あるきメデス

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春の北陸路の旅② 源平倶利伽羅合戦の歴史国道を歩く(石川・津幡、富山・小矢部)〈後半〉

2018-05-24 18:49:49 | 国内旅行
 2018年5月10日(木)〈続き〉

 12時半に倶利伽羅峠の休憩舎を出て、東方に下る旧北陸道に向かう。


 近くにこのような説明板があり、津幡町側の倶利伽羅公園↓にあった高木翁のことが記
されていた。
       

 「源平合戦慰霊の地」碑もあり、その先には、源義仲が角(つの)に松明(たいまつ)
をつけた牛の群れを先頭にこの山を駆け抜けて、京都から下った平家10万の大群を破っ
たことを模した、火牛の計〈かぎゅうのけい〉像が並んでいた。





 
 さらに「芭蕉塚(ばせをつか)」もあり、松尾芭蕉が奥の細道を訪ねてこの地を通った
元禄2(1689)年7月15日に詠んだ、「義仲の 寝覚めの山か 月かなし」の句碑
が立っていた。
    

         


 近くには大伴家持(おおとものやかもち)が天平勝宝2(750)年に詠んだ「砺波山
ほととぎすの歌」の短歌と長歌の歌碑もある。
       



 そばの樹林が開けたところは「新幹線ビュースポット」で、好天ならばその向こうに白
馬岳や剣山、立山連峰も望めるようだ。




 歴史国道は、その先で車道をV字状に回り矢立山方面に向かうのだが、災害箇所があり
通行止めになっていて、北側の大池経由の迂回路を回るようになっていた。


 緩やかな木の段を上がって砺波山山頂近くを進んで砂坂を下る。
    





 坂の途中には「六号名号」「砂坂地蔵」「弘法の水」などの説明板があった。
     

          


 熊除けに鳴らすための金属製一斗缶が2箇所に吊され、鳴らすための木の棒もあったの
でたたいて熊に注意を促した。


 砂坂を下りきって車道のY字路に出た。進む予定だった東に延びる歴史古道は通行止め
で、北側の埴生(はにゅう)大池への道が歩行者の迂回路になっていた。この道は、小矢
部市の「ふるさと歩道」でもある。


 標高160m前後の等高線沿いにカーブを繰り返しながら北に進む。こちらにもタニウ
ツギがあちこちに咲き、ヤマアジサイやフジの花もそちこちで目に入る。
    

 「黒坂口」の標示があり、寿永2(1183)年5月11日に木曽義仲隊2万の軍は、
この辺りに陣をしいたよう。すぐ先に周囲を新緑に囲まれた埴生大池が現れた。


 池は、倶利伽羅不動寺創建時以来の由緒があるようで、加賀藩時代から広範囲の水田に
供給しており、近年では平成5年に5年かけた改修を終えているという。


 堤防の南側には、堤防の決壊を防ぐ人柱となった「おまん」のための地蔵堂が祭られて
いた。



 大池北側の三差路を右折して下り道となる。「木曽義仲軍勢進軍の道」の標柱が立ち、
この道も歴史的な街道であると知れる。
       



    

 道は流れ沿いになり、細い流れの「横引の夫婦滝」が流れ落ちていた。
     

 すぐ先の送電線下付近に「鳩清水」の説明板があり、義仲軍が白鳩の導きでこの水を飲
んで英気を養い戦に挑んだと伝えられているとか。ここで小休止した。
       


 近くのY字路の先も流れ沿いに進み、流れから離れた辺りで田園地帯へ。
       




 再び流れが近づき埴生集落に入り、小矢部市指定史跡「竹岳亭焼窯跡」↑のすぐ先で埴
生八幡宮の鳥居をくぐる。


 左手に「倶利伽羅源平の郷埴生口」の建物があるが、あとで寄ることにした。そばに大
きな木曽義仲の銅像がある。

 昭和58(1983)年に、源平倶利伽羅合戦800年を記念して建立したもの。日本
一の源義仲像で、騎馬像としても全国有数な大きさのよう。

 参道の反対側にある手洗鉢に注ぐ「鳩清水」は、倶利伽羅山中の「鳩清水」滝からのも
ので、3㎞の山道を経てここに流れ出るとか。

 木曽義仲が祈願の折、白鳩が飛来し、その案内で源氏勢が清水を得たと伝える霊水だと
いう。全国名水百選で、「とやまの名水五十五選」にも選ばれている。

 社殿正面に向かって103段の急石段を上がる。埴生八幡宮(護国八幡宮)は、奈良時
代の養老年間(717~24)に宇佐八幡宮の分霊を勧請(かんじょう)したのが始まり
とか。

