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殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

現場はいま…ピカチューの乱・8

2024年04月22日 13時06分49秒 | シリーズ・現場はいま…

河野常務の介入により、夫の退職騒動はひとまずおさまった。

そしてピカチューは、相変わらずアキバ産業へ出入りしている。

退職騒動以降、その頻度はいちだんと増え

今やほぼ毎日、入り浸っていると言った方が正しい。

目の上のタンコブが辞め損ねたので

アキバ社長と前後策を話し合っているのだろう。

 

我々は、それでいいと思っている。

常務には、あえて何も言ってない。

アキバ産業のことは、常務を始めとする本社と

本社直営の営業所長ピカチューの二者が検討する案件であり

我々子会社の仕事とは無関係なので放置しておく。

何事も、出過ぎは良くない。

 

よって常務は、ピカチューが何を企んでいるかを知らない。

知ったら怒り狂って、アキバ産業への出入りを止めるだろう。

なぜって共同仕入れと言えば聞こえは良いが、要は

「あんたとこの信用と金で、うちの商品も一緒に仕入れてよ。

うちが使った分は、後で払うからさ。

二軒分をまとめて仕入れたら、あんたとこも値をたたけて

安くなるでしょ?」

そのようなムシのいい話なのだ。

 

ピカチューがまだ無事で、アキバ産業へ通っているということは

共同仕入れの件を常務にまだ伝えてないということになる。

無知な彼もさすがに躊躇しているのか

それとも酒の接待をもっと受けたくて焦らしているのかは不明だが

ピカチューの口から直接言わせ

どうなるかを眺める方が面白いではないか。

 

我々の悠長ぶりは以前、似た流れを経験しているからである。

ピカチューの前任者だった昼あんどんセクハラ男、あの藤村も

アキバ産業に取り込まれようとしていた。

銀行管理になったのが、ちょうどその頃という符号から

アキバ社長の焦りがわかるというものだ。

 

アホの藤村はすぐに引っかかり、アキバの事務所に通い始めた。

が、2ヶ月もしないうちに、自分が入社させた女運転手から

労基に訴えられて左遷されたので、その時は未遂に終わった。

 

藤村が去った後、別の支社へ飛ばされていた松木氏が再び返り咲いたが

アキバ産業は彼に手を出さなかった。

出せなかったのだ。

返り咲いてほどなく、松木氏は肺癌が見つかり

休みがちになったからである。

 

これらの失敗があるので、今回アキバ社長は満を持して

スパイを送り込むという手の込んだ作戦に出たと思われる。

そのドラマチックかつ古典的な手段ときたら、ゾクゾクしちゃうわ。

しかもスパイは新規採用でなく、彼の愛人…

つまり在庫だぞ。

経費節約にもほどがある。

 

その在庫に引っかかったのが夫、そしてピカチュー。

ついでに言うと本社の窓際、ダイちゃんも引っかかった。

入れ食いじゃねぇか。

 

これがせめて美人ならまだしも

つり目でエラの張った、色黒のガリガリ。

蜘蛛(クモ)みたいな四十女だ。

こんな見るも無惨な不細工をなぜ?と思うが

アキバ社長の好みは細けりゃいいらしく、これでイケると踏んだらしい。

そしてその目論見は、見事に当たった。

 

ところでアイジンガー・ゼットだが

この4月16日をもって正社員となった。

給料の締め日が15日なので、16日からなのだ。

彼女を正社員にする運動は昨年、ダイちゃんによって開始され

今年に入ってピカチューも運動に参加。

二人の強力な推しで、アイジンガー・ゼットは

アルバイトから正社員へ昇進の運びとなった。

 

腹が立たないのかって?

今後、あの女もボーナスをもらうのは憎たらしいけど

私のお金で払うわけじゃないし、他は全然。

日頃、言っているだろう。

私は事務員としての彼女を気に入っている。

他県の出身、嫌われ者で地元に友だちがいない…

これは雇う側にとって、垂涎のプロフィールだ。

 

うちは家族と仕事がごっちゃになった会社なので

そこいらのおばさんを入れて、家のことや社員のことを

地元でベラベラしゃべられるほど迷惑なことは無い。

筒抜けなのは、隣のアキバ産業だけ…

範囲が限定されている安心感は大きい。

 

けれども我々は、心がけの良くない人々が

一時の幸運をつかんでは転落していったさまを見てきた。

嘘と芝居で本社の信頼を得、こちらでの営業所長に加えて

大阪支店の支店長という肩書きをもらって有頂天だった藤村は

労基に訴えられるという予想外の事態で左遷されたし

同じく嘘と芝居でデキる男を装ってきた松木氏は

藤村の左遷後、営業所長より一つ上の

次長という肩書きをもらって返り咲いたが

すぐ病気になって、結局は退職した。

 

そしてピカチューは、登りはしないものの

何やら勘違いをして威張り散らしたあげく

所長代理への格下げが決まった。

アイジンガー・ゼットの正社員登用という幸運も

あんまり手放しで喜べるものではないような気がするのだ。

 

一方、息子たちは正社員の件が、かなり気に入らない様子。

16日の朝礼で、ピカチューがアイジンガー・ゼットを皆の前に立たせ

社員昇格を発表しようとしたので、長男と次男は事務所を出たという。

 

このことを本人たちから聞いた私は、言った。

「バカじゃね!祝ってあげんさいや」

「親父を陥れたヤツじゃん!」

「スパイを正社員にして、狂っとる!」

二人は不満そうだ。

 

何を子供じみたこと言うとるん…

私はたたみかける。

「一緒に働く仲間じゃけん、こういう時は拍手して

お祝いを言うてあげるもんよ」

「ええ〜?無理!」

「満面の笑顔でパチパチしてあげて

“おめでとう!これからも情報漏洩に励んでくださいね!”

これが大人っちゅうもんじゃん。

それを話の途中で出るとは…あんたら、ホンマに私の子か?」

 

同じ日、ピカチューも所長から、所長代理へと降格になった。

それについて、ピカチューからの発表は無かったそうだ。

《続く》

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現場はいま…ピカチューの乱・7

2024年04月17日 15時09分15秒 | シリーズ・現場はいま…

夫が出社したら、自分の机の上や引き出しが片付けられていた…

これを聞いて、非常に腹を立てた私。

ピカチューめ、まだ退職願いも提出していないうちから

何ていやらしいことをするのだ。

夫や息子たちの暴力を回避するだの何だのと言った私だが

自分がやられたら、絶対にカッとなってピカチューを殴っている。

 

ともあれ夫は、打ち合わせ通りのセリフを言った。

「続けることになったけん、鍵と携帯、返して。

どっちかがおらんようになるまで、いがみ合おうで」

それを聞いたピカチューは青くなり、沈黙したまま動かなくなった。

 

「はよ返せや」

夫が催促すると、ピカチューはシブシブ事務所の外へ。

どこへ行くのかと思って見ていたら

ノロノロと歩いて駐車場に停めた自分の社用車へ向かう。

そして車の中から携帯を取り出すと

またノロノロと事務所に戻って夫に渡した。

そのダラけた仕草に、夫は殴ってやろうかと思ったそうだ。

 

こうして携帯は返ってきた。

しかし鍵の方は、今無いとおっしゃる。

夫が土曜日に置いて帰った鍵はその日のうちに

アイジンガー・ゼットに渡されていたのだ。

彼女が出勤する9時にならないと、鍵は返せない…

ピカチューは言うのだった。

 

事務所の鍵はセキュリティーの観点から、スペアキーが高価。

よって鍵を持っているのは

ピカチュー、夫、長男、次男の4人だったが

ピカチューのやつ、これからはアイジンガー・ゼットを

自由に事務所へ出入りさせるつもりだったらしい。

 

渡すピカチューもピカチューだが

受け取るアイジンガー・ゼットも相当なタマだ。

とはいえ去年、彼女を入社させた時点から

セキュリティーどころの騒ぎではない。

鍵の権威は地に落ちたというところよ。

 

そんなわけで、私はこの話を聞いて大笑いした。

しかし夫は、マジでピカチューを◯してやろうかと思ったそうだ。

◯すんならアイジンガー・ゼットもだろうと思うが

夫の怒りはピカチューに一点集中。

自分のカノジョと錯覚した女には、甘いものだ。

 

腹を立てた夫がピカチューの襟首に手を伸ばそうとした瞬間

さっき取り返したばかりの携帯が鳴った。

河野常務からだ。

この着信で、夫は警察沙汰にならずに済み

ピカチューの方は寿命が伸びたというわけ。

 

「おお、ヒロシ!携帯は戻ったんじゃの!」

「はい、お陰様で」

「そこに板野はおるか?」

「います」

「ちょっと代われ」

夫はピカチューに、自分の携帯を渡した。

 

電話を代わったピカチュー、最初のうちはのんきに挨拶などしていたが

すぐに事務所の外へ走り出たという。

「怒られるところをワシに見られとうなかったんじゃろう」

夫は言った。

恥も外聞も無いことをしておきながら、そういうのは恥ずかしいらしい。

 

長い電話が終わり、事務所に戻ってきたピカチューは

さっきよりもっと青い顔になり、黙って携帯を差し出した。

「常務が代われって」

夫が電話に出ると、常務は言った。

「板野は所長代理に降格じゃ。

社用車も取り上げる。

これでまだ生意気なことしやがったら、飛ばすけんの」

夫の喜ぶまいことか。

 

常務は同じ電話で、ピカチューに言った内容も話した。

「ヒロシを辞めさせる、いうことは

ヒロシが持っとる◯◯社や⬜︎⬜︎建設(財閥系一部上場企業)

の売上げを捨てることで。

変な形で追い出したら、取引は終わるど。

あんたは、減った分の売上げをカバーできるんか」

数字にシビアな常務らしい正論である。

売上げのことを言われると

営業未経験のピカチューはグウの音も出なかっただろう。

 

夫は、親がいじめっ子を叱ってくれたように思っているが

実際は違うと思う。

常務にしてみれば、自分は入院して動けない時期で

会社は年度末から年度始めにかけての微妙な時期だ。

ピカチューは仮にも所長でありながら

いつもより慎重になるどころか、自分の留守を狙ったように

職権を超えてクビ切りをやろうとした。

時期と立場をわきまえず、出過ぎた真似をしたピカチューに

常務は怒っているのだ。

 

ちなみに常務は、アイジンガー・ゼットの素性を知らない。

そしてこちらも、病人に余計なことを吹き込む気は無い。

アイジンガー・ゼットがアキバ社長の愛人でも

こちらの会社の情報がダダ漏れでも

ピカチューが誘惑されても、それらは犯罪ではないからだ。

アキバ産業との積年の確執は、我々の個人的な問題であって

本社には関係無いのである。

 

そしてまた、情報がダダ漏れでも

業務に支障が起きないのが、この仕事最大の長所。

特許も秘法も存在しない、ただ運転手という人材だけが宝の

いたってオープンな商売である。

その宝たちを引き抜かれたら?

