僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 奥林匹克飯店

2008年08月17日 | 旅行

連日北京、北京、北京である。ふだんは規則正しく生活する僕も、テレビ観戦に忙しく、寝る時間がバラバラだ。おとといは女子サッカー日中戦や陸上女子1万メートルなんかを見ていると、気がついたら日付が変わっていたし、昨日の夜は野球の日韓戦で手に汗握り、日本が負けてチャンネルを変えるとジャマイカのボルトが陸上100mで、史上初の9秒6台に突入する世界新を出した直後だった。残念。負けた野球なんか見ないでこちらを見ておけばよかったなあ、な~んて思っていると、また日付が変わっていた。

昨日はレスリングの吉田沙保里が貫禄の金を獲り、日本は第3日目から昨日9日目まで、きっちりひとつずつ金メダルを獲得している。金メダルを獲らない日はなく、しかもひとつ以上獲る日もない…という日本人らしい謙虚さと律儀さで、いよいよ競技も後半戦に突入した。でも、日本の7つの金も、そのうち6つがアテネと同じ選手が獲得…というのは、なんだか将来が不安になってくるけど…。

今日の朝から行われる女子マラソンは、どうなるのだろうか…?
地元観衆たちの中国賞賛一辺倒のドンチャン騒ぎには食傷気味である。
地元の周が、野口のいない隙をついて中国初のマラソン金…ということだけにはなってほしくない、と心から願うものである。
新鋭中村が、五輪の圧力をはね飛ばせば、スピードランナーだけに期待できるが。

しかしまあ、相変わらず露骨な中国寄りの判定が多く、見ていて不愉快なシーンも多いが、日本選手が活躍したり、判定とは無関係な名勝負を見せてもらったりすると、やはり「オリンピックっていいなあ」と盛り上がる。盛り上がったり盛り下がったり、歓喜にむせんだり怒りに震えたり、なかなか忙しい。僕のように興奮すると身体に悪い持病のある人は、観戦するときは十分そのへんを注意して、冷静に見るようにしてくださいね。…と自分に言い聞かせています。

マスコミによると、あの華麗なる開会式にはいくつか「偽装」があったらしい。
派手な花火は、一部が以前使った映像のCGだったということだ。
開会式での56の民族の子どもたちがそれぞれ代表して民族衣装を着て行進したが、実は56民族の子どもたちではなく、大半が漢民族だったと報じられていた。これも可愛い子どもの俳優たちばかりを集めて行った「演出」だったのだという。

らに、あの美少女の独唱は口パクだったそうである。裏で歌っていたのは、声は一番だが顔がイマイチ、という別の少女だった。音楽監督は「国益を考えてのこと」と言ったとか。そ~ゆ~のを「国益」と言うのだろうか? 
人権意識のかけらもないんだから。
(「顔がイマイチ」という表現をした私にもモンダイがあるでしょうか?)


と、開催国の悪口を言い始めるとキリがないけれど、今日は日曜日でもあることだし、それもまあ一時的に封印して、ちょっと趣向を変えてみたい。

「北京オリンピック」と言えば、別次元の話で思い出すことがあるのだ。
競技とは関係のないことだけれど、必ず思い出してしまうことがひとつ。

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もともと北京は、2000年の五輪開催をめざしていた。

1993年(平成5年)のこと。
その当時、北京市は、2000年オリンピック開催地の最右翼候補であった。
はじめの数度の投票では、すべて北京がトップの票を得ていた。
しかし最後の決選投票で、シドニーにわずか2票差で逆転されてしまったのだ。
何年か前の天安門事件の弾圧イメージが尾を引いたことが、敗れた原因とされた。そのとき北京が味わった悔しさや挫折感は、途方もなく大きなものだったろう。

