驚くほど寝た。熱は下がった気がするが、体が重い(いつも重いけど・・昨年の4月からもう6キロやせたが・・・)。
モーニングセットを食べて、3日目・・・ここからがメインで、いつものSさんのタクシーを事前に頼んであって、日程表も渡してあるのであった。
那覇起点のやんばるの旅が始まるのだった。
高速道路を使い、名護市・本部町・今帰仁村をなめるような旅が1日目なのだ。
まず備瀬のビーチにやってきた。
そして、パワースポットという本部町・備瀬のフク木並木を散策・・・・鋭気をもらう。ゆっくり1キロほどこのような並木を歩けます。
さて、次は、あのイルカのショーやジンベイザメ・マンタに会いたくて、2度目の水族館だ。
海の中の琉球はこんな不安定な姿なんだ!と、驚き。
イルカを楽しむ。すんばらしい芸なのだ。
いや・・・きれい。
マンタとじんべいの競演!
深海のタカアシガニもついでに・・・・
そして、日程中の今帰仁城はパスして、どうしても見ておきたかった運天港に向かった。
沖縄には源為朝伝説がある。沖縄の日本書紀(琉球王朝の正史)のような「中山世鑑」に始まる伝説だ。
1156年の保元の乱で破れ、伊豆に流刑・・・島を脱出した、為朝が「運を天に任せ」流れ着いたのが運天港。
今帰仁村の漁港である。
やがて、南部に移り大里の豪族の娘と結婚・・・為朝はもう1度天下を取るべく本土に向かうが、残された子供がやがて、舜天王統(1187~1237)を開く尊敦(そんとん)であるとされる(ここらは、考古学的にも実証は全く無い・・作り話とおもう)
やがて運天港を望む小高い丘に碑があった。表側に「源為朝公上陸之趾」、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名がある。
どこの属国でもなかった琉球は1609年に薩摩の侵略を受け、属国になる。
この薩摩に従わなければ生らない1つのアイデンティティに「日琉同祖論」。同じ民族・・同じ祖先を持つのだという精神性が琉球の人々に受け入れられてゆくのだった。
この同祖論は、結構今でも沖縄の心を解くとき大事と最近行き着いた次第・・・であった。
近くには、最初の統一王朝、第一尚氏時代・・・やがて、第二尚氏のクーデターで追われた第一尚氏の高官たちが、逃げ延び、やがてここで生涯を終えた、その墓が並んでいた。
こちら、為朝がしばらく住み着いたという「ティラガマ」。
さて、運天を離れ、名護市に向かう。目的はその姿から1度は立ち寄ってみたかった「名護市役所」。
柱が立て横にめぐり、植物が覆いかぶさり、柱の上には何体ものシーサーが乗っているのだった。
な・・・感じ。
竣工したのは1981年(昭和56年)4月。いまから29年前のこと。その年の日本建築学会賞の作品賞も受賞らしい・・・
なんと!我がT市とは姉妹都市らしく・・・我がT市の送ったタヌキがいたのだった。
やがて、名護東部へ・・・キャンプシュワブ・・・は工事であわただしかった・・・すでに基地内部では移転の準備にいそしんでいるようなのだ。
そして辺野古・・・基地と民間の港を隔てる場所は、僕が訪ねた4年前には鉄条網がぞんざいに浜辺に置かれただけで、そこに反対する人たちが思い思いの布切れにメッセージを書いて縛っていたが、今は立派なフェンスが隔てていたのだった。
テント小屋を団体で訪ねた人たちが居て、テントの人々と交流会が始まっていた。
ラッキー!と混ざる。僕が訪ねたときは2126日目だったが・・・すでに3631日・・・
地元の人半分・・・・本土から沖縄に移り住み、ここで反対運動に参加する人半分・・・・
今年の知事選が大事!と、テントの人々が力をこめて話していた。
こうして、北部沖縄のたびの1日目(全体3日目)は終わったのだった・・・・
ホテルに6時近くに戻り・・・シャワーを浴びた。
まだ、少し熱が・・・・
食欲は全く無く・・・ポカリを買って、8時に寝た・・・・・
続ける事・諦めない事が、此処にもあった。