そんな心配はいらない。

うちより給料の安いアキバ産業へ動くわけがない。

仮に動いたとしても、うちには順番待ちが数人いる。

 

だから彼らがあれこれ画策したければ、存分にやってみればいい。

何ができるか、私はぜひ見たい。

そのたびにゴタゴタは起きるだろうが

一番悪いのはアイジンガー・ゼットを入社させた夫なので

身から出たサビと思って耐えればいいのだ。

 

さて、夫が常務と話している間に、アイジンガー・ゼットが出勤。

ピカチューに言われて鍵を返した。

それをピカチューが夫に返して、一件落着だ。

それにしても彼女、この日はいつもより30分も早い出勤だったらしい。

辞めたと思ってルンルンで来たら夫がいたので

びっくりしたことだろう。

 

その後のピカチューだが、シュンとしていたのはその日だけで

翌日の火曜日からは平常運転。

社内では相変わらず見当違いの指示を出して迷惑がられながら

アキバ産業の事務所へ出入りしている。

 

《続く》

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現場はいま…ピカチューの乱・6

2024年04月13日 10時08分45秒 | シリーズ・現場はいま…

運命の月曜日、4月1日の朝になった。

前夜、河野常務に辞めるなと言われて上機嫌の夫。

「少なくともあと3年、70才まではワシが辞めさせん。

それでも辞める言うんなら、ワシが納得する理由を持って来い」

そう言われた夫は、常務がピカチューより自分を選んでくれたと

心底喜んでいるのだ。

 

常務は確かに情に厚く、夫を可愛がっているが

「八掛け半額二割引き」が口癖。

何か買う時は、まず八割に値切り

相手が応じると、その値段を半額にしろと交渉し

最後に二割引きを要求するという、悪どい値切り方を指すものである。

 

実際にはそこまで値切るなんて不可能だが

転んでもタダでは起きない彼の習性を鑑みると

“あと3年”という期間は、去年、夫が試験を受けて更新した

産業廃棄物取扱免許に関係していると思う。

5年ごとの更新なので、70才を過ぎたらまた更新だ。

その時、夫がまだ使い物になっていればいい。

しかし、そうでない場合は名義変更を余儀なくされる。

常務はその手間と経費のことも考慮して

現状維持を望んでいるのかもしれない。

 

ともあれ4日1日といえば、慌ただしい年度末が終わり

新年度が始まる特別な日。

建設業界にとって、年度末から年度始めのこの時期は

前年度の売上げと利益がはっきり出て

新年度の目標や戦略が発表される大切な期間だ。

もちろん本社も同じ…というより

神経質に見えるくらい敏感になってこの時期を過ごす。

 

実のところ、今回の件で私が最も注目していたのはこれなのだ。

ピカチューは新年度を

新しい環境で迎えるつもりだったのではなかろうか。

邪魔な夫を排除し、アキバ産業と共に新たなスタートを切りたくて

急いでいたのではないか。

夫が自分から辞めると言い出したのは、計算外の喜びだったかもしれない。

 

しかし一方で、私はピカチューを買いかぶっているのかもしれない…

とも思う。

彼の頭からは時期的な要素が抜けていて

たまたま衝動的にやったとしたら。

このような魔の期間に妙なことをやらかし

永井営業部長が飛んで来る事態を引き起こせば

本社の神経を逆なでする。

ピカチューが切に願う安泰から、全力で逆走しているようなものである。

だとすれば、彼はこちらが思う以上のおバカさんだ。

 

さて、夫はスキップでもしそうな明るさで、7時過ぎに家を出た。

いつもなら、まだ誰も出勤してない6時過ぎに出勤するのが習慣だが

ピカチューに鍵を渡したので事務所の中に入れないため

遅い出勤である。

 

息子たちも鍵を持っているが、あえて借りなかった。

「どうせならピカチューと対面するまで

退職勧告された身の上を大袈裟に演じておけ」

私の助言によるものである。

今後、事態が悪化した場合に備えるためだ。

 

もしもこの問題がもっと大きく発展した場合

「鍵が無いので、いつもより1時間遅く出社しました」

そう主張すれば、ピカチューが権限を無視して退職勧告をし

さらに鍵や携帯まで取り上げた横暴を印象付けられるではないか。

たいしたことではないが、このような小さな事実の積み重ねが

身を守ることだってある。

 

そして息子たちは、夫の子供である前にいち社員。

子供から借りた鍵を使って事務所に入るのは、賢い行動ではない。

敵が辞めたと思い込み、ルンルンで出勤した彼は

夫を見て衝撃を受けるであろう。

逆上して不法侵入だの何だのと騒いだら

夫はもとより、息子たちも冷静を保てるかどうか。

 

私が懸念するのは、暴力沙汰よ。

何はともあれ暴力は、分が悪くなるので回避したいではないか。

ピカチューが本当に狙っているのは、これかもしれないのだ。

程度に関係なく、少しでも手を出したらヤツの思うツボである。

 

やがて出勤から1時間後、夫から私の携帯に着信が。

夫が電話をかけてきたということは

ピカチューから無事に携帯を取り返したことを意味する。

復帰はうまくいったらしい。

 

事務所に座っていたピカチューは

夫の顔を見て、やはり驚いていたという。

「母さんの言うた通りをヤツに言うたら、赤い顔が青になったわ」

夫は弾んだ声だ。

 

「ピカチューの顔見たら、最初に何て言おうか」

出がけに夫は私に問うた。

「続けることになったけん、鍵と携帯、返して。

どっちかがおらんようになるまで、いがみ合おうで」

だからこのセリフを教え、復唱させた。

“いがみ合おうで”…

それがこのセリフのキモ。

あれこれ言わせようとしたって、夫には無理だ。

言葉尻を捉えられても応戦できないため

言いやすくてインパクトの強い言葉を選んだ。

この7文字で、お前を絶対に許さないという決意は伝わるはずだ。

 

他に助言したことといったら

こっちが戦闘的になったら向こうも意固地になる…

肩の力を抜いて普通に接するように…

このセリフ以外のことは何も言うな…

ぐらいか。

もちろん、河野常務からの電話のこともだ。

とにかく情報を与えないことが、肝心。

なぜ?なぜ?とつまらぬ空想をして、苦しめばいいのだ。

 

以下は、夫が私に話した一部始終である。

…事務所に入ると、ピカチューが座っていた。

夫を見て驚いたが、夫はもっと驚いた。

自分の机の上に置いてあった物が、片付けられていたからだ。

引き出しの中の物も全て出され、床の段ボールに投げ込まれていて

机は最初から誰も使ってないみたいに綺麗だったという。

私なら、ここでピカチューをぶん殴っていること請け合い。

が、夫の神経は違うようで、驚きはしたものの

私ほどの激しい怒りは感じなかったそうだ。

 

