田辺君に叱られて以降、松木氏がこちらに来る回数は目に見えて減り
来てもすぐ帰るようになった。
よしよし。
夫はいつも田辺君に頼っているように思われるだろうが、そうではない。
我々とて、アレらに脅しで勝とうというつもりはない。
田辺君も我々も、できることならお互い一人の人間として理解し合い
円滑に仕事をしていきたいと思っている。
が、アレらが田辺君のテリトリーに近づくから、こうなってしまう。
水やりも施肥もしない自分の畑に作物が成らないからといって
人の畑の作物をくすねようとすれば、誰だって厳しい態度で接する。
それだけのことである。
ゲスは立ち直りが早いので何日持つかわからないが
その間、夫には英気を養ってもらう。
ともすれば夫を罠にかけて追い落とし、自分が采配を振るおうとする彼の野心から
夫を遠ざける時間は必要だ。
その時間を捻出してくれる田辺君には、いつも感謝している。
夫がどんなに情けなくて悔しいか、私にはよくわかる。
そりゃもう、痛々しい。
夫が松木氏、あるいは藤村にやられていることは
その昔、夫が私にやっていたことだからである。
夫が松木氏の役で、親が本社の役。
顔ぶれが入れ替わっただけで、やってることは同じさ。
ははは。
愛人と再婚したい夫は、私を追い出すためにせっせと親に告げ口をした。
他に男がいる…実はギャンブル狂…などの荒唐無稽な内容だ。
それで親が怒り狂い、私を叩き出してくれれば夫の野望は達成する。
そして親の方は、我が子の話を鵜呑みにし、厳しい言葉で私を責めたものである。
夫の話の真偽も、私の潔白も問題ではなかった。
悪人をこしらえるのは簡単だ。
一人が言い出し、もう一人がそれを信じて賛同すればいい。
勧善懲悪の名目で疑惑の目を向け、心ない言葉で傷つける行為が
さも正しいことのように行われる。
悪を正し、教え導くため…もっともらしい理由を付けて
人は刑を執行したがるものだ。
絶好の暇つぶしとストレス解消になるからである。
私は何十年、それを経験して生きてきた。
報われることの無い暗くて長いトンネルは、なかなか慣れるものではない。
それがいかに無駄な苦しみか、私は知っている。
この苦しみで学習したのは、人間の奥底なんて、こんなもんさ…
ということだけで、たいした収穫は無い。
時間がもったいないので、体験しない方がいい。
すでにそれを体験させる人と出会ってしまったのだから、もはや致し方ないが
夫に対しても心からそう思っている。
ともあれ松木氏や藤村のように
人に無駄な苦しみを与えるのがライフワークの人はいるものだ。
我々の後にも、本社と合併した会社は複数あり
その中の幾つかは、トップが首を切られて本社の直営になった。
原因は明らかにされていないが、私が見たところ
高齢になってから中途採用され、本社から送り込まれた彼ら…
スパイという名の犬が原因だと思う。
経営が立ち行かなくなり、合併するしかなくなった会社には
それまで社長さん、社長さんとチヤホヤされていた人たちがいる。
合併と同時に送り込まれた犬に、あること無いこと告げ口され
そのたびに本社から疑われ、責められる日々なんて、人生初の体験だろう。
たいていの人はプライドがズタズタになって、おかしくなる。
やがてキレて本社の機嫌を損ね、お払い箱になるのは時間の問題だ。
それこそが、犬たちの目的。
揉ませていれば自分は安全、さらに良いことまで起きるかもしれない。
切られたトップの代わりに、犬が責任者になれる可能性が出てくるからだ。
事実、松木氏がうちと同時に担当中の生コン工場は
合併してほどなく、社長と本社が揉めた。
うちが合併した直後にそこの合併だったので、よく覚えているが
社長夫婦はクビになって工場は本社直営になり
責任者を決めることになった。
