中野さなえ活動日誌

花には太陽を こどもらには平和を

訪問活動をしました。

2015年05月31日 22時09分48秒 | 活動日誌

 

 

ベルリンの街で

 絵描きさんが地面に絵を描いていました。ゆるされているんですねえ。この一帯に、芸術家の蚤の市が並んでいて、自分の作品を売っていました。絵だけでなく、いろいろなもの。でも、ゆっくり見ることも出来ずパーッと通り過ぎました。

                     

                      

 

 W支部の皆さんと、組を組んで訪問活動をしました。

 わたしはHさんと一緒に回りました。

 

 「何だね。うちはいいよ」とそっけなかった方が、「戦争法反対の署名をお願いしてるのですが・・・」とお話しすると、「おとうさーん、共産党が戦争反対の署名だって」と応じてくださいました。

 お連れ合いは「私も戦争経験者だからね。空襲にも会った。戦争はごめんだ」と署名をしてくださいました。

 誰もが戦争はいや、この一点で共同はどこまでも大きく広がりますね。署名はほとんどの方が応じてくださいます。

 

 

 今日の赤旗にも、志位委員長の質問の続きと安倍総理の答弁の全文が乗りました。

 見事な論戦です。

 戦争法の本質が見事にえぐりだされています。 安倍総理はしどろもどろで、まったく答弁になっていない答弁ではありませんか。

 明日も、午前中は訪問で頑張るつもりです。

 

 

 

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久しぶりの訪問活動でした。

2015年05月30日 21時07分03秒 | 活動日誌

 

ベルリン・メルケル首相の官邸。近代的な建物ですね。

 

山口のりひささん、滝沢市議候補、支部の方と一緒に、久しぶりの訪問活動でした。

 気持ちは時差ボケしてないですよ!

 

 どこでも山口さんの当選を喜んでいただき、滝沢さんには「がんばれ」のエールでした。

 ある若い女性が「TVで志位さん見ると、がんばって!!と言いたくなってしまう」とのうれしい言葉でした。

 新聞で志位さんの質問を読みましたが、すごいですね。ユーチューブで見ようかしら。

 

 赤旗も増えたし、よかった、よかった。

 

 それにしても暑い日でしたね。緑の森を背負ったおうちの玄関に温度計がありました。「32度!」聞いたとたんに急に暑さが増す思いでした。クラクラ。

 

 アウシュビッツの旅、まとめてホームページにアップしました。ご覧ください。

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ただいま、帰ってきました。

2015年05月29日 22時45分28秒 | 活動日誌

 

 10日間、留守をしましたが、今日午後、帰宅しました。日常の暮らしが始まります。時差ボケもなく、元気です。

 まずは、洗たく。そして買い物に出かけました。冷蔵庫が空っぽ。

 夕飯の支度に気合を入れて。ばぁばが帰ってくるというので、娘たちみんな集合です。

 保育園に迎えに行って、走り寄ってくる孫を抱きしめました。かわいさひとしお。たった10日間あわなかっただけなのに、ずいぶんと大人になったと感じました。

 

 まず、言葉です。「・・・だからさあ・・」と「さあ」をつけるようになっていました。

 しっかり抱きしめたら「赤ちゃんじゃないんだからさ、だっこしないで」というのです。だから「あら、赤ちゃんじゃなくてもかわいい子はだっこするんだよ」と言ったら笑ってだっこに応えてくれました。

 留守中、ママはもとより妹たちが総出で送迎やら家事やらの応援団でした。孫は「なんで、いろんな人がおむかええにくるの?」と言ったんだって。

 

 バァバの旅は、家族に支えられています。

 

 「ジィジはいないよ」と娘たち。

 「あ、そうか学会だっていってたね。どこに行ってるの?」「新潟だって」「あ、そう、近くじゃん」 どこで学会なのか知らなかったよ。

 

 明日は、原田市議と行動の約束です。

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旅も終わりに近づきました。

2015年05月29日 22時07分37秒 | 活動日誌

 

 旅もいよいよ終わり、明日帰国です。

 前半のアウシュビッツ関係はもちろんのこと重さと希望と課題のある旅でした。後半の2日間での旅も素敵だったのですが、両方、記録は書き切れなかった。

 でも、思うままをちょっとでもその日のうちに書いておくことは、結果的にみなさんへの報告となりますが、実は、何より私のために大事なことなのです。

 

