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地場・旬・自給

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ブルーベリー園の夏祭り

2006-06-15 06:34:20 | あしがら農の会
7月23日に農の会の夏祭りが行われます。場所は大井町で、ブルーベリー園をやっている、小宮さんの農場です。
昨年オープン記念で行われたのが始まりです。あまりに楽しい集まりなので、継続してやってゆこうとなったものです。

ブルーベリーつみとり園「旭」http://www15.ocn.ne.jp/~farmcafe/は、足柄平野で一番のロケーションの場所です。第一生命ビルの傍にあります。特に足柄平野を見渡す夜景は、別世界に紛れ込んだような、幻想的なものがあります。
昨夜はここの休憩施設で、第一回の夏祭り実行委員会がありました。

昨年は、農の会の仲間に呼びかけて、屋台村を作りました。これが、各自のアイデアに溢れていて、なんとも楽しいものでした。今年も、これを継続拡大して、屋台の出店を募っています。現在、30店以上が集まりそうです。食べ物屋さんもたくさん出るのですが、有機野菜の販売を始め、昨年はクワガタムシの販売までありました。趣旨に賛同されるものであれば、参加できますので、希望者はお申し出下さい。

今年の屋台ブースには、加えて、NPO活動の交流発表の場として、利用してもらおうという事が発案されました。活動紹介ブースを作ろうという事です。
この地域にはユニークで、楽しい市民グループがたくさん存在します。特に国際交流分野では、30を超える団体が、熱心な活動を展開しています。これらの仲間が、出会い交流できれば、さらに楽しい祭りになるだろうと考えています。

夜は音楽会が計画されています。昨年は、ブラジルのボサノバのジョゼさんが来て下さいました。今年は、現在交渉中で、農園の雰囲気に合う、楽しい催しになると思います。ご期待ください。

この農園は、重要文化財の縄文後期の土偶が発掘された場所です。谷のほうでは古い田んぼも発掘されています。地形的にも、水の関係でも、人が暮らしを立てるには最高の場所だったのだと思います。まさにこの地で、縄文人と一緒になって、土偶作りをやろうという企画も、計画されました。幸い、仲間に陶芸の造形作家が、おられますので、協力を要請しております。

「ぶるべりーじゃむをつくろう」体験ワークショップも行われます。自分で摘み取った、ブルーベリーをその場でジャムにして、食べて、持ち帰ってもらおうという企画です。これは人気の企画になると予想されます。昨年は、ブルーベリーを使ったケーキ作りワークショップの企画が、あったのですが、これが人気でした。
見て回るだけでなく、参加できる企画を色々作ろう。と話し合っています。

結局実行委員会の集まりが、一番楽しいのかもしれません。農作業で忙しい中、参加も難しいのですが。こうした機会に自分達の、やろうとしている農業の意味が、再確認できるような気がします。今まで、こうした祭りの企画というと、中心に動いてくれた、Aさんが今年は個展を控えて参加できない状況です。どうなる事やらと心配しましたが、昨夜はおおよその方向と目途が立ちました。

次回の実行委員会では、重要文化財の土偶の見学から、始めようと言う事になりました。日本でも代表的な土偶の1つであるにもかかわらず、案外に実物を見た人は少ないです。この足柄の地を考える上では、貴重な原点になると思います。興味のある方は来週の水曜日の夜ですので、ご参加ください。






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村上ファンド

2006-06-14 07:05:46 | Peace Cafe
村上ファンドの村上氏が、逮捕される前に記者会見を開いた。何でこうした状況で、自己弁明をしたのかよく分からない。2000億円利益を上げた。とか自慢げに言っていたけれど、ただ悔しいから、叫んでいたのではないだろう。それなりの計算されたメッセージのつもりなのだろう。

「金儲けは悪い事ですか。」叫んでいた事が耳を離れない。
日本人はエコノミックアニマルといわれるようになって久しい。価値基準をお金に置く人が大半という感じだ。堀江貴文氏がもてはやされたのも、同じ流れだろう。

日銀の総裁が村上ファンドの出資していた。福井俊彦総裁はそのことを何の問題も無いと、答えている。「金儲けは悪い事ですか。」ここでもこうした声が聞こえてくる。日銀という存在は、日本経済の舵取りを独立性を持って、行っているところだろう。日限の政策によって、経済の変化は大きいはずだ。その権限を握る総裁が、ファンドに投資している事が、許されると感じている感覚が不思議だ。

堀江氏、村上氏は出る杭として叩かれたのだろうか。もう御用済みにということなのだろうか。こうした叩き方には、どうもタイミングが計られているような気がする。今犯罪として問題にされているのは、彼らの行っていた行為からすれば、全く上手の手からこぼれた事で、いつでも、失脚させる準備はされていた、ように思える。福井総裁もそうなのか。

ここには倫理観という物が、欠落している人間の姿がある。法律の範囲内なら、金儲けをして何が悪いのか。この拝金主義が日本の社会を覆っている。資本主義社会の悪い面が、如実に出てきている。村上氏の父親は小学生の村上氏に100万円を渡し、投資を奨励したという。

「金儲けは卑しい事だ。」私はそう思ってきた。そう教えられてきた。子どもがお金の事を言うと、両親は激怒した。したがって、これが普通の感覚だと思ってきた。中学生の頃の友人に、お金を見ていたらこれに取り付かれると感じて、全て燃やしてしまった、人がいた。びっくりはしたが、お金というものに対する複雑な思いは、共通だと感じた。

堀江氏はお金さえあれば、何でもできる。公言していた。なんとも寂しい人だと思っていた。人に生まれ、味合える喜びの多様さ、深さは、そんな単純な物ではないのに、と思わざる得なかった。堀江氏を若者達が英雄視し、同調してゆこうとする姿に、不安な気持ちは続いていた。もっと上手くやってやると考えて動いている人が、いくらでも居るのだろう。

経済は全てにかかわりは持つが、あくまで生産が基本だ。物を作り出す事を通して、喜びを感じる人間が、ふえてゆく事が、普通の事で大切な事だ。経済の操作の中だけで、お金を増やす事がなぜ喜びなのか不可解な事だ。社会はこの倫理観を堅持するべきだ。
「金儲けは悪い事ですか。」こう叫ばなければ居られない、村上氏は、「お前だって金儲けがしたいのだろう。」このように、言っているのだろう。

