キューバの旅
革命後のキューバには一度いってみたかった。チャンスはあったのですが、遠いのでちょっと躊躇していました。でも、アメリかと国交を回復したので、これからどう変わっていくのか見ておきたいとの気持ちがつのり、エコノミークラスで耐えれる体力のあるうちに、ということも理由で「今行かなくては!」と、決断しました。
かくしていつもの旅仲間と決意して、12人で行ってきました。
医療費、教育費無料、食料も最低は保障されているという国、キューバへ。
一日目5月16日 到着!!
長野駅11時26分発の浅間に乗ってから、トロント経由でハバナに到着するまでおよそ24時間。やはりキューバは遠い。
ホテル到着は夜中の12時過ぎ、なんとシャワーのお湯が出ないというではありませんか!!
シャワーが出ないときもある、バスタブには栓がない、有料トイレでも水が流れないときもある、などなど、キューバ事情は呑み込んでいましたので、驚きはしませんでしたが、ちょっとショック。
夫は水浴びをしたが、さすがにそれは・・・と私は顔だけ洗ってシャワーはやめました。
搭乗時間が長かったので、トイレの心配で機内ではビールは我慢しました。
12時を大幅に回っていたが、ビールでも飲まないと一息付けないし、眠れそうにない。添乗員の成島さんと石坂千穂さんを誘って、下のバーでビールを一杯飲んでほっと一息、床に就きました。これで眠れるぞ!!
ところが、夫は即、グーグーのいびき。それで私は眠れなくなってしまった。仕方がない、安定剤を飲んでティッシュを丸めた耳栓をしてやっと眠りにつくことができました。
今日はリハビリセンターと一番の希望だったラテンアメリカ医科大学の視察でしたが、
これについては、また、別途書くことにして、今夜は休みましょう。
キューバはどこへ行っても音楽にあふれています。
昼も夜も食事の場所には、必ず演奏グループがやってきて、陽気なラテン音楽を奏でてくれました。
インターネット環境が悪く、Wi-Fiがなかなかつながりません。仕方がない。ワードで書いてくことにしました。後でアップします。
2日目 5月17日 キューバの医療政策を学ぶ
デイケアセンターとラテンメリカ医科大学の視察をしました。
元ベルン教会跡につくられたという広い敷地のデイケアセンターは、同じ建物に保育園もあり、眼鏡制作室もありました。眼鏡制作室では、施設内だけではなく、誰もが無料で眼鏡を作ってもらえるとのことでした。
★まずデイケアセンターに。陽気なお年寄り
ここに通っている皆さんは、日本のデイケアに通っている方たちとは全くイメージが違います。「高令者の学校」と呼ばれていました。介護保険で審査に通った人だけが通うようなところではありませんでした。おひとりで寂しい方は誰でも通える「学校」でした。さまざまな講義も受けるんだそうです。
皆さん、おしゃれで元気はつらつです。
私たちがお礼に「手のひらを太陽に」を歌ったら、すぐに一緒に踊りだしました。
今度は自分たちで「♬ガンラメラ」を歌いだしました。
それがなんと、歌の前半を、次々とバトンタッチして独唱するのです。その声の素晴らしいことと言ったら!!びっくり仰天!!感動しました。
ソロで歌っている方です。
ソロが終わると、全員が「♬ ガンタラメ~ラ ♪」とサビの部分をみんなで歌います。そのはつらつとした笑顔と声!!