 書くことで頭の中がまとまるのですね。行動のまとめの作業というわけですね。

 

3人とも元気で過ごせてよかったね。

 

 

 後半の2日間は、メルヘェン。

 グリム兄弟の記念館の館長さんのお話もよかったし、 私、同行してくださった翻訳家の池田香代子さんの大ファンになりましたしね。

 

 初めてご本人にお会いできたのです。

 

 池田さんの「夜と霧」の改訳にまつわる話しも、感動しましたし、その話でも池田さんの人柄がにじみ出ていました。

 考え方の基本が座っているだけでなく、深く勉強されている方なのに、とっても率直で自然体で謙虚な方で、一流というのはこのような人なんだなあ・・・・と、刺激を受けました。それに、すごく愉快な方でしたよ。

 爪の垢でも煎じて飲まなくっちゃ。本当にそう思いました。

 

 メルヘェンの世界をちょっぴりのぞかせていただきました。実は興味はしんしんです。子どもとお付き合いをする仕事だから、もと知らなくっちゃなあ・・・とひきつけられました。

 

 いかんせん、短期間では両方は無理でしたね。

 

 味噌汁、おひたし、煮物、ソーメン・・・・が浮かんできます。孫の顔も早く見たいなあと、心が長野に向かい始めました。

 昼からビールを飲む生活もお終い!

 

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ステキなご夫婦

2015年05月29日 21時12分25秒 | 活動日誌

 

 この旅をご一緒した仲間に、すてきなご夫婦がいらっしゃいました。

 永井さん、85才と84才の方で、旅が大好き、いつも一緒に出かけるのだそうです。

 それにしても、11時間も飛行機に乗り続ける体力のいるヨーロッパ旅行です。現役の時は商社マン、外国旅行は慣れているとは言っても、驚きです。

 「ついてゆけるか、不安だったのです」とおっしゃっていましたが、何のなんの!!

 

 私たち旅の珍道中仲間は、「あと10年」が目標です。

 まあ、80才まで元気だったらあとはもうけもの。旅行はエネルギーを使うから、ヨーロッパなど遠いところは早く行っておこう、なんて話し合っていたのです。

 ところが、お連れ合いが言われることには、「私たちもあと5年でいいか・・・と5年のパスポートでしたが、また更新。90才まであるんですよ」(*^。^*)

 

 励まされましたね。本当に。「よし、我々ももっと先を目指そう!」なんて張り切っちゃって。

 

 ある日の昼食時、これこそサプライズで、店のおじさんがアコーディオンを奏で始めました。わっ!ステキ。

 私も音楽大好き、知っている曲の時は思わず乗って歌ってしまったけれど、永井妻殿が、Mさんを誘いダンスをしだしたのですよ!

 「何十年ぶりでしょう」と、昔取った杵柄で楽しそうに踊られるのです。

 わー、かっこいいな。すごくかっこよかった!!

 

 実は私もすぐ乗っちゃう方だから、石坂さん、橋本さんがいなくて誰も知らぬ人ばかりだったら、恥のかき捨てで踊っちゃったね。もちろん、ダンスのっステップは知らず踊れないけど。ちょっとね、理性が邪魔しましたねえ 

 もう一組、踊れば、もっともっと楽しくなったと思うんだよね。

 

 

 はい、すてきな永井夫妻です。お二人のおかげで楽しさ倍増でした。

 

 おじいちゃまの優しい笑顔が最高で、いやされました。

 永井妻殿は、パソコンもするし、新しいものには何でも挑戦の意欲です、負けそうです。いや、負けています。

 池田香代子さんがパソコンで「デモクラTV]の説明をしだしたら、真っ先にそばに座って学んでいるではありませんか。負けました。

 

 

ちゃっかりおじいちゃまとツーショットでーす。

 

  さて、アコのおじさんは

 さらば、さらばわが友 しばしの分かれぞ今は・・・いつの日のにかまた会いみん 

 の曲を弾きながらバスを見送ってくれました。感激でした。

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エッシュベーゲであった「つまづきの石」

2015年05月29日 20時23分03秒 | 活動日誌

 27日

 カッセルから少し南にエッシュベーゲという小さな町がありました。

 そこには昔ユダヤ人がたくさん住んでいました。でも、ナチに追放され、さらにアウシュビッツに送られたのです。

 今ではユダヤ人は一人もいなくなったということです。

 