《続く》

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現場はいま…ピカチューの乱・5

2024年04月12日 08時54分49秒 | シリーズ・現場はいま…

夫を身限ったアイジンガー・ゼットと

その背後にいるアキバ社長の動きは早かった。

アイジンガー・ゼットがピカチューをアキバ社長に会わせ

酒を飲ませて親交を深める。

そして昼間は会社で、アイジンガー・ゼットの大サービス。

ピカチューに、遅い青春が訪れた。


さらに想像を働かせるなら

ピカチューはアイジンガー・ゼットと恋人気分かもしれない。

恋は、弱い男を強くする。

強くするというより、怖いものを無くすと表現した方が的確だろう。

冴えないおじさんにとって、不倫は人生の夢。

アイジンガー・ゼットの存在は、手ぶらで向かうはずだった冥土への

土産になるかもしれない希望の光である。


だからピカチューは、夫に「辞めろ」と吠えることができたのだ。

常識で考えて、64才の男が二つ年上の先輩に向かって

「辞めろ」とは、なかなか言えるものではない。

恋の力はすごいのだ。

恋の好きな夫と暮らしてきた私には、よくわかる。


「次は家庭裁判所で会おうで!」

太古の昔、駆け落ちした夫は、女の前で私に吠えた。

鬼のように眉毛を釣り上げ、肩をいからせて自身を鼓舞しながら

本当の敵…快楽に逃避する己の心には目を背けたまま

比較的言いやすい相手を選んで牙を向ける。

女に義理立てしようと必死に虚勢を張った、あの時の夫と

今のピカチューは同じ症状だ。


アイジンガー・ゼットはピカチューに、夫のことを何か訴えたかもしれない。

「弄ばれて捨てられた」、「セクハラを受けている」だったら面白いんだが

あるいは「高待遇と聞いて入社したのに、全然違って騙された」

みたいなことだ。


男には、かわいそうに思う女を守りたい本能がある。

彼はアイジンガー・ゼットを守るために

夫を排除しようと決意したのだ。

でなければピカチューがあのような暴言を吐いて

夫に喧嘩を売ることは難しい。

口で言うのは簡単だが、いざやるとなると

パワハラのリスクや、夫のいなくなった会社を一人で切り盛りする無茶

夫に付いて辞めるであろう、うちの息子たちを始めとする運転手

それらを考えると、なかなかできるものではない。


特に運転手は深刻。

夫と一緒に辞めるのが、うちの息子2人だけだったとしても

ダンプが2台が止まる。

次を募集して応募を待ち、面接、採用

広島市内にある関係機関での運転講習と適正検査

それから助手席に乗せてオリエンテーション

各取引先への運転者及び車両登録…

これらを経て再び稼働するまで、早くても十日はかかる。


その間、2台分の売上げはゼロ。

月間売上げはガクンと下がり

車両を遊ばせるのが嫌いな本社からは大目玉。

その原因を作ったピカチューは早晩、進退を問われる羽目になる。

夫を追い出すことだけに血道を上げ

自分の首を絞めていることすらわからない…

ピカチューがいかに無知か、わかるというものだ。


そんなことはつゆ知らず、ピカチューは

お隣さんとの業務提携に障害となっている夫を辞めさせ

会社を自分の天下にすることに夢中だ。

夫を排除したら、さっそくお隣さんと組んでMOREタダ酒。

同時にアイジンガー・ゼットも手中に収める。

はたから見ると、“騙されたバカ”にしか見えないのが残念なところよ。


彼を動かした原動力は、老いらくの恋。

私はこの結論に達した。

全て想像と言えばそれまでだが、これで間違いないと断言できる。


私はこのシリーズの3で、こう申し上げた。

『このようなとんでもない出来事の裏には

必ず別の真実が隠れていることを知った。

そして別の真実とは、思わず「へ?」と聞き返してしまうような

意外かつ軽薄な内容であることも知った。

その「へ?」を探してやろうではないか』

…結果、「へ?」は、ここに発見できた次第である。



さて、夫がピカチューと喧嘩をした土曜日に戻ろう。

全容を把握した私は、ピカチューに復讐する目標をあきらめた。

だってアイジンガー・ゼットに鼻毛を抜かれ

会社に入れたのは他でもない夫である。

そもそもの原因を作ったのは夫なんだから

そこを追求されたら返す言葉が無い。

ピカチューの暴挙ばかりを責めるわけにいかないではないか。


夫にそれを言うと、「そこなんよ…」と、あっさり同意する。

他人事か。

何だか面倒くさくなったので

ジタバタしないで河野常務のお沙汰を待つことにした。


翌日の日曜日、夫は朝から手持ち無沙汰だ。

日曜だろうと祝祭日だろうと、彼は早朝、必ず会社へ行き

誰もいない事務所で一人の時間を過ごすのが休日のルーティーン。

けれどもこの日は、それができない。

ピカチューに事務所の鍵を渡してしまったからだ。

彼に夫の鍵や携帯電話を奪う権限は無いというのに

それをあえてやるピカチュー…やっぱり恋の力はすごい。


会社へ行けず、携帯も鳴らず

所在なく庭石に腰掛けて、犬とたわむれるしかない夫。

バドミントンで痛めている足も辛そうよ。

不細工な女にのぼせて会社に入れたことを少しは悔やめ。


日曜日の夜になった。

「明日の朝、一回会社へ行ってシゲちゃん(夫の重機アシスタント)に

まだやらせてない積込みを教えとくわ」

夫は力無く言った。


取引先によっては、特殊な積み方がある。

シゲちゃんの実力では危ないので、教えてないことが幾つかあった。

「シゲちゃんが一回で覚えるとは思えんけど」

「辞めるんじゃけん、仕方がない」


そんなことを話していた20時半、家の電話が鳴る。

たまたま夫が出たら、河野常務からだった。

「ヒロシ、携帯が全然繋がらんじゃないか!どしたんね!」

常務の声は大きいので、途切れ途切れにおよその内容が聞こえる。


「僕の携帯は板野さんが持ってます」

「なんでじゃ!」

「辞めるように言われたんで、事務所の鍵と一緒に渡しました」

「なに〜?!」


河野常務と夫は、しばらく話していた。

後で夫が話すには、河野常務は「絶対に辞めるな」と言ったそうだ。

息子たちにも辞めてはいけないと伝えるように…

退院したら真っ先にそっちへ行く…

自分の入院中に、こんなことをしでかした板野は許さない…。


電話の後、夫はケロリと明るくなった。

「常務が辞めるな言うけん、辞められんのぅ」

嬉しそうにつぶやいている。

さっきまでシュンとしていたのに、ゲンキンなもんだ。

「今回のことで、ようわかった。

自分から先に、辞める言うもんじゃないのぅ」

いつになく反省めいたことを口にする夫。

それはいいから、短気を起こして

病床の常務をわずらわせたことを反省しろよ。

《続く》

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現場はいま…ピカチューの乱・4

2024年04月10日 14時50分20秒 | シリーズ・現場はいま…
さて、ここまでのいきさつを一旦整理してみよう。

少々複雑な内容になってしまったので、これはご覧くださる皆さまへの配慮…

と申し上げていい子ぶりたいところだが

お話ししている私自身が混乱しそうなので、おさらいのつもりである。

前記事と重複するが、お付き合い願いたい。


3月29日の夕方、酔ったピカチューが次男に電話をかけて暴言を吐いた。

内容は、「自分の言うことを聞かない」というもの。

その様子を目の前で見た夫は腹を立て

翌朝ピカチューに、酔って電話をしたことを抗議した。

夫の予定ではこれで終わるはずだったが、ピカチューは激しい抵抗を見せ

二人は言い争いになった。


「ワシの言うことが聞けんのなら辞めぇ!」

ピカチューが放った予想外の強気発言に、夫は逆上。

「辞めたるわい!」

そう言って事務所の鍵と携帯を置き、その日は休みを取っていたので

そのまま家に帰った。


二人のやり取りを事務所の外で聞いていた次男は

取り急ぎ、直属上司の河野常務に連絡。

入院中で動けない常務は、本社から永井営業部長を差し向け

ピカチューと次男から事情聴取をさせた。

しかしピカチューは「酔っていたので忘れた」を繰り返し

酒を飲んで電話をした行為しか認めなかったため

事情聴取はウヤムヤのまま終わった。


辞めると断言し、怒り心頭で家に帰って来た夫だが

その後、激しく後悔しているのが見て取れた。

この何十年、会社が好き、仕事が好きで生きて来た夫が

腹立ちまぎれに辞めて、大丈夫だろうか…

しかも相手は、たかだかピカチュー…

あんなコモノのために、夫の40年余りに渡る歴史を途絶えさせていいのか…

明るく振る舞ってはいるものの、内心は意気消沈している夫を見て

私は思うのだった。


このまま辞めるのであれば、仕方がない。

薄い味噌汁をすすり、漬物をおかずに不死身の義母を養って生きて行こう。

嫌だけど。

しかし、運命がこれを許すだろうか。

これまで何があっても、夫は必ず誰かのサポートによって生き残ってきたのだ。

夫は必ず会社に残る…私には確信があった。


残るとすれば、問題が。

だって、私がピカチューなら絶対言うもんね。

「てめぇ、吐いたツバ飲むんか」

男がこれを言われたら、ものすごく辛いと思う。

これをピカチューに言わせないためには

今後どう立ち回るかを考えておかなければならない。


しかし、それを考えるには

ピカチューが豹変した原因を究明しておく必要があった。

酔って突然、次男に電話をかけたのはなぜか。

煙たいはずの夫に「辞めろ」とまで言えた、その原動力は何なのか。

ピカチューの身に一体何が起きたのかを知らなければ、彼の次の行動が読めない。


次男からこの件を聞いた常務は、永井営業部長の報告を待って

近日中に必ず夫に連絡を取るはずだ。

その時、夫が冷静を欠いて、きちんとした受け答えをしなければ

非はピカチューにありながら、喧嘩両成敗になってしまう可能性がある。

もちろん常務は夫の味方ではあるが

ピカチューが前任の松木氏や藤村のように嘘八百を並べる恐れはゼロではない。

手術を控えた常務に1ミリの疑惑も残さないよう努め

安心してもらうためには、取り急ぎ夫と真実を共有し

善後策を話し合っておくに越したことは無いのだ。


ピカチューの粗野な言動が不可解なのは、夫が何かを隠しているから…

私にはそう思えた。

夫が隠すといったら、女のことしか無い。

アイジンガー・ゼットが、裏で何かやらかしているのは確実だ。

「ピカチューが突然変わったのと、アキバ産業は関係があるか」

私はこの一つだけを問い、女のことではない質問に安心した夫は

ピカチューがアキバ産業との共同仕入れを言い出し

自分が拒絶したことをしゃべった。

次男への電話も、夫に辞めろと言ったのも、これが原因だった。


ピカチューは自分の計画を却下した夫と

アキバ産業に近づかない方がいいと言う次男を恨んでいたのだ。

愚かな人間はうまくいかないことがあると

誰かを憎むことしかできないものである。


このことから私は、アイジンガー・ゼットが夫を見限り

ピカチューに乗り換えたと判断。

その瞬間には、心当たりがあった。

時は2月初旬、3年に1回の巡回監査があった日のこと。

おカミの天下り機関から人が来て、労働基準に違反してないか

タコメーターの管理はしっかりされているか

書類は正しく記入されているか

アルコールチェックはちゃんとやっているか、などを細かく調べるのだ。


この時、対応のために、本社から元経理部長のダイちゃんが来た。

彼は合併以来ずっとこの検査に立ち会って慣れているのもあるが

前の事務員、推定体重100キロ超のトトロから

今のアイジンガー・ゼットに代わって以来

何やかんやと理由をつけてしょっちゅう来るようになり

監査当日も朝から張り切ってやって来たそうだ。

アイジンガー・ゼットはお世辞にも美人とは言い難いが

愛人をやるぐらいだから、男あしらいがうまいのかもしれない。


やがて監査官が到着した時、ダイちゃんは夫に言った。

「ヒロシさんは、出て行ってくれる?」

そう言われれば、事務所の外へ出るしかない。

中には二人の監査官と、こちら側の立会人として

ダイちゃん、ピカチュー、そしてアイジンガー・ゼットが残った。


昼休みに帰って来るなり、このことを私に言ったぐらいだから

夫はかなりショックだったらしい。

監査は楽しい時間ではないが、今まではずっと立ち会ってきた。

それが今回はピカチューとアイジンガー・ゼットが残され

自分だけ追い出されたんだから、戦力外通告と同じだ。

こちらでは新米のピカチューと

錯覚とはいえ一時は自分のカノジョと思っていたアイジンガー・ゼットの前で

夫のプライドはズタズタになったのである。


ダイちゃんは、我々が彼の信仰する宗教への入信を断って以来

夫や息子たちに手厳しい。

彼はお気に入りのアイジンガー・ゼットの前で

夫に冷たく命令して見せたかったのだと思う。

初めての監査で緊張するピカチューにも、ええカッコがしたかったと思う。

社内での宗教勧誘が原因で左遷され

窓際になったダイちゃんが威張れる場といったら

事情を知らないアレらの前だけなのだ。


「面倒くさい監査から逃げられて、良かったじゃんか」

ダイちゃんの仕打ちに傷ついている夫を慰めたのはともかく

ピカチューが夫より上だと勘違いしたのも

アイジンガー・ゼットが夫を見限ってピカチューに乗り換えたのも

この時からと見て間違いない。

ピカチューとアイジンガー・ゼットがラブラブになったのも

ピカチューがアキバ産業へ出入りし始めたのも、同じ2ヶ月前なんだから

誰でもわかるというものだ。

アキバ社長とアイジンガー・ゼットは、この時を境にターゲットを変更したのである。


《続く》
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現場はいま…ピカチューの乱・3

2024年04月09日 11時12分03秒 | シリーズ・現場はいま…

家の前の桜も満開。


ピカチューの不可解な豹変は

夫が肝心なことを隠して説明しているから…

その肝心なこととは、私には口が裂けても言えない唯一の事柄…

すなわち女絡み…

女といえば事務員のノゾミ、通称アイジンガー・ゼット…

あいつが絡んでいるに違いない…

ここまでは確信した。


ピカチューの暴走を止めるには、夫が隠している事実を把握する必要がある。

今さら、夫の秘密を知りたいわけではない。

実はどうでもいい。

しかし事実を引き出して正しい判断をしなければ

夫は後悔したまま会社を去ることになる。

ピカチューの思い通りにはさせない。


会社の件に限らず、過去にこういうことは何度もあった。

肝心なことを言わずに

起きたこと、やられたことばかりを訴える夫に翻弄され

鼻息も荒く彼を守ろうとした若き日の私。

そのために恥もかいたし、敵も作った。

ずっと後になって、何も知らなかったのは自分だけだとわかり

情けない思いをしたものである。


それら数々の経験から、このようなとんでもない出来事の裏には

必ず別の真実が隠れていることを知った。

そして別の真実とは、思わず「へ?」と聞き返してしまうような

意外かつ軽薄な内容であることも知った。

その「へ?」を探してやろうではないか。


さて、どうやってしゃべらせるか。

夫婦の話し合いと言ったら聞こえはいいが、実際には尋問が始まった。

とはいえ、尋問はこれだけ。

「ピカチューが突然変わったのと、アキバ産業は関係があるか」

というもの。


すでにお話ししているが、アキバ産業とは

我が社の隣にある同業のライバル会社で、双方の先代から仲が悪かった。

義父の会社が倒産しそうになった時は債権者に混じり

無関係のアキバ産業の現社長もなぜか会社へ乗り込んで来たそうで

その場に夫と居合わせた長男は、社長のあの嬉しそうな顔を思い出すと

今でも腹が立つと言う。


ちなみにうちの事務員ノゾミ、通称アイジンガー・ゼットは

そのアキバ社長の愛人。

昨年の春、うちの情報欲しさに夫を騙して入社した経緯がある。

ヤツの名前を出すと夫が警戒して時間がかかるため

ここは広く、アキバ産業と言っておくのだ。


私の質問に、夫は少し考えてから言った。

「そういえば先週、アキバと共同で商品を仕入れたい…

いうて寝言を言いやがった」

「ほほぅ…」

「本社に提案する言うけん

ワシは絶対ダメじゃ、アキバと組むのは許さん言うた。

あれから不貞腐れとったかも」


はい、これで全容がわかりましたけん。

ピカチューが何度も言った「言うことを聞かない」とは

アキバ産業との共同仕入れを提案し、夫が突っぱねた件だったらしい。



2ヶ月ほど前から、ピカチューがアキバ産業に接近している話を

息子たちから聞くことがあった。

挨拶だの単価の話だのと理由をつけては、社長と頻繁に会っているという。

それについては、次男が何度も忠告した。

「アキバには、あんまり近づかん方がええよ」


10数年前、義父の会社が危なくなった時には

債権者と一緒に来て見物していたアキバ社長だが

数年前から、彼の会社は経営不振で銀行管理に陥っている。

銀行管理とは、その会社に事業資金を貸している銀行が

経営に介入することだ。


銀行がその面倒くさいことをやる目的は

会社の利益の中から、貸した金を一番に回収するためである。

借入金の額が多くなり、返済が滞り始めたので

回収不能になる危険性が高いからだ。


ひとたび銀行管理になると、宝くじに当たったり

画期的な商法を編み出すなど、よっぽどのラッキーが訪れなければ

その状態から抜け出すのは難しい。

抜け出せなければ、何もかも銀行に絞り取られ

まる裸になって倒産するのがお決まりのコース。

アキバ産業の台所事情は、かなり苦しいはずだ。


次男はそのことを踏まえ、無知なピカチューが

銀行管理になっている会社に出入りするのは営業上、危ないと思って止めていた。

落ち目の会社に近づいたらロクなことにならないのは

自分の家が落ち目だったので知っているからだ。


そしてそれ以上に本社は、銀行管理の会社…

つまり、いわく付きの相手と交流するのを嫌悪する。

次男はピカチューが怒られると思い、親切心で止めたのだが

ピカチューの方は

「自分の動きを封じようとしている」

そう受け止めて、次男に反感を持ち始めたと想像するのは容易だ。

それが3月29日の夕方にかかった、酔っ払い電話の真相。

気の小さいピカチューが、呑んだ勢いでやりそうなことである。



ではここに、アイジンガー・ゼットがどう絡んでいるのか。

ピカチューがアキバ産業へ頻繁に出入りしている話と同時に

息子たちから聞かされていたのは

2月あたりから、ピカチューとアイジンガー・ゼットが

仲良しラブラブになったという話だ。

「二人でどっか行くことがあるし、事務所でもベッタリでキモ!」


話を聞く限り、二人のラブラブが始まった時期と

ピカチューがアキバに近づいた時期は、ほぼ一致している。

これでわかるのは、アイジンガー・ゼットが夫を見限り

ターゲットをピカチューに変えたということである。


アキバ社長は50代半ば、その息子は20代後半。

息子は数年前、後継者として父親の会社に入った。

このまま銀行管理に甘んじていると、息子が継承するのは会社でなく

数億の大借金になってしまう。

人の親なら誰でも焦るはずだ。


そこで昨年、起死回生を目指し

アイジンガー・ゼットをうちの事務員として投入。

取引先や単価を把握して仕事の横取りを企て、売上げ増を目論んだが

うまくいかないまま、いたずらに月日は過ぎるばかり。


アキバ社長とアイジンガー・ゼットは、作戦を変更することにした。

夫ではラチがあかないので、何も知らないピカチューに乗り換えたのだ。

ピカチューは自分で営業をかけたつもりだろうが

実際にはアイジンガー・ゼットの御膳立てで

アキバ社長から酒の接待を受けたと思われる。


大酒飲みには酒が効く。

ピカチューほどの飲んだくれであれば

酒さえ飲ませたら何でも言うことを聞くようになる。

そして会社では毎日、アイジンガー・ゼットの優しい接待が…。

営業の経験が無く、今まで島で地味に生きて来たピカチューは気づいた。

「アキバと仲良くしたら、天国じゃん!」

こうして彼は、アキバ一味に取り込まれていったと考えて間違いない。


頃合いを見て、アキバ社長は本題に入る。

「お宅とうちが共同で商品を大量購入すれば

仕入れ値を安くたたけて、お互いに良いじゃないですか。

隣同士なんだから、仲良くしましょうよ」

手柄を立てて本社に認められたいピカチューはこの話に飛びつき

必ず実現すると約束した。


しかしアキバ社長の本当の目的は共同仕入れでなく、本社からの出資。

業務提携だの何だのと言って取り入り、契約を結んでしまえばこっちのもの。

本社の出資で銀行管理を脱出したあかつきには

隣のヒロシ社をどうにかして潰し、アキバが生き残るという甘〜い算段よ。

ピカチューも舐められたものだ。

しかしこれが、アキバ産業なのだ。

だから近づいてはいけないのである。

《続く》
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現場はいま…ピカチューの乱・2

2024年04月06日 08時24分06秒 | シリーズ・現場はいま…


我が家の前も桜が咲き始めました。



早朝の会社で、口論となったピカチューと夫。

「酔うて電話すな、言うとるんじゃ!」

「酔うのはワシの勝手じゃ!」

「パワハラじゃ!」

「お前らの自業自得じゃ!」


怒鳴り合う二人に、やがて決定的瞬間が訪れた。

「ワシの言うことが聞けんのなら、辞めえ!」

ピカチューは、わめいた。

逆上した夫は、間髪入れず怒鳴った。

「おう!辞めたるわい!」

語彙の少ない夫は、持久戦に慣れていない。

ここまで食い下がる人間は、今までに誰一人いなかったからである。

その点、夫はまんまとピカチューの術中にはまったと言えよう。


辞めると聞いたピカチューは、勝ち誇ったように言い渡した。

「月曜日に辞表、持って来い!

