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マイコス菌の実験を始めた。

2025-02-08 04:17:27 | 楽観農園


 のぼたん農園では水が足りない。マイコス菌を使った稲作は、水のいらない稲作りだという。先日農園に見えた、照沼農園の照沼さんが昨年やってみて、水がなくて稲が出来たので驚いたといわれた。これは天水田のぼたん農園の救世主になるかということで、早速取り寄せて昨日8番田んぼの苗代に播種した。

 今回は芽出しした種子にマイコス菌をまぶして、苗代に播種した。どういう形で種子にとりつかせるのが効果的なのかも検討する必要があるだろう。乾いた種子に乾いた粉状の菌をまぶすということで、十分に菌がとりつくとは思えない。今度は芽出ししていない種にまぶして使ってみる。

 湿気させた種にマイコス菌をまぶして、一日ぐらいおいて播種するというのが良いような気がするが、どうだろうか。ネット情報では効果がないというものもあるが。乾燥状態で稲が実ったということだけは、間違いないようだ。たくさんの事例がネットでは出ている。

 根が直根からひげ根になるからだというが、なぜひげ根に変わるかの理由がわからない。水がないために水根が畑根に変わるのはあるだろう。しかし、水生植物がそういう変異を行う仕組みは、自然界でもあることなのだろうか。稲は水がないところでも穂をつけることは確かにある。

 マイコス菌というものはアメリカで作られたもので、5種類の菌が混ぜられているらしい。菌根菌が含まれていることは確かだろう。大豆などのマメ科植物には根粒菌が共生する。根粒菌は空気中の窒素を固定することが出来て、空中窒素が土壌に固定されて土壌を豊かにしてくれる。

 マイコス菌はどうも菌根菌だけではないらしい。根の性質を変えるという菌の作用というのはどういう仕組みで起こるのだろうか。ここはよくわからないが、稲の直根がひげ根に変わっている、とする映像がたくさん出ている。植物の根をひげ根にしてしまう微生物を見つけたのだろうか。あるいは遺伝子組み換えや放射線などで変異させた菌ということだろうか。

 また腐食を分解させる微生物も混ぜているらしい。だから水が足りない圃場でも、腐食が多い土壌であると、より明確な効果が出るらしい。腐食を分解する微生物というのは、自然界に様々に存在する。炭素循環農法ではこの微生物の増加が起こると土壌の急激に豊かなものに変わる。

 この効果は経験したことがあるので、炭素循環農法の原理は正しいものだと思う。しかし、それだけの木のチップを入れ続ける方法があればいいのだが、トレンチャーのような穴掘りの機械も必要になる。やはり大型農業向きの技術だと感じた。

 蒔いた種に水はいらないというから、このまま様子を見るつもりだ。また大豆でもマイコス菌を使うとよくできるというので、これも早速実験に取りかかるつもりだ。小糸在来の種があるので、これを蒔いてみた。今まで大豆は3度やって一度も大豆は収穫ができていない。

 一昼夜ほど大豆を水にしたして、それを生乾きにして、マイコス菌をまぶしたらどうだろうか。しばらくおいて乾かしてから、播種するのはどうだろうか。余計なことになるのだろうか。今回はよくマイコス菌の粉を大豆にまぶし、2日間おいてから播種した。石垣島での大豆の播種は、鳥の害などがあるので、素早く発芽させたい。

 小糸在来品種では今までの実験では、石垣の気候に合わないのだとは思うのだが、もしかしたらマイコス菌を使えば可能になるかもしれない。試す価値はあると思うので、どこかに堆肥を入れてから蒔いてみたい。土に肥料がないからともかくできないので、よみがえり堆肥を入れるところから、蒔いてみたい。

 腐植が多い土壌でマイコス菌は能力を発揮すると書かれていた。これも試してみなければわからないことだが、ともかく腐植の少ない石垣の農地では、腐植を増やすことが何より必要になるはずだ。黄からしなの緑肥を育てた後をすき込み、マイコス菌まぶしの種子を蒔いたところにも大豆を蒔いてみた。

 マイコス菌はアメリカにあるRTiAG という菌根菌の会社と Driscoll's さんとカリフォルニア州立大学デービス校、ワインとかやっているところ で共同開発をしている菌であると書かれていた。 マイコスというのは実はブランド名で、菌の名前ではない。マイコス菌とい うものはいない。

 マイコス菌一種類ではない。5 種類ぐらい菌根菌ブレンドで出来ている。 それぞれの中で的確にターゲットを、効果を出すようになっている。根をひげ根に変える菌。腐食を分解する菌。企業秘密な のであまり公開されていない。 1 つ目は、やたら根っこに吸着する菌。2 つ 目は、ゆっくりだけど、確実に行く菌。3 つ目は、除草剤耐性を作る菌。

 菌はEM菌もそうだったのだが、微生物が特定されないまま、利用される。効果があるからいいという話になる。しかし、自然界にないような微生物の場合、自然を破壊してゆく可能性もないとはいえない。この辺の安全性は抑えられているのだろうか。

 植物のリン酸吸収を促進する土壌改良資材であるマイコス(アーバスキュラー菌根菌=Arbuscular Mycorrhizal Fungi)は、土壌中に「樹枝状(arbuscule)」を形成し、水稲種であろうと根の際に感染し、先端を細かく枝分かれさせた特徴的な根はり構造を作り出す。

 以下販売している会社の説明である。

 マイコスはカビの一種です。大昔、あらゆる生物が海から陸へ上がった時から存在します。植物の根っこに感染し「菌根」を形成させ、互いに共生しながら増殖していきます。自然林の土壌には菌根が多く存在しています。菌根とは菌と植物の根が一体となった状態をいいます。これを形成する菌類を「菌根菌」と呼んでいます。

 稲の根にマイコスを感染させると、土壌中に張りめぐらせた菌糸からリン酸を吸収し、クモの巣のような樹枝状体をつくりだし、宿主である稲と共生するためにそれらを供給します。逆に稲が光合成で生成する糖などのエネルギーをおすそわけしてもらい共生します。

 マイコスに感染させ、水が極端に不足する乾田で実験してみますと、「樹枝状体(arbuscule)」が形成され、生育に必要な水分と栄養分をまかなえることが判明しました。また、草丈が低くなり登熟も早いことから、毎秋に懸念される台風での倒伏や稲穂の沈水も防止できます。 

 微生物資材の危険を主張する日本菌根菌財団というものがある。その主張を最後に載せておく。マイコス菌は古来から存在する微生物だとする意見もある。真実はまだわからない。

菌根菌に関する海外の論文を読むと,Rhizophagus irregularis というアーバスキュラー菌根菌(AMF)をみかけることがあります。一体何者なのでしょうか?
先ず,このAMFは自然界には存在せず,人間が作り出したものです。作り方とその危険性は下記に示す通りです。
  • 1. 遺伝子組み換えニンジンに Rhizobium (旧Agrobacterium) rhizogenes という細菌(植物細胞に感染してDNAを送り込む性質“形質転換”がある)を感染させて「毛状根」(根だけで異常に増殖,第1図)を作ります。
    第1図 毛状根
    (Sudha, C. G et al. 2013より)
  • 2. 「毛状根」に,Glomus intraradices と呼ばれるAMFを感染させると,Rhizophagus irregularis というAMFに変異していきます。
  • 3. Rhizophagus irregularis は菌糸を異常に増殖させて胞子を多数作りますので,これを自然界で使用すると土着のAMFの減少および多様性の破壊や,毛状根から導入された遺伝子(根だけで増殖させる遺伝子)を自然界にまき散らすことが懸念されています。現在,菌根菌分野の国際学会でもこの問題が議論されており,この Rhizophagus irregularis の自然界での使用を禁止することを唱えている菌根研究者が増えてきています。

このように,Rhizophagus irregularis は,その名の通りイレギュラーなAMFであり,遺伝子組換え菌根菌と呼んで差し支えのないものです。絶対,自然界で使用してはいけません。現在,わが国では遺伝子組み換え作物の自然界での使用は法令で厳格に規制されていますが,Rhizophagus irregularis には全く制約がないのです。早急に,わが国政府がこのAMFの自然界での使用を禁止する法律や,一部の心無い会社がわが国の地力増進法(7)を守らず販売している現状を取り締まっていただきたいと願っています。
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水牛牧場の計画

2025-02-06 04:24:36 | 楽観農園


 水牛を飼うことになったのは2021年の6月である。そろそろ5年になる。石垣島で水牛を飼っている3人で、のぼたん農園で水牛牧場を計画している。福仲先生と嶋田さんと私である。この計画には水牛による農業経験のある干川さんや与那国馬を飼われている清水さんも興味を持ってくれている。

 14日に水牛勉強会を行った。8名の参加でアジアの家畜の読書会を行い、水牛の知識を深めた。楽しい勉強会だったと思う。知らなかったことをいくつも教えて貰うことが出来た。水牛が何時までも飼えるように水牛の家畜としての利用法を考えることになった。

 一番面白かったアイデアは、水牛占いであった。水牛は嘗めて愛想を振りまく。しかし誰でもと言うわけではない。嘗めて貰えた人はシールが貰えるというのはどうだろうか。水牛の記憶力の良さを発揮して貰い、二度目に来ると態度が違うと言うことを感動して貰いたい。勉強会では次回は鼻紐の付け替えの実践を行うことになった。

 のぼたん農園には放牧地が2㏊ぐらいある。この面積で7頭の水牛は放牧が出来る。下の方に農地を借りて、放牧地を広げてもう少し水牛が飼えるようにしたい。3人の水牛を合せると15頭の水牛になる。下の方の水田放棄地が借りられることになった。上手く利用できれば、みんなの水牛をここに終結して、共同管理が出来るのでは無いかと言う構想である。

 いま石垣島には20頭ぐらい居るのではないか。今年また2頭は生まれる予定である。スイギュウのことをもっと勉強しなければならない。そこでスイギュウの本を3冊見付けた。「アジアの在来家畜写真集」「アジアの在来家畜―家畜の起源と系統史」「熱帯の水牛」この3冊で勉強会をしたいと考えている。

 それをまとめて、水牛のパンフレットのようなものを作りたいと考えている。水牛は日本中合せて200頭程度しか居ない。だから水牛の飼い方というような本はない。水牛が飼いたい。興味がある。と言う人が居たとしても、学術論文のようなものがあるだけになる。簡単なものでいいので水牛という動物のことをまとめたいと思う。

 そのための勉強会をやることになった。読書会から始めようと言うことで、アジアの在来家畜―家畜の起源と系統史(名古屋大学出版部)の中のスイギュウ2大系統の起源と地域文化を読むことになった。読みながらスイギュウのあれこれをまとめようと考えている。いま思いつくことを羅列してみた。

