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1985年の長野市地附山地滑り災害で家が全壊してから33年がたちました。次々と起きる災害に経験が重なります。
あれは夕方の事で湯谷団地の住民は留守が多く、幸い被害者は出ませんでした。我が家では、真ん中の娘が喘息で保育園を休み、私の母が世話していました。
私は、心配しながら京都へ出張に出ていました。少し前から小さな崩落があったりして、危険を感じた住民は、自警団を組んで見回りや集会を繰り返していたからです。
昼間、胸騒ぎがした母の「孫がいて心配。避難させて」との電話で、夫が昼休みに迎えに行って、長女の学童によって「絶対に帰ってはいけない。迎に来るまでここにいて」と言い聞かせたことで助かりました。母の気転のおかげです。
末娘は保育園。同じ団地に住んでいた野々村さん(現市会議員)がお迎えをしてくれましたが、SBC通りを登ってくる途中で、真正面に地滑りを見たと言いますから、どれだけ驚いた事でしょう。
私は出張から帰って、病院の駐車場の車に「家がつぶれた。家族無事、病院に避難」との張り紙で事態を知りました。
団地では、我が家も全壊、家の被害は大きかったが、命を失った人はいなかった。でも、老人ホーム松寿荘では30人近いお年寄りがなくなりました。
その松寿荘が、引っ越し先の我が家の近くに建て直されことも奇遇です。また、この頃、私が歌のボランティアに行くようになったことも、つながりを感じることです。
それからしばらくして、2011年3月11日、東北大震災が起きました。私の実家は石巻。
母は、もろに被害を受け、母の命は水も暖もない施設の片隅で風前の灯、やっとの思いで長野に避難しましたが、ショックもあって食事も水ものどを通らず、2か月後になくなりました。
母は人生で2度も災害を経験し、災害がきっかけで亡くなったのです。
自然災害は起きる事自体は仕方のない面と、しかし、人災が含まれていることも多い。起きた後の2次災害はまさに人災、災害の度に、政府の対応の遅さと不十分さが問題になる。
被災地の皆さんは、この暑さの中、どうしているだろうと思います。
地附山地滑りの時、避難先の体育館にクーラーの設置を求めたり、生活保障のために頑張ってくれたのは共産党の議員団でした。
東北大震災では、私も故郷の支援に何度か入りましたが、故郷の方に「共産党の旗をみると、ああ、助けてもらえる、ほっとする」「何度もずーっと援助を続けてくれたのは共産党だけだった」と言われたことが、胸にズーンときました。
ほんとに困ったときに、私欲を捨てて支援に奔走できるのは、共産党が国民の幸せになる道筋を示す科学的な理念をもって活動している党だから。
この党を、大きくしたいと思います。
そして、7月26日の今日は、私の結婚記念日でもあります。