ワシの言うことが聞けんモンは皆、辞めえ!

息子らにもよう言うとけ!」


社内の者に向かって辞めろと言うのは、完全なパワハラである。

この言葉を言質に、後からジワジワといじめる方がよっぽど楽しいと思うが

逆上した夫にそんな余裕は無い。

夫は暴力を避けるため、事務所の鍵と

会社から支給されている携帯をピカチューの前に置いて事務所を出た。

長男はダンプがちょうど車検に入っていたので休みだったが

事務所の外には、出勤してきた次男と社員たちが立ちすくんでいた。


そのまま家に帰って来た夫は、一部始終を私に説明し

「そういうことじゃけん、辞めることになった」

と言った。

かなり興奮している様子だ。


こういう時、私の反応は決まっている。

「あんなヤツと働かんでええ。

仕事より、父さんの尊厳の方が大事よ。

今までよく頑張ったね、お疲れ様でした」


この12年だか13年だかに、同じことが何回あっただろう。

ほとんどが、アレら営業所長とのイザコザである。

夫を排除しようとした松木氏は、やがて癌になり

藤村はパワハラとセクハラで左遷された。

夫に楯ついたから、そうなったと言いたいのではない。

色々なことがあっても夫が辞めたことは無いし

分のわきまえを忘れた人間がたどるのは、たいてい厳しい道である。

ピカチューには、どんな運命が待ち構えているのか。

明日からの暮らしより、私にはそっちの方が興味深い。

とりあえず我々夫婦は、その日の有休をゆっくり楽しむことにした。


同じ頃、「大変なことになった」と思った次男は

河野常務に電話をして事情を説明。

…と言ったら良さげに聞こえるが、要するに告げ口である。


腰の手術を数日後に控えて入院中の常務は、話を聞いて驚いたという。

「板野は、そげなヤツか!

酒癖が悪いのは聞いとったんじゃが、そりゃあいけんのぅ。

わかった、誰か行かせるわ。

親父に早まったことするな、言うとけ」

いやもう、早まったことしてるし。


1時間後、常務の差し向けた永井営業部長がやって来た。

次男はその人選に軽く失望したが

また一方で、常務の次に地位が高いのは彼なので

常務がこの問題を重く受け止めていることがわかった。


永井部長、ピカチュー、次男の3人は事務所で話をした。

が、解決には至らなかった。

仲裁役の永井部長が無能というのもあるが、肝心な話になるとピカチューは

「酔っていたので忘れました」

そう言ってとぼけるため、話し合いにならないのである。


ピカチューは危なくなると「酔っていた」で逃げる…

この時、それを知った次男は

彼の電話を録音していることを言わなかった。

永井部長から消去を求められたら、隠し球が無くなるからだ。

この件がもつれた場合、つまり訴訟に発展する最悪の事態に備えて

保存しておく必要がある。

永井部長ごときに聞かせて、満足していてはいけない。

事実をわかってもらえたと、勘違いしてはいけないのだ。


上の人間は本能的に、会社を守るために動く。

それが自分の地位と収入を守ることになるからで

シモジモの不利益に興味は無い。

よって、聞いた後は必ず消すように命令する。

会社支給の携帯なので、拒否はしにくい。

消さない権利もあるにはあるが、そうすればさらに揉め

問題を起こした下手人が、ピカチューから自分へとすり替わってしまう。

本社と合併して以来、次男も学習したのである。


ピカチューから事実を聞き出せず、諦めた永井部長は

「酔って社内の者に電話をかけるのは良くない」

そう言って帰って行った。



夜になった。

夫の興奮は冷め、落ち着いてきたようだ。

彼は感情を顔に出さないタイプだが、かなり凹んでいるのは感じ取れる。

「辞める」と言ったことを後悔しているのだ。

そうさ、辞めるべきはピカチューであって夫ではない。


翌日の31日は日曜日なので

あと1日ぐらいはそっとしておきたかったが

我々夫婦は早急に話し合っておくべきことがあった。

手術が翌週の木曜日に迫っている河野常務は、数日中に必ず動く。

それまでに、できるだけ多くのことを夫から聞き出し

事態が動いた時に備えて、受け答えの指導をしておく必要があるからだ。

ピカチューが、都合が悪くなると

「酔っていた」で逃げる人間と判明したからには

このままでは済まない気がしてならない。


酔っていた…それは一種、見事な逃げ方だ。

トカゲは危険を感じるとシッポを切り離し

一目散に逃げて自分の身を守る。

世間ではそれを“トカゲのシッポ切り”と呼んで

都合の悪い人間をいとも簡単に切り離す冷淡を表現するが

今回はその逆バージョン。


どういうことかというと

「酒に酔って電話をかけた」

周囲の非難をこの一点に集中させ、他の重要案件を

「酔っていたから忘れた」で終わらせれば

公になる事実は、酔って電話をかけたことのみ。

先に「ごめん」で済む小さい傷を負っておき

他の大きな危険は「酔っていたので忘れた」で回避する…

なかなか高度な手法である。


一見、朴訥なピカチューにそんな能力があったとは…

私は感心する一方、彼の言動に疑問を感じていた。

まず、突然、酒に酔って次男に強気の電話をしてきたのがそうだ。

これを逆に考えると、酒の勢いを借りなければ

言いたいことが言えなかったということになる。


そして酒を飲んでまで言いたかった事柄というのが

「言うことを聞かない」。

これを逆に考えると

彼にはぜひとも従って欲しい事柄があるらしい。


その従って欲しい事柄とは一体、何ぞや?

酔っ払いの電話や勝手な退職勧告の裏に

もっと大きな問題があるような気がしてならない。

ピカチューの言動は、それほど不可解なものなのだ。


夫からちゃんと事情を聞いてデータを集め

次の一手を決めておかないといけないが

私は夫が何かを隠しているような気がした。

肝心なことを隠して説明するから、不可解ばかりが目立つ。


では、夫が私に隠している事柄とは…

女絡みに決まっとるやんけ。

おそらくそれが、この一件のキモだ。

《続く》
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現場はいま…ピカチューの乱・1

2024年04月03日 20時37分39秒 | シリーズ・現場はいま…

好きな花は、山桜。

桜よりも山桜。

誰に賞賛されることもなく、ひっそりと

一生懸命咲いている…

私はそんな花が好き。



さて、いよいよ四月、新年度が始まった。

気持ちも新たに、昨年10月からご無沙汰だったシリーズ

『現場はいま…』を語らせていただこう。



64才の板野さん、通称ピカチューは本社直営の営業所長として

我々の会社に赴任して1年を迎えた。

合併を繰り返して大きくなった本社は、合併先に営業所を設置し

営業所長の肩書きを付けた中高年を一人置くことにしている。

表向きは、それぞれの地元における販路拡大と子会社のサポートだが

本社や支社のいらないオジさんを配属するのだから

販路拡大やサポートなんかできるわけがない。

実際は、子会社の者が勝手なことをしないように監視する役割である。


ピカチューは、我々が本社の傘下に入る10年ほど前に本社と合併した

島しょ部の生コン会社に長く勤めていたが

定年エイジになったので、こちらへ回された。

赴任当初は、前任の松木氏や藤村と違って

田舎のおじさん風の外見に、我々は安堵したものだ。


ただ、ハゲ頭や鼻、頬が異様に赤く

いつも風呂上がりのタコみたいなので、焼酎好きと見ていた。

焼酎は糖質が少ないので日本酒やビールよりマシかもしれないが

日焼けを繰り返すと額や鼻、胸が赤くなり、元に戻らないのが難点。

仕事のかたわら稲作に勤しむ彼の酒量は、相当多いと思って間違いない。


それはともかくこの人、最初は普通だった。

何をしていいやらわからず、借りてきた猫のようにおとなしかったのだ。

けれども今年に入ってから

だんだん松木氏や藤村を彷彿とさせる言動が目立ち始めた。

わけわからんことに口を挟むようになり

見当違いの指示を出したがるようになったのだ。


誰が来てもそうなるのは、前任者の二人でわかっている。

年を取って、いきなり与えられた営業所長の肩書きに張り切るものの

何もわからなくて暇を持て余すしかない日々…

腐っていくのは時間の問題よ。


だって、何もわからないのは誰でも辛い。

そのわからないことを何度もたずねるのも、辛い。

たずねてもやっぱりわからないとなると、さらに辛い。

ましてや老人にとっては、なおさらだ。

辛いことは、だんだんやらなくなる。

そして暇が訪れるというわけだ。


持て余す暇の中でムクムクと湧き上がるのは、まず夫への憎しみ。

なぜって、夫は無口かつ口ベタだもん。

いつまで経ってもわからないのは、わかるように説明してくれない夫が悪い…

彼らなりに苦しんだあげく、おしなべてそういうことになる。


憎しみの次は、野心。

「憎たらしいこいつを追い出して自分が成り代われば

会社を自由にできるのではないか」

わからないという現実に疲弊したオジさんは、夫の排除を模索し始める。

そうすれば自分がトップになって全てを決めればいいので

わからないことは無くなるという算段だ。

ここで本来の仕事である監視の強化が始まり

あとは告げ口、密告、嘘に芝居が繰り広げられるという安定のコース。

暇だとロクなことを考えないのは、どこでも同じだ。


我々は、ピカチューもいずれそうなると思うようになった。

しかし、パンチパーマでヤサグレ風を装う松木氏は1ヶ月

ソフトモヒカンで半グレ風を装う藤村は3ヶ月でその片鱗を見せ始めたが

農耕民族のピカチューは、この病いへの罹患がもっと遅いと考えていた。

もっともピカチューは髪の毛の問題により、パンチパーマもソフトモヒカンも不可能。

ヘアスタイルからのデータが得られなかったため

我々が勝手に普通と思い込んでいたのかもしれなかった。


「できればピカチューが野心をむき出しにする時期より

彼か夫の退職の方が先になればいいけど…」

私はそう願っていたが、彼がとうとう勝負に打って出たのは先月末。

正確には3月29日の午後6時9分であった。


仕事が終わって我が家に寄り、家族と一緒に夕食の席に着いていた次男は

ピカチューからの電話に出た。

するといきなり、彼の怒鳴り声が聞こえるではないか。

「お前!何でワシの言うこと聞かんのじゃ!

勝手なことばっかりすな!」


次男は食事中の周囲をはばかり、途中で席を立って別室へ行った。

以後10分間に渡り、身の毛もよだつ怨みつらみの怒号が続き

「ワシは酒飲んどるけんの!」

ピカチューは合間で何度もそう言ったという。

午後4時半には普通に退社して

それから小一時間かけて山奥村の自宅に帰り

6時には早くも酔っ払ったようだ。


そして最後は

「今度のバーベキューに、ワシを送迎せぇ!