皆さん、陽気で、すぐお友達になれました。
キューバではお年寄りは「家族と一緒が一番幸せ」との考え方で、自宅にいるのが基本でした。自宅介護が必要な時は国が援助すると言っていましたが、その実態は今日はわかりませんでした。
★保育園で
保育園では子こどもたちが元気で飛び回っていました。入所の条件は父母が働いていること、これは日本と同じ。ところにより月200円の食費をとるところもあるが、基本はもちろん無料。保育士の担当人数の基準は、2~3才児は6対1、4~5才児に至っては4対1だというのです。
これには驚きました。日本は30対1ですからね。
ただ、環境のせいもあるのか、「外へは出しません。階段も親の責任です」とのことでしたが、ここは、ここで働く人のための院内保育園だからだからのようです。狭くて、そう良い環境とは言えませんでした。
他園は違うようで、外へも連れ出し散歩もするとのこと。ここの子は外へも行けなくてかわいそうだなと思いました。保育内容については、よくわかりませんでしたね。
「日本は、4才児5才児は30対1です」と言ったら、保育士さんは驚きを隠しませんでした。反対に「とてもやっていけません。なぜそんなことができるのですか!」と聞かれました。お金持ち日本が、なんて恥ずかしいことだろう。とても先進国だなんて言えない。
発達途上国であるのにこの保育士配置の基準は、政治の基本は国民を大事にすること、暮らし優先だということの表れだなと思いました。
男性も育児休暇が得られるとのことでした。
★ラテンアメリカ医科大学で
大学の視察の許可を得るには、ちょっと苦労しました。
キューバでは観光ならいいが勉強となると、国営の施設の視察に行くには国の許可がいるとのこと。アピールするために、大使館に夫の学会論文を送ったりもしました。
大変広大な土地に医科大学はありました。もともとは海軍施設でしたが、カストロのアイデアで医科大学にしたそうです。大きなハリケーンの被害がきっかけで、医療スタッフの養成のため開設され、19年目です。
細菌学の教授が案内、説明してくれました。
国際主義の立場で、外国の学生の養成を目的としています。
1999年には1500人から1800人の学生を受け入れていました
もちろん、貧しい国で学びたくても医学の勉強ができない学生への援助で、医師に育てて自国に帰します。
カストロ時代は全額キューバが学費、生活費の負担をしていましたが、財政難でだんだん縮小傾向にあり、現在は350人の受け入れとのこと。しかし、人数は少なくなっているが、受け入れ国は増えており現在82カ国から若者が来ています。少し前は、読んだ本によると30か国ほどでしたね。
財政援助もキューバだけの支援ではなく、キューバと友好関係にある政府や団体等が負担をしてくれるようになっているそうです。
授業はすべてスペイン語、スペイン語が話せることが条件です。だから入学後2年間はスペイン語の学習、そこで、落とされる学生もいるとのことでした。
(南アフリカの国費で来ているという女子医学生)
キューバの医療の最先端は、ハード面で遅れていると教授は言っていました。しかし、薬では自国の原料で非常に素晴らしい物を作りだしています。アメリカの経済封鎖で世界に知られることがなかったのですが、インターフェロンは世界一生産していたと言います。
基本的にここで2年間学び、3年目からは現場で地区医療センターに所属し地域のファミリードクターの診療所で住民の中に入りながら並行して勉強も続けるという、現場主義をとっています。現場主義はカストロの考え方だそうです。これは非常に重要な観点だと思いました。
大雑把なキューバの医療システムを話しておきますね。病院を頂点に三角形、地区医療センター、その下にファミリードクターの診療所があります。一つの地区センターに25ほどのファミリードクターがおり、ファミリードクターの診療所は、一か所300人程度の住民の健康管理をしているのです。
医科大学では、全員内科医としての資格で卒業します。
「医療人として大事なのは、人間としての役割だ」とドクターは言い切りましたが、当たり前のことながら、当たり前でもないのが現実です。日本の場合は、医師になりたい理由に、収入とかとか社会的地位も頭をかすめて選択することもあると思いますが、キューバの若者は、そうではなかった。
医師になっても、給料で優遇されているわけではないからです。そしてカリキュラムには、日本流で言えば「赤ひげ」のなれとの倫理観や使命観の学習がしっかり位置づけられています。
ちょうど授業をしている教室をのぞきました。「災害時の対応」を学んでいました。
内科医からスペシャリストになるには、もう一段上のランクですね。
医科大学の卒業生から、厚生労働大臣や議員も生まれており、人材派遣の役割も果たしている。などの説明がされました。教授の話からは、キューバがこの大学を開設している誇りと、ラテンアメリカは一つだとの強い思いが感じられました。
ピラミッド型の医療制度の全貌は、明日の、ファミリードクターの診療所見学で、一層明らかになると思います。
「国際主義はチェ・ゲバラの影響があるのですか」との質問に「その通りです」と。
「医療は必要とされている人に供給されるものです」との言葉には感動しました。当たり前のことですが、日本ではとてもそうなっていない現実ですから、実践を伴うこの言葉には、とても重みがあります。