金儲けは悪い事ではないが、推奨される事でもない。少なくとも、大見得を切るほど、立派な事ではない。彼らが恥じらいの反動として、居直っているというならまだ理解の範囲だが、、本音のようなので私には許せない。
拝金主義が、どれほど、社会をだめにしているか。すばらしい若者達の勇気を挫いている事か。

あしがら農の会で出会う若者は、お金の事などまったく念頭に無い者が多い。自分の根底の方角を探って、模索している。金権主義の社会の中で、良く持ちこたえたと感心する場面がある。むしろそこから私は教えられるてきた。
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孵化で、気付いた事

2006-06-13 06:59:50 | 自然養鶏
今年は4回孵化を行った。50羽の雛を購入した。購入した雛は現在35羽になってしまった。コクシジュームで死んだ。中雛がかかることが一番多い居のだが、まさにそのタイミングでかかり、15羽が死んだ。

こうした事は最近無かった事で、ちょっとショックだった。全く同じに育てているのに、我が家で孵化した笹鶏は、弱るような様子も無く元気にしているのに、何故こうした事になるのだろうか。

ボリスブラウンと呼ばれている鶏だが、あまりに弱いので、私の飼育法に耐え切れなかったということなのだと思う。笹鶏は、厳しい飼育で、何世代も自然淘汰を繰り返し、簡単に病気になるような系統は、既に居ない。

しかし、コマーシャルの雛は私の飼育法では、かなり飼育が困難になったと思う。中川農水大臣が、日本で種鶏を育種したいと言っていた意味がよく分かった。ヨーロッパから、輸入できないという事は、鶏が弱くなるという事にもなる。多分、日本に残っていた、前世代の鶏を使って、種卵を採っているのだろう。これは、年寄りの親から、種卵を採るという事を意味している。

産卵性も落ちているに違いない。こちらの方が重大なのだろうが。鶏は孵化率なども年々落ちる。1年目の鶏が種鶏にはいい。昔は3年鶏から子は引け。このように言われた物だが。実養鶏の世界ではとうにこうした事はなくなっている。3年目が好いというのは、昔でも雄鶏のことで、雌鳥はやはり1年目の若鶏を使ったと思う。3年鶏がいいというのは趣味の世界の事で、3年で鶏は完成する。この時によいと思われるものから、子を採らないと、いい系統は作り出せない。こういう意味だと思う。

色やら、形など、が中心の事だから、この考えがいいのだが、卵という事に絞って考えれば、若鶏がいい。一番違うのは孵化率だ。これは、種鶏場では重大な要素で、時間とお金をかけて、孵化しているのだから、孵化率は経営に大きな影響がある。これが最近落ちているに違いない。又そこから生まれる子供も、産卵性が落ちる。草した総合的評価で、輸入が途絶える問題点に気付いたのだろう。私は育趨率の低さに驚いたのですが、これも現れているのだろう。

私が雛を購入してみるのは、孵化を全量できないという事もありますが、コマーシャルの現状を把握しておきたいというのもあります。私のところに来る相談は、全てがコマーシャルの雛を飼育している人です。現状を知るには飼う以外に無い。今回は驚くほど飼いにくくなっている事を実感した。これは鶏を、病原菌から遮断して、飼育しなければならないことを意味していて、私の考えてきた、自然免疫の獲得という事では、ちょっと心配な状況だ。
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田植え

2006-06-12 07:28:36 | 稲作
田植えが終了しました。坊所では開設以来初めてという、総勢28名でした。
2反に28名も居ると、実にお祭りに参加したように楽しい、田植えでした。早々と終わり、見事に植わった田んぼは、新しい世界が突然出現したようで、皆でしばらく見とれていました。

田植えが終わると、待っていたように豪雨が過ぎて行きます。向かいの川向こうの竹薮が、すっかり霞んで、温帯モンスーンの真っ只中に暮らす、一人を感じました。アジア全域で、まだこうした手植えが行われているはずです。あっという間に田んぼは水位を上げて、田植えの終わったばかりの苗が、頭だけを残し、気持ちよさそうに、していました。

私達が、様々な条件の中、こうした暮らしが許されている幸せをかみしめました。今年は2家族に不運があり、5家族の運営になりました。それで、急遽仲間に救援をお願いしました。皆さんが様々な形で、協力してくれて、何と田植えが28人集まるという、思ってもいなかった喜びに変わりました。この中で、メンバーになる人も加わりました。

初めて手植えの田植えに参加した人も、多数おられましたが、難なく並んで田植えが出来ました。出来る限り浅いアラ起こし、代掻きと努力した結果、足をとられる事無く、初めての人も歩けました。その場合、大量の菜の花がどんな状態になるかが、冬場からの不安でしたが、以外にも線引きにも影響せず。田植えにも影響しませんでした。

やってみなければわからない、うむがやすし。この後の土の変化、雑草の発生。毎日の観察が楽しみです。今年は菜の花の力の確認のため、米ぬかはまだ撒きません。雑草の発芽の兆候が見られたときには、急遽撒く事にしますが、今のところは、経過の観察で行きます。

今年は雑草のコナギの発生が、早いというのが仲間の田んぼからの報告です。代掻きが早かった人、水引が早かった人は、田植えの時にはコナギが見られたといっていました。苗代でも、コナギが大分出ていました。こんな事は今年が初めてのことでした。

ソロそろ田植えも最終版に成りましたが。毎年の緊急の苗調整も、今年は無事に行きそうです。既に、転がしに入らないといけないところもでてきています。今日は曽比の田んぼの転がし協力です。苗が動いてしまい、転がせないという事で、何が起きたのか。土がへんな発酵をしているのか。心配です。

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田植え

2006-06-11 04:33:37 | 稲作
本日、ついに田植えの日になりました。この日を目指して、2ヶ月前の種蒔きから、始まり、全ての準備がこの日を目標にしています。昨年の田んぼが終わったときからというのが、正確なところです。実にさまざまな事が、起こりながらも、ともかく田植えを今日行います。

今年の1番の問題点は、菜の花抑草です。これが、本格的には初めてのことで、分からない事だらけでした。菜の花の採種から始まりました。田んぼに強いだろうという菜の花の採種です。菜の花の種はどのぐらい蒔種すればいいか。溝を掘らないで、秋起こしだけで、何とか発芽させられないか。何段階もありました。