ええか!わかったな!」

そう言って電話は切られた。

ちなみにバーベキューとは

事務員のアイジンガー・ゼットの発案で開催することになった会社の花見。

あの女、まだバーベキューを諦めていなかったらしい。



さて、いきなり怒鳴られた次男は怒り心頭。

夫には言いにくく、きつい長男では返り討ちに遭うとわかっているので

人当たりが良く最年少の次男をターゲットにしたのは明白だ。

次男もそれは承知していて、時々ピカチューの話し相手をしているが

こんなことは初めてなので、いささか当惑していた。


ともあれ酒に酔って勤務時間外に仕事の文句を言うのは

立派なパワハラ。

労基へ訴えたら、一発で有責になるスペシャル案件である。

次男がこの電話をきっちり録音していたのはともかく

昼間は普通に事務所に居て、普通に帰宅したピカチューが

なぜ豹変したのか。

そして彼の主張する“言うことを聞かない”

“勝手なことばっかりする”が、何を指しているのか。

これは大きな疑問だ。


「酒乱なんだろう」

とりあえず、そう解釈するしかなかった。

「明日、会社行って文句言うてやる」

夫は皆に言った。


そして翌日。

この日は土曜日で、夫は有休を取っていたが

朝一番に会社へ行き、出勤してきたピカチューに抗議した。

「板野さん、酔うて息子に電話するのはやめてくれ。

言いたいことがあるんなら、ワシに直接言えや」


これで終了と思っていた夫。

しかしピカチューは、ひるまなかった。

「酔うて電話して、何が悪いんなら!

お前らが、ワシの言うことを聞かんけんじゃろうが!」

赤ら顔をますます赤くして、そう怒鳴ったという。


夫は、この反撃に驚いた。

亡き父親からはさんざん罵倒されたが

他人からこのような暴言を吐かれるのは生まれて初めてだ。

松木氏や藤村の方が上品に思えるような

ピカチューの態度に逆上した夫も怒鳴り返す。

「なに〜?!誰にモノ言うとんじゃワレ!」


ピカチューも負けてはいない。

「お前らが悪いんじゃ!ワシの言うことを聞かんけんじゃ!」

売り言葉に買い言葉、二人は激しい口喧嘩になった。

《続く》
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現場はいま…トリオ・4

2023年10月30日 08時46分54秒 | シリーズ・現場はいま…
話は少し戻るが

重機アシスタント、シゲちゃんの操作ミスによって

夫の車の右半分が潰れた日。

この惨状を見に来いと、夫から連絡があったので会社へ行った。

そこへ、修理工場の車両運搬車が到着。

ガラスが割れて運転できないため、運搬車で移動させるのだ。

修理工場の人と話をした後、車は引き取られて行った。


事務所にはアイジンガー・ゼットがいる時間だが

どこもかしこも厳重にブラインドが降ろされているので

中の様子はわからない。

私が会社に近づく時は、外から見えないようにしてあるのだ。

彼女と顔を合わせないための、夫の配慮である。

私はある意味、事務所に出禁らしい。


全然、構わん。

もっと怖がればいい。

そこまで女房が怖いのであれば

最初から妙なことはしない方が賢いとは思うが

これもまた色道の一興。

隠してヒヤヒヤするスリルも、密室で息を潜めるスリルも

アレらにとっては必要な栄養だろうから放置。


事務所の前の駐車場にはアイジンガー・ゼットの車と

彼女が昼食を食べに自宅へ帰るための社用車が並んでいた。

夫と義母が2月に事故に遭って以来、乗らなくなり

アイジンガー・ゼットが昼休憩に帰るアシになった、あの軽自動車だ。

メチャクチャになった事故車にドアや部品をくっつけ

どうにか元の形に成型したシロモノなので、彼女が使うことに異議は無かったが

この子、悪運が強いらしくて未だに何事も無いとは残念だ。


その車のルームミラーには、緑色のマスコット人形がぶら下げてある。

体長10センチ弱の、怪獣のぬいぐるみだ。

他人の物に自分の痕跡を残してアピール…

よその旦那にちょっかいを出す人種に見られる、マーキングである。


持論が当てはまり、非常に満足する私。

この手の女って、他人の物と自分の物の区別がつかないらしくて

すべからくこれをやる。

ぬいぐるみをぶら下げて可愛ぶるのもいいけど、たまには車を洗わんかい。

ホコリで真っ白じゃないか。


しかしこれも、この手の女のあるあるじゃ。

飾るのは好きだけど、掃除は嫌い。

そして可愛い物は好きだけど、やることは可愛くない。


可愛くないのは見た目だけにしてもらいたいのはともかく

その可愛くない中で最も困るのは、不用意な発言で社内の空気を乱すこと。

例えば事務所で社員の誰かが、その場にいない他の誰かのことを話した場合

その内容を本人に、あるいは無関係の人に伝えてしまう。


こういう話になる時はたいてい、あんまり良い話ではない。

「今日は寝癖がすごい」

「あの人はよく休むから、有休は残ってないかもね」

私も事務員の経験があるのでわかるが

さまざまな人が出入りする事務所に座っていたら

重大なことから些細なことまで、たくさん聞こえるものだ。

事務員の仕事はもちろん事務だけど

聞こえたことを聞き流すのも仕事のうちと思って働いていた。

世間の事務員の大半は、そうだと思う。

ことに守秘義務のうるさくなってきた昨今

事務所で耳にしたことを事務員がしゃべりまくっていたら

内容によっては大変なことになる。


しかしアイジンガー・ゼットは、伝えなければ気が済まない。

「◯◯さんの寝癖がすごいって⬜︎⬜︎さんが言ってたよ」

「有休が残ってないんだって?」

それを親切と思っているのか、情報の発信元になるのが好きなのか

内部を分断させるのもスパイの任務なのかは知らないが

彼女はそれも仕事の一部だと思っている様子。


いずれにしても、聞かされた方は面白くない。

実際に彼女の入社以来、言った言わないでゴタゴタすることが増えた。

社内の人間関係は、こういうところから少しずつ崩れていくものだ。

この分だと、ピカチューのニックネームも

とうの昔に本人へと伝わっていることだろう。

平然としているピカチューは、立派だと思う。



ところでアイジンガー・ゼットは、埼玉県出身。

月に一度、一週間の休みを取って実家に帰省するのが習慣だ。

前任のトトロもそうだったが

私が3日でやっていた仕事を1ヶ月かけてチビチビやるのだから

一週間休もうと半月休もうと支障は無いので自由にさせている。


同じ会社で働く次男は当然、アイジンガー・ゼットが帰省する日を知っている。

教師志望の彼女は事務所のホワイトボードに連絡事項を書くのが好きで

自身の帰省休暇もデカデカと書き込むため、嫌でもわかるのだ。


…と、次男が言うには、彼女が帰省したその晩から

彼女の家に別の女性が滞在するんだそう。

アイジンガー・ゼットの旦那と手を繋いで散歩に出たり

車でどこかへ出かけるのを、次男夫婦はそれぞれに目撃するようになった。


そしてアイジンガー・ゼットが戻って来る前の晩

その女性は車でどこかへ去って行く。

これが毎月、繰り返されているという。

何しろ、お互いの住まいは向かい合わせ。

見るつもりは無くても、見えてしまうのだ。


つまりアイジンガー・ゼットはアキバの社長と不倫しているつもりだが

旦那は旦那で女房の留守によその女を引き入れ

ホテル代の節約を兼ねて新婚気分を楽しんでいるらしい。

どっちもどっちの似たもの夫婦だ。


アイジンガー・ゼットは、このことを知らないと思う。

なぜって、愛人体質の女は嫉妬深い。

自分の留守に別の女が入り込んでいると知ったら、とても平常心ではいられまい。

仕事どころではなくなるだろうし、子供がいないので早期の離婚も考えられる。

が、彼女の身の上に変化が無いところをみると

何も知らないから結婚生活が続いているし

毎月のん気に帰省できるのだと思われる。

浮気がしたかったら、遠くから嫁をもらうのも手かもしれない。

実家が遠ければ、帰省が長くなる。

その間、浮気亭主はパラダイスだ。


このように、何かと話題のアイジンガー・ゼット。

夫は彼女が原因で会社が揉めるたびに、つぶやく。

「早よう辞めてくれんかのぅ」

恋は好きでもゴタゴタは嫌いな彼らしい発言。

邪恋にゴタゴタは付きものなんだけど、まだわかってないらしいのはともかく

学びの無い彼は、私に冷たく言われるのだ。

「誰が入れたんじゃ」


そんな不都合なことなど、とうに忘れ去っている夫は

彼女が教員採用試験に合格して、来年にはうちを辞める予定だと言う。

しかし、それは欲目だ。

何年も落ち続けてきたのが、急に合格するとは思えん。

そもそもアレを合格させたら、県教委の目は節穴じゃ。


それ以前に、この人は教師に向いてない。

言っていいことと悪いことの区別がつかないだけでなく

愛人稼業の片手間に先生なんかされたんじゃあ、子供がかわいそうだ。

また、念願叶って節穴をかいくぐり、なんとか合格したとしても

すぐ問題教師として糾弾されて続かない気がする。

採用にあたって使用される税金の無駄遣いだ。

試験に落ち続けてうちに居る方が、世の中のためになるかも…

それも広い意味では社会貢献…

などと考える秋である。

《完》
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現場はいま…トリオ・3

2023年10月25日 14時27分26秒 | シリーズ・現場はいま…
単位の変更を却下され、次は配車に手を出して怒られ…

前任の松木氏と同じ道を辿るピカチュー。

彼が松木コースを歩むつもりであれば

次は港湾事務所に船舶の着岸許可の印鑑をもらいに行くなどの

猿でもできる単純な用事を発見して夫から奪い

本社に向けて、さも重要な仕事をしているかのように振る舞うはずだ。


彼らは、責められるのをひどく恐れる。

何もわからないんだから誰も責めはしないのに、一人で勝手に恐れ

その恐怖を払拭するために、どんなことでもやってしまう。

何もわからないからこそ、周囲にとって迷惑なことを平気でやってしまうのだ。

うちには未経験の年配者が赴任するとこうなるという前例が二つあるので

おそらく間違いない。


それらをマスターしたら、ほどなく本社への告げ口が始まる。

暇にあかせてこちらの日常を観察、大袈裟に報告して

本社の視線を自分から遠ざけるのだ。

並行して、こちらの仕事を横取りして自分の成績にしようと企むようになり

やがては夫を追い出して自分が成り代わろうとするようになるのが松木コース。


が、ピカチューの場合、そこまで進まないと思われる。

なぜなら彼は、松木氏や藤村のように

職を転々とするうちに歪んだテンテン族とは毛色が異なる。

のどかな島の生コン工場へ何十年も勤続した真面目人間であり

仕事の傍ら、山村の自宅周辺で稲作に従事している農耕民族だ。

つまり勤続の信用と農業の退路を持っているため、切羽詰まった飢餓を感じない。


さらに彼は松木氏や藤村と違って本社直接雇用でもなく

本社営業部の一員でもない。

つまり前任者とは雇用条件が異なるため、成績ゼロを責められて苦しむことは無い。


しかも62才という、ピカチューの年齢的ネックが存在する。

松木氏と藤村が中途採用でいきなり営業所長に抜擢され

こちらへ着任した頃はどちらも52才。

転職を繰り返したために少ないであろう年金を案じ

来たるべき老後に向けて野心をギラギラさせながら、最後の一発勝負に賭けていた。

が、ピカチューに残された時間は少なく、追い落とすターゲットである夫も同様。

どちらもじきに引退だから、人を蹴落としてまで自分が居座る必要性が無い。

前任の二人より、気楽ではないかと思われる。

ただしあからさまな悪人より、悪気の無い善人の方が

取り返しのつかない大胆なことをやらかす場合があるので

油断しないでおこう。



さて、ここまではシゲちゃんとピカチューに触れた。

タイトルにあるトリオのトリを飾るのは

言わずと知れた事務員のノゾミ42才…通称アイジンガー・ゼット。

彼女は相変わらず、勤めてくれている。

性格はともかく、頭が良いので仕事はスムーズだ。

他のことはどうでもいい。


夫は、彼女が隣のライバル会社、アキバ産業の社長と愛人関係で

うちのデータを盗むために夫に近づいたことが判明しても

「ノンちゃん」と呼んで可愛がってきた。

あれ、浮気者特有の心理なのよね。

他人のものとわかっても、騙されたと知っても

一回握ったロープは向こうが切るまで離さない。

それを未練がましいと呼ぶんだけど、本人はそうじゃない。

最後の最後まで、可能性は残しておきたいらしい。


「会社に入れたら絶対バレるのに、何でわかりきったことをやらかすの?