キューバ革命の誇るべき大きな発展の面でしょう。
ラテンアメリカはもとより世界を視野に入れた医療活動は、まねのできない素晴らしい実践です。アメリカの学生さえ受け入れています。
映画「シッコ」では、外国人でも無料で治療するキューバが画かれていましたが、現在は国外の患者には負担があるそうです。
夜はヘミングウエイが通ったというレストランで音楽の演奏をバックに食事し、ホテルに戻ってまたロビーのバーで飲んで踊ってしまった。カリビアンリズムは心を狂わせてしまう。
昼も夜も毎食時は、様々な音楽グループがやってきて、カリビアンのリズムで会場が盛り上がるのです。
そこで、彼らはCDを売るのです。いちいち買っていたら、大変な量になってしまう!たくさんの楽団が食べていくには大変だろうなとも思いましたが、昨晩はすっかり乗ってしまってCDも買って、楽しいひと時でした。
「ああ、こんなことをしていたのでは1週間持たない。自重しよう」(´・ω・`)
3日目 地区医療センタ―とファミリードクターの診療所
地区医療センターとファミリードクター診療所(4・19診療所 4・19はアメリカを撃退した記念日)を訪問視察。午後は世界遺産の街並みの見学をしました。そのあと、ハバナ大学の学生二人と懇談。そして夜は、キャバレートロピカーナのショーに行くという、密度の濃い日程でした。
★地区医療センターを訪問
キューバの医療は、ピラミッド型の3段階になっています。ベースはファミリードクター、その上に地区医療センター、その上に病院です。
アメリカに経済封鎖され国交断絶、輸出入が封鎖され、それにも負けずに国民の健康を守ろうと編み出された、キューバの医療制度です。
仕組みは全く違いますが、考え方としては、病気になる前の健康管理をとの医療生協とも共通するところがあると思いました。ファミリードクターと地区医療センターの範囲で、病気の8割を解決する仕組みです。
薬も国産の材料で、次々と編み出しています。
赤い枠組みが、この地域の地区医療センターの管轄範囲。赤いプロットが地区センターで、黄色のファミリードクターを管轄するところ。専門医も含めて、連携がしっかりしていました。
ここでは仕組みを学んで、現場を見せていただきました。救急ベッドは3個、診察室も救急室も、ほんとに狭く物もない質素な中で頑張っている様子がうかがえました。
経済危機、ペーパーレスを乗るきるため、インターネットを開発し情報を世界に発信できるまでになったと本では読んだが、現場にはパソコンさえなく、紙も不足で、カルテもボロボロの粗末な紙も大事にしている状況がわかりました。
ホテルでも、インターネット回線が不十分で使えない、パソコンを持っている家庭はほとんどないとのことでした。
妊婦検診の台がありました。エイズの胎児感染の根絶や、乳児死亡率ゼロの努力を見ました。
★ファミリードクターを訪問。
キューバではファミリードクターが、多くても約300世帯の住民に一か所配置され、ドクターは診療所を住いにし、住民に溶け込んで、病気になる前の健康管理を行っています。
この上に、地区医療センターがあり、その上に病院があるというシステムです。
ファミリードクターがキューバの医療の土台だと、よくわかりました。
専門医も加わって、これらが、非常によく連携がとられていることに驚きました。週2回は内科や精神科などの専門医が診療します。今日も専門医の診察の日でした。
役割は4つ。
1 妊婦、高齢者のケア
2 疫病ケア
3 救急ケア
4 一般病気のケア
診療風景。ここにもゲバラの写真があった。いいのか、どうなのかは別にして。
3人の学生が研修をしていました。
昨日視察したラテンアメリカ医科大学の学生は、2年間は大学で、3年生からはファミリードクターのところで現場で患者さんと接しながら勉強もするし仕組みです。
革命前は医師6千人。乳児死亡率1000人に対し60人。
2017年には医師9万人、乳児死亡率ゼロになった。
エイズの胎児感染は克服したそうです。1960年には64才だった平均寿命が、今では男女とも80歳以上に伸びています。すごいことですね。
9万人の医師のうち4万6千人がファミリードクターといいますから、ファミリードクターがキューバの医療の土台になっていることがわかります。
ファミリードクターはその地域に住み、住民に溶け込んでいますから、訪問先の若い美人のドクターも「病気以外のことも相談される」と笑っていました。住民のすべてを4ランクに分けて把握し、訪問回数を決めていました。
4ランクとは 1健康
2 少し問題
3 すでに病気
4 障害がある
つまり、患者を待っているのではなく、こちらから出かけて健康管理をしていくのが役割になっていました。
キューバでは我が国と同じく、ガンと心臓や脳卒中で亡くなる方が多いとのことでした、高血圧の人が多いそうです。
キューバの方は、実はとても大柄です。太い方が多いのですが、ドクターに質問したところ「キューバ人の好きな食べ物は、コメ、油、肉です。食生活の改善に取り組んでいますがなかなかむずかしい」とのことでした。
食生活の改善は、貧困とも関連するし、酒、たばこ、運動不足も絡んでいそうです。それから野菜の量と調理法では、日本は優れていると実感します。
