグループもある。昔の手摘みの、賃仕事では一日10キロとなっていたらしい。そんなこと、10年以上も繰り返して、今になってそうかと思うのだから、おかしい。

今年は少し上の段の方が、伸びがよかったので、上の段からやった。下の段は8日の予定である。区画割りは、40区画ほどあり、一区画は9,5メートルである。それで、普通は6キロ以上摘めることになっている。今年は5キロぐらいしか摘めなかったようだ。芽が小さいというより、芽数が少なかったことが一番の原因。もう一つが、やはり凍害の影響はあって、目の大きさにムラが出来た。お茶の木の更新剪定が必要になっている。今年は久野での一番乗りである。開口一番「お茶は今日からだよ。」製茶工場でこういわれた。農の会の茶畑は、遅れて居たために、早くなった。大きい状態で凍害を受けた茶畑は、静岡のように、一番茶はだめになってしまった。遅れて小さかった芽は寒さに強かった。だから回復の立ち上がりも早く、何とか去年と同じ5日に間にあった。159キロのお茶の葉の量。

お茶を見に行ってどうにかなるものでもないが、今年は心配で10回以上行ってしまった。一時は、5日を変更しようかとまで思った。それでは皆さんのいったん決めた連休の予定がおかしくなるし。迷い迷った予定変更無しだった。次の予定の8日は摘み頃かもしれない。と言って雨が降ればそれで、もう違ってしまう。難しいものである。8日も25グループは参加する。たぶん同じ位の量はあるだろう。このお茶摘はまだ、山北に居たころに始まったのだから、10数年になる。年2回必ずお茶摘をやってきたのだが、お茶の栽培の難しさが、今になって少し分かってきたぐらいである。美味しいお茶と成ると、大体の人が言う事がいい加減なもので、少しも信用できない。目隠しテストのようなもので、味の判別が出来るものではない。まして、味覚計のようなものなどまったく意味がない。

美味しいのは自分の畑のお茶に決まっている。人の畑のお茶をおいしいのまずいの評論するのは、いわゆる消費者の言い草である。まったく私たちには関係がないことである。自分たちが出来る精一杯の栽培を行い、そしてお茶を飲む。このこと全てを、問題点も含めて味わいたい。お茶畑にまつわる全てを味の中に見たい。つまり、それで自足すべきでは無いか。もちろんもっと条件のいいお茶畑もある。しかし、それは他所の畑である。たまたま、貸して頂けた、お茶畑を大切にすること。そのことから受け取れるものは、それぞれにお茶だけでないと思う。それが「収穫を問わず。」と言う事ではないだろうか。50数グループ150人くらいの人が、集まって管理するお茶畑が既に、奇跡的ではないだろうか。そういうみんなの思いを、味わうのが農の会のお茶だと思っている。

昨日の自給作業:お茶摘6時間 累計時間:9時間
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鳩山首相の沖縄

2010-05-05 04:12:39 | Peace Cafe
鳩山首相は一体どういう人間なのだろう。底抜けな善人なのか、愚公なのか。もし腹案がこの普天間から辺野古への杭打ち移設案だったとしたら、腹案などという程のものではない。これまでの進め方は、沖縄県民の神経を逆なでし続けていることに、気がつかないところがすごい。徳之島案の進め方もまるで策がない。この流れは全てが、稚拙なパフォーマンスの結果というしかない。善人としたらまことに困った善人だ。確かに沖縄県民に負担を押し付け続け、何も省みようとしなかった自民党政権よりは、増しではないかという意見がある。そう考えられた時はあった。しかし、この経過を見ると、思いつきで、最悪でも県外移設と言ってしまったことを、ただ周囲に丸投げしただけである。そうして育ってきてしまって、乳母日傘で3文安いだけのようだ。こうなると、親から毎月1500万円もらっていても、何も知らなかったが本当に見えてきた。

愚公移山で貫いてくれるならまだいい。馬鹿馬鹿しいほど簡単な引き際だ。ボクも、頑張ったつもりですが、無理でした。これで済む訳がない。残り時間は1ヶ月と自ら線を引いてしまい。間際になって、兼ねてよりの見え見えの腹案とやらを持ち出すのでは、交渉にもならない。何年かけても沖縄から、基地は無くすと愚公をやってもらいたかった。ああ疑いたくもないが、交渉はしたのだろうか。本気でアメリカと交渉はしたのか。交渉というのは、何と交換するのかだろう。汚染牛くらいなら、全部買いとってもいい。心配だったのは本土の沖縄化だった。東京周辺に米軍基地を集中させたいぐらいに、アメリカは考えている。アメリカの前線基地として、どこに置いておくのが、最善かだけを考えている。騒音被害とか、基地の危険性など、アメリカには関係がない。アメリカが怖いのは日本人の反アメリカの動きである。