やっぱりバカでっか?」

そんな疑問をお持ちの方もいらっしゃるだろう。

バカは認める。


ともあれ社内恋愛で結婚された方は、けっこうおられると思う。

恋愛中は楽しかったし、楽しかったから結婚なさったはず。

秘密を持つのは楽しいし、公になって冷やかされるのも楽しいものだ。

しかしそうなるには、たまたま同じ会社だった…

たまたま同じ部署になった…

たまたま社内のレクリエーションで話すようになった…

など、偶然の出会いという条件が必要になってくる。


一方、自分で人事を決められる自営業者は、そのシナリオを自分で書ける。

言うなれば、社内恋愛の自作自演が可能になるわけだ。

会社で偶然出会うのではなく、好きな人を会社に入れてしまえば

その日から楽しい社内恋愛が始められるではないか。

めぼしい女性の入社を待つより

最初から自分のオンナを入れた方が早く楽しめるという寸法よ。



というわけで、少なくとも夫の方は

嬉し恥ずかしラブリーライフを送って7ヶ月が経過。

夫が楽しければ、私は嬉しい。

毎日、命の洗濯をして、できるだけ長生きしてもらいたい。

年金、あてにしてるからね!


だけど近頃は、さすがの夫も熱が冷めてきた模様。

というのも5月に結婚した次男の新居は、会社にほど近い地域にある。

そのアパートは、夫が毎日通っておしゃべりをする青果店の持ち物。

安く貸すから住んで欲しいと言われ、一も二もなくそこに決めた。


次男のアパートの何軒だか隣には、アキバ産業の本社事務所があった。

さらに住み始めて知ったのだが、アイジンガー・ゼットが旦那と暮らす一軒家は

次男のアパートの向かいだった。


ご近所だとわかり、お互いに驚いた二人。

その時、家賃の話になって、彼女はこともなげに言った。

「ここ、アキバ産業の社宅だから、家賃はタダ同然なのよ」

バブル期の先代たちは、会社の近くに物件が空くと競って買い求めたものだ。

その名残りの家らしい。


それはさておき、アイジンガー・ゼットの旦那とアキバ社長は

ニコイチと呼ばれるほど確かに仲がいい。

が、いくら仲良しでも、住居まで与えてもらうのは不自然だ。

アイジンガー・ゼットの旦那はアキバの社員ではなく、隣町にある工場の後継者。

昔はアキバ産業より、ずっと大きな会社だった。

歴代の社長一族は旧家の名士で通っており

昭和期になって雨後のタケノコのごとく出現した

うちやアキバ産業のような建設業とは格が違う。


今は落ち目とはいえ、その末裔がよその会社の社宅へ転がり込むなんて

男のプライドは無いのか…

それともあの家は、アイジンガー・ゼットの愛人報酬なのか…

モヤモヤした次男は、夫にこの件を話した。

ノンちゃん夫婦がアキバ社長と色々な意味で親密なのは夫も知っていたが

そこまでとは思わなかったので、びっくりしていたそうだ。


以後、私も夫の体温低下を感じる。

アイジンガー・ゼットが、完全にアキバの手の者と認識したのだろう。

あからさまな変化は無いが、出勤する時におしゃれをしなくなったように思う。

新しい服も欲しがらなくなったし、月に3回の散髪の頻度も下がった。

乙女か。

《続く》
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現場はいま…トリオ・2

2023年10月22日 09時01分41秒 | シリーズ・現場はいま…
重機を制する者は、現場を制す。

得意の重機をとっかかりに、采配を振るう予定でいたピカチュー。

しかし早晩、彼の実力では無理と判明した。


夢破れた彼が次に何をしたかというと

うちで使っているm3(立方メートル)という単位を

彼が長年、慣れ親しんだt(トン)単位に変えてくれと言い出す。

生コン出身者は、この単位の違いに強い違和感を感じるらしい。

同じ生コン出身の松木氏も、着任してからしばらくは同じことを言っていた。


なぜって、学校でも職場でも

チンプンカンプンで何もわからないのは辛いものよ。

仕事を覚える以前に、最初の一歩である単位でつまづいたら最後

年配者の硬い脳には何も入らなくなり、別世界に迷い込んだような孤独の淵で

新人の位置に甘んじ続けるしかない。


年を取ると、わからない状態を続けるのが恥ずかしくなる。

わからないうちは、他の皆より下っ端だからだ。

お飾りの肩書きを与えられ、意気揚々と着任したはずの年配者にとって

これは実に苦しい状況と思われる。

一日も早く慣れて、営業所長という肩書き通りに振る舞いたい…

そんな焦りに苦しむようになるのは、松木氏をつぶさに見てわかっていた。


前任の藤村や松木氏より、善良なだけマシなピカチューも62才。

したたかなオジさんであることに変わりはない。

オジさんはやがて、この苦しみから脱出するスベを発見するのだ。

「何もわからないのは自分が劣っているからではなく

単位が違うからではないのか。

慣れている単位に変えさえすれば、自分にもわかるのではないか」

何ヶ月か経つとそう錯覚し始め、単位の変更を主張するようになる。


が、言われるままに単位の変更を認めてしまったら

従来のm3にいちいち掛け算をして、tに換算しなければならない。

単位を変える行為は、現在の日本で使われているメートル法を

インチや寸に変えるのと同じことだ。

我々の業界にとって単位の変換は、法律を変えるほどの暴挙であり

本社を含めた内部にも、取引先にも混乱を引き起こすのは明白。


しかし彼にはその意味すらわからず

「トンに変えれば自分にもわかるのに」

と再三訴えては変更をねだる。

単位を変えても、わからないものは永遠にわからないことを夫は知っていた。

こんなバカバカしいことを思いつき、臆面も無く口に出すような者は

そもそもこの仕事に向いてない。

それすらわからないのも、入社した頃の松木氏と全く同じである。


夫がなかなか首を縦に振らないことに焦れたピカチューは、この時点で言い出す。

「僕は本社直轄の営業所長なのに…」

つまり子会社の者は、本社直轄の言うことを聞けと言いたいのだ。

この発言も松木氏と全く同じだった。


単位の変更に続いて本社直轄を振りかざすピカチューは

夫の中で松木氏と重なった。

せっかくいなくなったのに、また同じことの繰り返しか…

絶望した夫は厳しく言った。

「この業界には、足を踏み入れたらいけん領域がある。

それ越えたら、わしゃ噛みつくど!」

年上の松木氏には、言いたくても言えなかった言葉だ。

「これでようやく、単位のことを言わなくなった」

夫は私に報告した。


松木氏の方が一つ年上ということで、夫は我慢に我慢を重ねてきた。

その結果、どこまでも増長させてしまった反省を踏まえ

「年下のピカチューには強気で行きんさい」

彼の着任が決まった時点で、私は夫に言い聞かせたものである。

しかし今回の夫の発言は、抽象的過ぎると感じた。


右も左もわからないうちから単位の変更を言い出して

アウェーを自分のホームグラウンドにしたがるような者は、元々勘が鈍い。

ことに商売の勘が鈍いから、そんなことを言い出せるのだ。

鈍い奴に、領域の境界線なんか見えるわけがない。

よって、これでは終わらないだろうと思った次第である。


夫の剣幕に驚き、単位の変更を諦めたピカチュー。

最近は配車に興味を持ち始めた。

初心者にはこの配車が、暇つぶしに持って来いの良さげな仕事に見えるらしい。

ある日の夕方、近くの取引先を訪問し、在庫を確認して長男に直接連絡。

「かなり減ってるから、明日は多めに行って。

1台につき6往復ぐらいのつもりでね」


いきなり言われた長男は、腹を立てた。

突然、配車の仕事を奪って見当違いの指示を出し

仕事をしたつもりになっている厚かましさが

長男の天敵、藤村を彷彿とさせたからだ。


取引先の在庫が減っているのは、子供でも見たらわかる。

近い取引先へ一軒だけ行って在庫を確認したところで

他の取引先との兼ね合い、こちらの在庫や入荷の予定

運転手のスケジュール、さらに天候を無視して配車はできない。 

ダンプを遊ばせないように、さりとてオーバーワークにならないように

うまくコントロールするのも配車の大事な仕事である。


藤村もそうだったが、ピカチューも

取引先の在庫が切れて操業がストップするのを恐れる。

が、それこそ初心者特有の無駄な恐怖。

全車が一軒の取引先に集中したら、出入り口や納品ポイントで渋滞が起きる。

順番待ちのためにかえって時間がかかり、スムーズな納品が難しくなるのだ。

取引先が在庫切れを起こさないよう、さりとて過剰納品にならないよう

そしてこちらはダンプが無駄な燃料を炊かず、残業にもならないよう

つまるところは利益を出すために各方面をやりくりするのも配車のうちである。


一見、誰でもできそうな配車だが、実はこのように奥が深い。

勝手なしろうと考えで台数と往復回数を決めて

失敗、つまり損益が出たら誰が責任を取るのだ。

先の先まで見越す勘と経験が無いから、いきなり配車をしたくなるのであり

そんな人間は絶対に責任を取らない。

しろうとがいきなり配車を奪うのは

夫を始め運転手たちに対する冒涜に他ならない。

我々の業界で配車に口を出すとは、そういうことである。


長男から話を聞いた夫も怒った。

単位の変更が未遂に終わった松木氏も、一時は同じことをやったし

あの藤村なぞ、そのまま配車の仕事を奪ってしまい、損益を出し続けた。

さらにはピカチューまで同じ道を歩もうとしているのだから

腹が立たないはずが無い。


しかし感情的なものばかりでなく、物理的な問題もあった。

翌日の予定は決まっているのに、夕方になって変えるわけにはいかない。

重機を扱う夫は、取引先にいちいち行って目視しなくても

ダンプに積み込んだ商品の数量で向こうの在庫状況を把握している。

退屈しのぎに取引先までドライブした人に

納品の台数と数量を勝手に決められても困るというものだ。


よって、配車も足を踏み入れてはならない領域だと

ピカチューに説明した。

配車をやって喜ばれると思っていた善良な彼は、かなり当惑していたそうだ。

こちらへ来て8ヶ月、彼は今この地点にいる。

《続く》
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現場はいま…トリオ・1

2023年10月20日 14時03分50秒 | シリーズ・現場はいま…
会社は今、安定している。

私の言う安定とは、ひどく忙しくもなく、さりとて暇でもなく

車両の故障や揉め事などの問題も多少ある日常のこと。

会社にまつわる安定、順調、平穏とは、そういう状態を指す。

人間が生きていれば、毎日色々あるように

会社も生きているんだから、色々あって当たり前だ。


つい先日も夫のアシスタント、シゲちゃんが重機の操作を誤り

夫の自家用車は右半分が潰れた。

たまたま、駐車場でない場所に車を置いていたのが敗因である。

軽く“お察し”のシゲちゃんは、イレギュラーに対応できないのだ。


ショック?無い無い。

怪我人が出なくて良かった…他の人の車じゃなくて良かった…

我々夫婦はこの幸運を喜んだ。

これしきのことで怒りや衝撃を感じていたら

とてもじゃないけど建設業界で生きては行けない。


重機にも保険を掛けているので修理費用は出るが

半分潰れた車は2月に起きた夫と義母の交通事故を彷彿とさせ

直して乗る気にはなれない。

廃車にして、別の車を買うことを即決。


夕方になって、シゲちゃんがうちへ来た。

夫はいつものように青果店で遊んでいる時間だったので、私が応対。

彼は青い顔で、お詫びの印らしきお菓子の箱を差し出し

「今日はすみませんでした」

と謝った。


彼をちゃんと見たのは、この時が初めてかも。

10年ぐらい前、彼と次男が山口へフグを食べに行った帰りに

新幹線の駅へ迎えに行ったのが初対面だったが

当時40代後半の彼は一言も発せず、後部座席に座ったまま。

夜だったので姿はよく見えず、声も聞いたことはなかった。


一昨年、うちへ入社してからも、あんまり見たことは無い。

慣れない人と接触するのが苦手らしく、重機の中へ逃げているのだと思う。

その印象から、小さくて痩せた男を想像していたが

実物はメガネをかけた恰幅のいいおじさんだった。

謝罪の言葉も、しっかりした話し方。

人見知りの彼にしては、ものすごく頑張っているのではなかろうか。


「ここに来るまでドキドキしたんじゃないの?