そして一面菜の花の海。それは美しい一面の黄色。景色を作り出した気分でした。そして、いつ刈り込むか、千田さんは、花が咲いているうちに刈り倒しました。私は、それはもったいない。手間も余計にかかる。ぎりぎりまで伸ばして、田植え一週間前を限度として、トラックターで刈り倒しながら、極力浅い、耕運をしました。それからアラ起こしで、漉き込み。これが中々土の中には入らない。すごい量でした。

多分、一面に10センチの菜の花の粉砕した枯れ草が敷かれた位の量がありました。これを土に入れるのは困難。そのまま代掻き。何とか田植えのできる状態に持ち込めたのですが、トラックターが、故障で。もう古い機械なのでしょうがないのですが。何とか、これもクリアーして、昨日午後代掻き完了。

そこへ、岩越さんが来てくれたので、線引きをやってみるが。これが土が落ち着かず、まだ無理。あす早朝にやりましょうという事で、もちこし。6時から、作業開始の予定。皆が集まるのが、8時なので、それまでに線が引ければいいのですが。
何しろところどころに菜の花の茎が露出しているので、線を引くのはきわめて難しい。何とか、できる範囲で引くしか無いだろう。

もう一つの心配は、苗の数が足りるかだ。コンテナで11箱弱。今年は、天候が問題。どこの苗も小さい。一コンテナ、5000本苗があれば、全部で、5万5千。何とか足りる。一コンテナ20束平均で、1束250本あるだろうか。この辺を確かめながら、スタートは1本植え。始めにコンテナを置く場所が重要。上手く配置しておかないと。足りなくなる。

集まる人数で、何時に終わるか決まります。一応は、8時開始。4時終了が目標です。10名の作業と見て置けばいいのですが。終日可能な人が、10名いるかどうかが勝負です。終わらなければ、あすも継続という事で、残りを片付ければ問題は無い。

今日は暑くなく。雨が強く振らなければ、田植え日和だ。いざ出陣。
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ドミニカ移民訴訟

2006-06-10 05:29:27 | 身辺雑記
2007年問題、2007年に始まる団塊世代の大量退職、つまり1947~49年に生まれた人たちが60歳定年を迎える。私は49年生まれだから、この世代の一人だ。自分がこうした人の溢れるような中に生まれたことは、良かった事のような気がしている。私の生まれた、山梨の山村でさえも沢山の子供がいた。子供達は集団で遊んでいた。

人が多いいということは大変なことで、日本も移民という政策がとられていた。特に山村では満州に移民した人はかなりいて、戦後戻った家族も同じ村にいた。戦後開拓のも作られていた。さらに、ブラジルや中南米に渡って行った人もいた。満蒙開拓、戦後開拓、ブラジル移民と3度の開拓人生を、テレビで見た。

ドミニカ移民がどれほど大変なものだったか、聞いていると思わず目頭が熱くなる。塩を吹く土地をどんなに苦労して耕作したのだろう。不毛の地を与えられ、苦闘した人生を思うと、私まで申し訳なかった気がしてくる。それにしても、政府の方針の悪さは目に余る物がある。

私の親族にも、アメリカに移民した、お婆さんの妹さん家族がいる。既にアメリカのサクラメントという所へ移民していた人のところに、お嫁に行った人だ。写真だけで、様子も分からず、お嫁に行たそうだ。S35年頃一度家族で日本に戻った事があった。戦争中に、強制収容所で大変苦労された事、しかし、親切な隣人が農場を守ってくれていて、戦後無事に戻れた事など話された。

日本移民の人達が、田んぼを沢山作ったので、気候まで温暖湿潤に変わったという事を聞いた。政府の移民政策で国外に出てゆく、この背景はやはり、今日本に来る人達と同じで、国内で生活ができないからだ。しかし、何故、移民政策などという馬鹿げたことしか思いつかなかったのだろう。

日本人の不幸は明治政府の富国強兵政策に始まると思う。江戸時代のことは、明治政府の意図的な宣伝で、貧困と一揆の時代のように、作り上げられた。江戸より明治の方が、国民にとっては苦しい時代だった。国が軍を作るために、大きな税を課し、絞り上げられるだけ絞り上げた。これを正当化するために、江戸時代が封建的で、いかに困難な時代だったかを、教育していった。

それに続く大正も、昭和も、今の北朝鮮と変わらない、軍備の肥大化した、不幸な時代だ。その結果が、移民政策につながる。国内の貧困を、解決する手段が見出せなかった。安易に政府は移民政策に頼った。移民先の詳しい状況も調べず、ただ、移民数の達成だけを目標に、進められた政策だ。ドミニカの場合は外務省は不毛の地であることを把握していた。それを公表しないまま進めるように、指示している。

これはドミニカだけではない。パラグアイでも同様のことがあると聞いた。ブラジル移民でも、アマゾンの奥地の不毛の地が割り当てられた、人達もいたという。

全ては、政府の無策に始まる。ドミニカ移民は50周年だそうだ。何故国内で人口を吸収する、政策が考えられなかったのか。今思えば、いくらでも方法はあったはずだ。政府には50年先の日本が見えていなかったのだろう。見えないだけでなく、方向を見失っていたのだろう。

今の日本はどうか。同じような誤りを犯していないか。私には、国内の農業政策は、食料政策は、同様な過ちを犯しているように思える。国の指針を誤る事は、どれほどの苦難の人生を作り出すか。ドミニカ移民は示してくれている。

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苗取り

2006-06-09 05:41:34 | 稲作
坊所田んぼの苗取りをした。今日も苗取りだ。苗取りは田んぼの作業の中で一番辛い作業だ。水の流れる苗場で一日座っていなければならない。この時期雨も多いいから、雨の振る中、ひたすら苗をより分けながら、根を洗い、200本ずつに束ねてゆく。これはかなり辛い作業だ。

昨日は全体の、3分の2が終わった、今日は残りを午前中に終わって、午後は田んぼの代掻きをする予定だ。一応目途は立ったので、よかった。今横で「雨がひどいから、午後のみにしたい」というので、午後苗取りを行い、代掻きと手分けをすることになった。ともかくメールと、掲示板では表示したが、電話も分かるところにはかける事にした。こうした変更は中々難しいが、横の声も難しいので従う事にした。

今年の苗の出来はよくない。伸びが悪いし、発芽量も少ない。例年は5葉期が平均のサイズになるが、今年はまだ4葉期が平均の状態だ。4月9日蒔種で、苗取りが、6月8日ですから、2ヶ月苗場にあることになる。これは普通より長い、全くの自然状態での、苗作りを目指すのでこうなる。これが私達の田んぼの、健全性を保つ原因だと考えている。大きく苗が育った年は2次分結までしていて、植えるのが大変という状態だ。