 1,ウシ科にはウシ、ヤギ、ヒツジ、カモシカ、レイヨウ類、スイギュウ。
 2,沖縄に居る水牛はアジア水牛でスワンプ型沼沢型水牛である。
 3,アフリカ水牛は家畜化できない気の荒い野生種である。
 4,インドやスリランカ、ネパール、フィリピンに野生の水牛が居る。
 5,家畜水牛は世界に1億8千万頭いる。
 6,リバー河川型水牛はインドを中心にヨーロッパで、乳用で飼われる。
 7,沼沢型スイギュウは東アジアで使役と肉水牛として飼われている。
 8,スイギュウは他の草食家畜よりも多様な草を飼料と出来る。
 9,中国にはスイギュウの闘牛もある。
 10,寿命は野生下で20年前後、飼育下では過去に50年 の事例。
 11,体温調整・肌を乾燥から守る・寄生虫対策などで泥を浴びる。 
 12,水牛の角は三線の爪や印鑑に使われている。
 13,スイギュウ1頭は3000㎡の草地で放牧できる。
 14,スイギュウの歯は下顎にしかない。
 15,南米に水牛は広がってきている。
 16,自分の糞尿の混ざった泥水を飲料水とする。
 17,ウシよりも強健で、病気に強く飼育をしやすい。
 18,純粋な野生のアジア水牛の数は500頭程度である。
 19,1万年前からインドで家畜化された。

 すでに本を読んでいる内に間違っていたことが、いくつもある。訂正しながらこれを増やして進める。

 石垣島の水牛は使役水牛である。農耕水牛だったのだが、今は観光用に水牛車を引いている。日本には、沖縄と北海道と千葉で水牛を飼育している。全体で10箇所ぐらいはあるらしい。その他ペット的に少数が飼われているものも数頭は居るらしい。すべて合せても200頭前後ということになるのではないだろうか。
  このほか北海道には水牛牧場が3箇所ある。湖水地方牧場北海道箱根牧場フィットアビオ北海道クルックフィールド箱根牧場。各牧場に20頭前後が居るらしい。
以上が現在調べた結果である。

 水牛の輸出入は口蹄疫のために制限されている。ヨーロッパやアジア全体から輸入することは出来ない。現在日本に居る水牛を健全に飼育して行くのはかなり困難と思わなければならない。どこかで繁殖が難しくなりかねないのではないだろうか。
 
 
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米価もくろみ外れて高止まり

2025-02-01 04:25:59 | 楽観農園


 米価がいくらか高くなり、米作り農家が希望を感じている。しかしこの程度の値上がりでは、稲作農家が増加するとも思えない。所がこの程度の値上がりでも、世間でも、農水省ですら困ったことだと考えているというのだ。この「もくろみ」とは朝日新聞の意見だが一体何だ。

 世間では労働者の賃金を値上げしよう。大手企業だけではなく、中小企業の賃金も値上げしなければならないという流れだ。一体稲作農家の賃金は上げはなくていいというのだろうか。稲作農家の収入が適正なのか、まだ安すぎるのか、検討してみる必要があると思う。

 まずその前に、日本の安全保障のために、軍備費は倍増するといわれている。そうしなければ国の安全が保ていないという考えのようだ。国の安全保障を考えると軍備よりも、食糧の確保の方が優先されなければならないと、私は考えている。政府も同様の考えを表明している。

 食糧自給率をせめて60%を超えるところまで持って行く。このように長年目標を掲げている。目標を掲げながらも、食糧自給率は38%というあたりに下げ止まりである。こんなに自給率が低い国は滅多にないのだ。この間ウクライナ戦争が起こり2年。世界の食糧流通は年々厳しくなっている。

 経済戦争には、すでに日本も巻き込まれかけているのではないか。アメリカは一国主義を表明している。中国からの輸入品に関税をかけて、戦おうということを表明している。日本もすでにメキシコ生産の車など、巻き込まれているといえる。

 車が売れないならまだいいが、食糧が不足したときにどうするというのか。スーパーに米がないというときに騒動があったことを忘れたのだろうか。米がなくても備蓄米は出さないと農水省は頑張った。所が今になって、備蓄米を放出するというのだ。これがもくろみが外れたという意味らしい。

 どうも政府は小手先の対応しか考えられないようだ。米の適正価格とは農家が減少しない価格ではないだろうか。企業の初任給が値上がりするのは人材確保だろう。稲作農家をやりたいという人が現れる米価では、まだないと思うが。

世間では盛んに言われるように労働者不足なのだ。そして、稲作農家は減少し続けている。稲作農家では外国人労働者を雇用は少ない。雇用できるほどの収益がないのだ。外国人労働者は野菜農家と畜産関係が多い。稲作農家が経営できなければ国の安全保障はない。

 これ以上稲作農家が減少すれば、食料の安定供給は不可能になる。何しろ稲作農家の平均年齢は70歳を超えているのだ。団塊の世代がかろうじて日本の稲作を支えているのだ。年金があるから継続できるという人が多いはずだ。退職して稲作を中心に働いている友人は何人もいる。

 ところが、その貴重な国の食料を支えている友人たちが無理になって来ている。病気話ばかりだ。それはそういう年齢なのだから仕方がない。そして若い人が変わってくれる条件がない。子供にはやらせられないと普通は考えている。この状況を危機だと考えないのだろうか。

 「米価はもくろみ通りの高止まり」 と農水は考えていると思ったのだが、そうでなかったのだろうか。ここで備蓄米の放出とまるで日銀の総裁のように口先介入をしたようだ。途端に米相場は値下がりして、また戻したらしい。どうも、米相場を操る輩がいるようだ。

 この問題は政府が米価から距離を置いたときに言われた、米相場がまた問題を起こすだろうという予測が当たり出しているように見える。為替相場と似たようなことが起きているのだ。思惑で価格を操作している人がいる。こういうことは米作り農家とは関係のない話だ。

 米作り農家にとっての価格は、来年またやれるという価格である。この値段ならまた来年も田植えをしようという価格である。これは田中角栄氏が主張した米価である。生活できない米価では、もう止めるほかない。続けられないという農家が多いのだ。子供につがせられないという稲作農家が多いのだ。

 地方の消滅が止められないことの一番の原因は、地方では経済的に苦しいということだ。生活ができるのであれば、都会よりも地方の方が好ましいと考える人が多い。若者が都会に出るのは、田舎にキャバレーがないからだといったのも角栄さんだが、こっちは間違えだ。

 地方の社会の根底に稲作があれば、地方の暮らしは維持される。専業農家でも、兼業の稲作でも同じことなのだ。友人らは教師をやりながら稲作をやっていた。今は年金があるから稲作を続けられるのだ。地方に仕事があるならば、兼業もできる。稲作は兼業農家向きの仕事なのだ。

 土日休みならば、3町歩くらいまでの農家ならば可能なのだ。そういう形で現実には多くの農家が運営されてきた。そして、大きな企業的農業法人が稲作に参加してきた。企業的農家が経営できる米価これからは重要である。企業的農家は独自の販売手段を持っている。

 だから販売価格が先にあって、生産することになる。飲食チェーンというほどでなくとも、街の飲食店や弁当屋さんであっても、平均で一日10キロ使うぐらいのお店が普通のようだ。3軒あれば年間10トンを超えることになる。2町歩の米作農家の生産量だ。

 病院や学校給食そして工場などの社内食堂。ホテルや飲食店。直売方式でも、小田原の稲作は小田原の消費で見合うことになる。石垣島の事情は私にはもう一つわからないが、5万人の人口である。観光客も多い。一人が60キロ食べるとして、3、000,000キロは消費されているはずだ。

 3千トンは600ヘクタールの田んぼの生産量である。318ヘクタールが石垣島の田んぼ面積である。つまり島内消費量でも足りないということになる。島でとれるお米を島内でうまく流通させることができればいいということになる。石垣のお米はむしろ島外に出て行くらしい。

 流通については私にはわからないことだが、自分が作ったお米を自分が食べる。こういう形を模索すれば、石垣の田んぼは維持されるということがわかる。田んぼが維持されることの価値を考えれば、石垣島では、非農家の人が、田んぼに関わる仕組みを増やしてゆくことではないだろうか。
 
 318ヘクタールのうちの1割。32ヘクタールの田んぼを非農家の市民が耕作する。人口の3%の1500人は田んぼに興味を持つはずである。どんな変わったことでも、3%の人は興味を持つものとされている。一人が2畝の田んぼをやれば、32ヘクタールの田んぼは耕作できる。

  9割の田んぼは企業的農業法人に任せればいいだろう。10軒の企業農家が出てくれば、耕作できることになる。そちらの方は私とは別世界だから、お任せするしかないが、1500人の市民農に関してはすでに始まっている。のぼたん農園を5年前に初めて以来。すでに石垣では市民稲作が始まっている。

 一カ所10人くらいだとして、150グループが誕生すればいいわけだ。様々なグループが可能だと思う。そして緩やかな連携をとれば、効率が上がるだろう。止めてゆく小さな田んぼを、市民農が引き受けてゆくことではないだろうか。そのためには機械の貸し出しなど、行政が行う仕事もある。コイン精米などどこかのスーパーが初めてもらいたいものだ。

 
 
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石垣島の1月は小田原の6月だ

2025-01-25 04:12:32 | 楽観農園


 1月25日の最低気温が20度である。多分最高気温が24度ぐらいまで上がるだろう。この冬の最低気温は13度まで下がった日が2回あった。この後12度まで下がる予報が出ている。小田原6の月の最低気温は18度で、最高気温は28度である。気温的には同じくらいになる。日射の強さも同じくらいではないだろうか。
 
 小田原で6月で寒いなどと感じたことはなかった。しかし、石垣島の1月を寒いと感じる身体になっている。稲は人間のようなひ弱な生き物ではないから、石垣島の1月を寒いなどとは考えていないはずだ。ゆっくりと気持ちよさそうに成長している。確かにゆっくり成長だが、このままいってほしいと願っている。

 ただ、下手をすると小さいまままた穂が出てしまうかもしれない。理由はわからないのだが、稲をおかしくしてしまう何かがあるのかもしれない。この要素がわかれば、その対処を考えなければならない。それはまだよくわからない。なんとか乗り切って15枚葉を出してくれることを祈っている。無理かな。


 6番田んぼすこし遅れ気味。22日に追肥。

 冬の晴れた日が石垣で一番美しい日だ。と多くの石垣島に暮らす人が話している。作業をしても汗をかかない、一年で数少ない季節になる。一日中働けるありがたい季節だ。1月でも強い太陽の陽射しで日焼けはする。汗をかいてああ暑かったと言うことになる。24度まで上がる日もあるのだから当然である。帽子やサングラスはあった方が良い。

 稲だって同じで石垣島のイネは1月では寒いのだと言われた人が居たが、そんなことはない。昨年茨城県で5月田植えで作られた稲の種である。はるかに寒い中で田植えが行われたのだ。その「にじのきらめき」種籾が、石垣島に来て11月に播種され、12月15日に田植えされた。

 イネは植物であるから、寒いと感じるはずもない。科学的に正確な反応しかしない。ただし、不安がある。石垣の稲作農家のただの一人も、12月田植えをしていない。何故なのだろうかと思う。何か理由があって、12月田植えを止めたのだろうか。



 2番田んぼの「ゆがふもち」少し停滞気味。

 農協出荷の人は、農協の精米施設が動き出さないから、12月田植え4月稲刈りでは困るのだろう。自分で販売する農家も少し筒増えてきてはいるが、ほとんど無い。みやぎ米店や山田米店はいつでも作れるのだから、やってみて居も良さそうに思うが、何故かやってはでも「にじのきらめき」は作っている。