申し訳なかったわねぇ。

誰にも怪我が無くて良かったのよ」

と言ったら

「いえ、これは怪我のある無しの問題じゃなく 

僕はぶつけたことを謝りに来たのであって…」

と説教じみて言う。

「あの車はもう古いんだから、気にしないでくださいね」

と言ったら

「いえ、これは古い新しいの問題じゃなく…」

また説教だ。


人付き合いが苦手で、ろくすっぽ挨拶もできず

いつもオドオドしているにもかかわらず

自身の感覚にヒットしたフレーズに対しては

言葉尻を取って饒舌になり、小理屈をこねる…

ここらが“オタク系お察し”のユエンじゃ。

こういうところが人をナメているように受け取られ

嫌われたりいじめられたりするのだが、本人は気づかないまま一生を送る…

こんな人、時々いる。

夫の苦労がしのばれた。


とにかく菓子折りを受け取って欲しいようなので、受け取った。

包装だけは派手なレーズン入りクッキー。

もっと美味しそうなの、くれや。



さて、肺癌で引退した松木氏の後任として

4月からこちらに配属された板野さんは、やっと慣れてきたところ。

社員から密かにピカチューという、可愛いらしいニックネームも付けられた。

ネーミングの由来は黄色いからではなく、頭部の輝きである。


慣れてきたというのは

何もわからない…何もすることが無い…何もできない…

その状態から何とか抜け出そうとし始めたこと。

つまり、今のところは順調に松木氏を踏襲している。


長年、島しょ部の小さい生コン工場で所長をしていたピカチューは

重機のスペシャリストという鳴り物入りでこちらへ赴任した。

本人も大好きな重機を扱えるとあって、やる気満々。

シゲちゃんが役に立たないため、我々夫婦は喜んだものだ。

夫も本社も、ピカチューが重機オペレーターとして使えそうならば

いつ低血糖で倒れるかわからないシゲちゃんの肩叩きを敢行する腹だった。


が、その目論見は一瞬で打ち砕かれる。

ピカチューの実力は、シゲちゃん以下であった。

下手というのではなく、業種の違い。

生コン工場で重機を扱っていた…

このプロフィールが、我々の運搬業界に通用しなかったのである。


ピカチューがやっていたのは

資材を右から左へひたすら移動させ続ける行為。

しかしこっちの職場は、商品をダンプに積み込まなければならない。

ダンプは、荷台に積み込まれた商品を乗せて公道を走る。

重心が偏ってカーブや急ブレーキで荷崩れを起こさないよう

バランスを考えて積むのが鉄則だ。


最もバランスの良い荷姿(にすがた)は、縦長の美しい台形。

ダンプの運転手は、この荷姿に強いこだわりを持つ。

醜い荷姿とは、重心が偏っていることであり

重心が偏ると、ダンプはその重みで斜めに傾く。

傾いたダンプを運転するのは危険防止と美意識の両面において

恥以外のなにものでもない。

美しい荷姿で送り出してくれる重機オペレーターのいる会社で働くことは

ダンプドライバーの誇りである。


シゲちゃんも荷姿にこだわらないので、運転手にひどく評判が悪い。

夫の留守や来客中に、ごゆっくりさんの彼が積込みをすると時間がかかる。

そして遅いわりには雑。

彼にとっては積むことだけが目標であり

バランスや美しさといった付属的なことは考えられないようだ。


ともあれシゲちゃんのようにダンプの運転をしたことがない人は

運転手が何を求めているのかがわからないので、向いてないと言えよう。

ましてやダンプの運転どころか、ダンプ積みも未経験のピカチューに

美しい台形を素早く形成できるはずは無かった。

島の工場で使っていた旧式の重機と違い

こちらで使っているコンピュータ制御の新型も扱いにくいようで

ピカチューは早々に重機オペレーターの路線を諦めたのだった。

《続く》
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現場はいま…BBQてん末・2

2023年07月21日 09時29分37秒 | シリーズ・現場はいま…
梅雨どきにバーベキューは困難と、今さら気づいたものの

ヒロミの推奨するお好み焼き屋では

歓送迎会としてのグレードに問題がある…

アイジンガー・ゼットと女王から

やいのやいのと言われてウンザリした夫は私に意見を求めた。


この場合、多くの人は言うだろう。

「お好み焼き屋でいいじゃないか」

私も面倒くさいので、それでいいじゃないかと言いたい。


しかし、簡単には決められない事情があった。

今回の歓送迎会の予算は我が社からではなく、本社から特別支給される。

いつになく機嫌の良かった河野常務が、気まぐれで言い出したことだからだ。

ということは領収書が本社に行き、どこで開催したかが知れ渡る。


本社は新年会や忘年会、歓送迎会などのイベントを

ことのほか大事にする所だ。

その大事な歓送迎会を、カジュアルなお好み焼き屋で開催したとなると

常務から小言を言われるのは必至。


会社組織というものは、建前で回っている。

平素はどうあれ、歓送迎会では

長く勤めてもらいたかったが、病気でやむを得ず引退する松木氏…

常務自ら抜擢し、忙しいのを承知でこちらへ配属した板野さん…

急きょ、そのように特別な存在に祭り上げられるものだ。

この特別な二人をお呼びする場所がお好み焼き屋では

イベントの格式が、かなりダウンしてしまう。

夫もそれを懸念していた。


店名もいかん。

店主の苗字をもじった“◯◯ちゃん”という、カジュアル中のカジュアル。

あのふざけた名前の領収書が本社へ回され

気位だけは高い人々の目に触れたあかつきには

「やっぱり田舎」と失笑を買い、常務に恥をかかせることになりかねない。

強引な手腕でのし上がった彼は、社内に敵が多いのだ。


さらに儲からないので閉じてしまったが、本社には数年前まで

高級店やチェーン店を複数抱える飲食部門があった。

そのため食通を気取る人口割合が多めで、食に関しては変にうるさい。

閉じた飲食部門の中には高級鉄板焼きの店があり

市内の一等地で目玉が飛び出るような料金を取っていたが

広島で鉄板焼きを名乗るからには、メニューに高級お好み焼きも当然あった。

言うなれば失敗した店の中に、お好み焼きも含まれていたわけだ。


歓送迎会でお好み焼きとなると、常務を始め

取締役の爺さまたちの古傷をほじくる恐れが発生する。

ヒロミは善意で提案しただろうが

彼女には知るよしもない内情が存在するのだった。


ここまで神経を使うのが、中途合併の継子という立場。

ビクビクしているわけではなく、妙な誤解を避けるためだ。

突っ込みどころを与えないよう、先の展開を考えて臨むのは

継子道の基本である。



「焼肉屋にしたら?」

夫に意見を求められた私は、最も盤石な路線を口にした。

なにしろ我々が住むのは田舎。

常務のお眼鏡にかなった店は、今までに二軒しか無かった。

その焼肉屋と、もう一軒は鍋料理屋である。

鍋の店は店主の高齢化により、すでに閉じられているし

存続していたとしても、夏に鍋は厳しいだろう。


そしてヒロミの提案を通したら

あの子の性格上、図に乗って、今後も何につけ口を出す。

思慮の浅い女に口出しの癖をつけて、良いことは何一つ無い。

それを回避するためには、こちらが別の店に決めるしかない。


しかし夫は、焼肉屋に難色を示す。

座敷が狭いため、ギューギューで身動きが取れないと言うのだ。

なるほど、あの店の座敷はウナギの寝床状で

ひとたび座ったら身動きができず、奥の者はトイレにも行けない。

今回、本社からは誰も来ないので、夫は立場上、天敵の松木氏と

まだよく知らない板野さんに挟まれる運命は決定事項。

夫はそのことを憂慮しているのかもしれなかった。


さらに深読みすれば、図々しいアイジンガー・ゼットが

夫の隣に座ろうと、奥の上座へ陣取る可能性はかなり大きい。

今の時代、女は…事務員は…

下座に座って給事の手伝いをせぇと言えないのだ。


密着できて嬉しかろうとも思うが、あの手の女はおしなべて逆デバガメ体質。

見られて燃えるというやつだ。

口では秘密、秘密と言いながら、チャンスさえあれば

人前で自分たちの仲をさらして注目を浴びたがる。

自己顕示欲を満たしながら、オトコを困らせて楽しむのだ。


私も浮気されて長いが、夫も浮気をして長い。

他人の旦那に興味を示す女たちが、例外なくこのような性癖であることは

私以上に熟知しているはずだ。

家族のいない場所なら、嬉し恥ずかしのひとときを過ごせようが

会社のイベントだと息子たちがいる。

彼らにその光景を見られるなんて、気の小さい夫には耐えられまいよ。

そういうわけで、親切!な私は焼肉屋の案を引っ込めた。


他の店といっても日にちは迫っているし

今回は各自の通勤距離を考慮して、開始時間を午後4時に決めていた。

そんな中途半端な時間に宴会を受け付けてくれそうな所といえば

葬式や法事の折り詰めと同じ物を食べさせられるホテルしか思いつかない。


「今回はお好み焼きにして、常務に怒られんさい」

私はこの問題を投げた。

「ええわ…そうする」

かくして夫は女王の提案を受け入れ、バーベキューは幻に終わった。


それについてアイジンガー・ゼットが、どんな反応を示したかは知らないが

梅雨時期ということで納得させたのではなかろうか。

夫にはせっかくバーベキュー着を買ってやったというのに

残念なことである。

こうして7月7日の金曜日、お好み焼き屋での歓送迎会が決定した。


当日はやはり、朝から雨。

私はこの日、たまたま女子会だった。

6月に、同級生ユリちゃんのお寺で開催した夏祭りの打ち上げだ。

ユリちゃんの都合が合わなかったのでこの日になったが

まる1ヶ月も経つと炭酸の抜けたサイダーみたいな気分。


そして夜9時、家に帰ったら

7時に歓送迎会を終えた夫が待ち構えていた。

話したいことがあるらしい。


その話とは…

まず松木氏は、体調が思わしくないため欠席。

本社の人が来ないのであれば、わざわざ来ないのが彼だし

最後ということで息子たちの報復を懸念したのかもしれないし

本当に体調が悪いのかもしれない。

いずれにしても予想の範囲だ。


それからなんと、板野さんも欠席。

その日の午後、隣の人が亡くなったという。

山奥村なので、夫婦で手伝わなければ村八分になるそうだ。

つまり歓送迎会の意義は、この時点で失われたのである。

バーベキューだ、お好み焼き屋だとゴチャゴチャしておいて

フタを開けたらこれ。

私は大いに笑った。


困った夫は急きょ、この宴会をシゲちゃんの快気祝いにしたという。

そういえばあの人、会社で倒れて入院したっけ。

ずいぶん前のことで、それこそ炭酸の抜けたサイダー状態だけど

この際、仕方がないわよね。

突如、主役にされてしまったシゲちゃんの当惑を想像して、また笑った。


後日、夫はやはり河野常務からお叱りを受けた。

「お好み焼き屋じゃと?うちの系列会社が、みっともない!

