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水彩画の描き方

2024-04-25 04:52:02 | 水彩画


 水彩画は最高の描画素材だと思う。紙に水彩絵の具で着色するという事ほど、自分の内なるものに、生な形で反応できる素材はないだろう。墨絵も表現の自由さでは奥深いものがあるが、色彩がないという点で、私には物足りない。人によっては色彩ない方が良いという人も居るのだろう。

 夢を色彩で見る人と、白黒映画のように、色彩を意識させない画像で見る人が居るのと同じことかと思う。絵を描いている時の頭の中の状態は、夢を見ているのと変らないことだから、人それぞれなのだろう。頭の中の世界がどんな世界かと言えば、私には水彩画で描いたような世界なのだ。

 色彩があるのが自分にとっての世界だ。自分が生きている世界を表現するのに、色彩がないという事は私には想像ができない。墨絵で色彩を表現するというようなことを言う人が居るが、そんな荒唐無稽なことは、想像することすら耐えがたい。墨絵はあくまで色がない世界へ、置き換えたことだ。置き換えることに意味があるのだ。頭の中の世界に色彩の無い人も居るのだろう。

 水彩画の色彩の良さは、反応が早いと言うことである。油彩画であれば、気持ちに添った表現にまで持って行くには、少なくとも数日の時間が必要である。色によって、溶き油によっては2週間ほど時間をおかなければ進められないこともある。

 ゴッホの描く時間は早い方だと思うが、数日はかかっていると思う。中川一政氏の場合、数週間は早くてもかかっているのだろう。梅原龍三郎氏も早い方だと思うが数日が多いだろう。ルネッサンスの画家であれば、1か月以上、数年かかるという人もいたのだと思う。

 翌日に持ち越すとどうもその時間で、感性の持続とずれが生じる。せめて一日で一通りの仕事が終わるぐらいでありたい。もちろん数日おいてまた描き始めることもよくあるし、場合によっては何年もしてから描くこともある。その描き継ぐと言うことは、水彩画の描画法とは又別のことになる。

 描き始めた感性のまま、小脳の反応で絵を描くと言うことには、水彩画以外では難しい。他の方法では、大脳を働かせず、反応になって即応して行くような描き方は出来ないと思う。水彩画の良さは呼吸するような時間感覚で、描けるという所にある。

 日本画であれば、下絵があり、本画がある。小脳と言うより、大脳で描く絵画なのだ。当然のことで日本画は装飾画という意味が強い。デザイン画と言える。水彩画でも日本画のような描き方をする人の方が普通だと思う。しかし、水彩画でなければ難しい描き方が、私絵画なのだ。

 私絵画は造語なので説明が居る。とことん自分のために描く絵画のことだ。自分世界観の探求の為に絵を描く。描くことでっ見ている世界を確認してゆく。その絵を人に見て貰うと言うことが出てくるが。客観的評価は必要としない。あくまで自分の世界観を深めていく為に、絵を描いている。只管打画である。

 私絵画は何にもならない絵画である。何にも成らない物が、実は一番重要なものに変る。用の美と言うが、無用の美である。生きていることをとことん究める為に絵を描くのだろう。その人間が絵に現われてくるまで描きたいと言うことになる。

 何故、そんなことを考えるようになったかと言えば、好きな絵には、その人がそこに居るかのように、見えてくるからだ。中川一政氏の絵を見ていると、中川一政氏の見ようとしている世界がそこにあるのがわかる。良くも絵の上に人間を出現させたと思う。それは絵の上だから出来る事なのだ。

 絵に表れてくる世界は、絵以外では表わすことの出来ない世界なのだ。文学であれば、文学以外では表現不可能な世界がある。他人が作り上げたその世界を堪能することが出来る。学ぶことが出来る。人から学ぶように文学から誰もが、大切なことを学んできたのだろう。

 絵の場合も同じように、世界がそこにあれば、絵の世界を通して他の方法では出来ない哲学や世界観を伝えることが出来るものになる。絵で表現された思想は、一見曖昧で抽象的なようだが、実は他の方法にはない明確な表現方法だと思う。それは見るという事の意味にかかわる。

 見てわかるという事がある。みなければわからないという事もある。聞いただけでは不明だったことが、一目瞭然という事になる。人間の「見る」という事は世界を観る。描くという事を通して、見ている世界を哲学しているともいえる。

 そこには2重の難しさが存在する。絵画の画面に、自分の世界観を表現すると言うことが、誰にとっても未知なことなのだ。自分というものが、分らないものであり、その自分を探求しているのが、今生きていると言うことになる。探求過程の、何も鴨あいまいな自分を、曖昧なまま表わさなければならない難しさがある。

 ひたすら描き進んで、絵にその人間が確かに表現されたとしても、その人間がつまらないものであれば、当然つまらない絵になる。つまらない人間が、立派な世界観を表現するというようなことは、私絵画からすれば、あり得ないことになる。だから、つまらないものをつまらないと表わすのが私絵画に出発点になる。

 この2重の困難さは、生きると言うことの困難さなのだろう。人間の完成を目指して、日々努力することが、中途半端な自分の世界を描くと言うことになる。どこまでも中途半端である事こそが、究極の私絵画の宿命とも言える。背伸びのない、掛け値のない自分にこそ意味がある。

 ただ絵画は極めて難しい表現方法だ。特に装飾品としての位置づけが長い日本では、絵に対する接し方に、そうした美術品という先入観が存在する。絵は美術品ではない。装飾品でもない。絵はその人の世界観を伝えるものなのだ。何もないという意味では音楽に似ている。

 音楽を演奏すると言うことに近い気がしている。音楽の中に自分が入り音になる。音楽は表現である事は確かなことだが、それ以上に音楽に自分が成ってしまい、没頭すると言うことがある。音楽になる喜びである。自分が良しとする音楽になるという事。

  自分という存在が音楽なると言う喜びの感覚。絵を描いていると言うことはかなりそれに近い間隔である。画面の上で演奏をしている。次々画面の上に現れてくる世界が、いくらかづつ自分になってくることを、描くことで確認し続けている。
 
 歌の心が人に伝わるように、私絵画も人に伝わることはいつかあるのかもしれない。水彩画を描いていると、その確かな感触を感じることがある。水彩画は本当に素晴らしい描画素材だ。有難い。

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