現在、医大は13か所にあります。ラテンアメリカ医科大学以外は自国の医師の養成です。
午後の学生との懇談は、教師を目指しているハバナ大学の5年生の女子学生とエンジニアを目指している理学部の男子学生の二人。別途、書きましょう。
3日目の学生さんとの懇談 キューバの教育事情と経済問題
世界遺産をみたあと、わざわざホテルまでやってきてくれたハバナ大学の学生二人との懇談が、キューバの教育事情を具体的に知るチャンスとなりました。
エミリさんは教師をめざすハバナ大学の5年生です。教育問題が中心の話になりました。国の事情もよく把握しているし、なぜ教師になりたいかも、自分の考えをきちんと持っている聡明な女性でした。
キューバの教育事情は、非常に困難がありますね。
紙も鉛筆も不足、教材もほとんどない中で、教師が苦労して集めたり作ったりしているといいます。教科書はもちろん無償で配布されますが、返却するので、よごしてはいけないし、なくすなんてとんでもないことだそうです。「鉛筆は使うと減るからこまる」との話もありました。
システムは日本と同じで、小学校(5才から)中学校、高校、大学で、小中が義務です。
小学校でも学力が低ければ留年があります。でも、友達関係は暖かく、わかる子が教えるのが当たり前の雰囲気だといいます。
入試はありません。ただし、小学校からの日常の成績や行いで評価されるので、自然と進学する子が決まってくるのだそうです。家庭環境が大きく左右するので、しっかりした家庭の子が進んでいくとのことでしたが、これにはちょっと、驚きましたし、疑問もわきましたが。キューバでも格差が出てきていますから。
それと、経済的問題で、貧しい家庭では「進学するより働いてほしい」との親の要求もあるようです。
進学ルートから外れた子は、職業訓練所などがあるそうです。
もう一つ、キューバの大問題は教師のなり手がいないこと。教員が3000人も不足しているといいます。
理由の一番は給料の低さとのこと。国民がもらっている給料額の真ん中より下のほうだそうです。
エミリさんはまだ学生でが、すでに現場で教えているそうです。
学生が現場で教えるのは、日本では考えにくい。キューバでは当たり前で、高校生が中学校で教える事もあるそうです。教師不足とともに、これは医療現場と同じで現場主義もあるのでしょうか。現場を踏みながら教員になっていくという意味合いもあるようです。現場主義というのが、すべての考えの基本にありました。
エミリさんは情熱をもって教師になりたいと思っている人でした。オープンドアという名の教師になろうと呼び掛ける運動もしていました。
「給料を上げてほしいとの要求の声は上がらないのか」との質問には厳しい答えが変返ってきました。「政府に反対の声を上げると圧力がかかる。ものが言えない雰囲気がある」というのです。
それが本当だとすれば、これから先の発展に陰りがあると思いました。克服すべき課題でしょう。一方では選挙権は16才からで世界最年少、議員への立候補は自由で共産党員でなくてもいいしお金もかからない(供託金がない)との面もありました。
「ではどんな仕事が人気なのですか」とお聞きしたら「観光業」だそうです。今、一番儲ける仕事だと。
そのため、大学でも日本語を教える教授がいなくなっているとのこと、大学教授が大学をやめてガイドになると。そのほうが収入になるからです。
医師が退職後、タクシーの運転手さんになったら、収入がぐんと上がったとの話もあります。
キューバは2重通貨で、通常観光客が使う兌換ペソは、普通のペソの24倍もするのですから、うなづけますね。チェ・ゲバラがえがかれている1ペソを観光客に売ることが、いいアルバイトになっているそうです。24倍になるのだものね。
給料は普通の公務員で日本円にして約3千円、医師で6千円から7千円、それに比べ、民間の仕事は2万円から3万円だそうです。
これでは知的財産が構築されないのではとの危惧を覚えましたし、キューバの経済政策の打開に苦心しているところかと思いました。
「エミリさんのような教育に情熱を持った人に頑張っていただきたい、そんな人材は日本でもぜひほしい」と、メッセージをおくりました。
毎日の食事で楽しいのは、昼間からのビール。モフィートはキューバのカクテル。ミントの香りいっぱいのラム酒のカクテルです。おいしかった。
3日目夜 トロピカルショーへ
せっかくキューバに来たのだから、行ってみようとトロピカルショーへ。
100人近くの歌い手踊り手が広げる舞台は、とてもきれいでウキウキしました。
チケットは少々お高くて、約2万円近くだったかな。
始まりは夜の10時、終わりは12時近く。キューバ的には宵の口だそうだが、「遅いから眠くなる」と言っていた男性に「見たとたん、目がぱっちりさめるわよ!」と。
キューバの女性は、ほんとにお尻がプリンと盛り上がっていて大きくて魅力的、おしりは見せるためのものとのユニフォームです。スタイルの良い美人が踊る、ラテンアメリカならではのあでやかでちょいとセクシーな踊りだもの、これは目が覚めますよね。
相当なエネルギーを使うダンスです。街で見るキューバ女性とは違って、痩せてスタイルがいい。やっぱり運動か、遺伝子ではない・・・・と思いました。!(^^)!
