雨も上がって夕方近く、所沢市の西南郊、北野にある花
畑に出かけました。
花畑の周辺は、鎌倉時代の合戦場、小手指原(こてさし
がはら)と呼ばれたところ。「小手指原古戦場」の碑が立っ
ています。
そばにある説明板には、以下のようなことが記されてい
ました。
「元弘3年(1333)5月11日、新田義貞が鎌倉の北条
高時を攻めるため、小手指ヶ原で激しく戦ったが勝敗は決
せず、新田方は入間川に、北条方は久米川に退いた。翌
12日に新田方が先制攻撃をかけて久米川の陣を攻めた
ので、北条方は敗れて府中の分倍河原に退いたという。」
すぐ奥、広葉樹に覆われた白幡塚(下)は、そのとき新田
義貞が源氏の白旗を立てたところといわれ、すぐ北にある
誓詞橋(せいしばし)は、義貞が所属の将兵に忠誠を誓わ
せた場所と伝えられているとのことです。
樹林に覆われて薄暗い塚の上には、「白幡塚」の碑と2体
の祠(ほこら)が並んでいました。
北野集落には、まだ養蚕をしている農家があるのか、周辺
にはクワ畑が残っています。
桑畑の少し西に、お目当ての花畑があります。
花のメインはシャーレーポピーでしたが、少し時期が過
ぎています。
でも、まだ鮮やかな彩りがいっぱい。
ヤグルマソウも盛りを過ぎていました。
黄色いハナビシソウは、これから見ごろになりそう。
近くには栗畑もあり、地味な花が咲き出しました。
畑に出かけました。
花畑の周辺は、鎌倉時代の合戦場、小手指原(こてさし
がはら)と呼ばれたところ。「小手指原古戦場」の碑が立っ
ています。
そばにある説明板には、以下のようなことが記されてい
ました。
「元弘3年(1333)5月11日、新田義貞が鎌倉の北条
高時を攻めるため、小手指ヶ原で激しく戦ったが勝敗は決
せず、新田方は入間川に、北条方は久米川に退いた。翌
12日に新田方が先制攻撃をかけて久米川の陣を攻めた
ので、北条方は敗れて府中の分倍河原に退いたという。」
すぐ奥、広葉樹に覆われた白幡塚(下)は、そのとき新田
義貞が源氏の白旗を立てたところといわれ、すぐ北にある
誓詞橋(せいしばし)は、義貞が所属の将兵に忠誠を誓わ
せた場所と伝えられているとのことです。
樹林に覆われて薄暗い塚の上には、「白幡塚」の碑と2体
の祠(ほこら)が並んでいました。
北野集落には、まだ養蚕をしている農家があるのか、周辺
にはクワ畑が残っています。
桑畑の少し西に、お目当ての花畑があります。
花のメインはシャーレーポピーでしたが、少し時期が過
ぎています。
でも、まだ鮮やかな彩りがいっぱい。
ヤグルマソウも盛りを過ぎていました。
黄色いハナビシソウは、これから見ごろになりそう。
近くには栗畑もあり、地味な花が咲き出しました。
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