畔の草は出来る限り刈らない方がいいと考えている。田んぼという稲だけが生えている単一の環境に違和感を感じている。農業というものは大抵の場合、単純化してしまうという意味で自然破壊の一面がある。それは綜合的に見てゆくと稲にとっても良い環境とは言えないのではないだろうか。この視点から産まれた農法に田んぼの草は抜いてはならないという、川口式自然農法というものがある。指導いただいたことはあるが、田んぼの草をとらないほどの自然の姿を思想として求めるにもかかわらず、何故に田植えをするのでしょうか。と田植えの意味を質問したことがある。まったく無視をされ回答をされなかった。福岡式自然農法のように、究極の自然状態を求めるのであれば、直播に進むはずではないかとおもう。ただ福岡農法は挑戦したことはあるが、難しすぎると思った。私はそれに反して田んぼのなかは稲以外の草はすべて収量を減少させる原因になっていると考えている。コナギ一本さえ収量の減少につながる。いろいろ試行錯誤したが、多収するためには草取りは不可欠である。
畔の草は田んぼの中の草とは別ではあるが、やはりつながる環境である。畔草は実際には何度も刈っている。みんなでやる田んぼでは子供も来る。畔草に足をとられるようなことは避けたい。田植え前、追肥前、稲刈り前。の3回は刈りたい。ただそれが稲によいのかどうかという意味では、刈らない方が良いという考えは捨てきれない。この場合、稲刈りが終わったら畔草を刈るというのが、最善という事になるのだろうか。植物には他の雑草との共存を好むものもあれば、嫌うものもある。叢生栽培にはタマネギが作れるならやってみたいが、出来ない。稲の性格は他の草を嫌う事もないが、他の草より弱い印象だ。競争すれば負ける植物である。肥料分の取り合いをすれば、他の草に肥料分をとられてしまい、実りを減らしてしまう植物に見える。そこで畝取りするために、草をすべて取ることにした。草さえなければ、自然農法の稲は慣行農法の稲よりも多収になる。それは当たり前のことで、管理は大変だが、自然農法の土壌は稲にとって最善の環境だからだ。
新規参入者として、自給目的で田んぼをやらっているからだ。農家の眼は厳しものがある。農家の方より多く収穫して初めて、認知してもらえるという社会環境だった。このことは畔の草刈りには影響して来た。畔の草がある方が稲には良いのではないかという観点をもちながらも、畔の草を刈らない訳には行かなかった。その為に、本当の意味で畔の草が稲の為にどういう影響があるのかは、観察することはできなかった。ただ、畔草はある方が稲の植物的環境としてはいいのだろうという想定は何時もしている。田んぼの中は稲に単純化している。せめてその周囲に草が茂みになり、生き物の住処になっている状態を作り出せれば、田んぼの中の単一化を緩和できるのではないか。田んぼの稲の病害虫も減るのではないかと考える。その茂みが虫の住処になって、稲の病害虫の原因になるというのが、普通の考え方であるかもしれないが。底を確かめたいと思いながらついによくわからない。田んぼの単一世界をを畔草の多様性で調和して、極端化を避ける方が、病害虫は減少するはずという考え方をしている。その意味では畔を彼岸花だけにするというような姿も、良くないのだと考える。
しかし、作業の為には草は刈らざる得ない。田植えの時に畔に草の茂みでは困る。稲刈りの時も同様であろう。作業の前に草を刈るというのが現実的な対応である。追肥の前にも草はない方が楽だ。とすると作業の前に刈るという考え方が現実的ではなかろうか。畔の水漏れを探すには畔草はない方が見つけやすい。畔がきれいな方が、田んぼの水の見回りが楽で、観察が良くできる。虫の問題、風の問題、病気の問題、畔管理の問題。南側の高い草が日陰を作るのは困る。日陰になるとすれば、南側だけは刈るという事もあるかもしれない。もうひとつある。美しい田んぼとはどんな田んぼなのだろうという事。畔がコンクリートの田んぼは問題外である。畔並みシートも良くない。草がある畔と、無い畔では、有る畔の方が美しいと私は感じている。田んぼの絵を描いていてそう思う事がある。さらに突き詰めれば、田んぼがほどほどにある状態が、一番良いのではないか。農の会の田んぼでは、田んぼ地帯よりも、久野の田んぼの方が多収になっている。