月曜で、長いけど・・・・
いいや・・・
読む人はよむだんべ・・・・
えがったなぁ・・・沖縄。
いよいよ2日目。8:30にタクシーS氏がお迎えで出発。南部沖縄を目指す。
斎場御嶽(セーファーウタキ)。琉球開びゃく伝説にも現れる、琉球王朝最高の聖地だ。
沖縄の世界遺産でも珠玉!
男人禁制の聖地も、明治になって男も入れるようになったらしい・・
途中、米軍の艦砲射撃で出来た池など・・・
頂上、三庫理(サングーイ)では、おごそかな光が背景に現れ、遠くに聖地の島「久高島」が望める。
沖縄の精神性を学べる場所なのだ。
続いて観光施設「おきなわワールド」(よくあるテーマパークなんだけど、結構GOOD!)。
ものすごい鍾乳洞など見学して・・・
あちこちで、呑んで・・・
エイサーなど観戦する。
どうも、ベーベーたちは、それほどでもなかったようである・・・・
観光施設を後にして、ひめゆりたちが散った、荒崎海岸を目指した・・・タクシー氏には申し訳ないような、サトウキビ畑の細い道を進む。
未舗装で、車1台もサトウキビの葉に車がこすれるような道をしばらく進んで、たどり着く。
悲しい場所だ。
次の場所に向かう道すがら、陸軍本部壕など立ち寄る。遺骨収集など始めるようで、入り口が整備されていた。
やがて、本日、日のあるうちの最後の見学場所「海軍司令部壕」にやってきた。
1ど紹介したが、ここの最高司令官は太田少将(死して後中将)の残した言葉が、悲惨を極めた沖縄戦と軍隊に、かすかな人間としての光を見る。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
この打電は、こんな前フリから始まる・・・
「沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部も(南部・陸軍を指す・注釈津布工)またそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。」
打電最後が、先の文書で結ばれるが、少し前からの現代語訳から掲載すれば・・・
「看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。」
彼はこうしてここで、士官たち40数名と自決して果てた。
同じ軍人でも、南部司令部では牛島という陸軍の最高司令官は、沖縄県民をスパイと疑い、最後の一兵まで戦えと、自らは自決する。
中将から、死後大将になる。彼の自決で組織的戦闘が終わり、その日6月23日が、「沖縄慰霊の日」として毎年沖縄県民はあの戦争に向き合う日になっている。
司令部の崩壊を知らされなかった多くの軍人・県民はこの後南部敗走(後方から火炎放射が追う)で、さらなる悲惨が生まれるのだった・・・18日の突然の解散命令・・やがて司令部崩壊で、海辺に追われ、先の荒崎海岸に続くのだった・・・・
壕の内部と、太田少将が自決した部屋。
この人物にして、この孫か?
整備公開された、この壕で行われた77年の「海軍戦没者慰霊式」で読んだ文章が上記だ。
当時16歳のお孫さんである。
こうして僕らは、ホテルに向かった。
僕らの旅が始まった28日・・その前の27日には「正月が迎えられる」と、仲井真知事が又も屈して、辺野古を認めた大変な日であった。
写真・・沖縄県庁前は抗議の人々であふれ、タクシーの運転が大変でしたとS氏の話・・・
ホテルに戻り、ガイドとツアー客は温泉に向かった。ホテルから歩いて5分。
その後1時間半の自由時間。そして「居酒屋野郎りょう次」に出張った。
乾杯が続く。僕のチョイスした料理も喜ばれる・・・・
最後はタンパラヤ!
こうして29日も終わり・・・翌朝、ワンコインのモーニングを食べて、散歩。
いよいよ3日目を迎えたのだった。
いいや・・・
読む人はよむだんべ・・・・
えがったなぁ・・・沖縄。
いよいよ2日目。8:30にタクシーS氏がお迎えで出発。南部沖縄を目指す。
斎場御嶽(セーファーウタキ)。琉球開びゃく伝説にも現れる、琉球王朝最高の聖地だ。
沖縄の世界遺産でも珠玉!
男人禁制の聖地も、明治になって男も入れるようになったらしい・・
途中、米軍の艦砲射撃で出来た池など・・・
頂上、三庫理(サングーイ)では、おごそかな光が背景に現れ、遠くに聖地の島「久高島」が望める。
沖縄の精神性を学べる場所なのだ。
続いて観光施設「おきなわワールド」(よくあるテーマパークなんだけど、結構GOOD!)。
ものすごい鍾乳洞など見学して・・・
あちこちで、呑んで・・・
エイサーなど観戦する。
どうも、ベーベーたちは、それほどでもなかったようである・・・・
観光施設を後にして、ひめゆりたちが散った、荒崎海岸を目指した・・・タクシー氏には申し訳ないような、サトウキビ畑の細い道を進む。
未舗装で、車1台もサトウキビの葉に車がこすれるような道をしばらく進んで、たどり着く。
悲しい場所だ。
次の場所に向かう道すがら、陸軍本部壕など立ち寄る。遺骨収集など始めるようで、入り口が整備されていた。
やがて、本日、日のあるうちの最後の見学場所「海軍司令部壕」にやってきた。
1ど紹介したが、ここの最高司令官は太田少将(死して後中将)の残した言葉が、悲惨を極めた沖縄戦と軍隊に、かすかな人間としての光を見る。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
この打電は、こんな前フリから始まる・・・
「沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部も(南部・陸軍を指す・注釈津布工)またそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。」
打電最後が、先の文書で結ばれるが、少し前からの現代語訳から掲載すれば・・・
「看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。」
彼はこうしてここで、士官たち40数名と自決して果てた。
同じ軍人でも、南部司令部では牛島という陸軍の最高司令官は、沖縄県民をスパイと疑い、最後の一兵まで戦えと、自らは自決する。
中将から、死後大将になる。彼の自決で組織的戦闘が終わり、その日6月23日が、「沖縄慰霊の日」として毎年沖縄県民はあの戦争に向き合う日になっている。
司令部の崩壊を知らされなかった多くの軍人・県民はこの後南部敗走(後方から火炎放射が追う)で、さらなる悲惨が生まれるのだった・・・18日の突然の解散命令・・やがて司令部崩壊で、海辺に追われ、先の荒崎海岸に続くのだった・・・・
壕の内部と、太田少将が自決した部屋。
この人物にして、この孫か?
整備公開された、この壕で行われた77年の「海軍戦没者慰霊式」で読んだ文章が上記だ。
当時16歳のお孫さんである。
こうして僕らは、ホテルに向かった。
僕らの旅が始まった28日・・その前の27日には「正月が迎えられる」と、仲井真知事が又も屈して、辺野古を認めた大変な日であった。
写真・・沖縄県庁前は抗議の人々であふれ、タクシーの運転が大変でしたとS氏の話・・・
ホテルに戻り、ガイドとツアー客は温泉に向かった。ホテルから歩いて5分。
その後1時間半の自由時間。そして「居酒屋野郎りょう次」に出張った。
乾杯が続く。僕のチョイスした料理も喜ばれる・・・・
最後はタンパラヤ!
こうして29日も終わり・・・翌朝、ワンコインのモーニングを食べて、散歩。
いよいよ3日目を迎えたのだった。