 20日に、茨城で農業法人をされている照沼さんという方がノボタン農園に来てくれた。山田さんの田んぼで、「にじのきらめき」を栽培した方だ。稲の指導をしてくれた。とても詳しい方で稲葉さんの民間稲作研究所で指導をされていたということだ。稲葉さんの稲作法を一番評価しているし、直接小田原に来ていただは指導していただいていたこともあったので、うれしくなってしまった。

 見た途端に言われたことが肥料不足の稲で、これではすぐに穂が出てしまうということだった。そうではないかと思っていたので、すぐ翌日発酵鶏糞を買ってきて入れた。間に合うと良いのだが、どうだろうか。一人で考えていると肥料不足だと思いながらも、怖くて追肥ができなかったのだ。




 生育の良い3番田んぼ

 昨年熱研の稲作の研究者の方も1月では寒くて作れないと言われていた。何故だろうかと、さらにあれこれ調べた。今年の気候に思いを巡らせ、想像しながら、いや、どう考えてもそんなはずはないと不安の中決断した。そして、種まき、苗作り、田植え一ヶ月まで来た。良い部分と悪い部分がある。

 今年は思い切って、一番早い時期に田植えをすべきだと決めた。そうすれば、もしかして15枚葉が出るかも知れない。満作の稲を作るためには、石垣島で一番寒い時期に稲を作るほかないと言うのが、判断である。この判断がどう出るかはまだ分らない。だめの可能性が高い。

 今までのやり方では満作の稲にはならないことは4年試して確認できた。普通の健全の稲のようには行かない。「ひとめぼれ」で13枚しか葉がでないのだ。これでは良い稲作になるはずがない。そのために収量は沖縄県は一番低いと観ている。同じことが照沼さんの田んぼでも起きたそうだ。

 そこで11月5日浸種、10日の播種にした。田植えが12月8日と15日で挑戦している。また失敗に終わるのかもしれない。もしかしたら成功するかもしれない。13枚しか葉が出ない理由がわからないのだから、いろいろ挑戦するほかない。やってみてだめならば、またそのとき考えることができる。

 この時期でも、小田原の5月の苗作りの頃よりは気温は高い。問題は日射量と言うことになるのかもしれないが、小田原は6月田植えで梅雨時である。それ程太陽が出るわけではない。石垣の日射量で何とかなるのではないかと想定したがどうだろうか。

 3番と6番田んぼでは田植えをしてから、5週間が経過した。3番田んぼが一番良くて、現在9葉期で分げつもそれなりにとれた稲になっている。健全な成長と見ていいだろう。1週間で一枚葉が出ることが、稲にとって健全な生育速度である。それが石垣島では5日で一枚葉が出てしまう。生育が早すぎる。

 強い風が吹いて6番田んぼでは活着が遅れたと言うことがあり、8葉期ぐらいである。風が強いと気温の影響以上に生育が止まると言うことがあるようだ。それでも根付いて、何とか活着しゆっくりだが成長をしている。この1月2月の強い北東の風が、12月田植えの問題点かも知れない。



 一番田んぼの21日の稲である。田植えして5週目である。9葉期から7葉期ぐらいだろう。一番田んぼは土壌がまだ硬いところがあり、だめな部分と良い部分が分かれている。田んぼにしてまだ日が浅いということがある。トラックターで起こしたのは今年が初めてのことであった。

 大きな石がゴロゴロ出てきた。土ができていないから田んぼがむらになるのだろう。黄ばんでしまい生育が極端に悪い部分がある。歩くと相変わらず、耕土が浅すぎる。トラックたーでうまく耕せなかったためだ。トラックターがクローラーならばと思う。

 21日に発酵鶏糞とよみがえりを追肥した。追肥してから転がしをした。これで少しは良くなってくれるといいのだが。ただ肥料不足で全体に良くない状態が続いているので、これから回復するかどうか微妙なところである。石垣の稲作は本当に難しい。

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睡蓮の増殖の仕方

2025-01-23 04:45:05 | 楽観農園

 溜め池は4つある。このところ草刈りを続けて3つまで整備をした。1番溜め池と2番溜め池は睡蓮が水面を半分以上覆っている。熱帯睡蓮のティナである。溜め池の縁にはヒカゲヘゴが4本ある。最初一本だったのだが、苗を下地さんにもらい3本植えたのだ。この南国らしい姿が実に美しいものだ。

 干川さんから、サガリバナの苗を8本もらい植えた。いつか大きくなって、田んぼにサガリバナの赤い花が流れるのが楽しみなのだ。バナナは青木さんと彩花さんがくれて3株育っている。一番よく実るバナナである。風が当たりにくいのでいいのだと思う。

 ため池は一つ30㎡ほどの小さなものだ。深さは1m位である。何もなかったところ田んぼを作るために福仲先生が、構築したものだ。その作り方は実に見事なもので、年限をかけて徐々に広げて深くしてきたものだ。土手はドロドロの土と、乾いた土を交互に積み重ねて作り上げた。最初は1mだったが今は2mある。

 ため池の睡蓮は毎日みごとな花を咲かせてくれている。熱帯睡蓮のティナは一年中花が咲くのだ。ブルーと呼ばれるのだが、桃色に近いブルーだ。この鮮やかな花で田んぼを引き立ててくれている。花の大きさは15センチくらいある。


アカウキクサが前面を覆ったところ。

 それが20輪30輪と咲くのだから、なかなか見事な物だ。特に一段低くなっている一番田んぼからの目線は水面の高さになる。水面ぎりぎりの高さから見る、睡蓮池が水面に映る色を含めて一番見事なのだ。モネは池の脇に低い睡蓮池を描く溝を掘っている。

 睡蓮のない場所はアカウキクサとミズオオバコとミズワラビである。この3種は絶滅危惧種である。ここで保存維持が出来ればと考えている。どれも昔は九州から関西地方当たりまでには、至る所あった物のようだ。水辺がなくなり、田んぼが土の畦に変わり、そして除草剤で決定的に失われた。

 最近溜め池からオタマジャクシや水生昆虫が居なくなった。去年の今頃はオタマジャクシがウヨウヨ、うじゃうじゃ居たのだ。今年はほとんど見ない。理由はオオウナギがため池に歩いて来たのだ。1Mはある奴が泳いでいるのを見た。これが何でも食べてしまうのだと思われる。



 水生昆虫の宝庫としての価値は失われた。オオウナギは餌がなくなればまたどこかに移動して行くらしい。どうも雨の日に陸をウニョウニョ移動するらしい。スッポンも2匹は居たのだが、これも最近は見なくなった。オオウナギはスッポンを食べてしまうらしい。

 そもそも水生昆虫の研究者はこの睡蓮やらアカウキクサを問題視していた。水面が覆われると水生昆虫は居なくなると言うことだった。居なくなって何がいけないのだと思っていた。花が咲き乱れた池の方が私には遙かに魅力的なのだ。水面が覆われることによって生きる事のできる生物も居るはずだ。何が大切かは人によって違うことになる。

 熱帯睡蓮の種類の仲には、大きな葉の中央に生まれてくる「ムカゴ」から小さな次の世代を増殖する品種がある。のぼたん農園のため池にある、熱帯睡蓮の「ティナ」を観察していて気付いたことだ。池の底の株の根元から出てくる子供の株もあるのだが、葉の中央から現われる子株の数の方が多い。


草刈り前の2番ため池

 これは睡蓮の株が大きくなったために昨年あたりから始まったことだ。株がまだ小さかった頃にはなかった現象である。大きなはの中央に何か塊があるとびっくりしたのだ。徐々にそれが育ち、睡蓮の子供になったときにはその意外性についついみんなに伝えた。

 葉の中央から出てくるものをムカゴと呼び、熱帯睡蓮の品種によってはムカゴを作り増殖するものがあるらしい。ということはわかっていた。しかしムカゴだから山芋のムカゴのようだろうと考えていた。全く違っていた。まさか葉の中央にムカゴが出来るとは考えていなかったのだ。

 オニユリなども葉の付け根にムカゴを付ける。ムカゴはいわば栄養繁殖の一種のことのようだ。脇芽が肥大化して、次の増殖に繋がることをムカゴと言うようだ。一般的には山芋のムカゴを食用にするので、ムカゴと言えば山芋やユリを連想していた。
 

 「植物の栄養繁殖器官の一つで、わき芽が養分を貯え肥大化した部分のこと。主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となる。葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられる。」と説明があった。

 葉から出てきたムカゴが徐々に生長して、睡蓮の形になる。下から白い根が出てくると、親株の葉は黄ばみとろけてくる。すると葉の長い茎もとろけて失われ、子株は親株をはまれて水面を漂うようになる。そして水中に根を伸ばし、どこかの水底に根を伸ばし活着することになる。

 これで何故睡蓮が下の溜め池に広がったのかの理由が分った。大雨が降りオーバーフローした水に流されて、下の溜め池にたどり着いたのだ。今度この睡蓮を、C放牧地の水牛池。水牛の飲み水のバスタブ、そして9番田芋の水田に浮かべてみた。どこが一番成長するかを見たい。



 この増殖方法だといくらでも熱帯睡蓮は、簡単に増殖できる。増えた株をのぼたん農園のお土産にしたらどうだろうか。簡単に増えるのだから手がかからない。それはまた、ミズオオバコも同じことになる。ミズオオバコは絶滅危惧種ではあるが、増やすどころか、水田雑草として勝手に増えている。

 もう一つある、アカウキクサである。これもどんどん増えて行く。増えて水面を覆う。ただどういうときに増えて、どういうときに消えるのかがわからない。冬のはずの1月に一番ため池はアカウキクサが広がっている。1万端も徐々に増えてきている。

 アカウキクサは共生する藻が窒素を固定するという。この窒素を利用する稲作りが、ベトナムでは古い時代からあったという。日本で行われた稲作実験でも穂肥をアカウキクサで補えることが示されている。今年こそアカウキクサを大いに利用しようと考えている。

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民主主議とは何か

2025-01-20 03:56:24 | 楽観農園


 政府与党は自民党と公明党が過半数割れをして、国会は話し合いをした上で、妥協しなければ進まなくなった。その結果議会制民主主議に少し近づいた気がする。つまり、  民主主議は決められない政治なのだ。これを理解している総理大臣が石破氏で良かった。

 このまだろっこさと曖昧な第三の道の選択を我慢しなければ、よりよい民主主議は生まれない。韓国では少数与党が堪忍袋が切らして、戒厳令を独断で進めた。権力者はとかく自分の力を誤解する物だ。政治家はあくまで国民に委任されている範囲の存在である。

 日本の政治も少数与党という状況に、政治家が慣れていない。国民も慣れていない。慣れないうちに、参議院選挙になるのだろう。十分な議論で起こる決まらない政治の停滞をどう考えるかが選挙に対する国民の判断になる。この選挙はSNSでまたおかしなことになりそうな気がする。

 日本の政治に民主主議が戻りしたかと言えば、まだまだ不十分である。民主主議とは何か。何故、大切な政治の在り方なのかを考えてみたい。民主主議は当事者が一番重視されて決める政治の手法である。医療保険制度であれば、医療関係者や、患者が重視されて決められなければならない。

 財政や予算は当然考慮されなければならないが、そのことと民主主議は別の問題である。重要なことはどうすれば、医療関係者が正しく評価され無ければ成らない。仕事に誇りを持ち、継続できることが最も配慮されなければならない。同じく患者が十分医療を受けられる仕組みが必要になる。