 「つまずきの石」というのは、犠牲になったユダヤ人の名まえ、生年月日と死亡の日など記したプレートを、昔その人が住んでいた家の前の道路に埋め込んだものでした。

 

金色のプレートに文字が刻まれています。ここで平和にくらしていたんだなあ・・・・。どれほど悔しかったことか。

 

 現在、50数名のプレートを埋め込んだそうですが、お金を集めながら、集まったたびに勧めなながら、全員分を埋め込む計画だそうです。

 この町のガイドさんが「この石を踏んではいけません。でもつまづかないといけないのです。私たちドイツ人には、責任があります」と言われました。

 

 私は、戦後70年たっている今でも、こんな小さな町でも、住民が過去と対決して未来をつくろうとしているこの行為に、感動を覚えました。

 

 以前、中国を訪問した時に、盧溝橋の戦争博物館で、日本の憲法九条が掲げられていたのを発見したときは感動でした。そこには「これが新しい日本の憲法です」と書かれていたのです。

 

 さらに子どもの教育の基地とされているどこの博物館にも、日本語版の説明書も置いてありました。

  そこには「ここで日本軍が何をしたかしっかり学びなさい。それは未来永劫、日本と中国が仲良くしてゆくためです」とあったのです。

 最近、中国は理屈の合わないことをしているけれども、しかし、博物館の九条の掛物も、説明文も、中国の人の気持ちの真実を言っています。侵略された側が、このような大きな気持ちでいるときに、日本は・・・・!!

 

  「つまづきの石」は侵略した側の行為です。私は、ここからも私たち日本人が学ばなくてはならないことをかみしめました。

 

 戦争を起こした国だから、新しい世代も戦争の責任を負うという事ではありません。

 しかし、二度々繰り返さないためには、一人一人が事実としっかり向き合うことが大事です。何も知らずにアジアに出かけるとしたら、本当に恥をかくばかりだと思いますし、真の友好は築けるはずがありません。

 小さなプレートが、私たちに「平和」を語りかけていましたね。

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ベントラーブロック・抵抗の資料館

2015年05月29日 14時42分25秒 | 活動日誌

 

 ナチスに抵抗した国民はたくさんいました。

 青春時代、ショル兄弟の「白バラは消えず」を読んでショックを受けた私ですが。私と同じ年の若者が命をかけて祖国のために抵抗している姿は強烈でした。

 今日はベントラーブロックと呼ばれる抵抗記念資料館で、シュル兄弟はじめ、レジスタンス運動で命を落とした多くの人に会いました。

 

 そして、敬虔な気持ちになりました。

 一人一人の気高い人生を思いました。

 日本でもどこでも同じですが、こうした戦争に反対し平和のため、人の命と暮らしを守るため、筋を曲げずに命をかけて抵抗した人たちのうえに今の歴史、私たちの暮らしがあります。

 

 ベントラーブロックで驚いたのは、ヒトラー暗殺を企てっ失敗して処刑されたシュタウンシュンベルク将校のほかに、国民軍の中にたくさんの抵抗軍人がいたことでした。

 

 

シュタインシュンベルク将軍が銃殺された場所。

 私も帰国したら、まずは「6・7の県民大集会」の戦争はいやだ、憲法守れの成功させなくてはと誓ったことです。

 

 

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とんだハプニング。

2015年05月29日 14時35分34秒 | 活動日誌

とんだハプニングの話 (26日)

ベルリンの駅ホームで。私の隣が池田香代子さん、そのとなりが現地ガイドの長井さん。ベルリンで一番長くガイドを務めている方です。すばらしいガイドでした。小気味のいいユーモア満点。本当の仕事は国立図書館の司書なんですって。麻生大臣の奥様も、ガイドしたそうですよ。

 

 

 ベルリンからカッセルへ移動日。ここからは2日間、グリムを訪ねる文学の旅となります。それもいい企画ではありますが、私としては、もっとベルリンで過去と向かい合っているドイツと付き合いたかった。自分たちで計画した旅ではなかったので、仕方がない。

 しかし、きっと楽しいことがあるだろうと期待も膨らませました。

 その期待が最初からやってきました。

 

 ベルリンからカッセルまでは列車で移動。「さ、電車が来ました。乗ってください」との添乗員産の号令で入り口に並んだが様子がおかしい。

 「これはカッセルに行かないのでは・・」と気づき問い合わせたところ、「手違いがあってあなた方の切符は次に来る電車です」とのこと。顔色一つ変えずに言ってのけています。しかも、次の電車は1時間後!