トロピカル劇場は国立で、だからダンサーや歌手は公務員とのこと。
とても訓練された踊りと歌でしたよ。
この劇場には、半ズボンやサンダルでは入れませんでした。かといって、正装ではなく、普段着です。
4日目 トイレの水が流れない!!!ハエがいる!!しかし・・。
ハバナからキューバきってのリゾート地、バラデロへ移動、バスで3時間。
午後はゆったりとビーチで過ごしました。中休みで鋭気を養おうとの計画です。
ホテルに入った途端、正直、ほっとしました。とてもきれいで洗練された雰囲気だったからです。
ところが、大問題が起きました。
夕方、ものすごい雷が鳴ってスコールがありました。今、キューバは雨期に入っています。
その影響かどうかわかりませんが、トイレもシャワーも、まったく水が流れなくなったのです。シャワーは我慢できるとしても、トイレにはショック!!
しかし、仕方がありません。それなりに対処しました(´・ω・`)
これもキューバか。
その上、ハエの多いことには閉口しました。
食卓にぶんぶんと飛んでくる。
ゴミ処理問題を質問しましたが、明快な回答は得られませんでした。どうしても公衆衛生には、遅れを生じるのだろうなと容易に想像できます。
街では、ごみ箱がものすごい臭いを放っていましたが、どのように処理されていくのか。
ハバナにて、びっくりの光景。
収集は1週間に一回とのことでしたが、通りにある大きなゴミ箱にあふれる生ごみが、1週間も放置されることは解決したいですね。
ゴミ問題は、キューバにかぎったことではありません。ごみの清潔な処理と同時に、いかにごみを減らすかは地球規模の問題です。
また日本では、生活ごみではなく原発の廃棄物処理で、ハエどころか放射能がまき散らされる危険さえありるのに、政府は再稼働をしようとしているのですから始末に負えない。
質的な違いはあっても、地球上のごみ問題は大きい。
でも、キューバでハエがいなくなったら、観光客も大歓迎だと思います。
夜は石坂さん、橋本さんとラム酒で盛り上がりました。いろいろあっても、「キューバは見上げたものだ!」と同感でした。矛盾や課題は山ほどあるが、基本的に国民の暮らしを基本に据えた政策の実施に苦労しながら頑張っているな、と思います。夫は、バーに行って似顔絵かき、帰って来ません。(^◇^)
5日目 バラデロからサンタクララへ
★ゲバラの霊廟、サトウキビのプランテーション跡、そして蚊!!