外交交渉になっていないのは、アメリカがいかに理不尽であるかを、国民に分かるように交渉しないことである。体裁だけではだめだ。日本が本当にアジアに軸足を移します。日米安全保障条約はこのままなら破棄します。この姿勢を見せない限り、交渉にも何もならない。アメリカの軍事力の後ろ盾は欲しい。これが見えてしまえば、交渉にならない。報道も分かっちゃいない。ポーズだろうが、やらせであろうが、アメリカに帰ってもらおう。こういう世論を作り出す必要がある。仲良き事は美しきかな。では外交交渉にならない。日本は最も信頼できない国。これがアメリカ人の奥底には眠っている。ここを刺激すること以外、沖縄の負担軽減はない。本土復帰ご40年の方が、占領下25年よりもさらにひどい仕打ちといえるだろう。何の努力もしなかった自民党政権。そして、ポーズだけの民主党政権。

悪いもの(フセイイン)とさらに悪いもの(アメリカ)は、比較の仕様がない。イラクの人が言っていた事は日本の事だった。沖縄に対して、何もしなかった日本人全てが良くなかった。沖縄県民の人権侵害の放置は、日本人全ての行っている事だ。私もその一人だ。何が出来るのか、何が行動できるのか、真剣に考えなければならない。そうしなければ、鳩山さんへの批判は天に唾することになる。それにしても、自民党の谷垣氏の鳩山批判には、ビックリする。辺野古移転だけを主張している自民党が、なぜ、鳩山氏を批判できるのか。対案として何か自民党案を言うならともかく、5月末の約束が守れないなら、退陣・退陣では情けない。努力もしなかった自民党よりはこれでもまし。国民が怒っているのは、努力の仕方の拙さである。出来ない事は言わない自民党はさすがだ。まさかこんなことを思う人は居ないだろう。

昨日の自給作業:直播の実験2時間 累計:3時間
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日本国憲法の事

2010-05-04 04:34:44 | Peace Cafe
憲法改定国民投票法の施行が迫る中、今年も憲法記念日を迎えた。憲法を改定するための仕組みがあることは当然の事である。日本国憲法の非武装平和主義は、変えることができる環境のなか、常に選択されて居るものとして、その価値を高める。憲法といえども、人間があっての事である。憲法の精神が、人の暮らしの中に存在してこそ、憲法の輝きが増すものである。18日からは、アメリカから押し付けられた憲法とかいう物でなくなる。今生きている日本人が、良しとして選んで居る憲法と言う事になる。朝日新聞の調査では、憲法9条を「変えない方がよい」は67%で、「変える方がよい」の24%を大きく上回った。「これからの日本の平和や東アジアの安定」に9条が「役立つ」と考える人は70%になっている。このことは、平和憲法を作り上げる環境があるといえる。

日本にはアジア諸国の一員として、平和のための位置を固める大切な役割がある。脱アメリカが最も重要な鍵である。日米軍事同盟の意味を、もう一度見直す必要がある。日本の安全の為にアメリカの武力があったのではなかった。普天間基地移設問題を見ても、アメリカは日本の安全を守ると言う事より、アジアからのアメリカへの武力攻撃に対して、どのような基地体制が必要であるかだけを見ている。沖縄からの移転を頑なに認めない根拠は、沖縄をアメリカ防衛の前線基地として、見ていることにほかならない。しかし、軍事バランスは、中国の軍事力と国力の増大。北朝鮮の核武装。状況が変化してきている。そうした背景の中、アメリカとのみ同盟を結んだ状況が、必ずしも安全の役に立つとは言えなくなってきているように見える。武力による安全確保が出来なくなってきている。

今こそ、平和のための努力を、日本がしてゆかなければならない。それは不断の努力をするよう、憲法に定められた事である。世界の紛争は消えることなく、続いている。繰り返し武力衝突が起きている。日本の平和的手段が問われている。日本に何が出来るのか。日本は平和のための努力をして来たとは言えない。やりもしないうちから、何も出来ないと考えてきた節がある。自衛隊を緊急援助隊にすること。大規模災害に対し、積極的な活動を行う。そのための最新鋭の装備と、訓練を積んだ隊員を養成する。医療部隊を編成し、世界で繰り返し流行する、新型ウイルス等医療災害に対応する。そうした、平和構築のため、国を挙げて努力する。防衛費を全て投入すれば、かなりの事が出来るはずである。自衛隊員にしても、人を殺す訓練より、人を救う訓練を行うほうが、どれだけ幸せであることか。