 そのためには当事者の意見を十分聞くと言うことが、民主主議の基本になる。確かに制度としては国民も意見が言える制度はある。「パブリックコメント」という制度である。私も当事者として何10回か意見は出したが、全く無視されたとしか思えない、反応すらない結果で有り、空しいことであった。

 せめて「意見をいただきました。」と言う返信があり、「結果、この点ではこのように判断しました。」ぐらいあっても良さそうなものだ。その当事者を重視する丁寧さがないから、民主主議政治ではないのだなと確認したことになる。

 石垣島が米中対立の最前線である事は明白な事実だ。その時にこの島の安全に対しては当事者は暮らしている住民である。その住民の意見を十分に聞かないのでは、民主主議ではないだろう。この島に敵基地攻撃のミサイル基地を作ることは、この島の危険を増すことになる。

 どうすればこの島にくらす物の安全が守れるのかを考えようとしないで、住民の非難だけが説明されている。避難訓練まで行われている。しかし、まともな避難計画では全くない。当然のことである。6万人の人間が吸収まで数日の間に逃げることなど出来るはずも無い。

 少なくとも当事者である私は、避難計画を読んでそう考えている。波照間島の住民も九州に避難することになっている。机上の空論である事がよく分る。波照間島がどのような理由で中国の攻撃を受けるのだろうか。すべてがこのように馬鹿馬鹿しく出来ている。

 敵基地攻撃能力のない島を台湾侵攻をしようとする中国は攻撃している余裕がない。総力を挙げて台湾を攻撃することだろう。その攻撃を邪魔をする可能性が高い、敵基地攻撃能力のある基地は、ミサイル攻撃をしてくるはずだ。300発は瞬時に撃てるという。10発で一つの基地は壊滅するそうだ。

 石垣島の住民は基地から離れることが具体的対策であろう。だから基地は住民の居ない場所に作るべきだったのだ。現在の自衛隊基地の場所は極めて不都合な場所だ。何故あんな場所に作ったのか。分っているのは保守系市会議員の潰れたゴルフ場跡地があった場所だと言うことだ。

 実際には中国は台湾侵攻は行わない。習近平氏がプーチンほど愚かな人間ではないからだ。今中国は台湾併合のために軍事的侵攻を除外しないとしているのは、軍隊にそうした意識を持たせるためだ。石破氏が「わが国の領土、領海、領空を断固として守り抜く決意だ」 と発言するのと同じである。

 中国は政治家が軍隊を掌握することが困難な国である。習近平も軍幹部を理由を説明せずに止めさせている。汚職と言われるが、それだけではないはずだ。時々台湾侵攻の演習を行うのもその一環の政策だと考えられる。尖閣に来ている海警部隊も、その意思表示の一つである。

 台湾は内部から中国に編入されるように進めるはずだ。もし台湾侵攻を行い、ウクライナ状態になれば、中国はロシアの二の舞になる。経済的打撃は中国を崩壊させる可能性も出てくる。中国は商人主議の国だ。そんな危ない橋を渡るはずがない。

 中国は台湾の中に、親中国政権が出来る事を目指している。現状では台湾独立勢力が政権を取っているが、何時どう変るかは分らない。内部の状況が変るように情報戦を行うというのが、中国の今のところの戦略である。中国は世界一の経済大国になるのが、今の目標である。そうなる自信もあるはずだ。

 日本台湾学会と言うところの論文で「中台の軍事バランス」 ―中台の安全保障戦略に与える影響― 松田 康博 というものがある。私とほぼ同じに、中国は今軍事侵攻をしないと判断をしている。普通の考えである。右翼の明日にでもあるというデマを信じては成らない。

 両者の軍事力を計測すると、中国 が台湾を軍事的に占領し、長期間固守する能力は、特に米国が介入するリスクと、中国の武力行使が 失敗に終わった場合の多大なコストを考えると、基本的にはいまだに台湾に有利であると判断するこ とができる。」ーー要約 

 ネットが使える時代である。石垣島に暮らす当事者の意見も交えたプラットホームを作りそこで議論をするのが、民主主議である。確かに面倒くさいことだろう。しかし、当事者が無視されるのでは政治が他人事になるばかりだ。それが独裁政治の始まりになる。

 麻生氏の主張の民主主議は政治家を交えて宴会をすることらしいが、そうではない。当事者を重視した議論が基本である。直接民主主議的要素をインターネットを利用して作り出す必要がある。理性ある議論が政治に生まれなければ、良い民主主議国家は生まれない。 
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2015.1.14のイネの状態

2025-01-16 04:47:46 | 楽観農園



 1番田んぼ。縦横縦横縦横と6回のコロガシが終わったところ。今年はコロガシ8回を実践するつもりだ。あと2回は出来れば終りだ。18日、19日とやれればと考えている。田植えをしたのが、12月15日である。品種は「にじのきらめき」今田植えをしてから1ヶ月が経過をしたところだ。

 種まきをしたのが、11月10日だったから、2ヶ月ちょっとである。生育の良い所は9葉期と言うところだ。生育の悪い所はまだ6葉期ぐらいの様子だ。いかにも分蘖が少ない。冬の田植えのためだろうか。風が強い性だろうか。それでもゆっくり成長はしている。ゆっくり成長をしてくれれば、15枚葉が出てくれるかも知れない。ここに期待して12月田植えにした。

 イネは一応根付いた。今が石垣では一番寒い時だ。13度まで下がった日が2日あった。それでも陽射しが温かく25度まで上がる日もあった。水がぬるま湯になる日もあった。不思議なことに水口の方が水は温かいのだ。湧き水の水温が20度は有り、これは温泉なのかと笑うほど高い。


反対側から見た写真。

 2番田んぼである。ここは12月14日田植えの餅米「ゆがふもち」の田んぼだ。田植え後に何もしないで、1月12日にコロガシを始めて行った。それで持ち直した感じのところである。やはりコロガシは必要な作業だと思う。土壌が閉塞した感じになっていた。

 コロガシによっていちいちでイネが持ち直してくることを何度も見た。12日に転がしてから日に日に緑が増してきた。この場面で補植したのだが、それではさすがに遅い。補植はできるだけ早くやらないと良いイネにはならない。田植え後1週間ぐらいには終わらせたい。

 補植した苗が翌日に浮いてしまった。土壌が柔らかくて、水が深くて補植が上手く出来なかったのだ。この田んぼは田植えを5葉期の苗を5本上ぐらいにした。苗が沢山あったので、風対策で沢山植えたのだ。他の田んぼよりも風にやられなかった。

 


逆側から見た写真

 3番田んぼ「にじのきらめき」一番生育の良い田んぼである。現在全体が9葉期ぐらいになった。分ゲツも始まっている。葉色も濃いし、葉の巾もしっかりしている。触った感触も堅い。理由をあれこれ考えてみるのだが。よく分らない。
 
 肥料は2畝で45キロ「よみがえり」牛糞堆肥を入れた。これはどの田んぼも同じである。代掻きは去年よりは深く行った。田んぼに残っている岩の層から水漏れが起きている感じがするので、ここを砕いて石拾いをして、耕土を深くしたのだ。

 風の向きが3番田んぼに幸いしたのかも知れない。海の近い南斜面の段々畑なので、風の強い日には20mぐらいふく。防風ネットはやっている。それでも他のたんぼは今年も大分風にやられた。風は小さい苗を植えた方が良いという意見があるが、考えてみた方が良いかもしれない。

 
 
 6番田んぼである。「にじのきらめき」を12月8日に田植えした。最初はなかなか根付かず心配だった。その後コロガシを5回やって大分回復した。まだ十分とは言えないが、やっと一安心というところまで来た。今年は成長にさがある。

 どこの田んぼにも言えることだが、全体に肥料不足なのだ。早めに追肥をした方が良いかもしれない。土壌がまだ出来ていないと言うこともあるが、土壌の消耗が早いという気もする。腐植をもっと入れ込んで行くことが必要なのだろう。

 基肥の量を倍増する必要がある。土壌が出来ていないので、田んぼで肥料分が生産されると言うことがない。2畝によみがえりを100キロ入れても良いはずだ。肥料が足りないために初期生育が悪かった可能性が高い。これからやる4番田んぼと8番田んぼでは試してみる必要がある。

 

 8番田んぼである。田んぼをやってみたいという人が現われたので、今年は田んぼをやってみる予定である。水が行かないかも知れないが、水が足りないなりに作ってみると言うことで、始めて見る。田んぼの経験は8年あるという方なので、何とかなるだろう。

 腐植を増やすと言うことが必要である。ひこばえ農法を行い、年3回稲は刈り込んでいるが、3回収穫すると言うことで、田んぼでの生産物と消耗する物とでは、失われて行く量の方が多いのだろう。ひこばえ農法が肥料を風雨よりもよほど必要だと言うことが見えてきた。

 アカウキクサをもっと増殖する必要がある。光合成細菌のを入れると言うこともあるようだが、それよりは水牛の糞の利用方法を考えることだろう。まず、水牛の糞を集めておく場所を作る必要がある。これから水牛が増えるのだからなおさらのことだ。

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1968年 乗船名簿AR-29

2025-01-14 03:59:01 | 楽観農園


 「乗船名簿AR-29」NHKで放映されたドキュメンタリー番組である。19歳の時のことだ。偶然この番組を見て、自分の何かが変るほどの衝撃を受けた。映像の力をまざまざと感じた。相田洋さんと言うディレクターが作った番組である。

 その時10年後にまた撮影すると約束をする。そして、10年ごとに移民した人々の軌跡を継続して50年間撮影をした。そしてついに82歳になる相田さんは、50年後を2019年に撮影する。この番組を見て50年間の人生の様々に改めて感動をした。人間の生き様はすごいものだと思う。

 相田さんは満州生まれである。母と弟2人と3人で9歳能登期に命がけで引き上げた。その体験が番組制作の根底にある。自分の体験を元に、政府の移民政策への問題意識を膨らませる。移民船に乗る人々の、希望と不安を映像に記録する。

 この番組を見てから、移民いや、この番組では移民ではなく「移住」としている。何故か、NHKは移民ではなく移住を使う。移民は差別用語なのか。移民でなければ伝わらないことがあるのに残念な点だ。移住は私が石垣島に来たような、引っ越しを含んでいて甘くなる。

 日本の社会は知らない人を受け入れるようには、出来ていなかった。数代前までは、地域地域に家系まで熟知した人々が、寄り集い暮らしていた。閉じた社会である。戦後になり、日本人が都市に暮らすようになる。戦前社会は鎖国の影響の残る前の時代である。今でもその残存が日本の社会に残っている。

 難民、移民、棄民、遺民、避難民、逸民、移民、下民、逸民。様々な日本語の民がいる。定住していない人に対する差別が日本社会にはあった。江戸幕府の定住政策によるものだ。身分制度からはみ出る人々を士農工商以下の人として、差別をしていた。その残影が日本社会にはあった。

 50年数年前までは海外移民が、国によって奨励されていた。最後の移民船が、1973年2月14日に横浜を出航した「にっぽん丸 」である。285名が南米を目指して移民した。笠戸丸から65年間で約25万人が船で集団移民したが、その移民の時代はこの船をもって終わった。