その翌年の1994年(平成6年)9月に、僕は家族連れで北京へ行った。
北京の大学に留学していた知人の娘さんを訪問がてら、観光旅行に行ったのだ。娘さんに案内してもらった北京の街並みは、そのスケールの大きさや薄汚さ、雑踏の喧騒や底なしの混沌で、めまいがしそうなほど鮮烈な衝撃を受けた。

そのとき、宿泊したところが「奥林匹克飯店」という名前のホテルだった。

北京は1週間の滞在だったので、そのホテルに6泊した。
「奥林匹克」は、ご承知のとおり「オリンピック」と読む。
「飯店」とは、ホテルの意味で、中華料理屋さんではありません。

奥林匹克飯店は、2000年という記念すべき年のオリンピックが北京で開催されることを固く信じていた地元の人たちの、熱烈な思いがこもったホテル名だった。その五輪開催が、まさかの結果で見送られてしまったのだから、さぞかし無念の思いだったろうなぁ…と思う。

オリンピック開催をシドニーに奪われてしまったことで、僕が泊った時の奥林匹克飯店は、気のせいもあったかも知れなかったが、ひっそりとして活気がなく、まるで脱け殻になってしまったかのようなイメージしかなかった。

「気の毒になぁ。北京五輪が決まっていたら、今ごろこのホテルも鼻高々だったろうにね。五輪は開催されないのに“奥林匹克飯店”って名前だけが残っちゃって」
「どうするんだろうね~。近いうちに閉鎖されるんじゃないの」

そんなことを、同行した妻や長男と言い合った。

そして、シドニーに逆転されてから8年が過ぎて…。
2001年(平成13年)に、北京はついに五輪誘致の夢を実現した。

2008年の五輪開催地が北京に決まったときの中国の人たちの喜びようは、それはもう、どう表現しても足りないほど、すごいものだった。「決定」の瞬間、北京では群集が狂喜乱舞していた様子が何度も何度もテレビに映し出されていた。北京にとって五輪開催は、待ちに待った宿願であり、ついに成し遂げた夢の実現であった。

   余談であるが、そのとき、北京と開催地を争ったのが、わが街大阪
   であったというのは、僕にとっては何か因縁めいた話ではある。

そんなことで…
今回、この記事を書くに当たって、北京の奥林匹克飯店をネットで調べてみた。
まだ、そのホテルがあるのかどうか確かめたかったのだ。

あった、あった。
なつかしい奥林匹克飯店(OLYMPIC HOTEL)が。

「ホテル情報」をのぞいてみた。
「創業年1989年 / 改築年2002年」とあった。 なんと、2002年に改築だ!

奥林匹克飯店は、北京が五輪開催権を獲得した翌年の2002年に、さっそく改築をしていたのだった。まさに大きな挫折を乗り越えた、歓喜の改築であったのだろう。

これまで9日間、北京五輪のいろんな競技を見ていると、前述したように、自国に露骨なまでの有利な判定をしてはばからないこの国でオリンピックが開かれること自体、いい気分がしていないのは確かである。しかし、この奥林匹克飯店で泊った北京での1週間の旅を思い出してみると、それとはまた別の感情が湧き起こってくるから不思議である。

あの、94年に北京へ行ったときの、どことなく物悲しげだった奥林匹克飯店も、いまはど~んと胸を張って、そびえ立っているに違いない。今回の北京五輪開催で、永遠に「奥林匹克」の四文字が刻まれる記念すべきホテルとして…。

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きょうは、すこ~しだけ北京寄りの話になってしまっただろうか…。

まあ、旅の思い出話としてお読みいただければ幸いです。

 


 



  1994年の奥林匹克飯店(OLYMPIC HOTEL)
  この前に、北京図書館がある。

 

 

  ルームメンテナンスに関するホテルのカード。
  旅行のアルバムの中に、こんなものまで入っていた。 
 

 

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追伸:コスタクルタさんから、昨日(16日)無事に
   
サイクリングを終えた、との報が入りました。
   おつかれさまでした~。 

 

 

 

 

コメント (6)
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