ワシがせっかく予算を回してやったのに、何でもっとええモン食わんのじゃ!」


お好み焼き屋ではステーキも出たし、料理は頑張ってくれたそうだが

事情説明や言い訳はできない。

領収書の店名からして気に入らないんだから

ここで何か言ったらおしまいよ。

継子道は厳しいのだ。

ひたすら黙って聞く…常務はそんな夫を可愛がっていて

言いたいだけ言ったら可哀想になり、さらに良くしてくれる。

それが常務である。


かくしてバーベキュー騒ぎは終わった。

イベントは、もうこりごりだ。

《完》
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現場はいま…BBQてん末・1

2023年07月19日 09時39分00秒 | シリーズ・現場はいま…
現場は今、安定している。

夫も息子たちも社員も、それぞれ落ち着いていて

特に夫と長男は顔つきまで柔らかくなった。

この安定感は、過去に経験が無い。

本社の回し者、松木氏と藤村に振り回された12年の年月を経て

ようやく手にした環境である。


これはひとえに、肺癌で引退を決めた松木氏67才の後任

板野さん62才の功績によるもの。

彼が特別に何かをしたわけではない。

事務所で寝ない、威張らない、わからないことには口を出さない…

そんな、松木氏にも藤村にもできなかった普通のことができるだけである。


もっとも相手が普通か否かを確かめるには

夫の親友である任侠出身の営業マン、田辺君を見せるのが一番確実。

板野さんの着任早々、田辺君が遊びに来たが

「あのかた、並の人じゃないですよね…」

板野さんは、後で夫にたずねたという。

夫はこの反応に満足していた。


板野さんと同い年の田辺君は、俳優の玉木宏似のイケメン。

顔もいいが肌も美しく、長身でモデルのようなプロポーションを持つ。

昼あんどんの藤村は、それを見てヤサ男と踏み

自分の方が年下でありながら横柄な言動を重ねた。

松木氏の方は田辺君が来ると挨拶もせず、脱兎のごとく逃げ出すクチ。


その点、板野さんは愛想良く応対し、田辺君と夫の会話を黙って聞いていた。

しかし田辺君が只者でないことは感じ取ったようで

後から素性を確認するあたり、あの2人よりずっとマトモである。


カタギと任侠が混在するこの業界は、ファーストインプレッションがイノチ。

相手の格をひと目でキャッチし、それに見合った対応をする能力が不可欠だ。

この能力が標準装備されているか否かが、普通かそうでないかの判断材料となる。

仕事を円滑に進めるには、まず普通であることが大事。

夫にとって田辺君は、何かあれば助けてくれる守護神であると同時に

相手の質を見極める踏み絵なのだ。



この板野さんの歓迎会と松木氏の送別会を

7月初旬に開催することになったのが、6月の中旬だか下旬だか。

我が社に生息する“アイジンガー・ゼット”の強い希望により

歓送迎会の形態は会社でバーベキューということになった。


…説明しよう。

アイジンガー・ゼットとは

我が社の事務員ノゾミのことである。

この女が入社した経緯をここでお話しした時

コメントで田舎爺Sさんが、テンポの良い歌を作ってくださった。

『古いジープは、隠れ蓑

スパイの素顔を隠すのさ

だけどもさ、隠すつもりが現れる

こちらはどっこい百戦錬磨

酸いも辛いも嚙み分ける』


この滑り出しが、今は亡きアニソン界のカリスマ

水木一郎さんの歌う“マジンガーZ”の主題歌とマッチ。

大いに喜んだ私は、ノゾミのことをアイジンガー・ゼットと呼ぶことにした。

念願の就職をはたした今、もはや夫の愛人かどうか怪しくなっているが

隣の社長の愛人をやっているのは確かなので、遜色は無かろう。



話は戻り、バーベキューの提案を聞いた私は思ったものだ。

「バカか…」

煮炊きをするようにできてない会社でイベントをやるのが

どれほどの労力か。

例えば、学校のグラウンドの真ん中で焼肉をするのと似たようなものよ。

水道は遠く、食材や道具を始めゴミ一つ運ぶのも

右から左というわけにはいかない。


義父の会社だった頃、私は何度も後片付けをした。

皆、準備だけは面白がってやりたがるが

後片付けの頃になると、要領のいいのは帰ってしまうものだ。

残されるのはお人好しと酔っ払い、そして何もできない夫。

その時に手伝ってくれた人の恩は忘れてないが、マジで大変だった。

アイジンガー・ゼットは何も知らないから、無責任なことを言い出せるのだ。


まあ、人の旦那に色目を使って就職をゲットするような女が

バカなのはわかっている。

そのバカが、バーベキューという単語に異様に燃えるのも知っている。

アレらの言うバーベキューは、肉の漬け汁やソースにこだわるものではなく

ただの焼肉だ。

しかしアレらは、それをバーベキューと呼ぶ。

そこからして、バカ。


28年前、運転手として会社に入り込んだ未亡人イク子も

このようなことがあったら燃えたと思う。

夫と早々に駆け落ちしたのでチャンスは無かったが

キャミソールなんか着て尻を振り振り、最初の20分ぐらいは

甲斐甲斐しく飲み物や皿を配って見せるはずだ。

外見が多少違うだけで中身は全く同じ…それがあの人種の特徴である。



さて、7月に入ると、うちで唯一の女性運転手ヒロミが

バーベキューの計画を知って文句を言い始めた。

自分の嫌いなアイジンガー・ゼットが言い出しっぺと聞いてからは

なおさら強く反対し、店でやった方がいいと主張。


バツイチのヒロミは一時期、社員の佐藤君とネッチョリコンだったが

去年だったか、結局それまで同棲していた男と再婚した。

同棲時代から、相手の男の2人の子供とその連れ合い

そして、その子供たち…

総勢10人を超える義理の間柄の人々と交流する際は

いつもバーベキューと決まっている。

料理が苦手なので、もてなしといったらバーベキューしか無いのだが

ヒロミは自身をバーベキューの女王と豪語しているのだった。


その女王ヒロミがバーベキューに反対するのは

後片付けの大変さを知っているからである。

「ノゾミは絶対何もしない…となると、女の自分がやらされる…」

豊富な経験から、女王はそう感知したようだ。


女王とアイジンガー・ゼットは、女の意地をかけて真っ向から対立した。

松木氏の送別や板野さんの歓迎というイベントの主旨は

すでにどこかへ吹っ飛んでいる。

どちらも言い出したら聞かないので、夫は板挟みになっていたが

身から出たサビ、せいぜい困ればいいのだ。


しかし40そこそこのアイジンガー・ゼットより

50を過ぎた女王の方が一枚ウワテだった。

独断で、町内のお好み焼き屋に歓送迎会の話を持ち込んだのである。


ヒロミの顔がきく店といえば、お好み焼き屋ぐらいのものなのはともかく

その店は、彼女の友だちの両親がやっている所。

「お好み焼きだけでなく、他の料理も出して豪華なコースにする」

友だちと打ち合わせたヒロミは、夫に直談判。

その店には広い座敷があり、夜は居酒屋の営業形態になっているため

彼女はまんざら見当はずれのことを言っているわけではなかった。


一方、夫は7月に入って雨続きなのを気にしていた。

アイジンガー・ゼットにせがまれてバーベキューに決めたものの

屋外での歓送迎会が現実性を伴わないことに気づき

どこかの店でやった方がいいと思い始めていた。


が、ヒロミの提案には難色を示す。

くだんのお好み焼き屋の店主、つまりヒロミの友だちの父親は

夫の知り合いなので嫌というわけではない。

けれども主賓である板野さんの自宅は、市外の山間部。

山奥からわざわざ呼んで、連れて行くのが裏ぶれたお好み焼き屋では

申し訳ないという理由からだった。

《続く》
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現場はいま…転換期編・6

2023年06月20日 19時34分25秒 | シリーズ・現場はいま…
病気で退職する松木氏の後任として

顔見知りの板野さんが来ることになり、ひとまずの安堵を得た我々。

すると気になってくるのは、なぜ彼が選ばれたのか…である。


本社は藤村が労基に訴えられて以来、年配者の中途採用をやめていた。

職にあぶれたオジさんを安く雇うメリットより

その人物からもたらされるデメリットの方が大きいことに気づいたからだ。

よって、中高年の新人が赴任することは無いとわかっていた。

しかし本社の直接雇用者ではなく、我々と同じ合併組の板野さんが選ばれるとは

思いもよらなかったのだ。


夫が常務に聞いた話から推測すると、この意外な人事はダイちゃんが原因かも。

「松木が退職するのを聞いたら、小川が(ダイちゃんのこと)ここへ来たい…

言うて、ワシんとこへ来たんじゃ」

…あの人、やっぱりうちへ来たかったらしい。


「自分なら、ここの様子がようわかっとるし

事務ができて事務員の給料も浮くけん

松木の代わりに営業所長で行かしてくれぇ言うんじゃ」

…これを立候補の理由にすると思ってたよ。


「まさかあいつが、そげなことを考えとるとは全然知らんかったけん

わしゃ、たまげてのぅ。

お前に車1台持たして、高速代と燃料代払うてここへ通わしたら

事務員雇うてお釣りが来るわい、言うて怒ったんよ」

常務はかなり驚いたと同時に、ショックで不愉快だったようだ。


この話を聞いた夫もまた、ひどく驚いていた。

ダイちゃんは、もっと地道で冷静な人だと思っていたからだ。

「母さんの言うた通りじゃった…ワシにはわからんかった」

しみじみと言う夫。

そうさ、人の心がわからないからノゾミみたいな女に騙されるのさ。


ダイちゃんは残りの人生を賭けて勝負に出たつもりだろうが

人の上に立つ者って、目をかけてきた部下の野心を一番嫌うものだ。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康…歴史を紐解いても、それは顕著である。

常に部下が野心を抱かないかを見張り

部下の野心を封じるため、さまざまな画策に明け暮れ

発覚すると猛烈に腹を立て、残酷な仕打ちで見せしめにした。


私は人の上に立ったことが無いのでわからないが

ある程度の地位に上り詰めた人は

部下に芽生えた小さな野心がやがて組織を揉ませ

自身の築いた環境を脅かし、ことと次第によっては

寝首をかかれるまでに発展するのが本能的にわかるらしい。

だから本能寺の変…じゃないよ。


さて話は戻って、常務はダイちゃんの申し出をバッサリ却下。

改めて本格的な人選に入った。

ダイちゃんをぐうの音も出ないようにするには、誰を選ぶべきか…

それを踏まえての人選だ。


そして思いついたのが、板野さん。

彼は島の工場へ通勤してはいるが、自宅はうちらの住む隣の市にあり

島と我が社との中間地点だそう。

高速は使わないため、通勤費の問題はクリア。


それに板野さんには、重機の操作がうまいという特典があった。

同じ二刀流なら、営業所長と事務より

営業所長と重機オペレーターの方が断然いい。

事務の代わりはナンボでもいるが、オペレーターの代わりは滅多にいないのだ。

夫の交代要員が務められるし、先で夫が退職しても

しばらくは板野さんで回せる。

なんなら役に立たないシゲちゃんに何とかお引き取り願って

事務員の給料よりよっぽど高い彼の人件費も削減できるではないか。


重機は、ダイちゃんが絶対に太刀打ちできない分野である。

彼が松木氏の後釜を狙わなければ

常務の頭に板野さんは浮上しなかったかもしれない。


ちなみに藤村は、松木氏がうちと一緒に担当していた県東部の生コンへ配属になった。

肩書きは、松木氏と同じく工場長。

松木氏は自宅から工場まで1時間ぐらいで行けたが

藤村は広島県の西の端から東の端までの通勤になる。

大変そうだ。



板野さんは後任に決まった翌日から、こちらへ出勤を始めた。

前任の二人のように威張らず、挨拶もきちんとするという。

つまり普通。

彼の性質については、夫が「コンニャクみたい」と

面白い表現をしたので笑った。

着任早々、常務にガミガミ言われる彼を見て思ったそう。

うちらは慣れているけど、初めてだったら恐いと思う。

それこそコンニャクみたいにボ〜ッとして、ユラユラしちゃうかもね。


松木氏も藤村も、このガミガミが恐くて

元々持っていた嘘つきの才能がバージョンアップしていった。

気の小さい人間は、自分が助かるために人を売るしかなくなるのだ。

板野さんが今後、どう変化していくかは不明だが

今はこの人と働くしかないんだから、見守るのみ。



会社では、そんな板野さんの歓迎会が行われることになった。

松木氏の送別会も兼ねて、日程は7月初旬の夕方。

彼が入院しないうちにやるそうだ。


ここでしゃしゃり出たのが、例の事務員ノゾミ。

会社の敷地でバーベキューをやりたいと言い出した。

今回の歓送迎会は、福利厚生費から一人5千円の予算が出る。

これでどこかへ食べに行きゃあ簡単に済むものを

バーベキュー、バーベキューと言って聞かないらしい。


夫はノゾミの提案に、あっさりOKを出した。

鉄板などの道具を借りるため、親戚の会社へ頼みに行ったり

ノゾミのノゾミを叶えるために準備中だ。

それはかまわないけど、重病人を呼び、日陰の無い屋外でバーベキュー…

松木氏に生命の保障は無い。

それもかまわないけど、彼は来ないと思う。


ともあれ人の旦那にちょっかい出す女って、たいていバーベキューが好きなものよ。

料理は苦手だが、甲斐甲斐しく世話を焼く姿を人に見せたいらしい。

その甲斐甲斐しさは、いつも他の誰かのサポートで成立しているが

本人は自分がやっていると思い込んでいて、楽だから好きなのだ。


好きと言えば、わざわざ肩や脚の出る服を着て参加するのもお好き。

いかにも「やってます」のそぶりで下を向き

あればの話だが、皆様に胸の谷間をちらつかせたり

大袈裟にしゃがんで、短い曲がった脚をあらわにするのもお好き。

自ら肌を露出しておいて

「あ〜ん、蚊に刺された〜、ほら〜真っ赤〜」

などと甘えた声を出し、首筋なんかを見せるのもお好き。

残念でした。

会社は海のそばなので、蚊はいませ〜ん。


そんなヤツが、終わったら片付けなんかやるわけねぇだろ。

やったことが無く、やる気も無いから言えるのだ。

バーベキューの女王を自称する運転手のヒロミと

醜いポジション争いを繰り広げればいいのだ。


それが楽しみなので、夫には“バーベキュー着”を買ってやった。

ヒンヤリする生地のスポーツウエアと、揃いの半ズボン。

野球メーカーのローリングスの、おしゃれなやつよ。

今どきはスポーツメーカーも、素敵なデザインを出している。

父の日だったからさ。

これを着て、チャラチャラしたらええが。


あ、私?呼ばれてないんだから、行かんよ。

ノゾミがいるのに、夫が呼ぶわけないじゃんか。

それに私、バーベキューは苦手だから興味無し。

暑い所で何か焼くなんて、ユリ寺だけで十分じゃわ。


以上、静かな現場から中継でした。

《完》
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