 戦後の食糧難時代。日本全土が開墾された。それでも耕作地が足りずに農家では、長男以外は外に出る以外になかった。引き揚げ者と戦後の急速な人口増加で、日本全体で人がはみ出てしまった。食糧不足と、耕作地不足。政府は移民を奨励し、国民を棄民してしまった。

 畑に出来る土地はすべて開墾され畑になった。子供時代の藤垈では、開墾がまだ続けられていた。今すべてが山に戻ってしまったが、あの頃は向昌院の周りの山は、見渡す限りが段々畑に開墾された。すべて手作業の開墾で出来た畑だ。坊ヶ峯の開墾には一緒にリアカーで行った。開墾した畑は自分のものになったのだ。

 南米移民とは別に、植民地支配のために、台湾、朝鮮半島、満州と外地と呼ばれた地域に出て行く人々がいた。満蒙開拓団という、中国人の土地を奪う略奪民が募集され奨励されたようなものだ。海外に雄飛すると持てはやされた時代さえあった。実は、日本帝国主義の植民地支配の入植者開拓義勇兵なのだ。

 まさかその日本に、海外から人が来るようになるとは、想像が出来ない現状である。外国人労働者という、移民にも含まれない年限の限られた、一時雇用の労働者である。最悪の選択だと思っている。企業は労働者を必要とするので希望をしている。

 労働者として受け入れるのであれば、移民として受け入れなければならない。日本にはその覚悟がない。そのために曖昧な技能研修制度で来日する。日本の永住権の獲得や、日本国籍を取るまでには長い道のりが待っている。都合の良い労働力補充なのだ。ずる賢いやり方だ。

 移民でブラジルに渡った人が、日本に出稼ぎに来て生活をするようになったのが、すでに30年前である。移民関係者は優先的に日本で働くことが自由に出来たのだ。いかにも日本のご都合主義が、ひっくり返ってここに現われている。こうした政策が良い結果を生むはずがない。

 この逆転現象は衝撃的なことだ。農家の次男坊には、働きたくても働く畑がないので出て行く以外にないという現実から、日本が人手不足になり、ブラジル移民の関係者を日本に呼び寄せ無ければ成らないという様変わりである。政府の愚かな判断が国民を翻弄する。

 私の親類にも、アメリアに移民花嫁としていった人が居る。中学の同級生には、親がブラジル移民から戻った人も居た。また、おじさんがボリビアに居るので、高校を出たら行くと言っていた人も居た。人の人生は様々である。騙されて理想郷を夢見て移民をして、忽ち行き詰まり日本に戻る人も多数存在する。

 ドミニカに移民した人達はまさに棄民である。政府が募集の時に説明していたことと、現地の状況はまるで違っていたのだ。政府に騙されたドミニカへの移民。政府に対して訴訟をするが、時効と門前払い。ドミニカだけでなく、多くの日本人移民が、日本政府に騙されたように移民したと考えて良い。

 こんなはずではなかったと早く諦めた人はまだ良かったと言われている。早く諦め都市に出た人には道が開けた人が多い。人並みはずれた体力と精神力が強かった人が、むしろその不毛の土地にしがみついて、戦い続け精神を病んでしまう人が多かったそうだ。日本と土壌や気候が違うことが原因したようだ。

 石垣島へ移住して、農場を始めた。この体験で、すこしづつ熱帯の土壌の困難さが分った。小田原で農業をしていたときとは、土壌の成り立ちが違う。作物を作ることの困難さが倍増した。様々な土地に農業移民した人達が、特に熱帯の土壌の違いに行き詰まったのではないだろうか。

 日本本土の土壌は実に豊かなのだ。山でも耕せばすぐ作物が採れるのだ。私が山北の山中で開墾生活を始めて、3年で自給が出来るようになったのは、まさに丹沢山中の豊かな土壌と、温暖な気候の御陰だったのだ。入植地がブラジルであれば、たぶん石垣島でも挫折していたはずだ。

 もし石垣島であれば、10年はかかったはずである。10年は耐えられなかった。農業はその土地に合せて行わなければ出来るはずも無い。ゴム栽培で失敗した人も居れば、胡椒栽培で成功した人も居る。行く前にどういう土壌で、何を作れば良いのかを調べることが政府の行うべきことだったのだろう。台湾から石垣島に入植した人は、土壌を見てパイナップルならできると判断したそうだ。

 人減らしが出来れば構わないと言うことで、政府は移民ではなく、棄民をしたのだ。そして今、何の準備もなく海外からの労働者を受け入れようとしている。日本人を募集をしても集まらない職場を、外国人の方々が補ってくれている。背に腹は代えられないと言うが、いかにもこれはまずいことだ。

 乗船名簿AR-29を日本の公務員は全員見て欲しい。政府が決めて、良いと思い奨励したことが、どのような結果を生むかである。二度と移民政策は行ってはならない。同時に移民や外国人労働者の受け入れも、よほどの覚悟がなければ出来ないと言う事だ。外国人労働者問題は、企業の都合に合わせてはならない。


 
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2024年が終わる。

2024-12-31 04:26:00 | 楽観農園


 昔は良く今年の10大ニュースというのを大晦日には書いていた。一年を思い出して、来年こそはと考えたわけだ。石垣に来てから、あれこれ思い出す時間もないままに、日々精一杯に追われて暮らしている。今年何をやったのかもはっきりしない状態である。せめて大晦日に一年を思い出してみる。

 1,のぼたん農園で水源の森を作った。ーーー無事成長している。
 2,26回水彩人展と相模原展を開催した。ーーー良い展覧会だった。
 3,ひこばえ農法で3回連続の収穫をした。ーーー課題が山積みだ。
 4,ヤラブの巨木にトゥリーテラスを作り始めた。ーーー中村さんが作る。
 5,島バナナが実り始めた。ーーー毎月収穫がある。
 6,サトウキビとパインの畑を始めた。ーーーサトウキビは出来る。
 7,日曜展示を2020-05に始めて4年半。ーーー絵が少し変った。
 8,石垣のイネ作りに苦戦する。ーーー品種が見つからない。
 9,水牛牧場計画が始まる。ーーー土地の確保がまず課題。
 10,2拠点暮らしが5年経過した。ーーー小田原には毎月行く。

 思い出した勢いで、来年やりたいことも書いておけば、

 1,トゥリーテラスの完成ーーー床張りと柵がこれから
 2,インスタントハウスの建設ーーーこれは注文さえすれば
 3,ひこばえ農法、あかうきくさ農法の確立ーーー観察の継続
 4,水彩人春期展の開催ーーータワーホール船堀4月25日~
 5,舟原溜め池の整備ーーー2月22日から24日
 6,水牛牧場の建設ーーー下へ降りる道の建設。
 7,水牛車水平道の建設ーーー石の確保
 8,水牛サトウキビ絞り場所の建設。ーーー絞り器の修復
 9,台湾旅行ーーー難しそうだが行きたい。
 10,アトリエカーでの写生旅行ーーー何とか実現したい。

 水彩画とのぼたん農園の1年だった。考えれてみれば、当たりまえの一年が当たり前に進んだ。こうしてみると予定したように暮らした一年であった。無事な幸いな一年であったわけだ。体力は少し衰えたかも知れないが、田んぼが一応は出来るのだから、ほどほどである。

 のぼたん農園は始めて、3年が経過して次の自給農法の確立の段階に来た。イネ作りに苦戦を続けてきたが、徐々にその原因が見えてきた。石垣島の気候に適合するイネ品種に適切なものがないと言うことだった。東北の品種を気候が熱帯化する中で作るのは馬鹿げている。

 無いのであれば作ると言うことになるのだが、新品種を作出するには、残された時間がないわけだから、今ある品種の中で何が一番良いのかを捜したいと思う。今年は「にじのきらめき」を試したいと思う。11月播種と2月播種を行い、どちらが良いかの確認を行う。

 また、植え付け密度を3種類に変えて、どの植え付け密度が石垣島の気候と現状の土壌に適合するかを確認する。強風対応は浅水3本植えが良いようだ。ひこばえは2倍肥料が居るとされているので、その点も試験をしてみたいと思う。アカウキクサを通して窒素肥料がどの程度補給されるかも観察したい。

 水源の森は100本植えて90本ぐらいは残っているようだ。これは森林組合の方が、言われていたような結果だ。根付いて成長して居るから、これで後は時間の経過を見るだけだ。森が出来れば、水量はいくらかは増えると期待している。

 来年の課題はなんと言っても水牛牧場である。水牛はもしかすると2月に子供が生まれる。子供を育てて販売すると言うこともやらなければならないことだろう。水牛牧場を実現するためには、下の農地をお借りしなければならない。まずそこから進めなければ。

 水牛車の水平道づくりや、水牛黒糖絞りの場所も作りたい。水牛の魅力と伝統農業の技術を伝えて行く場所にしたい。家畜の意味を残して行きたい。家畜動物園は意味があると思っている。ゴリラやライオンを動物園で飼うなど馬鹿げている。

 サトウキビは簡単に作れることが分った。サトウキビはこれから広げて行く。今年収穫するサトウキビはすべて、畑を広げる苗にしたい。先ずは1反ぐらいのサトウキビ畑がなければ、サトウキビ絞りも出来ない。水牛で絞れるサトウキビの栽培である。

 パインは酸性土壌でないと良くない。のぼたんの畑ではあまり向いていないようだ。出来が今ひとつである。下の方のパイン畑の出来が良くなるかどうか、今年は比較検討したい。もし下の畑なら良いというのであれば、上の畑のパインを下の畑を広げて移したい。

 日々の一枚は4年半になったわけだ。継続できるのが私の特徴だと思うので、このまませめて死ぬまで続けたいものだ。絵が良くなるとか、絵が分るというようなこととは、別のことだ。絵を描くことを粋来る目標にした以上、この程度のことはやらなければおかしい。

 水彩人展も大原代表は事務局の人達が頑張ってくれて、何とかここまで来たが、この後が大変である。絵を描く上で、水彩人は私には必要である。絵を描く事は一人ではできない。一人で描いて、独善で狂気に陥った人を何人も見てきた。絵が狂って行くか、神経を病むか。

 水彩人が何とか継続できるように頑張りたい。水彩人も水準が上がっている。何しろ26回展では新しく出してくれた人が多く、しかも絵がなかなか良かった。これは水彩人の新しい希望だった。水彩人は次の時代に継続できるのかも知れないと感じたことだった。

 何とか実現したいのが台湾旅行である。しかしなかなかその余裕がない。来年はどちらを選ぶかと言えば、アトリエカー写生旅行がしたい。たぶん、体力的にもうそろそろ限界が来そうだからだ。今なら何とか、出来そうだ。昔良く通った場所をもう一度描きたい。

 最後のやりたいことはインスタントハウスの建設である。これは依頼すればそれで出来るのだから、簡単なことだが、やはりどのように進めるかはみんなで相談したい。集会場所は、宿泊場所として使いたい。宿泊するときは水牛を繋いでおく。

 朝起きたら水牛が顔を出すというのも良いのだが、夜中に変な人間が来たら水牛が対決してくれる。水牛は知らない人が嫌いだ。すぐ大騒ぎになるだろう。水牛保安官である。安心して寝ることが出来る。早く作って寝泊まりしたいものだ。