バラデロからサンタクララまで、バスでまた3時間余り。
サンタクララには、チェ・ゲバラと革命戦士の霊廟があります。当時は、武器を持っての命がけの行動をしなければならい時代でした。
霊廟には、ゲバラとともに亡くなった革命戦士の顔のレリーフがありました。一人一人見ながら、独立と人民の幸せのために立ち上がった勇士に、敬意を表しました。
私たちの日本革命は、キューバと違って進んだ資本主義の国ですから、選挙で民主主義を作っていく多数者革命の道を歩んでいます。キューバやべトナミも、まだ社会主義とは言えず「目指している国」だと思いますが、進んだ資本主義の国の革命は、まだ人類は経験していません。どちらにも、質の違った困難がありますね。でも、どちらにも展望はある。
共産党の先輩たちも虐殺されるなど、やはり命がけで戦った。私たちは今、命をかけて戦うことはしなくてもいい。世論を作り選挙で議席を得るたたかいだと考えると、彼らに尊敬の念がわいてきました。
それにしても!!ゲバラは、なんてハンサムで精悍ないい男なんでしょう!!ラテンアメリカの未来を見つめた目は、きりりとして優しかった。
革命軍が勝利を収めることになった、装甲車の襲撃現場の見学の後、マナカ・イスナガロスサトウキビ農園跡やロス・インヘリオスサトウキビ農園跡へ。
植民地時代のサトウキビプランテーション後で、世界遺産に指定されています。
マナカには、奴隷を見張るための高い塔がたっていました。
子どもたちは裸足で走り回り、私たちを見つけると「キャラメル、キャラメル」と言って手を差し出しました。
この村は、当時の奴隷の子孫がほとんどだそうですが、ここでの住民の方とのゆかいな出会いは、「どこでもフレンドリー」で別途、書くことにします。
街から外れた僻地でしたが、ここにもファミリードクターはいるということでした。学校へはきっと、遠い道のりを歩いてゆくのかなあ、と思いました。
プランテーションは広大でした。植民地として長いこと虐げられてきたキューバの歴史がひろがっていました。
なんと、ホテルでは、今度はお湯が出ない!まあ、いいか、寒くはないから水でも(-_-;)今日は我慢して水浴びをしました。それでも、サブ!!
でも、暑いと覚悟してきたキューバは、雨期のせいもあって、カンカン照りには合わなかったので、むしろ、長野より涼しいくらいでした。
ああ、それと悩まされたのは、蚊です!すごい大群!
夫は慌てて売店に買い物に行きました。ちゃんと蚊退治のスプレーが売っていました。
まいりましたね。ブチブチと刺されました。食事している間に、ホテルの職員に全部屋に蚊退治のスプレーをまいてもらいました。
★どこでもフレンドリー
どこへ行っても、すぐにお友達になれる.みんなフレンドリーです。
夫は似顔絵で、花岡さんは折り紙で、ほかの皆さんも自分流にたくさんのお友達を作りました。旅の醍醐味、最高ですね。
ロス・インヘリオスの村で。
この村は、かつてスペインが奴隷を使って、サトウキビのプランテーションをいとなんでいた村。住民のほとんどが黒人で当時の奴隷の子孫だといいます。何人もの人が、ハンドメイドのおみやげ品を手にぶら下げて「買ってくれ」とやってきました。裸足で張りまわっている子どもたちが寄ってきて「キャラメル」と手を差し出します。
木の実で作った首飾りをたくさんぶら下げたおばさんは、手ぶり身振りで、「子どもに飴をくれ。これとお菓子と交換して」と言っているようです。さらに、「おなかに赤ん坊がいて双子だ」とも。
夫がかばんを探ったら飴の袋がありました。すごい勢いでさっとひったくるようにとって、売り物の首飾りを差し出しました。
飴袋を手にしたこの方の顔は、ほんとに輝いていた、とってもとっても嬉しそうだったのが印象的だった。
子どものために手に入ってうれしいとの気持ちが、伝わってきました。お菓子は貴重品なのですね
私と花岡さんが首にかけているじゃらじゃらの首飾りは、飴や悪露が見のお礼にと、おばさんがプレゼントしてくれたその首飾りです。
そして、「47才だ」との返事に、一同大騒ぎ「おおーーー!!私もまだいけるかな!!」「頑張って元気な赤ちゃんを!」と握手、仲良しになりました。
大事に飴の袋を抱いているおばさんと。
バスが、途中で動かなくなりました。どうも、ハリケーンに備えて、大木を切り倒していたところに差しかかったようです。周りには住民がたくさん出てきていました。
通れるまで少し時間がかかるようだ。バスから降りて、花岡さんがお得意の折り紙のつるやコマを子どもたちに配りだし、お友達になりました。
「私にも」と子どもたちが寄ってきました。