 このやり取りが停車時間の数分の間です。あわてました。乗せたトランクをまた下ろすのにも大慌て。「自分のトランク、ありますかあ!」添乗員さんは大変。

  

 指定券があるのに、びっくりでした。しかも、1等車ですよ。

  

 しかし、さ、1時間待ちました。やっと列車に乗れます。

 ところが添乗員さんがまた言いました。

 「実はですねえ、この次の列車ですが、なんと、全員乗れる座席がないんです。そこで、もう一列車おくれます」   ええええ!!!

 

 結局予定より2時間送れでやっと乗り込めました。指定券の意味がないじゃない。それにしても何が起きたのか。鉄道職員は「仕方ないね」との顔で謝りもしないのです。日本だったら、考えられないこと。

 とんだハプニング、これも旅の良い思い出となることでしょう。

 ハプニングというより、サプライズとしておいた方が楽しいかな。

 

  添乗員さんは、若い女性2人、川島さん、萬屋さんと言います。

 しかも川島さんは妊娠5か月のママです。こんなことにも動じないで、何と頼もしいこと。この旅、添乗員のお二人のおかげで、明るい旅となっていますね。ステキなお二人です。

 川島さんの笑いかたは豪快でとっても素敵だったし、萬屋さんの笑顔は何とも優雅でしたねえ。

  今度また旅する時には、ぜひご指名したい添乗員さんでした。

 

 2時35分、カッセルに到着。昼食は予約しておいたレストランで、3時!!予定も飛ばし遅れして、夕食は8時になってしまいました。

 でも、8時といっても、フィンランドとまではいきませんが、まだ明るいドイツです。昼も遅れたので、夕食の遅れは気になりませんでした。

 しかも、名物のホワイトアスパラがメインのデッシュで大満足。

 1昨年のドイツ旅行では、季節が早くて食べることができなかったのです。よかった。おいしかったですよ。

 

 さて、カッセルからはインターネットが機能しなかったので、帰国後、ワードに書いたものを張り付けています。

 順に貼り付けます。見てくださいね。

 

 

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思わぬ出会い。23日のこと。

2015年05月25日 15時37分05秒 | 活動日誌

23日 思わぬ出会い

 30人の団体は、ちょっと多すぎて疲れる要素もありますが、池田香代子さんや、京都のかもがわ出版編集長の松竹さんなどもご一緒なので楽しい。

 

 今晩は食事で一緒になった野村さんとの出会いがありました。

 

 退職教員の野村さんは松戸在住。実は私が教員のとき勤めていた学校、流山市の東小学校に、私とずれて勤務していたと聞いてびっくり!!

 

 実は長女の後、双子を妊娠した私は、切迫流産や切迫早産などで子どもを守ることが困難な状況で、一年間、休暇を取らざるを得ませんでした。生まれた子は、二人とも他界しました。

 私は職場に復帰することなく、夫の転勤と共に仙台へ。2年後には長野に定住のため引っ越し、発達相談員として病院で働き始め、その後も人生の変化があり共産党の候補者活動を12年ほどおこなって、現在に至ります。

 

  野村さんは私が休職していたときに東小に入られたのでした。そこでお連れ合いと結婚されとのこと。

 

 職場で私の話が話題になっていて、会ったことはないが「長野の中野早苗さん・・・同じ名前だな。もしかして」と思っていたそうです。

 

 野村さんから出てくる同僚や地域の方の名前が、なんと、みんな私の知った方々!!なつかしく、うれしかった。

 

 なんという偶然でしょうね。ベルリンで40年前の同僚の話ができるなんて!気持ちがタイムスリップしました。

 