 
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2024年12月田植えのイネ作り

2024-12-30 04:11:07 | 楽観農園




1番田んぼ15日田植え。




12月14日田植え2番田んぼ


12月8日田植え3番田んぼ

12月8日田植え6番田んぼ

 12月に晴れると石垣島はすばらしい日になる。気温は20度ぐらい。風は費かくて穏やかになる。今年はこんな素晴らしい日が幾日もあった。田植え前後は雨も多くて少し不安もあった。田植えが過ぎてからは、10m位の風が何日か吹いた。これでいくらか苗の活着は遅れた。

 しかし、その後は割合穏やかな比も増えてきてまずまずの日が続いている。今年は11月5日浸種苗代種まきが10日。3番と6番田んぼは4週育苗で4.5葉期になった苗を12月8日に田植え。1番は5週育苗で、15日田植え。2番田んぼ14日田植えだった。

 その後2週間と3週間が経過して、何とかなりそうな気がしてきたところで年が越せそうだ。今のところ4週育苗の4.5葉期苗の田植えの方が良いようだ。この早い田植えの田んぼにしたことはのぼたん農園の今年最大の冒険である。まだ田んぼを見るのが怖いような心境である。

 まだ石垣島の稲作法が見つからない中、適合する品種がないと言うことがある。「にじのきらめき」をやることにした。台湾の品種ならばと考えたが、やはり味覚的には少し問題がある。出来ればジャポニカ種の方が良いと思われる。そして、ひこばえ農法を考えるとジャポニカ種である。

 今のところ日本で作られている品種の中では「にじのきらめき」が一番石垣島向きではないかと判断した。味覚の点でも比較的評判が良いし、何よりも耐暑性が強いと言うことが言われている。その上で、私が好きな多収米である。さらにその上で、農研機構の中野先生が「ひこばえ栽培」をしている品種である。

 品種を変えることに加えて、種まきから田植えを石垣で最も寒い季節に変えることにした。理由は石垣島には冬が無いからである。小田原の5月後半が、石垣島で一番寒い1月である。だから田植えを5月にすると言うことは、石垣島なら12月でも十分気温は高いのだ。

 今朝の気温は18度である。稲に最適な気温を考えると、最も石垣島では寒いと時期になる。そこで11月から始める稲作に合理性があると考えたのだ。ただし、石垣島の農家の皆さんは、どなたもそういうことはしない。何か理由はあるはずだ。

 想像される一番の理由は、かつて台中61号を作っていた頃の慣習が残っていると言うことである。そのままの栽培暦で「ひとめぼれ」を作っている気がする。農家の方は大きく変えるという冒険はしないものだ。また県が奨励品種をひとめぼれに変えたときも、栽培暦は変えないで実証実験をしている。

 科学的に考える問題点は、日照時間が短いと言うことは確かにある。しかし日射量で考えると少ないことはないというのが私の考えになる。石垣は冬の陽射しでも、日焼けをするのだ。本土の7倍の日射量がある。日は長くなり始める季節に入る冬至を過ぎたのだから大丈夫と考えた。

 育苗では全く問題が無かった。問題が無かったどころか、今までの育苗よりも良い苗になった。5週育苗では5.5葉期で分ゲツを始めた苗であった。小田原で作る苗と変らないものになった。堅さと太さはいくらか足りなかったが、30センチ以上だった。1㎡70グラム蒔きが良かったと思われる。

 大苗の田植えは風に痛められる。確かに石垣の強い風は苗を枯らしてしまう。そのために田植えしてすぐに防風ネットを張ったが、田んぼによっては不十分だった。何故か3番田んぼが一番活着がよく、枯れた株はほとんど無かった。

 いつも風にやられにくい1番田んぼが今年は意外に風に痛められた。風向きが違ったかも知れない。先入観が災いした。風対策はのぼたん農園では重要である。一番田んぼは始めてトラックターを入れたために、真土と石が掘り起こされた。土壌ができていないと言うことになる。

 1番田んぼでは2週間目からコロガシを開始した。活着は今ひとつなのだが、雑草が出てきているからだ。早めに抑えておくことが重要になる。田んぼの代掻きを早く深くした。岩盤を崩さなければならなかったので、一番田んぼは始めてトラックターを入れた。そのためにコナギの種が表面に出てきた。

 かなり枯れた株が有り、補植はかなり行った。まだ欠けている株があるが、致し方ない。30㎝角植えなので、いくらか足りないでも何とかなるだろう。土壌はかなり深く掘り返した。トラックターが動けなくなるぎりぎりだった。本来であれば、田植え前に上代掻きをやる予定が出来なかった。


 水神様に正月のお祝いを供えた。 去年は水不足で大変だったので、雨を降らせてくれるように、とお願いをした。困ったときの神頼みであるが、水対策のやれることはすべてやった。あとは、人事を尽くして天命を待つ以外にない。田芋が覆ってしまい、見通しが悪かったので水神の機嫌が悪かったかも。

 田芋は下の8番田んぼに移した。今年は今のところ10番田んぼまで水が行っている。8月からだから、半年は10番まで水があったのだ。やはり普通に水があれば、最初の計画通り10の田んぼは出来たのだ。これは最初にのぼたんの湧水を見たときの見立て通りで2反の田んぼは出来る。

 2反と言うことはひこばえ農法の3期作を考えれば、のぼたん農園で20家族が食糧の自給で暮らせると言うことになる。そのつもりになれば、争いや競争などすることなく、安寧に人間は暮らして行けるのだ。何としてものぼたん農園の冒険を達成しなければならない。

 はっきりした人数はわからないが、のぼたん農園のラインには42人の人が居る。いつも見てくれる人が39人は居るらしい。3年目にしては素晴らしい前進である。この楽しい大冒険が、人類の未来に繋がっていると大げさに考えている。

 来年は農業技術の確立である。「ひこばえ農法」「アカウキクサ農法」何としても確立しなければならない。一年で見えてくるとは思わないが、3年間の数々の失敗がいくつかの方角を示してくれている。できる限りの事をして、方角だけははっきりさせる年にしたい。

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好きなことをやることが出来る。

2024-12-28 04:39:01 | 楽観農園


 好きなことが出来る毎日が素晴らしいと思う。今も「のぼたん農園」の冒険を続けている。これは幸運なのだと思う。良い両親がいて、好きなことをやればいいのだと励ましてくれた。能力など関係ないから、好きなことを見付けろといつも言ってくれた。どんな職業に就くのか聞かれたこともなかった。

 戦争で両親とも好きなことをやりきることが出来なかったからだと思う。暮らして行くことは何とかなるものだから、好きなことさえ見付ければ後は何とかなると言ってくれた。両親の御陰で、ごく普通の人間が75歳になり、好きな農場作りをやっている。

 人より粘り強くやれると言うことが自分の長所かと思うが、それは好きなことだからなのだと思う。田んぼをやっているのだが、やりたくてしょうがない。ともかく面白いのだ。田んぼほど面白いことはないと思う。イネ作りには日本人に繋がる様々な事が潜んでいる。

 田んぼを始めて40年近くなるのだが、まだまだ分らないことばかりで、試してみたいことが、次々に出てくる。「ひこばえ農法」「あかうきくさ農法」いずれも稲を人間が作物にした、約1万年前の中国の珠江中流域が稲作の起源とされているが、二つの農法はその付近で行われてきたものだ。

 珠江中流域起源説は、三島にある遺伝学研究所のゲノム研究の成果である。国立遺伝学研究所は木村 資生博士が作り上げたもので、先生のおられた三島に作られたものである。木村先生は洋蘭が好きで、洋蘭の関係で先生のお話を直接伺うことが出来た。一流の研究者に親しく接することが出来たことはまたとない体験だった。

 珠江中流域の気候は石垣島と似ている。石垣島で良い稲作が出来ないはずが無いと考えている。中国のベトナムに近い場所だ。そのことは見付けたのは倉田のりさんである。以下はその発見がどういうものかまとめたものを掲載させて貰う。

 「あるとき、野生のイネの中に栽培化に適した性質を持ったイネが現れ、私たちのご先祖様がそのイネを選び抜き、育てたことで、私たちが現在食べている栽培イネが種として確立しました。野生イネを栽培化し、農耕により安定的に食糧を得ることができるようになったことは、私たち人類にとってとても大きな意味を持っていたことが想像できます。」

「 野生イネが3つのグループに分かれるということを見出しました。ここで次の疑問です。では栽培イネの直接的な先祖は野生イネの3つのグループのどれになるのでしょうか。ここでもゲノムの違いを比較することにより、どれとどれがより近い親戚関係にあるのかがわかります。」

 「分析の結果、栽培イネの中のジャポニカは野生イネの3つのグループのうちのひとつの、その中のさらに小さな集団から生まれたと推測されました。 ついに栽培イネが中国の珠江中流域の野生イネから生まれ、その野生イネの中のある小さな集団からジャポニカが生まれたこと、さらに東南・南アジアの野生イネとジャポニカの交配によってインディカが誕生したと突きとめました。」

 1万年前に栽培稲が生まれたことで、中国に文明が起こることになる。そして3000年前にイネ作りが日本に伝わることで、日本という一つの文化のまとまった地域が作られることになる。人間は食べ物から出来ている。食べるもので人間のすべては出来ている。

 私という人間が自分の体力だけで、自給自足が出来るかを30代後半に試した。それは結局田んぼを作ると言うことになった。田んぼによって自給生活が可能になった。古代文明はすべて滅んだ。食料の再生産が出来なかったからだ。イネは連作が出来る。肥料を田んぼで生産しながら、イネ作りを続けられる。

 これほど優れた主食を持つことができたと言うことで、平和な民族が形成された。争わずとも安寧に暮らすことが出来たのだ。米以外を主食にした民族は、食糧確保の困難さから、限界に達することで他民族を略奪することになる。

 永続可能な自給自足生活をする基盤は、田んぼにあると考えた。自分の好きな田んぼ作りが、平和な人間の暮らしの基盤にあるということの気づきに、大きな喜びを感じた。私が好きな田んぼを続ける事は、次の社会のヒントになるのかも知れないと考えるようになった。

 好きなことを思う存分やることが出来る。しかも、田んぼのイネ作りが資本主義社会の限界を超える方法になるかも知れないと考えるようになった。循環型社会である。拡大再生産ではなく、同じことが繰り返されて行くことに、豊かな人間の暮らしがあるという社会だ。

 そのことに気付いたときに、修学院離宮を思い出した。天皇家が日本人のあるべき姿を模式図化したものだと言うことを想像した。それなら私は、百姓として自給自足の農園を作り出そうと考えた。それがのぼたん農園である。私の最後の冒険になると思った。

 80歳までは身体は動くだろう。百姓仕事も出来るはずだ。この好きなことに残りの時間を注いでみようと思った。絵を描くことは自分の問題である。のぼたん農園は自分だけのことではない。未来の人間の生き方に繋がっている。好きなことをやり尽くすことが未来に繋がっている喜び。

 特別な能力はないが、好きなことはある。これが私の幸運であった。運命と言っても良い。イネ作りを石垣島で行うように、ここまで来たような気すらする。山北の山中で田んぼを作ったときから、すでに始まっていたような気がする。農の会での田んぼ作りも、石垣島ののぼたん農園に繋がっていた。

