中野さなえ活動日誌

花には太陽を こどもらには平和を

母の命日

2016年05月11日 21時09分51秒 | 活動日誌

 

 9日の私の誕生日の後は、母の命日が11日、今日です。

 

 東北大震災のちょうど2か月後に亡くなりました。母の命日は、私の中で大震災と直結しています。

 

 震災で水もなく暖も取れない施設で死ぬばかりだった母を、長野に避難させてちょうど2か月目の今日、息を引き取りました。2か月間、震災のショックで食べ物はおろか一滴の水さえ口からは入らず、点滴だけで生きていました。

 

 長野で最期を迎えよかった、と思いました。家族がいる。暖がある。そして、葬儀ができたのです。

 あのころ、亡くなった方があまりに多くて、火葬場は間に合いませんでした。死体を東京など他都市へ移送させなければなりませんでした。

 

 だから私は「よかった」との安堵感と、一方では喜こべない現実が同時にあったのです。

 

 故郷の皆さんは葬儀も出せなかったのです。それどころか、ご遺体が見つからないかたも大勢いました。母の葬儀は静かにひっそりと行いました。母もそう望んでいるに違いないと。

 

 苦労の連続だった母です。親孝行のまねごともできなかった、との後悔の念はあります。しかし、母の晩年、一年に一回、弟と一緒に温泉に連れ出した写真を見て何かしてあげられたのでは・・・と思うのは自己満足か。

 

 温泉旅行は一時のこと。それもうれしかったに違いないけど、母は元気な時は、忙しく活動する私の子育ての手助けをしてくれた。世の中がよくなれば・・・・それが晩年党員になった母が、私に託した一番の願いだったのでは、と思うのです。 

 

 母の党員としての仕事は、候補者のタスキを縫うこと。昔は布に墨で名前を書きました。選挙の時は炊き出しでおでんを作ること。それが誇りでした。

 

 政治の恩恵からずいぶん外れたところにいた母の、地味な活動に込められた党員としての誇りに、私は尊さを実感します。

母がなくなる6日前、兄弟がそろいました。

災害の3か月前の最後の旅。すべてなくなった南三陸海岸へ行きました。弟におんぶされて、遊覧船に乗りました。

熊本・大分の災害お被災者の皆さんのごくろうに、思いが重なります。

 

コメント
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