 旅は出会い。

野村さんと。ブランデンブルグ門をバックに。

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若者との懇談の続きです。

2015年05月25日 12時30分02秒 | 活動日誌

 

 おはようございます。こちら朝5時半です。日本との時差は7時間なので、そちらはちょうどお昼ごろでしょうか。

 昨晩は眠くて途中でダウン。ぐっすり今まで寝て、すっきりです。でも、夢で「アウシュビッツの子どもたちを助けに行かなくては・・・・」とうなされました。

 

  早速、昨晩の若者との続きを報告します。

 とてもしっかりと過去と今と未来を見つめているドイツ青年は、まさに未来への希望を発していると思いました。

 

右がエミリーさん、左がベレーナさん

 

 

 28才のベレーナ・ブンクスさんは親が「償いの証」の会員で活動をしていたので、影響を受けたといいます。

 「戦争になったドイツとポーランドの関係を知りたかった。過去は受け継いでいかなければならない」と言います。一年にわたりガイドのボランティアをしました。

 

 「償いの証」では、アウシュビッツやほかの収容所、イスラエル、ポーランド、ウクライナ、西ヨーロッパなど、世界的な規模で、1~2年にわたりボランティとして派遣し、本の学習だけでなく、体験を大切に活動をしています。

 組織は違っても、同じような仕組みはドイツだけでなくポーランドなどほかの国にもあるそうです。

 また、ホロコーストを生き延びた方、戦争体験者との交流も大事にしています。

 

 

 20才のエミリー・ヘアリーンさんは、「18歳のとき、社会見学でアウシュビッツに行きました。『償いの証』の組織のことは知っていたので、活動したいと思いました」。

 「アウシュビッツから歩いて30分の宿舎から通って、博物館でユダヤ人の文化、暮らし、歴史を皆さんに伝えるボランティアをしていました」

 

 戦前のアウシュビッツの村は人口の6割はユダヤ人で、16世紀に入植して歴史を作ってきました。でも、今はユダヤ人は一人も住んでいません。

 また、アウシュビッツの方が分かりやすいので、わたしもそう紹介していますが、これはドイツ読みで、ポーランド名ではオシィビエンチムといいます。

 ドイツが征服してから、町の名前も変えました。二人の若者は、「アウシュビッツ」ではなく、ポーランド名で話していました。

 

 ユダヤ人の歴史や文化、暮らしを知ることは、国を越えて、違いを認め合いながら仲良くしてゆくために、一番大切なこと。

 とてもよいボランティアをしているなあと思いました。

 

 イスラエルからのボランティアや訪問者が、アウシュビッツの犠牲者の名簿を丹念に調べ、地縁関係者を見つけることもあるそうです。

 「現在のイスラエルの状況から、若者の間ではどんな話が出るか」との質問には、訪問者との付き合いの仲では、そう深い話にはならないとのこと。

 

 私も質問をしました。

 「ドイツでは、ポーランドやフランスと協力して同じ教科書をつくっています。だから戦争の事実は、日本と違って学んでいると思います。日本では、知らせまいとして事実をかくしています。

 ドイツの若者は、過去の受け止めは同でしょうか。周りの友人の様子を教えてください」と。

 

 「ドイツでは社会見学も学校でするし、ディスカッションが好きですから、よく話し合います。クラスでも、先生とも。ディスカッションはとても激しくなります。

 でも、突き詰めて話してゆくと、『もう話したくない』との雰囲気もあります。それは、過去への自分たちの責任、罪の意識を感じるからです。

 でも、しっかり歴史は伝えてゆかなければ、と思っています」とのお返事でした。

 

 「戦争の事実を親やおじいさん、おばあさんから聞きますか」との質問では、「このボランティアの活動の第一は、自分の家族の歴史を知ることです。家族が戦争の時どうしていたか、聞いています」と明快でした。

 

 ドイツには、国の姿勢として、過去と対決しています。

 お二人のしっかりした態度を見て、それが反映していると思いました。

 

 日本の若者もがんばっています。

 しかし、教科書さえ真実を書かない教育の中で、もっと多くの若者に、日本の侵略をどう伝えてゆくか、九条とはどれだけすばらしい憲法であるか、知らせる努力をしなくては、と力が沸いた懇談でした。

 

 

 

 

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