 能力も才能も少ないが、仲間が居る。能力のある人に手伝って貰える何か幸運がある。助けて貰えるのも有り難い運だ。みんなで力を合わせなければ、のぼたん農園の未来に繋がる冒険は、達成することは出来ない。41人の心強い仲間が居る。

 3年でここまで来ることが出来た。残り時間は7年間だ。運があれば7年間百姓仕事が出来るだろう。身体が動けば、何とかなるはずだ。いよいよ水牛牧場も始める。家畜の問題を考えたいと思っている。「人間が人間になるためには家畜が必要なのかも知れない。」これが新しい課題である。

 イネ作り、絵を描く、家畜を飼う、果樹園を作る。生きている限りのぼたん農園で絵を描きたいと思う。それが好きなことで生きる喜びである。みんなが好きなことをして生きられる社会になることが願いだ。そうなれば争うことなどなくなると思う。
 
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農の会は会費がないから続いている。

2024-12-26 04:21:59 | 楽観農園

「とうまた田」

 農の会には名簿もないし、会費もない。名簿を作ろうという人が居たのだが、その理由がおかしかった。それ以来作らないことにした。必要な経費はその部門に参加した人の数で、割り出して均等に負担する。そのようにしたことには理由がある。活動のすべてを奉仕と言う形で参加者全員の平等を作り出すためだ。

 農の会の活動は自給のための活動である。自給の労働には対価はない、と言うことにした。働きたいものが働く。必要だと思うものが働く。指導をしてお金を取ると言うことはない。人に働かせて監督するというような人間は不要だと考えた。人間を信じることにしたのだ。

 それは終末期の資本主義と戦うための方法だったのだ。お金とは切り離された活動でなければ、資本主義の拝金主義に巻き込まれる。素晴らしい善意の活動のはずが、集金組織と言うことになっていることがある。初めから営業と見えないように、宗教やら、ボランティア組織や、環境運動の仮面をかぶっていることも多い。

 昔ある組織の代表に、子供達で田んぼをやるので指導して欲しいと頼まれた。田んぼを子供がやるのは大歓迎だ。喜んで協力を申し出た。一年間、本気で田んぼをやった。山の中に新しい田んぼを作ったのだ。それは自分のための素晴らしい体験だった。

 所が田んぼが終わったら、何と私も参加の会費を取られた。実はすべてはその組織の資金集めの活動だったのだ。私を参加者にして、無償で働かすためだった。指導して貰いたいなど、上手いことを言ったのだ。私は知らずに大勢の会員まで集めてしまった。自費で様々なものを購入して、この田んぼ作りを支えていた。

 ところが、この組織は金儲けの仕組みだったのだ。会費を払いすぐに止めた。たちの悪い人間を見抜けなかった自分が悪かったのだ。それから善意を語る組織には用心するようになった。一見したところ、善意で出来た良い活動であっても、その善意を建前にして、金儲けが主たる目的になっている組織が珍しくない。

 良いことをするにはお金が必要である。最近よく言われることだ。民主主議はお金がかかると自民党は繰返し主張する。実は欲得だけで政治家になっている本音を隠している。きれい事でお金が動いているのではない。この頃そんな活動にいくつか出くわした。SDGs 活動だから参加費〇万円と言うものにであった。

 最近は農業分野でもにたようなものがあるのだ。確かに趣旨は素晴らしい。是非進めて欲しい。所が、善意の人間を騙す金儲けのための新しい手段なのだ。社会は拝金主義にまみれて行く。本当に正しい活動なら、お金など無くても広がって行く。農の会と似たような活動は全国に発生している。自分が大きくなる必要など全くないのだ。

 その活動が良いとか悪いとか言えば、ビーチクリーンなどの良い活動ではある。それなら全員が奉仕でやればいいだけのことだ。所が裏にある目的が選挙の売名行為であったり、別の活動への誘導であったりする。場合によっては妙なエセ宗教というのもある。

 奉仕は健全な思想に支えられたものでなければ成らない。資本主義を乗り越えなければ、人間は卑しくなるばかりだ。拝金主義者は今や居直って、正義ずらして金儲けをしている。私はそういう卑しい人間にだけは成りたくない。近づくことも嫌だ。そう決意して生きてきた。

 35年前、農の会を作って以来、お金は必要なだけ平等に負担することにした。一応私が指導者ではあったのだが、農業指導のお金などただの一度も貰ったことがない。1万円の実費で120キロのお米が貰えるというのが、35年の実戦の結果である。それ以上取る活動は、能力が低いか、怪しいと見たほうが良い。

 平等で無料だからこその農の会の良さがある。指導者も参加者と同じ立場だから良いと考えている。上に立つ人など居ない方が良い。農の会の活動ぐらい、ユートピアでやりたいではないか。平等とか公平はない。やれるものがやり、必要なものが貰う。資本主義はもう終わりが見えている。

 これが35年前に考えたことなのだ。それ以来一貫してそうやってきた。自給自足で生きているのだから、お金がなくて困ったことはない。儲けることなど何もなかったが、気持ちよくやってこれた。ユートピアでは貧乏の方が偉いのだ。

 しかし、この思想は農の会参加者でもなかなか理解されていないところがある。当然のことで、社会は資本主義で回っている。その価値観で農の会の活動を見るのだ。多く働いたから多くくれという人が現われる。そういう人にはどうぞ一人でやって下さいということにしている。人の世話になっていることが見えないのだ。

 農の会は「地場・旬・自給」めざす「イーハトーブ」である。理想社会を目指しているのだ。そのことは説明もしたことがない。今初めて書いているのかも知れない。そうでもないか何回も書いたようにも思う。ともかく奉仕で出来ている。その尊さを参加者全員が認識しなければならない。

 奉仕ではやれる人が限られてしまい、大変なようだが、お金など全くなくても、志があれば参加できるのだ。そして奉仕の気持ちよい関係が活動を広げて行く。35年の間に、似たような農業の活動が全国に何百と生まれた。会費のない農の会の活動の方法論は、参考に少しは成ったと思っている。

 有機農業で一儲けという人が、新規就農してくる普通の時代だ。それでいいとは思うが、何しろ有機農業は広がらない。結局儲からないとやらないからだ。思想がなければ今の日本の社会で有機農業の組織は続けられない。よほどの信念がなければ続くはずがない。

 金儲けとか、組織拡大だとか考える人には無理なことなのだ。有機農法でやる自給農業は思想活動なのだ。奉仕の精神を学ぶ組織なのだろう。そう言ってしまえばつまらないので、地場・旬・自給を主張してきたのだ。35年間このことだけは達成したと思っている。

 石垣に移ってから5年、私が居た頃より農の会は立派に成長している。始めたものなど居なくなった方が良いのだ。これからの課題は私の知らない若い人が支えるようになるかである。なかなか難しい時代である。農の会がうまく行かなくなるとすれば、それは日本がうまく行かないと言うことだろう。

 35年の間に35人くらいは新規就農者が生まれたのだろう。これは、農の会の成果だ。新規就農した人は自給農業の会である農の会から距離を持たざる言えない。それでも、農の会の活動を支え続けている人が居る。それぞれが全国で活動を続けている。農の会の志にいくらか記憶があるだろう。

 今は石垣島でのぼたん農園を始めた新規就農者の一人だ。のぼたん農園の活動もあしがら農の会と同じ精神でやっている。初めて3年になる。41人の仲間が集まった。おもしろい人が集まっている。石垣島に残る伝統農業を何とか次の世代に残したいと考えている。

 最近水牛牧場をやろうと言うことになった。トゥリーハウスは来年は具体化することだろう。インスタントハウスも設置したい。やりたいことがどんどん出てくる。みんながゆいまーるになれば、何でも出来るはずだ。またそれ程楽しい事はないのだ。

 
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日本人と稲作

2024-12-25 04:18:27 | 楽観農園


 田んぼが好きだ。見ているのも好きだし、絵を描くのも好きだ。田んぼを作ることには限りない興味がある。地形を見て、湧水を見て、どのように田んぼを作ると美しいか。そして、棚田を作る。そして栽培をする。試行錯誤を繰返し、手直しを続ける。そこにはいつか、調和した世界が表れる。

 日本人は縄文時代後期からお米を食べるようになった。3000年前に稲作が中国から日本に伝わる。稲作に関わることで、日本と言う瑞穂の国の国柄が出来てくる。お米を生産する技術を学び、食料を蓄えることが出来るようになる。日本列島に暮らしていた縄文人の人口が急速に増加して行く。

 栗などの栽培を始めていた縄文人ではあるが、狩猟採取的な生活から農業生産を始めることで、生活の様式が大きく変化を始める。人口増加するに伴い、縄文人は弥生人へと変貌して行く。暮らし方の変化は人間を大きく変えてしまうほどの力がある。

 水を引き田んぼを作ると言う集団的な労働から、集落が形成され集団の秩序が生まれる。小さな単位で暮らしていた人が、食糧を貯蔵できることになり、集落が大きなものになる。水田を作る先端技術が日本列島全体に広げられながら、稲作に適合した国作りが進められる。

 稲作農耕文化が形成されて行く。それが日本の国柄となり、稲作が日本人というものを変えて、戦前までの日本人を作り出した。縄文時代の日本人が、弥生人に変って行くのだが、その劇的な変貌は異民族では無いかと言われてきたほどの大きな違いが生まれる。

 今では人間の遺伝子の研究などから、多様な人々が交雑しながら、縄文人が変化をして弥生人になったとされている。稲作が暮らしを変化させたことで、人間の様相から、身体つきや人相骨格まで変化をさせる。渡来する人も多く居たのだろう。現代の多様な日本人が形成されたとみられる。日本人には外見上の違いが大きい。

 そもそも日本人はどこから来たかと言えば、10万年前のアフリカから始まるのだ。それが徐々に移動して、オーストラリアや東アジアまで5万年かかってたどり着く。その間様々な人類の交雑が起きているとされている。縄文人とオーストラリアの原住民は遺伝子分類では一番近いとされている。人の移動が読み取れる。

 3万何千年前に日本列島にたどり着き、その後も遅れて日本列島にやって来る人達も繰返しにいたのだろう。そうして交雑しながら、縄文文化という当時の世界最先端の文化を形成するようになる。それは日本列島が島国で有り、たどり着いたもう先のない場所だったと言うことがあるのだろう。

 幸い、暮らしやすい四季のある気候と言うことで、1万5千年に及ぶ安定した縄文文化を形成し、穏やかに暮らしていたようだ。何度もの大噴火を受け、一気に人口を減らした時期もあるが、それでも日本列島に住み着き、豊かな縄文文化を維持していた。縄文土器や土偶にそれが表れて居る。

 その縄文人の暮らす3000年前の日本に、稲作が中国から伝わってくる。中国で8000年前に長江流域で稲作が始まったとされていたが、最近の遺伝子ゲノムの解析研究では中国の珠江中流域で、稲の野生種はベトナム国境に近い中国広西チワン族自治区の南寧市付近にあったことが明らかにされた。ここは緯度的には石垣島と同じくらいのところにある。

