ベースボール、アメリカンフットボール、バスケットボールの3競技がアメリカで生まれた代表的なスポーツであろう。どの競技もプロスポーツとして盛んに行われている。特に、ベースボールは野球として日本でもプロスポーツになった。日本に来た、元大リーガーがアメリカに帰って、「日本には、ベースボールに似た野球というスポーツがあった。」と語ったと言うのは印象的であった。その野球の世界大会にWBCというものがアメリカで行われる。日本はこの野球大会に出るのかどうか、最初から揉めていた。もめた末に出て、日本が初回も2回目も優勝した。又ことし3回目があり、日本が出るかどうかで散々もめた末、ついに出ることになった。しかし、日本国内選手だけが出ると言う事で、アメリカでやっている超一流の人は出ない。どうも日程的に3月にこれに出ると言うことは、選手として無理があるらしい。
野球はオリンピック種目にどうしても取り上げられない。ベースボールがマイナーなスポーツを抜け出せないのは、その余りに難しいルールによる。ルールブックとなると、一冊の本である。プロ野球の選手が、ルールのテストをしても半分も点数が取れない人がいると言われるほど難解なルールになっている。例えばインフィールドフライの規定、等と言っても、正確に答えられる人は少ないだろう。アメリカで生まれたスポーツというのは、押し並べてルールが複雑で、細かな部分に及んでいる。それは、アメリカという国が、細部の細部までルールブックで決めておかないとならない国だからというきがする。そんなことは書いておかないでも当たり前だろうと言う所まで、決めておかなければ問題化する。暗黙の了解というものが、存在しない、沢山の民族を統合させた国がアメリカなのだろう。WBCに参加するかどうかのもめ事を見ても、アメリカと付き合う上で、ルールは重要なことである。
日本ではスポーツは、柔道とか剣道のように精神修養の方法になる傾向があった。あるいは、相撲のように神事から脱皮しないものも現存する。身体を鍛えることを人間としての道を究めるための方法にしようとする。ヨガとか、太極拳などはかなりその傾向が強い。その意味で、日本にはチームスポーツは生まれにくかった。蹴鞠を考えてみればいい。蹴鞠がサッカーのようになぜならなかったのかである。古代中国で出来た時には、もう少し競技的なものであった。蹴鞠は相手が取りやすい球を出す事を最上としている。チームで長くボールを上げ続けることが出来るかを競うようになる。肉体的に相手に勝つという事を、いやしいこととする気持ちが日本人にはあったのではないか。葉隠の中の武士道にある、逆説的精神というか、屈折した精神はそうしたものを反映している気がする。スポーツというものを、形成しているルールというものへの理解が、日米で随分違うようだ。
日本人が日本人らしさを失うなかの取り違えが、運動部の暴力事件である。これは全くの氷山の一角である。苦行を行い解脱する事を目的にする修業を、学校教育のクラブスポーツに持ち込んでしまう。人間を鍛えるためには、運動部で鍛えた方が良い、くらいの考えが社会の通念にある。運動部の練習においては、少々の体罰は認めるべきだ。この考えの方が一般的には評価されている。社会常識と法律の乖離である。勝つため。この意味が日本人にはあまりなれない考えかただった。明治以降、世界の競争に勝つという価値観で、自分に勝つという、日本的な精神が間違った使われ方をしてきた。勝つという結果だけを価値観とした未熟な指導者が、修業世界の道場主のように支配をしてしまう。恐れていることがある。ルール精神のない日本人が軍隊を持てば、同じようなことにならないか。勝つことだけを目的とした武力集団化する。どうも、日本人は平和主義で行く方が向いている。
野球はオリンピック種目にどうしても取り上げられない。ベースボールがマイナーなスポーツを抜け出せないのは、その余りに難しいルールによる。ルールブックとなると、一冊の本である。プロ野球の選手が、ルールのテストをしても半分も点数が取れない人がいると言われるほど難解なルールになっている。例えばインフィールドフライの規定、等と言っても、正確に答えられる人は少ないだろう。アメリカで生まれたスポーツというのは、押し並べてルールが複雑で、細かな部分に及んでいる。それは、アメリカという国が、細部の細部までルールブックで決めておかないとならない国だからというきがする。そんなことは書いておかないでも当たり前だろうと言う所まで、決めておかなければ問題化する。暗黙の了解というものが、存在しない、沢山の民族を統合させた国がアメリカなのだろう。WBCに参加するかどうかのもめ事を見ても、アメリカと付き合う上で、ルールは重要なことである。
日本ではスポーツは、柔道とか剣道のように精神修養の方法になる傾向があった。あるいは、相撲のように神事から脱皮しないものも現存する。身体を鍛えることを人間としての道を究めるための方法にしようとする。ヨガとか、太極拳などはかなりその傾向が強い。その意味で、日本にはチームスポーツは生まれにくかった。蹴鞠を考えてみればいい。蹴鞠がサッカーのようになぜならなかったのかである。古代中国で出来た時には、もう少し競技的なものであった。蹴鞠は相手が取りやすい球を出す事を最上としている。チームで長くボールを上げ続けることが出来るかを競うようになる。肉体的に相手に勝つという事を、いやしいこととする気持ちが日本人にはあったのではないか。葉隠の中の武士道にある、逆説的精神というか、屈折した精神はそうしたものを反映している気がする。スポーツというものを、形成しているルールというものへの理解が、日米で随分違うようだ。
日本人が日本人らしさを失うなかの取り違えが、運動部の暴力事件である。これは全くの氷山の一角である。苦行を行い解脱する事を目的にする修業を、学校教育のクラブスポーツに持ち込んでしまう。人間を鍛えるためには、運動部で鍛えた方が良い、くらいの考えが社会の通念にある。運動部の練習においては、少々の体罰は認めるべきだ。この考えの方が一般的には評価されている。社会常識と法律の乖離である。勝つため。この意味が日本人にはあまりなれない考えかただった。明治以降、世界の競争に勝つという価値観で、自分に勝つという、日本的な精神が間違った使われ方をしてきた。勝つという結果だけを価値観とした未熟な指導者が、修業世界の道場主のように支配をしてしまう。恐れていることがある。ルール精神のない日本人が軍隊を持てば、同じようなことにならないか。勝つことだけを目的とした武力集団化する。どうも、日本人は平和主義で行く方が向いている。