本社から遠い場所なので、暇そうな犬を行かせるしかない。
そこでうちの担当犬、松木氏が選ばれ、工場長として回された。
うちで仕事ができないので、肩書きを褒美に飛ばされたのだ。
給料は変わらずとも肩書きはもらえるので
犬としては出世した錯覚をおぼえ、嬉しそうだった。
本社もまた、それでいいのだ。
合併してやった会社なんて、しょせん彼らのオモチャ。
そこで彼らの犬が、どんな悪さをしようと構わない。
揉めれば、暇つぶしのネタが増えるだけだ。
そんな中、うちが合併後も12年続いているのは
生き馬の目を抜く本社の中で、一番情に厚い河野常務の恩恵と
夫の忍耐力の賜物。
加えて嫁と継子を経験しているため、本社の心境が読める私の立ち回りも
少しは貢献したのではないかと勝手に自負している。
そうまでして会社を続ける意味があるかどうかと問われれば、無い。
それとは、別問題なのだ。
せっかく合併しながら、本社の機嫌を損ねて早々にクビになれば
「乗っ取り屋に騙されて何もかも奪われたあげく、追い出された」
みっともないので、結局はそう弁解することになる。
くだんの生コン工場の社長夫婦も、そうだった。
少なくとも私は、夫をそのような立場にしたくなかった。
意地もあったが、当時、病気の義父がまだ生きていたというのも大きい。
おバカなヒロシが騙されて…という、夫家の伝統かつ安定の結果では
父親の負債を押し付けられた夫が、あまりに気の毒じゃないか。
おバカなヒロシでもちゃんとできるところを
一回ぐらいは見せてから、あの世へ行ってもらわないと
義父はどうでもいいが、夫に悔いが残ろうよ。
とりあえず10年持ちこたえれば、騙されて奪われたことにはならない。
倒産寸前で助けてくれた本社や、河野常務にも義理が立つ。
その10年が過ぎ、はや12年だ。
状況はさほど変化してないものの
気持ちだけはオマケ気分というところである。
《続く》
来てもすぐ帰るようになった。
よしよし。
夫はいつも田辺君に頼っているように思われるだろうが、そうではない。
我々とて、アレらに脅しで勝とうというつもりはない。
田辺君も我々も、できることならお互い一人の人間として理解し合い
円滑に仕事をしていきたいと思っている。
が、アレらが田辺君のテリトリーに近づくから、こうなってしまう。
水やりも施肥もしない自分の畑に作物が成らないからといって
人の畑の作物をくすねようとすれば、誰だって厳しい態度で接する。
それだけのことである。
ゲスは立ち直りが早いので何日持つかわからないが
その間、夫には英気を養ってもらう。
ともすれば夫を罠にかけて追い落とし、自分が采配を振るおうとする彼の野心から
夫を遠ざける時間は必要だ。
その時間を捻出してくれる田辺君には、いつも感謝している。
夫がどんなに情けなくて悔しいか、私にはよくわかる。
そりゃもう、痛々しい。
夫が松木氏、あるいは藤村にやられていることは
その昔、夫が私にやっていたことだからである。
夫が松木氏の役で、親が本社の役。
顔ぶれが入れ替わっただけで、やってることは同じさ。
ははは。
愛人と再婚したい夫は、私を追い出すためにせっせと親に告げ口をした。
他に男がいる…実はギャンブル狂…などの荒唐無稽な内容だ。
それで親が怒り狂い、私を叩き出してくれれば夫の野望は達成する。
そして親の方は、我が子の話を鵜呑みにし、厳しい言葉で私を責めたものである。
夫の話の真偽も、私の潔白も問題ではなかった。
悪人をこしらえるのは簡単だ。
一人が言い出し、もう一人がそれを信じて賛同すればいい。
勧善懲悪の名目で疑惑の目を向け、心ない言葉で傷つける行為が
さも正しいことのように行われる。
悪を正し、教え導くため…もっともらしい理由を付けて
人は刑を執行したがるものだ。
