15年戦争末期、親父は船に乗っていた。
18歳で志願。
戦争の最中は、「戦艦長門」に乗って、副砲の「弾込め」をやっていたらしい。
1944年6月は「マリアナ沖海戦」で空母や多数の航空機を失い、敗戦へ突き進む結節点であったらしい(この辺り・先輩のZERO氏はめっぽう詳しい!)。
日本軍にとっては「フィリピンを奪還される」ことは、本土と南方資源地帯との連絡が途絶えることであり。戦争の敗北に大きく繋がるものであったらしい。この地域を巡る海戦が10月の「レイテ沖海戦」で、これに親父は「長門」に乗って、副砲の弾をエッチラ・ホッチラ運んだ訳である。
レイテは初めて「神風特攻隊」が行われた海戦でもあった。
この後、制空権を失い、悲惨な「沖縄戦」へと、泥沼に突き進むのである。
「長門」は敗戦後も生き残る。やがて米軍の「核爆弾実験」の標的に使用され、海の藻屑となっている。
このレイテは僕がご幼少の頃、親父と風呂に入ると良く聞かされた。
「副砲は船の中だから、船が沈まない限り死なねーんだ」
「海戦が終わると、機関砲を撃っていた連中は100人以上も死んだんだ」
「巡洋艦や駆逐艦が沈んでいくのが見えたな」
「椰子の実なんて馬のしょんべん(彼の発言に即しています。お許し下さい)みてーで、なんのけっぷり(味の方言)もしねー」(馬のしょんべん飲んだのかい?)
「死んだ戦友の為にも、もう1度アメリカをまかさなければ」
などなどである。
戦後は生業「みずのみ百姓(極小規模小作農)」の長男として、実家を継ぎ、嫁をもらって、百姓は妻が、自分は「会社勤め」となっていったのである。
どこの家もそうであったように、朝・昼となく良く働いた親父ではあった。
日曜は百姓であった。僕も4年生では「耕運機」を運転し、18までは「手伝わされた」訳である。
音に聞こえた「酒乱」であった。「酒」の上での「ご迷惑」は掃いて捨てるほど」あった。
僕の友人も沢山、その洗礼を受けた。
*四角い自動車が丸くなって帰ってきた。
*大酒の後、帰還。風呂に入って「熱い」と怒りだし、風呂のお湯をバケツですべて台所にぶちまけた話。
*殴られた母に「救急車」のご出動願った、息子の話。
まあ、こちらも1冊のほんになる。
晩年「酒」はめっきり弱くなった。息子に「酒はほどほどが良いぞ」などのたまっていた。
多分息子が「戦争」が嫌いになったのは、親父の風呂談議のおかげである。
そして、スマートな「酒のみ」になったのも、この親父のお陰だと思う。
酒は「楽しく」なくっちゃね!
そういえば「葬式」のはしばし、お清めなどでは、「酒乱の親父」が、親戚一同の盛り上がりの格好の「魚」になっていた。
49日の旅路の果て、花咲く棲家には「おいしい酒」はあるのだろうか?
無かったら、言ってくれ!
供えに、はせ参じるぞ!