館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2014年春の沖縄は、しんどかった!初見学2日目の話。

2014-04-07 06:16:51 | 旅は続く
渡島の前日から微熱・・・医者に寄って飛行機に乗ったが、那覇では、明らかに熱が上がって、ホテルで寝ていた初日。
翌日は午前中の計画を断念し、午後にどうしても行きたい2箇所に絞った。



その1っ箇所・・・東風平運動公園(こちんだうんどうこうえん)では「謝花昇」氏が鎮座していた。



1865年から1908年の40年あまりの生のなか、1882年(明治15年)に第1回県費留学生として上京し、学習院、東京山林学校(在学中に東京農林学校、帝国大学農科大学になる)で学ぶ。農科大学卒業後に技師として沖縄県庁に入り、沖縄の農政改革に務める。

やがて、知事に赴任した奈良原繁(いつも本土から権力が送り込まれる)と杣山問題(農民の共同所有地をいきのかかった民間へ払い下げようとして、農民と対立)で知事と対立し1898年に退職に追い込まれる。翌1899年から當山久三(とうやまきゅうぞう)らと沖縄倶楽部を結成し、県政批判、土地整理問題、参政権獲得の三点を中心に活動を展開したが、農工銀行の役員選挙で敗れ(すさまじい切り崩しや圧力があったという)、挫折した。1901年、新しい任地の山口県へ向かう途中、神戸駅で発狂し、以来回復することなく1908年、43歳の時に死去した。

まさに碑の如く「沖縄自由民権運動の父」だ。



地元・ウチナンチュウに愛された方だった。



青少年が運動に興じる姿を丘の上から見続けていた。やはり、来て良かったと思った。



東風平から戻るように南風原にやってきた。
5年前に発掘・修復が終わり、一般公開されている「南部陸軍病院南風原壕群20号」にやってきた。
事前申請が必要で、FAXなどで、申し込みを済ませてあった。
前回見切れなかった場所のリベンジであった。





小高い丘に壕は掘られ、下の村落から食料など供給され、かなり急な道を毎日ひめゆり達が食料や水を運んだ。
「飯あげの道」・・・上りを登り、そこから下る地点に碑がたつ・・まさに「仏ぬ前」だった。
てを合わせた。



1944年の10月には沖縄本島はすでに爆撃圏内で、空襲や艦砲射撃に見舞われる。

1945年3月26日には慶良間の座間味島に上陸しひとなめ。悲惨な集団自決が始まる。
4月1日の本島読谷に上陸。
先の10・10空襲で那覇の陸軍病院は焼失・・・ここ南風原に移転していた。

4月1日以降・南下する米軍と首里大本営の前線・嘉数高台で2ヶ月弱の大激戦が行われ、ついに首里は陥落し、南部への敗走が始まるのだった・・・・

この陸軍病院壕も、軍の敗走とともに、あのひめゆりの悲惨を生む、最南部の自然壕を転々とするのだった。

すでにこの南風原の壕も捨てるときには、動けない負傷兵は青酸カリを渡され、捨てられるのだった。



わし・・・・




僕1人にガイドがついて、すんばらしかった・・・

火炎放射で、生々しい焦げた内部がわかる。




写真の金網の位置が当時の天井の高さらしい・・・・

2段のベットなど有ったらしいが、かなり内部は狭い。




この20号の中央には、横に伸びる23号と24号(こちらは出口なし)があったらしいが、今は埋まったままだ。

米軍への思いやり予算の1年分があれば、膨大な今も手付かずの史跡・戦跡の発掘保存が可能だ。
それはら、沖縄ならではの観光資源だ。
盆と正月のような(お金)と・・知事は寝返ったが、取り巻きの土建に金を流し・・反対派には冷や飯と、2014年はなるだろう。
その正月を、こうした発掘や保存に回せってんだ・・と、俺は思うのだ。




壕の近くには、こんな碑・・・これも沖縄だよな。

裏には、韓国語や中国語の表記もあって素敵。

この後・・・僕はホテルに戻り、ポカリスエットを大量購入して、薬を飲んで、6時から翌朝6時まで、寝続けたのだった・・・・



コメント (6)
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