いつも苗場のある、金井島はあじさい祭りのはずれにあたるので、今の時期、大変な混雑で、ヘタなコースで苗場に向かうと、立ち往生してしまい、大げさでなく苗場まで行けない事になる。それが、今年は花がまだだ。3日から、11日までが祭りの開催だから、1週間から、10日はづれた勘定に成る。訪れる人も無く寂しい祭りになっている。この祭り1週間に、一年の農産物の販売を、計画している人もいる。今年は当てが外れて大変だろう。

苗の数は6万本は必要だが、ぎりぎり足りる程度だ。田んぼに目印の線を引くので、クロスの数で、株数は正確に出ている。5万程度だった。今年正確に又数えよう。小さすぎて、2本植えるところもあるので、6万は欲しいのだ。昨年は大分余って、採りきらなかったが、今年は完全に取り切ることになった。大分鴨に荒らされた後があったので、これも苗不足のひつつの原因だと思う。苗に余裕がないという事は田植えを、慎重にしなければならないという、ことになった。

今年は埼玉の農協から、種籾を取り寄せた。アキニシキを銘柄米として続けている唯一の、農協だ。私達は自家採種で、10年続けてきた。かなり野毛が出てきたり、背丈の高い株が現れたりで、ばらついて来ている。発芽率もかなり低い気がする。それで、今年は前からの苗と、埼玉の苗を作り、種籾を変えるか比較検討することにした。発芽は坊所のものより好い。生育は坊所の方が少しいい。株のがっしり度が少し違う。

種籾をどこで取るか。一般にはよく出来た株からとるだろうが、これがどうも良くなかったようだ。厳しい過ぎる環境も、良くない。甘すぎる環境も良くない。少しストレスがあるぐらいの場所が、種籾を残すにはいいらしい。この辺りを徹底してこなかった付けが、ここにきて出ている。しかし、この田んぼの環境には当然、適合しているという面も捨てがたいので、ここは、慎重に行きたい。アキニシキはさっぱり系のお米で、いまどきはやらない。私は好きなのだが、好まない人もいる。
ネットリ系のコシヒカリ全盛時代では、肩身が狭いのも仕方が無い。

苗は200本づつ束ねるが、これが目分量なので、もう少し多くなっている。コンテナ一杯に入れて、6000本と見ている。コンテナが10箱で、6万だ。今7箱になっているので、今日、3箱あればいいのだが、足りない事も無いとは思うが、まだ心配だ。これを田んぼに上手く、配置して、今日の作業は終わる。

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野宿生活者

2006-06-08 06:34:54 | Peace Cafe
野宿生活者と呼ぶらしい。路上生活者よりも実態に近いという事で、この名称を使うという事。ホームレスという言葉を、行政は使う。報道関係もほぼ、ホームレスという言葉だ。言葉は使いすぎると、汚れることもあるから、時々洗濯しないといけないという事もある。野宿生活者は実態の表現に一番近いのかもしれない。この場合、小屋を作らない人は、野宿という言葉から、少し外れる感じもある。公演などに家はある人の場合、ホームレスはおかしい。
それに、小屋を作る人と、そうで無い人では、大分実態、感触が違うように感じているからだ。

先日、小田原でパトロールを10年以上続けている。Iさんからお話を聞いた。檜山市会議員が、月に一回程度、「おしゃべりサロン」という会をされている。ここでは、時々面白い話や、人に出会える。
Iさんにはよくお会いするので、「小田原交流パトロール」の話は聞いていたのですが。改めて、パトロールの話をまとめて聞いて、学ぶところが沢山あった。そうパトロールという言葉も不思議に定着した。パトロールと、ピースカフェに書かれていただけで、小田原にもそういう活動があるとはしらなかった。という事で参加を、申し出てくれた人がいた。路上パトロールという事もあるようだ。

襲撃が繰り返されてから、パトロールという言葉が普及したのだろうか。実態から言えば、パトロールという言葉は少しニュアンスが違うようだ。何か警備員や、警察官を思い出すが、内容は異なり、むしろ、交流という言葉の方に、重点が置かれている。この会は、組織として10年が経過し、大きな成果を生んでいる。

一番は、それまで行政が行き倒れ者として、年間10名を弔っていたものが、現在、2名程度になったそうだ。これは、日銭で生活している人たちが、一番困る、正月前後に炊き出しを行うようにした事が大きいそうだ。

交流パトロールの一番の特徴は、組織としての活動ではなく、あくまで個人として、係わる事が前提になっているそうだ。規約も作らず、会としての企画もしない。個人が自分の責任でやれる事、やりたい事を行うのだそうだ。毎週水曜の夜7時から、2班に分かれて、夜12時ごろまで、コースを決めて歩くのだそうだ。

活動は「話を聞く」という事。話を聞いてやれる事があれば、対応する。例えば身体の具合が悪いようなら、病院に行く様に手配する。病院の費用は行政が持ってくれるようになったそうだ。これは交流パトロールに対する長年の信頼が構築されていて、手続きを待っての対応では、病気という緊急事態には無理があるからだそうだ。

10年間継続されて小田原で暮らしている人が3名。小田原には80名ほど暮らしているそうです。回れない地域が、まだあるそうです。就職し、定住された人が、知る限りでは、10年で4名。

小田原には、野宿者に対する活動が、もう一つ「コッコ牧場」というものがある。ここでは、生活再建ということが目標にされていて、きちっとした農場での労働に従事する。これが、義務づけられている。ここにも16名が現在生活しているが、ここでの生活に耐えられないで、離れる人も多数いる。

交流パトロールの「話をきく」このことに徹した活動というのは、さすがに、様々な活動を経て行き着いたやり方なのか、納得したところだった。
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グループリビング

2006-06-07 04:52:50 | Peace Cafe
様々な所で、新しい暮らし方の模索が試みられている。新しい家族形態、が模索されているのでしょう。
大きいくくりでグループホームと呼ばれるなかには、グループリビング・コレクティブハウス・ コーポラティブハウス・生活ホーム等がある。この国の行政の現状を思うと、自分達自身で、この先の事を提案して行くしかない。公が私達の老後に何か提案してくれるだろう、等と考えている場合ではない。そんな人もいないと思う。これが貯蓄率世界一の国の不幸だ。