バスが出発すると「ばいばーい!!」と手を振りあってなごり惜しく別れました。
さて、夫は、いつもの似顔絵での国際交流です。
どこでも、ホールにコミュニケーションがうまれ、あっという間に仲良しに。ホールでは、世界各国の観光客がいっぱい。「うちの子も描いて」とママが子どもを連れてやってくる場面もありました。夫ながら、うらやましい特技です。
6日目 トリニダからシエンフエゴス、ハバナへ戻る
少し雨模様、世界遺産トリニダの見学。スペイン人によって開発された港町。早くから、奴隷と砂糖貿易の中心でした。
家の窓はすべて鉄格子で防御されていました。海賊の襲撃に備えた作りだそうです。
革命博物館に行く予定だったが、会館しているはずなのに閉館。こんなはずはないというものの、「これがキューバか」と、アバウトさに慣れてきた私たちはすぐに納得してしまった。代わりに別の博物館でキューバの歴史など見学しました。
見学した博物館は、当時の大金持ちの邸宅だったそうで、素晴らしい豪邸でした。この裏で、住民や奴隷がどんな暮らしを強いられていたか、容易に想像できます。
ちょっと寄ったカフェで、ラ・カンチャンチャラという名の飲み物をいただきました。こも街の名物だそうです。ハチミツ、レモン汁、クラッシュアイスと、ラム酒が入ったカクテルです。
これが口当たりがよくて、とてもおいしい。
「おいしい、おいしい」と何杯も飲んだら、危険なお酒ですね。もっとも、私たちはちょっと一息で一杯だけでしたよ。ラム酒を抜くこともできます。
このあと、シエンフエリゴスの街の見学でした。1819年にフランスの移民によって開かれた街で、ここも世界遺産になっています。
キューバには世界遺産がたくさんあります。植民地の歴史、住民の苦しみの歴史でもあると思いました。キューバの人民が血を流した財産ですね。
でも、残念なことに、建物は損壊している部分が多く、修復ができていません。修復に回すお金がないのだと思います。
世界遺産をみるにしても、キューバの経済政策の困難さを見る思いがしました。
道も凸凹でしたね。
これは観光用ではありません。バスと共に、住民の移動手段です。バスは、日本のイメージではありません。写真を撮り忘れましたが、どちらかと言うと軽トラを大きくしあ感じかな。ホロはついていますが、とても古いバス。戦争当時の兵隊さんの搬送車みたいでした。
7日目 キューバ滞在最後の日 農園、ヘミングウエイと漫画オタク
9日間の旅といっても、往復で2日かかるから中は7日で、今日はもう最後の日となりました。
まず、農園の見学に行きましたが、それは別途書くことにします。
次はヘミングウエィのキューバ時代の家の見学。今は博物館になっており、ヘミングウエィの当時の暮らしがよくわかるように、ぐるりと外から回って部屋が見えるようになっていました。この家でヘミングウエイは「老人と海」を執筆したのですね。
夫は、旅の計画を見て、キューバへの行きの飛行機の中で「老人と海」を読んでいました。私は昔、昔、若いころ読んだきりでしたが、読み直せばよかったかな。
ヘミングウエィがアメリカからひそかに物資を運んで、革命軍に渡していた、その物資を運んだボート「ビラール号」も展示してありました。「武器よさらば」や「誰がために鐘はなる」は戦争への怒りを静かに語っていますが、ヘミングウェイはキューバの革命にも、こんな形で協力していたのですね。
夫はここで、念願のハチドリに遭遇し、感動していました。キューバの映像で何をみせるかといえば、ハチドリの動画です。なかなかみれない鳥で、見つけたら願いことを言えば叶うといわれています。
夜は、これまた面白い青年たちとの交流でした。
「漫画オタク」。
日本のアニメが大好きというのです。それも半端ではない。漫画から日本語に興味をもって、日本語を勉強している20代の青年でした。
私たちの知らない漫画、アニメもよく知っていました。
サザエさんやジブリならついてゆけましたがね。アニメのテーマソングまで歌えるのですからびっくりです。
インターネットだそうです。漫画オタクのゴスプレ大会もあると、写真を見せてくれましたが、すごい。日本へのあこがれは「秋葉原」だそうです。親御さんは「あまり好ましく思ってくれない」と答えた子もいました。
しかし、日本語はみんな大変堪能でした。
「チェ・ゲバラは知っているか」との質問に、「知っている。彼らのおかげで今の暮らしがある。学校の歴史で学んだ。尊敬している」との返事が返ってきて、ちょっとほっとしましたが、その子は将来ガイドになりたいとの希望を持っているしっかりした子でした。
でも、キューバの歴史に興味のない子もいたようで、日本と似たところもあるのですね。
