H保育園の発達相談日。
午前中の仕事を終えて、昼休みは全てのクラスをのぞいて回りました。
午前中に発達相談をしたあの子、この子は、仲間の中でどうすごしているかなあ・・・と。
どのクラスも給食の準備中で、給食の準備にかかる先生のほかに、もう一人の先生は絵本や紙芝居を読んであげています。
あれ!K先生は、マスクを外して紙芝居を読んでいるではありませんか。
K先生の表情がかもし出すオーラは、天賦の才能か、と思うほどでした。
これはどの子も安心しきって甘えることができるなあと。
ところで、先だってのお孫ちゃんの運動発表会の時、「ああ、あそこにいる」と一生懸命手を振ったのに、目があっても応えてくれない。
「あれ?」
ようく似ていたのですが、違ったのです。マスクのせいです。
大きなマスクは顔を隠してわからなくするだけでなく、表情もいまいち、読み取れないものですね。
私は保育園の子どもたち、コロナのせいでえらい目に会っているなと思います。
乳幼時期は大人の顔の表情を見て笑顔を獲得し、笑いから情緒もそだて、意欲も生み育ててゆく、その出発の特別に大事な年代なのです。
おとなの笑顔は、決定的に大切なものです。
でも今、保育園では、先生はマスクをしています。
午前中はコミュニケーションがとりにくいお子さんともお付き合いしましたが、私もマスク。
私は外来者ですからなおさら、園の基準を守らなければ。
園児だけではない。
マスクではないけれど、人との接触の不足。
「短大の学生は、一度も大学に行かずに卒業ですよ」と言われて、「あ、ほんとだ!」と。
人間関係の希薄さをどうやって穴埋めしてゆくか、大きな課題だと思います。
山本虎雄碑の建設委員会委員長代行の金井忠一さんの案内で、青木村にある山本虎雄碑を訪ね、そのあと別所まで移動し、山宣とタカクラテル碑にも足を運びました。
山宣碑は何度か訪れていますが、今回は山本虎雄との関係で、とても新鮮で感銘もありました。
友人の石坂千穂さん、橋本なち子さんと一緒に行きました。
金井さんのおかげで、スムースに行動でき、また青木村の歴史も再確認し、山本虎雄碑の建設にかかわってのいきさつなども知ることができました。
また、金井さんの政治革新への変わらぬ情熱にも、今日も圧倒されてきました。
山本碑は初めは山宣碑の隣に建設したかったそうですが、場所が狭かったため、活動の拠点であった青木村に決めたとのこと。
一環して農民運動と民主運動のため身をささげた山本虎雄が、1930年に青木村巡回産婆の設置をも実現していました。
驚きでした。
1986年にタカクラテルが死去するとタカクラテルの顕彰碑建設委員長として銅板説明文も書いています。
1989年、86才で山宣規約改正委員会の会議中に急性心不全で死去しています。
小作争議も応援指導し、治安維持法で検挙もされる経験をもち、1946年には日本共産党に入党しています。
山本虎雄碑の文字は、村長自らが書いたものでした。碑のある土地は、青木村共産党村議が提供したとお聞きしました。
青木村は栗林一路などの文化人を生んだ村でもあります。
満蒙開拓団に、誰一人送らなかった村でもあります。
地方自治体の合併が大規模に進められた時、長野県はとどまった町村が多くありました。
青木村もその一つです。
村の入り口には「義民の村 青木村」の大きな看板が立っています。
革新と文化の誇り高い村に、感銘を受けました。