ピースカフェにも藤沢の「COCO湘南台」が、グループの3棟目として、「COCO高岡」を立ち上げた事が出ていました。このグループは5棟を目標に、していた、という事を聞いたこともあります。1箇所に住み続けるだけでなく、時には他の施設に移動する自由を確保する事で、暮らしの自由度を増して行こうとしている訳です。全国では、本当に様々な新しい暮らしが、提案されています。

一体こうしたグループリビングというようなところで、幸せな死を迎える事ができるものだろうか。これが一つの課題であり、判断基準ではないでしょうか。既に立ち上がってから、7年経つCOCO湘南台ではそのような事例が、報告されています。読ませていただく限り、この施設がいかに優れた事例であるかを、しめす。安らかな空気が感じられます。

この国の年金制度は既に破綻しました。我々のような団塊と呼ばれる、程の人口の頭でっかちでは、若年層が支えられる訳も無い。国がダメなら、齢を取っても働くしかないだろう。幸い、家でやる仕事だから、身体が続く間は何とかなる。が、肉体労働である以上、限界はある。この辺が心配なところだ。
豪華客船での世界旅行など、苦しみ、という貧乏性である以上。今のままの暮らしがどこまで続けられるかが、課題です。

仲間の間でもグループホームは、時々話題になる。私のように子供がいなければ、当然この先の事は、考えて置かないとならない。たとえ子供がいたとしても、子供が一緒に暮らせるとは限らない社会状況だ。家族のみをグループと考える社会では、もうなくなる様な気がする。グループでの暮らしが、社会との接点を、的確に持つことが出来るのか。つまり、社会性があるか。この辺りが、肝心だろう。

若者を含みこんだ、グループリビングが、模索できないかと考えている。あしがら農の会の活動の中で、新規に農業を目指す、沢山の青年と出会ってきた。彼らが、一番困っているのは住宅問題だ。彼らに良質な住宅を提供する事を、大切な事業と考える必要がある。ここに住む若者は、一方老人に対し、何が提供できるかも考える。

農産物の提供が、一般的なことだろうが、もっと多様にかかわりを考える事ができるはずだ。付属の田畑の管理というのもあるだろう。若者に相応しい棟の管理を行うというのもある。若者が行う事。年寄りが行う事、ともに暮らすことで、よりよい生活が構築できるはずだ。生産物の販売所、あるいは農産物の加工所、こうしたものを併設する事で、年寄りの活躍の場もあるはずだ。

これらが併設されていて、地域センター機能を持つような、農業系のグループリビングは出来ないものだろうか。こうしたものが、足柄平野に、10棟ぐらいは存在して、お互いのホームを、行き来するような関係は出来ないものだろうか。人間の暮らしは相性が一番深刻だ。他の暮らしを長年してきた者が集まるわけだから、自由度が何より大事だ。季節ごとに、場所を変わるぐらいの方がいい。

国の役割としては、年金での老後の保証をできない以上。こうした自らの自助努力を支援してゆく事が、急務であろう。
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和田義彦氏の盗作

2006-06-06 03:46:17 | 水彩画
和田義彦氏の盗作問題が、いわゆる世間をにぎわせている。

以下は今盗作騒ぎを起こしている、芸術選奨文部科学大臣賞受賞の理由です。

「和田義彦氏は早くに西欧古典技法を習得、氏の高度な油画技術と正確な素描力と重厚な着彩とは、既に定評がある。その氏が平成17年に行った「ドラマとポエジーの画家 和田義彦展」(三重県立美術館、4月~6月ほか)は、初期から現在まで46年の作歴を示し、骨太な表現と変化に富む内容は圧巻であった。氏の作画世界は、群像等で劇的な情景を設定しているが、示唆するものは社会の不条理や人々の不安、孤独など内面の実存である。常に問題意識が現代の核心に触れていて、その時事性もまた評価できる。」

この人を選んだ審査員は7名だそうだ。今恥ずかしい思いをしているだろう。気付かなかったのは止むえないにしても、こ人の絵を、こんなにも持ち上げてしまった事はさすがに、美術に係わる者として、残念に違いない。再審査には7命中4名が欠席したそうだ。無理も無いことだ。

国画会は退会勧告をした。除名という事のようだ。創立した梅原隆三郎が泣いているだろう。この絵が盗作である事は、絵を知らない人であれば、あるほど納得が行くだろう。実はこれでも、専門家の間では、中々難しいところなのだ。これが盗作ならあれはどうなの、と言う事にならないか。

イタリアのスギ氏という人の作品を、今回の事ではじめて見る機会を得た。これが、日本の団体展の特徴が垣間見れて、興味深い事だった。つまり、スギ氏の作品はマチュエールがあっさり、ねっとりしていて、ある意味不気味だ。イタリア的と言えるのだろう。一方和田氏は盛り上げて、重厚さを出している。団体展で受けるやり方だ。日本独特に発達した公募展風の、貧乏たらしいといわれる、タイプの物だ。国画会に両者が並べば、和田氏に軍配が上がるだろう。

この人が中心メンバーの一人である国画会という団体も、また恥ずかしい思いをしている。愛知芸大はどうなるのだろう。この人は教授だったはずだ。こういう描き方を指導していたのだろうか。愛知芸大で同僚で、同じ国画会の会員である島田 章三氏は今どんな思いだろう。絵を大学で指導すると言う、限界を感じざる得ない。

絵を描くということが、和田氏にとってこういうものであるなら、つまり、スギ氏の作品に触発されて、それを写して自分のマチュエールにしてゆく事に、喜びがあるなら、それでいいのではないか。問題はそういう行為を、芸術的と呼ぶかどうかだろう。それは選んだ人の問題で、選んだ人達は今更、それを撤回するというのは、どんなものだろう。国画会では除名だそうだが、除名の理由は盗作なのだろうか。今まで、持ち上げてきた、自分達は恥ずかしくないのだろうか。

仲間として、こうした描き方を良くないとするなら、今まで同じ団体展で、同じ名古屋の大学の教官だった、島田氏は絵を見抜く能力が、又人間を見抜く能力がなかった、という事なのか。

