前回の記事、『おしまい感』のコメント欄で
しおやさんが、お舅さんが亡くなられた時のことをお話ししてくださった。
しおやさんは言わないが、彼女のことだから
病気のお舅さんに誠心誠意、尽くされたことだろう。
けれども伴侶を見送ったお姑さんの記憶に残るのは、血を分けた娘のたまの見舞い。
嫁の彼女は、自分が透明人間になったような感覚だったという。
透明人間とは、何ともうまい表現だと感心した。
しおやさんの特許である“透明人間”の言葉を借りて話を進めると
自分が透明人間になったような気分は私にも覚えがある。
覚えがあるも何も、結婚してから40年余り、透明人間になりっぱなし。
嫁の立場で何が情けないといって
何かあるたびに、自分が生身の人間として認められてないのを思い知ることだ。
阻害されるだの、認めてもらえないだのといった生易しい騒ぎではない。
そもそも一人の人間としてエントリーされないのは悔しいし、傷つきもする。
そして、何とか承認してもらいたいと頑張る。
賞賛や褒美が欲しいのではない。
ちゃんと心のある一人の人間だと認めてもらおうとする承認欲求は
人類の本能だ。
が、そうはいかない。
認めてしまえば、彼らは嫁を自分たちと同じに扱わなければならなくなる。
よそから来た異分子に、血を分けた娘や息子と同じく気を使い
尊重するのはしんどいし、シャクだ。
よって、この事態を避けようとするのも人類の本能。
そのためには嘘や捏造、記憶のすり替えも平然と行われる。
嘘や捏造によって、事実が事実でなくなるのを目の当たりにする透明人間は
その度に驚き、傷ついて疲弊するが
やる方に悪気は無く、いたって無邪気なものだ。
各自の生い立ち、性格、経済状態によって違いは生じるが
そもそも透明人間が出現する家庭というのは年長者に理性が乏しく
動物的本能が強い傾向にあるため、改善の可能性は無い。
どんな出来事が起きようと、どんな薬を飲ませようと彼らは変わらない。
だから透明人間の方が、「それでも生きて行ける道」というのを探すしかない。
透明人間歴40有余年の私が解明した透明人間化のメカニズムは、こんなものだ。
で、私の透明人間ぶりだが、うちには何しろ嫁ぎ先から毎日帰って来る小姑がいるので
嫁は当然、透明人間でなくては困る。
身体の弱い母親に代わって家事や家業を手伝わせるため、という理由を提示して
婚家を納得させているからだ。
夫も、私の透明人間化に熱心だった。
何しろ愛人がいる。
妻とは別居中、あるいは出て行って離婚待ち、または最初から未入籍など
相手によってさまざまな理由を述べながら私を透明人間に仕立てた。
やがて、義父母は交代で入退院するようになった。
私は確か、子育てと家事をしながら家に残る片方の親の世話をして
洗濯物を持って遠い病院に通い、退院後は家で看病したように思う。
しかし終わってみれば、全て娘がやったことになっていた。
娘は病院の枕元に座り、見舞客を待ち構えていただけと思うが
元気になったのは娘のお陰ということで、娘だけに10万円の謝礼が支払われた。
この扱いの差に、私は憤慨したものだ。
が、金の使い方を間違えた人の末路にたがわず
娘への謝礼はだんだん減ってそのうち無くなり
やがては入院費にことかくようになったので密かに溜飲を下げる。
義父の最後の入院では、病院食が食べられない彼のために
確か数年にわたって弁当を差し入れていたような気がする。
しかし病院では、妻と娘の愛情弁当ということになっていた。
平行して確か、義父の会社の倒産を合併によって回避し
その合併先のサポートで新しい会社を立ち上げた記憶があるが
これもいつしか娘のお手柄ということになっていた。
「娘が全ての後始末とお膳立てをしてから身を引き、弟夫婦に花をもたせた」
義母が折に触れ、親戚や近所の人に話しているのを目の前で聞いて耳を疑う。
娘は不渡りを出す直前で逃げたと思っていたが、あれは白日夢だったらしい。
そういえば義父の葬式も確か、私が取り仕切ったと思っていたが
これもどうやら記憶違いらしい。
しっかり者の娘のアドバイスにより、立派な葬式ができたそうだ。
最近では確か、義母の糖尿病が全快したようだが
これも娘の食事療法の賜物らしい。
「娘がおかずを持って来てくれて、それを食べていたら治った」
医師から食事療法の内容をたずねられた義母は、そう説明したという。
以後、会う人ごとに同じことを言いふらすが
ルイーゼが自分の家の食べ残しを持って来るのは、月に一度か二度。
その頻度でしつこい糖尿病が全快するのであれば
ぜひ学会で発表するべきだ。
そういうわけで、なかなかの透明人間ぶりを地で行く私だが
義父が他界してからはどうでもよくなった。
悟りが開けたのではない。
一人欠けて、透明人間になる回数が半減したからだ。
やっぱりこういうことは、死ななきゃ終わらんらしい。
とはいえ長年にわたって透明人間をやっていると
ある法則が存在することも、うっすらとわかってくる。
透明人間にされるたび、自分は厄落としをしているような気がするのだ。
そして自分に降りかかるはずの災厄は
自分を透明人間にした人物が受け取ってくれる。
そう思って見ていたら、全部ではないが高確率で符号するので
なるほど、とうなづけるはずだ。
となると、透明人間もまんざら悪いばかりではない。
透明人間にされるのは、それが彼らにとって難しい仕事で
思わず横取りしたくなるレベルだからだ。
自分にそれをやり遂げられる実力があることこそ、喜びである。
自分を変える、自分が変わるとは、そういうことなんだと思う。
だけど、好きで変えたんじゃない。
「それでも生きて行ける道」を探しただけである。