 中国の珠江中流域で1万年前に、インディカ種もジャポニカ種も同じ物として発見され栽培が始まった事が確認された。実に興味深い。ジャポニカの誕生に続いて、東南アジアや南アジアの野生イネ系統とジャポニカと の交配によりインディカが生まれたことも判明した。

 「倒れにく い」、「実が落ちにくい」、「一斉に実る」といった栽培に適した野生系統のあるイネが選び出されて稲作がはじまり、やがてジャポニカ系統は単一系統由来のものとして固定される。珠江流域は熱帯や亜熱帯に属し、4月から9月の降水量は比較的豊富であるため、珠江は水量の多い時期が長い。

 春の終わりから初夏にかけての時期が最も降雨が集中する時期で、洪水もこの時期に集中する。 珠江は大河である。その河岸の増水と減衰が、伊根という植物の生育を作る。たぶん多年草化もしていたはずだ。気候的に稲が枯れない気温が通年ある。ここが長江発生説と大きく違う点。

 また インディカ系統は各地の野生イネ系統と交配しながら、アジア各地に広がっていった。この新しい発見は、ひこばえ農法をやりながら、両方の品種の違いの意味が、やっと栽培方法の違いとして理解できることになった。両者は同じものであり、違うものに変化したものだったのだ。

 話がお米の起源になってしまったが、このこともお米で出来た日本人としては重要な意味がある。お米を作ることで日本人らしくなった。そして稲作から離れた日本人は、その個性を失い始めている。人間が出来ると言うことは身体労働から生まれる。稲作を続けている間に、日本人の身体は稲作向きの身体になった。

 日本にはお米はどうやって来たのかということになる。いくつかの流れが、時間差で日本に渡来したと考えるのが自然だ。中国の中国広西チワン族自治区の南寧市から直接海を渡り、日本の八重山地域に到達したものもあったというのは想像しやすい、妄想かも知れない。石垣にはベトナムから来たという言い伝えがある。;

 中国の先住民族であるチワン族が野生種のイネを栽培していたのだ。マカオ香港の沖合を海流が東上して、八重山諸島に到達する一つの流れは想像できる。この海の道を通り、流れ着く人は居たはずだ。想像以上に海上の道は開けていたと考えた方が良い。フィリピンやさらに南に行った人も居るのだろう。

 本格的な水田農法としての日本への渡来は、弥生期に入ってからなのだろう。水田稲作の始まりである。この水田農法の先端技術を中国から学び、日本に普及した者の一人が天皇家ではないかと想像している。水を管理する技術が国を統治することにまで繋がって行く。

 農耕と言う産業革命が日本という国家を作り出したのだ。稲作農業の特徴は、共同作業と言うことになる。人数が揃えば生産性が上がる。水路や水田の開拓は多くの人足がなければ出来ない。収穫したお米の保存技術には高床式の倉庫を必要としただろう。お米の登場で人口は増加する。

 日本人は稲を作る人のことと言っても良い。イネ作りを止めた日本人は大切なその基になる確信を失った。そして、コンピュター革命に翻弄され、停滞に入った。どこへ向かうのかを見失っている。日本が再生するためには、どのように日々を暮らすのかという所を掴まなくてはならない。

 その一つの方角は、稲作をする暮らしである。すでに日本人である事を気付かないまま捨てようとしているのが、今の日本の姿だ。いつか、日本人は稲作をする人のことだと、気付く人が居るかもしれない。その時のためにのぼたん農園を続ける。


 
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282 水彩画 日曜展示

2024-12-22 03:57:28 | 楽観農園
 282 水彩画 日曜展示








629「白水貯水池下」
2024.12 中判全紙







630「フサキ岬」
2024.12 中判全紙







631「水入る」
2024.12 中判全紙








632「シーラ原」
2024.12 中判全紙






633「のぼたん農園」
2024.12 中判全紙







634「アンパル」
2024.12 中判全紙





635「シーラ原」
2024.12 中判全紙


 引き続き縦型の掛け軸型である。まだ続けてみようと思っている。自分の中の未開分野が出てきているような気がする。掛け軸構図が楽なのだ。以前は上下に二分するようなことがあったのだが。今はそんなことも無いようだ。絵にしようとは考えないからだろう。

 紙は色々の紙に描いている。どの種類の紙でもあまり変らない。筆は豚毛の太いものを7,8本使っている。上手く思うようには描けるわけではないのだが、それでいいと思って使っている。その描きにくい感じぐらいで調度今は良いようだ。この感じは自分には分るという所が在る。

 色が少し気になる。色がパター化してきているかもしれない。反応で描いて居ると、何かやり口のようなものが固定化してしまことが起こるかもしれない。この点少し気を付けて描いた絵を見る必要がある。同じところで泊まっていたら何もならない。自己否定自己否定。

 いい加減ではなく、適当でもなく、丁寧でもなく、説明でもなく、自分が現われてくる調子というものがある。あるやり方を使うと言うことを捨てて、初めての方法にいつも立てる。同じようなことなのだが、繰り返しては居ない。そんな気分で描ける。

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身体が石垣の体質になる

2024-12-17 04:10:49 | 楽観農園


 石垣の体質に変った。多くの移住者が言うことなのだが、石垣に来て3,4年が経つと石垣の冬が寒くなると言われる。そもそも石垣に冬はないはずなのだが。私の場合、74歳になっているので反応が鈍いのか、5年が過ぎて初めて石垣島で寒いと感じるようになった。

 石垣島の今朝の気温は17.9度である。この気温が寒いと感じるようになるのだ。小田原に居た頃であれば寒いどころではない。最低気温の18度は9月頃のほどよい気温である。石垣島で一番寒い時期でも小田原の10月頃の気温である。

 小田原の春で言えば、5月頃の気候である。つまり冬はないのだ。11月から4月はないのが石垣島の気温である。これは身体にはとても楽なことだ。身体が寒さに縮こまることがない。冬の寒さで緊張することがない。締まらないと言えば締まらないのだが。

 11月から4月の間でも、アトリエカーで窓を開けて普通に絵を描いていられる。冬が無い事は年寄には格別に有り難い。それで身体が緩んでいた。11月末に、小田原に行って寒さに肺をやられた。冷たい空気を吸い込んでしまい、身体が冷え切ってしまい痰が出るようになった。

 あれから2週間経過してやっと直ってきた。石垣に戻って田植えだったから、身体を休ませると言うことも出来なかった。あまりの温度差に身体が対応できなかったことがよく分った。冬は小田原に行くとしても最短で戻ることにする。やはり身体の対応力が若い頃とは違うのだろう。身体を壊すことが分ったのだから、止むえない。せめて4月くらいまで我慢するほかないだろう。

 小田原の寒さはよく分ったのだが、これが岩手などであれば冬には到底行くことなど出来ない。所が今年初めて、石垣島でも寒いと言うことを感じたのだ。今まではみんなが今日は寒いなどと言うのだが、何でこんなに暖かいのにと同調できないで居たのだ。

 石垣に越してもダウンは捨ててはだめだ。と言われていた。いつか必ず買いたくなるからと、言われていた。全く本当だった。昨日などは23度あるのにダウンを着て絵を描いていたのだ。23度あれば、人によったら半袖である。それがダウンなのだ。

 人間の身体は変る。石垣の気温に対応したのだ。20度を切れば寒いと言うのが石垣島体質である。北東の10m近くの風が強く吹き続ける。これだと20度を切れば寒いのだ。これで寒いなどと言えば罰が当たりそうなのだが、身体の正直な反応なのだから仕方がない。

 寒さは特に目立つのだが、身体全体が石垣島生産物に変ってきているはずだ。私の身体のほとんどすべてが、石垣島のものに変わったのでは無いか。身体の中に居る微生物も、石垣島のものに変った。私の身体の細胞よりも、身体の中の微生物数の方が多いと言われている。

 身体を更生する微生物が変わり、細胞も変ったのだろう。そうすると体質が変る。水が変わり、水に馴染む。土が変わり、土に馴染む。石垣島の風景が私の身体の中に染み込んできた。これは精神的なものではなく、物質としての私の身体が変ったと言うことと考えて良い。

 当然考え方も石垣島の水土の影響下にあると考えなければ成らない。人間は暮らしの場所を変えれば、身体のつくりから変る。微生物が変ったのだ。私の絵が変るとすればそういう所からであろう。石垣らしい風景を書こうなどと思ったことはないが、小田原を描いているのに石垣の空気柄われると言うことのようだ。

 これは、人間の意識でどうなるというものでもない。いつの間にか、そうなってしまうのだ。そういう風に身体の中から絵が出てくるように、絵は描かなければならない。旅行者の風景画がくだらないのはそういうことなのだ。田中一村の絵は、奄美の風物は書いているが、少しも奄美の水土を感じない。

 5年の石垣生活で何かが変った。10年経てばもう少し変わっていることだろう。5年間この暮らしが続けばと、石垣に越してきたとき考えてブログにも書いた。そして無事に5年が経過した。越してきたときの思いよりも、随分石垣島に馴染んだような気がしている。

 やはり、のぼたん農園を始めたことが良かったのだと思う。のぼたん農園を初めて、多くの人と出会った。100名くらいの人と新しく接したのだろう。そのうち40名くらいの人が今のぼたん農園に参加している。参加深度の濃淡は様々であるが、人と会うことで人は変る。

 のぼたん農園の冒険は、みんなで塊に成って挑戦するから出来る事だ。この冒険の船に同船した仲間からは、様々な影響を互いに受けている。目的は一つである。のぼたん農園の完成である。のぼたん農園は、自給のための研究農園である。人間が自分の力で生きることを探求する場所である。

 「のぼたん農園」は自分の身体の力で、化石燃料に頼らず生きていける技術を探求し、学ぶ場所である。その点では、石垣島の自給生活は難しいと言うことが分ったところだ。これは想定外のことだったのだが、くじけずに自給農業の成立のために頑張ろうと思う。

 「ひこばえ農法」と「あかうきくさ農法」を組み合わせて、一人でも出来る自給をしたいと考えている。ひこばえ農法は、実は石垣島では古くからそれなりに行われていたらしいことも分ってきた。それは東アジアの自給的農業では珍しいことではないのだから、これも伝統農法の一つと考えて良いのだろう。

 11月の播種。12月の田植え。4月に1回目の稲刈り。7月に2回目の稲刈り。10月に3回目の稲刈り。この流れが安定して出来れば、年間で反収1トン取りも可能になるだろう。2人家族であれば、100キロで良いとなれば、1畝の田んぼで良いことになる。

 あかうきくさは再生してくることは確かなのだが、まだ安定して、必要なときに増殖させるところまでは技術化が進まない。鶏糞を使うのが良いのではないかと考えている。バットグアノで増殖が出来る事は分った。増殖池の構想も考える必要がある。

 こうしてのぼたん農園で日々すこしづつでも身体を使っていることも、身体が石垣に馴染んでくる要因だろう。身体を動かし、農業をする。そして出来たものを食べる。その土地の人間になるための方式のようなものだろう。目標の10年にはまだ7年ある。それぐらいは頑張れそうだ。

 身体が楽に動く間に、二つの自給農法を確立したい。伝統農業として伝えて行けるものにしたい。のぼたん農法であれば、人間は楽しく食糧自給ができると言うことを、確立しなければならない。今年のと言うか、来年の稲作はその出発点になる気がする。


 
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