私には、今の団体展の絵の殆どが、和田氏の制作手法と、大同小異だと思っている。元絵があろうがあるまいが、根本は変わらない。受けそうな絵のやり方を模倣をしている絵が、大半だ。だから、こういう描き方の和田氏の作品が持つ、独特の不自然さが、目立たないのだ。さすがに、スギ氏の構図そのままということで、今回は目立ってしまったが、もっと要領よくやっている人ばかりだ。それが評価を得てゆくやり方だと思う。

絵を描くと言う事は、自分の内部にある何かを表現することだ。自分が見ている何ものかを、画面化することで、より深め、客観的なものとして、存在させる。その思想が、哲学と言ってもいいものが、人に伝わるか。ここだと思う。
この行為から、何かを他者が感じるかは、これまたそれぞれの問題だ。評価と言うものが当てにならないのは、当たり前で、そんな事と制作は何の関係も無い。


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坊所田んぼ

2006-06-05 04:59:56 | 稲作
今年は坊所田んぼの作業や、様子を少し細かく書いてみようと思っています。私達のやっている自給の田んぼの活動が、どんなものなのか、まとめてゆく上で参考になればと思います。
坊所田んぼは現在7家族の仲間で形成されている。多士済々で、大変個性的で魅力的な集まりと成っている。昨年の収穫祭では、坊所バンドが出演するという、すばらしいパフォーマンスもあった。それぞれに忙しい人たちなので、効率的に進めて行く事を考えている。

この田んぼは笹村が、水管理他責任者として、一貫して活動してきた。笹村が田んぼをあれこれやりたいという事があるもので、その興味に他の人達に協力してもらっている。そんな気持ちが私としては強い。水の冷たい、日陰の田んぼで条件が悪いのだが。自然環境は足柄平野で一番の、美しい田んぼだ。この田んぼの活動に参加してもらい、他の田んぼの方へ移籍していった人も多数いる。

昨日は、畦周りの草刈や、畦の建て直し、そして粗起こしをした。午前中の作業となった。心配だったのは、あの膨大な菜の花が果たして上手く借り倒せるかだった。正直なところでは、問題ないと踏んでいた。いままで、荒れ放題の田んぼを再生してきた経験から、あの程度の草は全く問題ないと考えていた。ひどいところでは、ススキの草原で、潅木まであるというところを、6月になって、急に田んぼにすることになり、一気に田植えまでやり、見事に収穫まで行った事もある。

菜の花は2mはあった。一部、カズノコ草の群生になり、菜の花が生えていないところもあったが、ともかくがっしりした菜の花で、太い奴は長径で4センチぐらいの樹になっていた。私の経験では、なるたけ枯れるまで置いた方が、もろくなる。実がしっかり実るところまで、行った方が、草がもろくなるようだ。樹のの中空が砕けるような感じになる。それで、田植えの一週間前というぎりぎりまで伸ばしていた。ここまで伸ばしても、種は多分自然再生はしないと思う。これがレンゲよりまずいところだ。

種を先ず採ってと思っていながらやらなかった。トラックターに乗ると、それだけに成り、他の事はまぁーいいという感じに成る。この点は別作戦があり、河原に種取りに行きたいと思っている。中州に随分生えている。これなら水に強いのではないかと、推測している。

土をわずかに削る程度の高さにして、目一杯の速度で、ロータリーを回し、トラックターは1時間で1反が終わる程度の速度で、回った。トラックターに乗った私の顔に菜の花の穂が当たる程の高さがある草が、飛び散ってゆく。2時間ですっかり刈倒したような状態になった。実に上手くいった。予定通り行くと気分がいい。3日置いて、水曜日に漉き込むつもりである。予定では金曜に水入れ、土曜に代掻き。日曜に田植えとなる。

全ては、抑草のためこんなに詰めた作業にしている。水を入れてから、時間を置かない。これを全てに優先している。これは10年間繰り返してきて、草を抑える一番大切な要素だ。そんな土では、田植えが出来ない。こんな事を思う人もいるかもしれない。毎年私も不安だ。それでも、苗床の苗が、大苗になっていれば、大丈夫だ。これも手植えの良さだ。私達のような新規参入の者は、草は僅たりとも生やしてはいけないのだ。農業委員会や、生産組合で、問題化するのだ。あれでは農業で無いと、農業者を取り消すというように言われた、仲間も入る。草さえ生やさなければ、採れないのはまだいい。

草がこれほど入って土は腐敗しないか。当然その心配もある、ところが、私の養鶏場の堆肥化した床を先ず撒き、海水を撒いておく。それで漉き込めば、腐敗はしない。ここ3年は臭くない。発酵したいい匂いがした。それでも今年は今年で心配だが、何とかなるとは思っている。

なぜ、自給の田んぼをやっているかも、書いてみようと思ったが、長くなったので、それは次にします。


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田んぼが始まる

2006-06-04 05:47:19 | 稲作
田んぼが始まった。6月1日に「坊所たんぼ」に海水を撒いた。それ以外は何もまだしていないが、気持ちの高まりというか、この時期はいつもとは違います。田植えの予定は11日です。

ここ3年、海水を500リットル田んぼに入れます。2反の田んぼですから、反250リットルです。最初海水を入れようと思ったときには、どこの海に行って、汲んでこようか、ポンプはどうしたらいいか。色々始めるまで悩んだものだ。
そこで既に、2,3年かかってしまった。どの程度入れたらいいか。海水の成分は塩だけか。塩害はあるか。海水には汚染物質の混入もあるだろう。色々考えた。
考えて、止めてもいい理由は色々あった。

それでもやってしまうところが、素人の強みかもしれない。悩んで悩んでいたところに、植木屋さんがメンバーに加わった。「海水を入れる田んぼがあるらしい」こんな事を、休憩時間に話していたら、道具はあるから、すぐやろうという事になった。植木に水をやる、タンクとポンプがセットされた車が貸してもらえるのだ。こんな幸運は無い。どうしたらいいかずーうと迷っていた。天恵だ。

以前から、鶏のえさには加えていた。糠を発酵させるとき海水を加えると、発酵状態が良くなる気がしたのだ。糠味噌でも塩を加える。塩と糠の相性は悪くないはずだ。適量の塩分はどんな生き物にも必要な事だ。
鶏の場合は、結論が早い、1週間やってみて、おかしければ卵に結果が出る。発酵する際、加える水分に海水を加えてみると、早く熱が出るようになった。熱が出やすくなった。冬場の発酵にそのことが明確に出た。これはいい。