飢餓、食糧不足が、平和を蝕んでゆく。もう一つの安全保障は、食料の確保である。世界の食糧は不足する時代に入る。食糧生産技術の開発。世界の農地の減少への対応。環境汚染。砂漠化。温暖化。農業は先を予測して、対応しなければならない。食糧不足になってから、対応を始めるという訳には行かない。少なくとも、10年先は見ておかなければならない。日本の食糧は10年後に40%の自給を維持しているだろうか。今の民主党の農業方針であれば、40%の維持さえ出来ていないと見た方がいい。民主党の政策は、子供手当て、高校無償化、高速道路無料化、農家戸別保証。どれを見ても、財政支出が爆発する。遠からず破綻せざるえない政策である。農家を新しくやりたいという人が、職業として選択できる環境を作らなければならない。今ある農家を守るのでは、食料の確保は難しいだろう。
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歌舞伎座の建て直し

2010-05-03 04:09:42 | Peace Cafe
歌舞伎座が惜しまれて、立て直されるようだ。あの建物をグロテスクとしか思ったことが無い人間としては、不思議な思いがする。嫌なのは、いかにも模造品である所だ。一見大理石風とか言う、壁紙は嫌なものだ。何故壁紙紙らしい紙で満足しないのか。Tさんの家は米袋を丁寧に再利用して壁紙にしている。なかなか美しいものだ。歌舞伎座は銀座の海側にあるから、どうしても傍を通ることがある。傍といえばあそこの立ち食い蕎麦屋は評判で、時に食べた。これは無くなったらしい。そっちの方が残念なくらいである。歌舞伎なら、木造建築と思うが、この感覚がすでに歌舞伎的でないのだろうか。歌舞伎は伝統芸能でなく、今の時代の芸能のようだ。海老蔵人気など見ると、今に生きている感じはする。それがあの歌舞伎座の姿が象徴。建て直しの結果、オフィースビルと歌舞伎の舞台が折衷するらしいから、今の時代を象徴しているとは言える。

小田原城を木造の城に再建するプロジェクトがあるらしい。これなら資金協力もしたい。と言っても貧者の一灯。小田原市民が一人20万円ぐらい負担すれば、立て直せるか。鉄筋コンクリート造りの城など、違う。これが小田原の象徴でいつまでも存在する事は、小田原の残念の一つである。あのお城を持って、城下町サミットを開催し、ハイデルベルクやペルージャだったか、招待しようというのだから、すごすぎる発想だった。小田原市の市民会館も建て直しが計画されているが、その前にやらなければならないことある。それを使う人の方の育成だ。市民の中に使いたいという人が居て、初めて建物は作られる。市民会館は絵の展示場も兼ねている。あの環境で自分の絵は展示したくない。その昔、水彩連盟の仲間だった井上正子さんが展覧会をやったので、小田原まで見に来た事があった。正直これはまずいと思った。小田原の距離は、いいものを見るのに東京まで、30分と言う事を忘れてはなない。

必要ならふさわしいものが出来る。必要とされていないのに、建物だけ作るとおかしなものになる。歌舞伎座は分を心得ている。銀座という地の利を生かして、オフィースビルとの複合施設である。小田原の市民会館が、ロビンソンデパートと複合施設であったって、少しもおかしくもない。無理に駐車場も無い施設を作った所で、いい使い道があるのだろうか。駅周辺の活性化とつなげるなら、市民会館ではない。駅周辺商店街はふさわしいものが、ふさわしくあるのが今の状況。衰退ではなく、これからの大きな変化を考える必要が在る。当面、大会場は南足柄をお借りする。他所から呼んでくる催しは、南足柄まで見に行く。その方が便利な市民は多数居る。絵画の展示場や様々な施設は現在の場所からはずす。サポートセンターなど駅前に持ってゆける施設はそちらに移動。美術館は一夜城辺りに採光の良い、景観もある施設に集約する。これも地域の地場産の物産館などと、上手く複合する。それほど大きなものでなく、軽井沢のペイネの美術館程度がいい。と言っても市民展が開ける規模が最大か。