 天平時代には越中の国守大伴家持が祈願したと伝えられ、寿永2(1183)年5月、
木曽義仲が埴生に陣をとり、倶利伽羅山に2倍の軍勢をしく平維盛(たいらのこれもり)
の大軍と決戦するにあたり、当社に祈願して著しい霊験があり、このことは平家物語、源
平盛衰記、謡曲木曽など、多くの古典文学で語られているようだ。


 正面の拝殿から奥に幣殿、釣殿、本殿と続く社殿は、慶長年間(1596~1615)
や正保3(1646)年、前田利長が寄進して完成したもので、全部が国指定重要文化財
である。無事、倶利伽羅峠越えを終えることができたことに感謝して拝礼する。

 拝殿には、木曽義仲と巴御前のNHK大河ドラマ化実現に向けての署名帳があったので、
私も署名した。
    


 急石段を下り、改めて「倶利伽羅源平の郷埴生口」の建物に入り、義仲ゆかりの展示や、
4つの「みち」に関するパネル、ここの工事の際に発掘された小判や金貨などを観覧する。








    


 埴生集落を貫く車道を東北へ、県道42号に入りさらに進む。
    

 北陸新幹線の手前に「砂川一里塚跡」の石柱があり、小公園になっていた。


 北陸新幹線の高架下と、あいの風とやま鉄道(旧北陸本線)下の地下道を抜けて、石動
町(いするぎちょう)で国道471号に入る。


 市街地を400mほどで、あいの風とやま鉄道の石動駅に15時30分に着いた。




 次の列車まで30分ほどあるので近くの寺院3つほど回り、16時4分発泊(とまり)
行き電車に乗る。


 高岡駅に16時19分に着き、16時45分発JR城端(じょうはな)線城端行下り電
車に乗り換える。車輌は昨日の氷見線同様の「忍者ハットリくん」のラッピング車である。


 次の新高岡駅に16時48分に着く。駅構内を一巡してから南口すぐそばにあるビジネ
スホテルに17時過ぎに入った。


 歴史国道の核心部の、道の駅竹橋口から埴生八幡宮間の3分の2前後は車道だったが、
車に出会ったのは倶利伽羅峠での観光客の車1、2台と、迂回路の埴生大池の先で2台く
らい。歩行者も倶利伽羅峠の休憩舎で昼食を終えた頃に来た20人ほどのグループのみ。

 コースは良く整備されていて、迷うような所や滑りそうな急斜面などは無く、標識や歴
史的な案内板も多く、歴史に残る多くの人たちの歩みや行動も知ることができ、来て良か
ったと思える歴史国道だ。(下図は金沢市・小矢部市・津幡町共同編集「行ってみたい金
沢と木曽義仲ゆかりの地を訪ねる旅」パンフレットから)

 1日のウオーキングコースとしても余裕ある歩きができ、熊に出会うこともなく予想以
上に満足した一日だった。

【コースタイム】中津幡駅8・05ー杉瀬八幡神社8・22ー道の駅8・55~9・15ー山道へ
 9・35ー城ヶ峰休憩舎10・24~30ー山森集落入口10・45ー手向神社下11・12ー倶利伽羅
 不動11・20~28ー倶利伽羅公園戻り11・47ー展望台と休憩舎(昼食)12・00~12・30ー
 砂坂下(通行止地点)13・05ー埴生大池13・22ー鳩清水13・50~14・02ー埴生八幡宮
 14・29~49ー倶利伽羅源平の郷埴生口14・50~15・00ー石動駅15・30

(天気 雨曇後晴、距離 15㎞、地図(1/2.5万) 石動、倶利伽羅、歩行地 
 石川県津幡町、富山県小矢部市、歩数 31,300、累積標高差 上り 約490m、
 下り 約460m)




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