卵の殻の状態も悪くない。鶏の様子もおかしなことは無い。それから、随分長く続けているが、問題が出たことは無い。
「現代農業」に糠除草の記事に海水を加えるという農法が出ていた。糠だけを撒くより、効果が高いというのだ。糠除草という、言葉を私は止めていた。糠抑草というべきだ。草押さえ程度のほうがいい。草一本はえないようでは何かがおかしくなる。糠の効果が頼りないという事もある。

米ぬかを田んぼに入れるのは、田んぼで取れたものを戻すのだから、悪い訳は無い。これで、コナギが押さえられれば、もう言う事が無い、嬉しい技術だ。米糠抑草は10年やった。手取りの草取りをしないで済ます年も、かなりある。しかし、草は生える時は生える。これをもう少し安定させたい。再現性のある技術にしたい。この辺、にこだわりがある。

糠に海水、この組み合わせは悪くない。田んぼ丸ごと発酵に行くんじゃないか。レンゲをすき込んで来たので、春先、田んぼの土が腐敗臭を出す事がある。ところが、海水を入れてみると、なんとその年から、ニオイが、いいのだ。土壌が改善されてゆく、兆しを感じた。それから、3年目。この2年収量も悪くない。谷戸田で条件は悪いのだが、7俵取れるようになった。海水のお陰だと思っている。

海水は全ての集約だ。水に流した、全てが集まり、大きな海になっている。土壌も、岩石も、植物も、地上にある全てが、徐々に海に流れてゆく。その海を田んぼに戻すというところが何かいい。鳥や、魚が、海のものを山に戻している力も、大きなものがあるらしい。ゆっくりとした循環がここにも存在している。

今年は海水を撒きながら、田んぼを歩いても、土の踏み心地がいい。今は菜種が種になって、一面が真黄色だ。大きい物は2メートルはあるから、すごい量だろう。これを漉き込むのかと、考えると何が起こるか緊張するが、充実のある田んぼだ。今日明日に、種を取ったら、いよいよすきこみに挑戦する、ことになる。

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祖父母の名前を知っていますか。

2006-06-03 05:38:01 | Peace Cafe
祖父母の名前を知っていますか。こんな質問が出ていた。誰でも4名はいる訳だが。私はおぼろげながらの状態だ。
「てる。良水:鉄熊。賢宗。末野(すえの)。」すえのは平仮名でいいのか。怪しいところだ。ではその上の世代を一人でも知っているか。8人いるわけだが、賢宗おじいさんの母に当る人。曾おばあさんを一人だけ、一緒に暮らしていて、知っているが、名前は忘れてしまった。申し訳ありません。生まれは慶応年間だった。そのご主人は、若くなくなられたということは聞いている。それで、賢宗おじいさんはお寺に預けられ、育ったらしい。

末野おばあさんの父母は山梨の油川というところで、農業をしていた。石原という苗字だと記憶しているが、少し怪しい。今は、ハウス桃をやっているらしい。これは偶然テレビで知った。
良水おじいさんは、鉄熊曾おじいさんの、息子だと思っていたら、同じ人間だという事が分かった。これはネットで偶然知った。という事は、良水おじいさんの、父親はなんと言う名前だろう、土佐から、出てきて小説などを書いていたという話を聞いている。長生きだったそうだ。
良水おじいさんのお母さんの事は、全く分からない。てるおばあさんは、おもしろい人生を歩んだ人だったと聞いている。そのお父さんは横須賀に住む軍人だった人だ。鹿児島から出てきた人と聞いている。

こんな他人には同でもいい事を書くのは、馬鹿げているのだが、どのくらい知っているのかを記録してみた。無視ください。

これが、文字の無い時代というと、5,6代前の祖先の名前が、すらすら出てきて当たり前だった様だ。文字が無い代わりに、記憶するという事に長けていた。文明は進歩するとしても、文化は進歩するとは限らない。
曾おじいさんの名前も知らない時代に生きているということは、私は恥ずかしい事に感じる。寂しい事だと思う。調べれば分かる事かもしれないが、分からない祖先を調べるというのも、一時はやった事だが、それはかなり気恥ずかしい事だ。

私の父も、祖父も、先祖の伝承を良く語った。自分が故郷を離れ、生きることを寂しい事と、根無し草のような意識で感じていたようだ。それで、せめてもの事として、次世代に受け継いでもらおうと語っていた、そんな気がする。
しかし、そうした先祖のことを語る調子が、何か自慢げな所があって、愉快には聞けなかった。だからなるたけ上の空で聞いていたので、良く分からないわけだ。封建社会の中では、家の意識が強いから、家を誇る気持ちが、まだ残っていたのだろう。そうした価値観が、崩壊する戦後社会の中で、居た堪れないものを持って居たのかもしれない。

私自身は、父や母へ尊敬の思いは今も変わらない、これはありがたいことだ。では祖先に対して同様の感謝の思いがあるかといえば、殆ど無い。日本人の幸せ観の中に、祖先に見守られて生きている幸せ意識が大きかった。これは移動しないで生きてこれた、社会の姿だろう。私の祖先のように、一世代ごとに違う場所に生きることになったものは、そうした気持ちを維持する事は難しいと思う。

私の祖先で唯一移動しないで、今も油川で、ハウス桃を栽培している家族は、信玄の時代もそこに居たらしい。そうした暮らしの中では、かなり違う安定感が想像できる。
私の住む地域の大半の家族が、江戸時代からここに住んでいたというが、養子さんが多いというのはあるが、違う価値観に生きているのだろうか。何か違うと思うのは、氏神様の掃除に出るときだ。小さな集落にしては立派な社がある。お祭りの前に掃除に出るのだが、このときは何かみんなの様子が、川掃除に出たときとは違う。多分先祖に見守られている意識が、沸いてきているようだ。大変和やかな、大声をたてない作業になる。
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自殺者3万人の国

2006-06-02 05:21:49 | Peace Cafe
自殺者3万人の国、わが日本のことだ。これが5年も続いている。4000人に一人が、毎年自殺する数字だ。小田原市の人口で言えば、毎年、50人が自殺している事になる。久野では毎年3人が死んでいる事になる。これは普通なことでは無い。この状態は5年間続き一向に減る様子が無い。

このことは、少子化の問題とも関連しているのだろう。生き難い社会。普通に暮らしてゆく事が、困難になってきている社会。無神経になって暮らさざる得ない社会。社会の至る所に、追い込まれている人がいる。社会が病んでいる現われとして、信じがたいような、犯罪も後を絶たない。