「ヘミングウエィは読んでいない」と言っていました。もう古典文学だものね、日本の子も読んでいないかも。いや、ヘミングウェイも知らない子が多いかも。
「日本にぜひ来てください」には「とてもいけない。お金がかかる」と返事が返ってきました。
ガイドのエライネさんも「お金持ちの日本人と結婚できたらね」とジョークで笑っていましたが、キューバに来ることができる私たち日本人は、お金持ちと思っているかもしれません。貧困と格差が広がっているのだけど。
お土産のチョコや計算機、ボールペンなどの詰め合わせ袋を、歓声を上げて喜んでくれました。
日本の歌をプレゼントしました。いつもの旅グループ特別合唱団の出番です。キューバの子も、キューバの歌を歌ってくれました。
今回は、カリビアンリズムの激しさ、陽気さに負けて、歌う機会が少なかったね。
雑感こもごも
キューバ発信のニュースを送ろうと,毎日朝晩、ホテルのホールでがんばったのですが、結局、一日目だけ何とかWi-Fiがつながったけれど、あとは全滅。プリぺーカードが無駄になりました。
キューバの国内線の飛行機が落ちたことも、私たちの安全を家族に知らせることができませんでした。
インターネット環境はよくありません。医療など世界に発信する部分ではペーパーレスで頑張っているけれど、パソコンが各家庭で持つことを許されるようになったのも最近のようです。
広場にはいつもたくさんの人がいましたが、みんなスマホをやっていました。広場に来ないとできないようですね。
それで、毎晩さんざん飲んで酔っ払っていましたが、これだけは書かんくっちゃと頑張りました。その日のうちに書かないと、忘れてしまうからです。
驚いたことは、少子化で出生率が1・5人。日本と同じように高齢化と少子化が悩みでした。収入が少なくて産めないことは、日本と共通していますが、そのほかの理由があるのか。
フィンランドでは、至れり尽くせりの福祉政策にもかかわらず、やはり少子化でした。フィンランドは、医師、教師、弁護士などの要職の多くを女性が担っているので、仕事をとる女性が多いとの話を聞きましたが、キューバでは福祉政策、低給料だけではなさそうな何かがあるのかな。分からない。
また、離婚率が高く、60件の結婚があれば30件の離婚があるとの事。日本では「バツ1」と言いますが、キューバでは「マル1」というのだそうです。「あなたはマルいくつ?」と聞くことは、相手を傷つける事ではないらしい。お国柄ですね。熱しやすく冷めやすいのか?
とても陽気で、ポシティブです。
そして、このごろは結婚しない若者が多いのだそうです。結婚式を挙げると「どうしたの、頭、変なんじゃないの」と思われると。事実婚(同棲)が多いのかな。
賃金が安くて結婚できない事情は日本と同じようですが、そのほかのも理由もあるかもしれません。
中村さん、しっかりのってる!わたしも、ルンバやチャチャチャのリズムで、盆踊りの炭坑節を踊ってきました。いやあ、どんなリズムにもマッチするんですね、炭坑節。
食事は、お米中心、お肉と野菜。
でも、野菜は日本のようには食べないみたいで、お米が中心だそうです。
炒めたり、お豆のスープをかけていました。小豆のスープをかけたご飯はおいしかった。
でも、私は、最後は飽きてしまって食が進まなかった。
配給で手帳をもって最低のものは国からもらえますが、とても足りない。昔は肉は手に入らなかったそうですが、今は比較的安く買えるといっていました。
収入が少ないので、副業を持ったりします。
買い物の途中で、「ペットボトルが欲しい、ないか」と寄ってきたおばさんがいました。ゴミの中から探したり観光客からもらったりして、売って収入にしているのだといいます。
Hさんは、まだ入っていた水を飲みほして、空のボトルを差し出しました。
私は何度か、物乞いに会いました。子どももいました。食べることに必死なのですね。
観光が最大の外貨を稼ぐ手段になっているので、エイズもどうかなと思いました。胎児感染はふせげても、エイズ自体はあるということですね。
外国の資本が入らないと、経済活性化は難しいのでしょうか。アメリカとの国交回復で前に話した教師になりたいというエミリさんが、「でも、トランプになったから心配だ」と言っていましたが、どんな方向に行くのか、これからもキューバの発展の方向を考えました。
あっという間に終わった旅でしたが、とても楽しかったし学べました。あらためて日本の役割を考えました。
農園のことを書こうと思っていたら、もう疲れました。またの機会にします。ソ連の崩壊で食糧難になって開拓された分野です。