しおやさんが、お舅さんが亡くなられた時のことをお話ししてくださった。
しおやさんは言わないが、彼女のことだから
病気のお舅さんに誠心誠意、尽くされたことだろう。
けれども伴侶を見送ったお姑さんの記憶に残るのは、血を分けた娘のたまの見舞い。
嫁の彼女は、自分が透明人間になったような感覚だったという。
透明人間とは、何ともうまい表現だと感心した。
しおやさんの特許である“透明人間”の言葉を借りて話を進めると
自分が透明人間になったような気分は私にも覚えがある。
覚えがあるも何も、結婚してから40年余り、透明人間になりっぱなし。
嫁の立場で何が情けないといって
何かあるたびに、自分が生身の人間として認められてないのを思い知ることだ。
阻害されるだの、認めてもらえないだのといった生易しい騒ぎではない。
そもそも一人の人間としてエントリーされないのは悔しいし、傷つきもする。
そして、何とか承認してもらいたいと頑張る。
賞賛や褒美が欲しいのではない。
ちゃんと心のある一人の人間だと認めてもらおうとする承認欲求は
人類の本能だ。
が、そうはいかない。
認めてしまえば、彼らは嫁を自分たちと同じに扱わなければならなくなる。
よそから来た異分子に、血を分けた娘や息子と同じく気を使い
尊重するのはしんどいし、シャクだ。
よって、この事態を避けようとするのも人類の本能。
そのためには嘘や捏造、記憶のすり替えも平然と行われる。
嘘や捏造によって、事実が事実でなくなるのを目の当たりにする透明人間は
その度に驚き、傷ついて疲弊するが
やる方に悪気は無く、いたって無邪気なものだ。
各自の生い立ち、性格、経済状態によって違いは生じるが
そもそも透明人間が出現する家庭というのは年長者に理性が乏しく
動物的本能が強い傾向にあるため、改善の可能性は無い。
どんな出来事が起きようと、どんな薬を飲ませようと彼らは変わらない。
だから透明人間の方が、「それでも生きて行ける道」というのを探すしかない。
透明人間歴40有余年の私が解明した透明人間化のメカニズムは、こんなものだ。
で、私の透明人間ぶりだが、うちには何しろ嫁ぎ先から毎日帰って来る小姑がいるので
嫁は当然、透明人間でなくては困る。
身体の弱い母親に代わって家事や家業を手伝わせるため、という理由を提示して
婚家を納得させているからだ。
夫も、私の透明人間化に熱心だった。
何しろ愛人がいる。
妻とは別居中、あるいは出て行って離婚待ち、または最初から未入籍など
相手によってさまざまな理由を述べながら私を透明人間に仕立てた。
やがて、義父母は交代で入退院するようになった。
私は確か、子育てと家事をしながら家に残る片方の親の世話をして
洗濯物を持って遠い病院に通い、退院後は家で看病したように思う。
しかし終わってみれば、全て娘がやったことになっていた。
娘は病院の枕元に座り、見舞客を待ち構えていただけと思うが
元気になったのは娘のお陰ということで、娘だけに10万円の謝礼が支払われた。
この扱いの差に、私は憤慨したものだ。
が、金の使い方を間違えた人の末路にたがわず
娘への謝礼はだんだん減ってそのうち無くなり
やがては入院費にことかくようになったので密かに溜飲を下げる。
義父の最後の入院では、病院食が食べられない彼のために
確か数年にわたって弁当を差し入れていたような気がする。
しかし病院では、妻と娘の愛情弁当ということになっていた。
平行して確か、義父の会社の倒産を合併によって回避し
その合併先のサポートで新しい会社を立ち上げた記憶があるが
これもいつしか娘のお手柄ということになっていた。
「娘が全ての後始末とお膳立てをしてから身を引き、弟夫婦に花をもたせた」
義母が折に触れ、親戚や近所の人に話しているのを目の前で聞いて耳を疑う。
娘は不渡りを出す直前で逃げたと思っていたが、あれは白日夢だったらしい。
そういえば義父の葬式も確か、私が取り仕切ったと思っていたが
これもどうやら記憶違いらしい。
しっかり者の娘のアドバイスにより、立派な葬式ができたそうだ。
最近では確か、義母の糖尿病が全快したようだが
これも娘の食事療法の賜物らしい。
「娘がおかずを持って来てくれて、それを食べていたら治った」
医師から食事療法の内容をたずねられた義母は、そう説明したという。
以後、会う人ごとに同じことを言いふらすが
ルイーゼが自分の家の食べ残しを持って来るのは、月に一度か二度。
その頻度でしつこい糖尿病が全快するのであれば
ぜひ学会で発表するべきだ。
そういうわけで、なかなかの透明人間ぶりを地で行く私だが
義父が他界してからはどうでもよくなった。
悟りが開けたのではない。
一人欠けて、透明人間になる回数が半減したからだ。
やっぱりこういうことは、死ななきゃ終わらんらしい。
とはいえ長年にわたって透明人間をやっていると
ある法則が存在することも、うっすらとわかってくる。
透明人間にされるたび、自分は厄落としをしているような気がするのだ。
そして自分に降りかかるはずの災厄は
自分を透明人間にした人物が受け取ってくれる。
そう思って見ていたら、全部ではないが高確率で符号するので
なるほど、とうなづけるはずだ。
となると、透明人間もまんざら悪いばかりではない。
透明人間にされるのは、それが彼らにとって難しい仕事で
思わず横取りしたくなるレベルだからだ。
自分にそれをやり遂げられる実力があることこそ、喜びである。
自分を変える、自分が変わるとは、そういうことなんだと思う。
だけど、好きで変えたんじゃない。
「それでも生きて行ける道」を探しただけである。