絶好の暇つぶしとストレス解消になるからである。
私は何十年、それを経験して生きてきた。
報われることの無い暗くて長いトンネルは、なかなか慣れるものではない。
それがいかに無駄な苦しみか、私は知っている。
この苦しみで学習したのは、人間の奥底なんて、こんなもんさ…
ということだけで、たいした収穫は無い。
時間がもったいないので、体験しない方がいい。
すでにそれを体験させる人と出会ってしまったのだから、もはや致し方ないが
夫に対しても心からそう思っている。
ともあれ松木氏や藤村のように
人に無駄な苦しみを与えるのがライフワークの人はいるものだ。
我々の後にも、本社と合併した会社は複数あり
その中の幾つかは、トップが首を切られて本社の直営になった。
原因は明らかにされていないが、私が見たところ
高齢になってから中途採用され、本社から送り込まれた彼ら…
スパイという名の犬が原因だと思う。
経営が立ち行かなくなり、合併するしかなくなった会社には
それまで社長さん、社長さんとチヤホヤされていた人たちがいる。
合併と同時に送り込まれた犬に、あること無いこと告げ口され
そのたびに本社から疑われ、責められる日々なんて、人生初の体験だろう。
たいていの人はプライドがズタズタになって、おかしくなる。
やがてキレて本社の機嫌を損ね、お払い箱になるのは時間の問題だ。
それこそが、犬たちの目的。
揉ませていれば自分は安全、さらに良いことまで起きるかもしれない。
切られたトップの代わりに、犬が責任者になれる可能性が出てくるからだ。
事実、松木氏がうちと同時に担当中の生コン工場は
合併してほどなく、社長と本社が揉めた。
うちが合併した直後にそこの合併だったので、よく覚えているが
社長夫婦はクビになって工場は本社直営になり
責任者を決めることになった。
本社から遠い場所なので、暇そうな犬を行かせるしかない。
そこでうちの担当犬、松木氏が選ばれ、工場長として回された。
うちで仕事ができないので、肩書きを褒美に飛ばされたのだ。
給料は変わらずとも肩書きはもらえるので
犬としては出世した錯覚をおぼえ、嬉しそうだった。
本社もまた、それでいいのだ。
合併してやった会社なんて、しょせん彼らのオモチャ。
そこで彼らの犬が、どんな悪さをしようと構わない。
揉めれば、暇つぶしのネタが増えるだけだ。
そんな中、うちが合併後も12年続いているのは
生き馬の目を抜く本社の中で、一番情に厚い河野常務の恩恵と
夫の忍耐力の賜物。
加えて嫁と継子を経験しているため、本社の心境が読める私の立ち回りも
少しは貢献したのではないかと勝手に自負している。
そうまでして会社を続ける意味があるかどうかと問われれば、無い。
それとは、別問題なのだ。
せっかく合併しながら、本社の機嫌を損ねて早々にクビになれば
「乗っ取り屋に騙されて何もかも奪われたあげく、追い出された」
みっともないので、結局はそう弁解することになる。
くだんの生コン工場の社長夫婦も、そうだった。
少なくとも私は、夫をそのような立場にしたくなかった。
意地もあったが、当時、病気の義父がまだ生きていたというのも大きい。
おバカなヒロシが騙されて…という、夫家の伝統かつ安定の結果では
父親の負債を押し付けられた夫が、あまりに気の毒じゃないか。
おバカなヒロシでもちゃんとできるところを
一回ぐらいは見せてから、あの世へ行ってもらわないと
義父はどうでもいいが、夫に悔いが残ろうよ。
とりあえず10年持ちこたえれば、騙されて奪われたことにはならない。
倒産寸前で助けてくれた本社や、河野常務にも義理が立つ。
その10年が過ぎ、はや12年だ。
状況はさほど変化してないものの
気持ちだけはオマケ気分というところである。
《続く》