原因を、探らなければならないという事もあるだろうが。それよりも、それぞれが、心を開ける場所、仲間を探す事が緊急の課題だと思う。
私が暮らしている地域は、人口の移動の殆ど無い、江戸時代から、この地に暮らしている家の方が、大半である小田原の外れの集落である。いかにも地域社会が残っているはずの地域だ。殆どの家が、なんらかの姻戚関係が存在し、暮らしの隅々まで知っている。このように私は考えていた。

所が、よそから来て、8年目の私の方が、各家の状況に詳しいのだ。傍目には、祭りや、葬儀には、総出で活動をしている。交流の深い地域に見えるだろう。しかし、そうした活動が形骸化している。形だけにならざる得なかった。私も地区公民館長をやった。今度の自治会長も、他所から来た方だ、来年もそうだ。一人の人は2度目の役割という事になる。他所から来た人は70家族のうち4家族しかいないのだが、定年退職者のため、そうした役割が当てられるのだ。

昔からの地域の人には、役割を引き受ける余裕がないという事だとおもう。役は大変名誉な事で、私は地域の方から言われた事は、全て受け入れるという姿勢でいたので、来て3年目に公民館の仕事を頼まれた時には、不可能という忙しさの中、お受けした。そうしたら、近所の方から、3回ぐらいは断ってから引き受けるものだ、と注意をされた。その名誉な事を、誰もやりようが無いのが実情なのだ。

もう私以外で、家で農業をしている人は、お年寄りか、女性だ。それも、10人ぐらいで、80を越えている方がほとんどだ。山仕事や、農業が生業であった時なら、地域社会は生きていたのだろう。この地区でもお年寄りの一人暮らしは不可能になっている。老人ホームに順番を待って、入所しているのが実情だ。

地理的な意味での地域社会が失われている。これを復活させるという事は、不可能だろう。それなら、どうやって自分の所属するグループをもてるのか。これが今の緊急の課題だ。男性老人の自殺が一番多いいというのは、会社社会というグループから外れたときの、所属する場の無いことが、反映しているのではないか。

人間はグループの中でしか生きられないのだと思う。私は、13年間山の中の1軒屋に暮らしていた。自給自足的に暮らしていたので、人に会わずに1週間ぐらい過ごすことは稀でなかった。山から下りないで長い事いることもあった。小田原まで出てくることが、町に行く、という特別な事だった。しかし、外部の様々なグループには所属していた。この意識は自分の安定を保つためには、大きな要素だったと思う。

誰もが、気軽に所属できる、コミュニティーを育てる必要が迫っている。先日、野宿生活者の話を伺った。活動を続けてきた方の「出来る事は、話を聞かせてもらうことだ。」この言葉は何度も思い出している。
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国際緊急援助隊

2006-06-01 05:47:00 | Peace Cafe
アジアで大きな災害が続いている。ジャワ島中部地震では、日本は今まで以上に災害支援に、頑張っているようだ。大変ありがたいことだ。資金援助が、立ち上がりで、10億円を越えてアメリカや中国の、5倍にもなっている。人的な支援も、国際緊急援助隊の出動に加え、自衛隊も行く。

スマトラ沖地震のときは、日本も今回以上に援助をしたのだが、世界各国の支援に比べると、特出したという事はなく、残念だった。

2003年「国際協力機構(JICA)」が発足し、政府開発援助(ODA)の実施機関として位置づけられた。政府が開発途上国に行う資金や技術の協力を政府開発援助をODAという。この機関の中に「国際緊急援助隊」がある仕組みだ。
支援物資の倉庫は世界に4箇所設置して、迅速に対応できるようになっている。
国際緊急援助隊の出動記録を見ると、月に1回以上は出掛けていっている。地域は勿論世界に及んでいるが、やはりアジアへの出動が中心になっている。

私は日本という国家の安全保障は、憲法で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と決まっている以上、この災害支援を中心に考えるべきだと思っている。いっぺんに自衛隊の廃止と言っても、不安が大きいだろうから、目標を決めて、徐々に緊急援助隊に自衛隊を移管してゆく。

今回も自衛隊の派遣に対しては、インドネシアからの要請という、大前提が必要だ。これは混乱している災害の起きた当事国としては、判断の難しい面がある。災害支援として出動した軍隊が、その国を占領してしまうかもしれない恐れだ。

日本の平和主義が、世界各国に理解されることで、緊急対応にも敏速に動けるようになるはずだ。私は自衛隊も廃止して、この国際緊急援助隊1本にしたらいいと思うぐらいだ。これが、今すぐ国民に理解されないとしても、方向としては、日本の安全保障にはこのほうが、はるかに有効だと考える。

現在アメリカとの同盟が、日本の安全保障の基本的な考えだ。しかし、アメリカの行動が、今回のイラクのように、国際的に支持されず、必ずしも日本の国益にそぐわない事も出てくるだろう。それでも自衛隊派兵を行わざるえないのが、アメリカとの同盟だ。

アメリカの要請で、自衛隊が誕生し、増強の一途をたどっている。米軍基地の再編では、アメリカの司令部まで、日本に移動する。そこまでアメリカに依存していいのだろうか。ブッシュ政権の動向を見ていると、日本の安全保障を、アメリカに全面的に依存している状態が、アメリカともども、地獄に落ちてゆく可能性も、無いとはいえ無い、不安定な状況に見えるのだが。

国際緊急援助隊を、自衛隊に変わるほどに増強し、世界のあらゆる災害に対し、全力を持って支援してゆく。このことで、日本という国の平和主義の姿を、世界に示してゆく。日本を感謝しない国はない。こんな状態が作り出せれば、日本の安全保障は格段に高まるはずだ。アメリカの自衛隊の出動要請があっても、自衛隊が無いのだから、緊急援助隊の参加という範囲で協力してゆく事になる。勿論安全保障に不安はつき物だ、完全という事は無い。しかし、今の中途半端な、自衛隊による安全よりは、ましな物が可能なはずだ。

例えば、北朝鮮に災害が起きたとして、今の日本では支援に向かう事もできないだろう。日本が軍事力を持たない国であれば、受け入れてくれることになるかもしれない。こうして、互いに心を開くきっかけを作る事ができるのではないだろうか。

今回のジャワ島の地震では、すばやい、しかも手厚い対応です。出かけてゆかれ、頑張っておられる隊員の皆さんに、国民の一人として、深く感謝しています。
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