あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

嵐山町から東松山市へ、都幾川沿いをカントリーウオーク(埼玉)

2013-11-13 17:46:02 | カントリーウオーク
 2013年11月10日(日)

 カントリーウオークグループの第208回例会に参加した。集合は東武東上線の武蔵嵐
山(むさしらんざん)駅。11月4日に永眠された、メンバーのMNさんに黙とうを捧げ、
10時26分にスタートした。

 == 菅谷館跡から平地林と畑作地へ ==

 
 南口を出てわずかな駅前商店街を進み、県道69号を横断して菅谷(すがや)の住宅地
を抜ける。菅谷小の先で国道254号を横断し、国史跡の菅谷館跡(やかたあと)に入る。
館跡には広葉樹が多く、ケヤキなどの紅葉がかなり進んでいた。
     

 菅谷館跡は、旧川本町(現在は深谷市)で長寛2年(1164)に生まれた鎌倉武士、
畠山重忠の居館だったと伝えられ、鎌倉幕府の記録「吾妻鏡(あづまかがみ)」には、重
忠が北条氏の謀略で二俣川で討たれた際、菅谷館を出て鎌倉に向かったと記されているとか。


 現在残る遺構は、本郭(ほんくるわ)、二の郭、三の郭や土塁(どるい)、空堀(から
ぼり)などで、これらは戦国時代に改築されたものと考えられているという。


 北側の三の郭と西の郭の間から入り、二の郭や一の郭の一部を巡ってみる。二の郭の東
部には、コンクリート造りの畠山重忠像が立っていた。
        

 館跡の中心にある県立嵐山史跡の博物館前から東に抜けて、国立女性教育会館の正門へ。
一週間前の日本スリーデーマーチでは構内を東に抜けられたのだが、今日は通過できない
とのこと。北側、国道254号の歩道を回り、教育会館の東側から車道を横断して、栗畑
の間を進む。

     
 その先は平地林となり、しばらくは杉や松、広葉樹などの茂る樹林下の気持ちよい土の
道が続く。地図上の実線の道と思われたが、林を抜けるところに神社があり、少し南東に
進んでいたようで、月田橋の北側の県道172号に出た。


 県道を越えた東側はひこばえの伸びた田んぼが広がり、その先は広々とした畑作地帯が
続く。畑にはいま作物は無く、耕耘機で耕す畑が二つ三つあり、次の植え付けの準備中で
ある。


 西方をふり返ると、外秩父の盟主ともいえる笠山(かさやま)や堂平山(どうだいらさ
ん)が、やや霞んではいるが望まれる。

         堂平山                笠山 

 予報ではそろそろ雨かと思われたが、しばらくは心配なさそう。




 1㎞ほど、黒土の掘り起こされた広々とした畑や、ひこばえの伸びた田んぼの間を進ん
で、都幾川(ときがわ)の冠水橋、鞍掛橋(くらかけばし)の左岸へ。


 橋を渡り、対岸に見えた昼食地の休憩所に、12時15分に着いた。





 すぐ上流にある石積みの緩やかな堰(せき)↑や、冠水橋などを眺めながら昼食をする。
休憩舎の横にはフジの古木があり、フジ棚からたくさんの実が下がっていた。
    

 
 == 児童小説「天の園」の舞台を抜ける ==


 鞍掛橋を背に記念撮影をして、13時18分に出発する。



 橋を戻って少し先から東に進み、浄空院の山門を入る。


 浄空院は、応和2年(962)に天台宗法養寺として開基され、元亀・天正の頃禅宗に
改宗、のち文禄2年(1593)に徳川家康譜代の旗本、菅沼越後守定吉が開祖となり、
浄空禅院と改め、現在の諸堂が建立されたという。

 山門を入るとよく手入れされた松並木が続き、本堂前の庭木もきれいに整えられている。



 本堂前には十六羅漢や七地蔵など、古い石仏群が何組か並び立つ。


 大イチョウの足もとには、寄生したナンテンが伸びていた。
   


 以前はかやぶき屋根だった禅堂↑の横から北に抜け、コの字状に東へ迂回して丸木美術
館の北側を通過する。その先は、都幾川左岸段丘上に延びる広葉樹の斜面林下の、緑陰の
道が続いていた。
     


 まだ豊富な緑の葉を残す栗畑を抜け、車道を横断して東側の唐子(からこ)中央公園の
西端へ。

 唐子で生まれた打木村治(うちきむらじ)の、この地を舞台にした長編児童小説「天の
園(てんのその)」ゆかりの「天の園記念碑」の横を進んで、背後から唐子神社境内に入
って拝殿前で小休止した。


 ちなみに、この唐子神社、昼食をした鞍掛橋や鞍掛堰、都幾川など、何れも「天の園」
の舞台。「天の園」は「路傍の石」や「次郎物語」とともに三大児童文学といわれている
という。

 唐子中央公園のグランド横を北に抜け、県道344号を500m近く進む。北に折れる
とすぐに県史跡の若宮八幡古墳があり、その上に八幡神社が祭られている。


 若宮八幡古墳は6世紀後半に造られたもの。ほぼ当時のままの形で残されており、「切
石切組積工法」と呼ぶ構造で、当時の土木技術の高さがうかがえる貴重なものとか。小説
「天の園」には、この古墳も「恐怖の八幡穴」と紹介されているという。


 墳丘上の八幡神社の横壁には、明治初期に「若宮蠶業共有會」が奉納した繭玉の額が残
されており、現在はほとんど無いが、今日歩いたエリアの地形図上には多くの桑畑が記さ
れており、この地が養蚕の盛んだったことがうかがえる。

 住宅や畑の間を北東に進んで国道254号を横断し、さらに広葉樹林や栗畑の間を進む。
関越自動車道の歩道橋、中宿橋を渡って北へ、東武東上線の森林公園駅に15時43分に
ゴールした。

 午後は雨の予報だったが、雨には降られず、ほとんどが車の心配の無い野道を歩くこと
ができ、幸いだった。

(参加 16人、天気 曇一時晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 武蔵小川、歩行
 地 嵐山町、東松山市、滑川町、歩数 19,400)




アウトドア ブログランキングへ



にほんブログ村 アウトドアブログ ウォーキングへ
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする