このような企ての広告は新聞に入って・・・・
このすごい名前の主催者団体があるのも、全くしらず(あるのがすごいけど・・)。
プログラムに義理の叔父さんの名があり、講演者だったので、興味をそそられ、行ってみた。
町村合併で高崎市だが、高崎市街とは明らかに違うと思われるばしょに、立派な建物があって、ちょっと驚き。
義理ではない叔父さん達とは、まだ、母親が健在なので、数年に1度くらいは会うが、女房方の叔父さんとなると、仏事以外ではまず会わない。
それでも、この叔父さんは、印象が深く、紳士で思慮深い姿は印象に残っていた。
まあ、住谷家ってのが、ある意味歴史に名を残しているってのも、印象を深くしているのかもしれない・・
知ることになって、1・2度だけ、ほんの挨拶代わりの会話しかしてないだろう。
群馬の農民で、農民運動なども関わった方なので、こんな機会を逃せば、もう生に話を聞くことはできないかも?との思いが、僕をいざなったか?
そして、ご高齢(後で知ったが88歳になられたという)なので・・とも、思った。
叔父さんである。
まったく存じ上げない・・名前も初めて聞く3名の群馬の労農運動にかかわった方々の話であった。
1923年(大正12年)の緊急勅令 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件・・・後に、いくつかの改定を経ながら、治安維持法になってゆく、暴力装置で、この方も若くして死に・・・
こちらの方も、同様であった。
群馬の福田と言えば、あの首相になった方が有名だが、並びを同じくする3家・・・福田 赳夫氏の従兄弟がこの方ってのも驚いた。
名門高崎高校(当時は高崎中学)そして、東大・・やがて官僚になって、首相。こちらの政勝しも同じ中学を出て、やがて農民運動へであった。
お二人とも治安維持法の(正確には上記勅令)犠牲になり若くして亡くなるが・・・当時、全国に「小林多喜二」は居たんだなぁ・・と、思ったのだった。
こちらの方も、上記2名と連帯しながら、生き延び、戦後の群馬の革新に身をささげたらしい・・・
知らないことばかりで、驚きの話だったなぁ・・・
叔父さんは、住谷家の系譜の一端にもふれて、はなしを聞くことができた。
こちらは、有名な2人で、お名前は知っていた。
群馬と言うところは、北毛・中毛・東毛と分ければ、僕の住む東毛に比べ、北は進歩的かなぁ・・と、思っていたが、どうもそれは、そうした人々の戦前戦後の活動に、起因するものがあるように、ちと、思ったな。
まだまだ元気そうだったが、それでもご高齢には違いない。
健康に気を付けて、話を聞きたい人も多いだろう。ご活躍を念じた次第。