いずれ、歌舞伎座をヨシトスル美的感性は御免蒙りたい。本物に似た偽物。これほど嫌らしいものはない。ついでに言えば、築地本願寺というのも、いただけない。あそこで、Xジャパンの誰かの13回忌法要があったらしいが、3万5000人が出かけたらしい。何かそういうときにだけぴったりしている。東京駅はアムステルダム駅とか。これが今に繋がる明治以降の日本の文化の嫌いな部分だ。西洋かぶれ文化。香港フラワー文化。他所の事はともかく、小田原では広域斎場が作られる。統合合理化と言う事らしい。これも、明らかに考え方が違う。嫌われものを、なんでも隅に追いやろうという、行政的考えはわからないでも無いが、せめて心のこもる日本的な建物にして欲しい。豪華絢爛や、最近流行の葬儀施設のセンスでなく、日本人の本来持っていた、弔いの場に相応しい建物になってほしい。
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小田原市施設白書

2010-05-02 04:09:12 | 地域
塔の峰青少年の家について特に関心がある。小田原の森林地域を見直す際に重要な施設と考えるからである。現在は有効に使われていない。今回、施設白書が出来上がったので、どのように分析しているか関心があった。年間利用者が2500人という施設である。83万円の収入の施設であり。正規職員が一人。臨時職員が1人で運営されている。歳出が1370万円。内1000万円が人件費である。もしこの施設が、施設の目的に相応しく運営されているなら、少しも高い費用ではない。白書の中では、残念ながらこの施設の分析や将来の方向性などは論議されていない。白書とは言いながら、市の所有施設の一覧、という類のもののようだ。一番大切なことは、目的の確認である。青少年の家が出来たのは、45年前である。大きく青少年をとりまく環境は変化している。この時代の施設として、ふさわしいものであるかが問われているのである。

白書には「課題と方向性」と言う項目もある。どうでもいい内容が書かれている。通り一遍で、少しも役に立たない。どうしてこういう内容で満足するのだろう。青少年の家にどういう課題があり、どういう方向性で考えるべきなのか。ここには通り一遍では済ますことが出来ない、深い課題が潜んでいる。小田原市の将来をになう方向性を秘めている部分が、大きく広がる、箱根山麓の森林地帯である。小田原の持つ無尽蔵という可能性は、「交流拠点・総合性」の2つである。この二つの目的になくてはならない位置づけが、青少年の家にはある。山の暮らし、町の暮らし、海の暮らし。この三つの暮らしを一つの地域で、子供が育つ過程で体験が可能と言う事が、小田原の無尽蔵な資源である。林間学校、臨海学校、農業学校、全てが地域で可能な街は少ない。

青少年の家は、林間学校の舞台になる必要がある。その無尽蔵な可能性が現在生かされていない。ここで行われるのは、山での自由な冒険である。その面白さがこの施設にはかけている。山遊び、いくらでも可能性がある。管理された施設として、面白みにかけるものになっている。山の暮らしを感じさせるようなものがない。例えば、林業体験。炭焼き体験。蒔き割り体験。登山道整備。草刈体験。山菜摘み。植林。間伐。沢遊び。山歩き。小屋作り。穴掘り。焚き火。虫取り。正に無尽蔵である。子供には是否やってもらいたいことである。子供の頃やるべき自由な遊びから、育ってくる感性がある。生きる力が培われる。役所の施設として、堅苦しい管理主義、事故のないことを優先した管理、運営では、こうした可能性が生れない。その魅力のなさから利用者が少ない。利用者に小田原在住者がすくないという事である。

青少年の家は本当の人間と接することの出来る場にできる。小田原に存在する、普通の人間であり、本当の人間である人と、子ども達が接することのできる場。無尽蔵の人材と接することの出来る場にする。欅やマロニエのような街場の施設ではなく、山の家において、膝を交えて交流する。終日働き、時を過ごし、一緒に泊まる。小田原には、子供と生活文化協会のように、既に何十年も山の家を利用した活動を続けている団体がある。そうしたノウハウを生かして、積極的にこの施設を利用する。現在杉檜の植林が広がっているが、これを魅力ある森に戻してゆく事を、事業目的にしたらどうだろうか。この施設を拠点にして、集まる子ども達が、少しづつ森作りをしてゆく。最初は海が見えるように視界をさえぎる、杉を切って、ログハウスを作る。クヌギを植えて、炭焼きをできるようにする。

機能の自給作業:ジャガイモの草取り1時間 累計時間:1時間
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