僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

松原市の正念場

2010年01月30日 | 議会&役所

昨日の昼、家で食事をしながら12時からのNHKニュースを眺めていたら、
「次のニュースです。大阪府の松原市で…」とアナウンサーが言い始めた。

テレビなどで松原市に関する報道が流れると、去年3月まで松原市役所に勤めていた僕は「えっ、松原…? 何があったの…?」と目がテレビに釘付けになる。たいていは松原市内で火事があったとか、コンビニ強盗があったとかいう話なんだが、この日のニュースは違った。松原市と業者の間で疑惑が生じている、という報道だった。これは、聞き捨てならない。

「松原市は、ごみの収集・運搬の許可を持たない2業者に対し、市内の事業所から出るごみを、隣接する大阪市平野区の焼却場へ持ち込めるよう便宜を図っていたことが明らかになりました」

つい先ほど行われたという記者会見の様子が映し出される。
市長や副市長、総務部長など、よく知っている顔が次々とアップで映る。
見ているうちに、急激に緊張してくる自分を感じる。

報道されたのは、つまりこういうことのようであった。↓

松原市は清掃工場(ごみ焼却場)が老朽化したことで、2002年に閉鎖した。
それに代わる新しい清掃工場を建設する予定であったが、地元住民の激しい反対で断念。隣接する大阪市平野区の焼却場に頼み込んで、ごみを搬入させてもらうことになった。

今回、無許可が明らかになった2業者とも、10年以上、あるいはそれ以上以前から、無許可であるにもかかわらず、松原市内の事業所(たとえば工場とか、病院とか)からごみを集め、当時の松原市のごみ焼却場に搬入していた。松原市の焼却場が閉鎖されたあと、今度は平野工場に搬入していた。

しかし、平野工場にごみを搬入するためには、松原市が認める搬入券というものが必要であった。もともと、一般廃棄物の収集・運搬の許可がない業者が、焼却場にごみを持ち込むことは、違法な行為である。にもかかわらず、松原市が搬入券をその2業者に渡していたということは、違法な行為への便宜供与である、ということになる。

業者は、各事業所からごみの処理代を得る。そして、松原市は、大阪市に対して、搬入券に記録されたごみの重量をもとに、焼却費を支払う。そういう仕組みになってる。

テレビの記者会見で、澤井宏文市長は神妙な表情で謝罪し、こういうことは二度と起こさないようにしたい、というふうなコメントを述べていた。

市と業者とのさまざまな因縁は、何十年も前から続いているようである。
去年の6月に当選してきたばかりの澤井市長は、戸惑っているであろう。

しかし、民主党が自民党に対し、「うちらは政権取りたてホヤホヤで、何も知らんがな。それまで、あんたら自民党がやってきたことのツケを払わされてるだけやがな」と言ってひたすら責任転嫁を繰り返すと、身もフタもない議論になってしまうのと同様で、松原市の今回の事案も、現在もその状態が続いていることについては、真摯な反省と、今後の素早い対応が必要であろう。今朝の新聞によれば、澤井市長は「不正を許さない職場風土の構築に向け、不退転の決意で取り組む」と、調査と再発防止を約束した…とある。
ぜひ、実現してもらいたい。

それにしても、この「何十年続いてきた」業者との関係…というのは、さまざまな問題を含んでいる。今回の件につき、これから松原市は調査委員会を設置し、市側に違法性の認識があったかどうかも含めて調査するということであるが、当然、担当職員たちの処分も視野に入っているのだろう。それはそれで、やらなければならないことだけど、たまたま、現在その部署にいる職員たちは、う~む、ちょっと気の毒だな~と、同情したりする。

物事がスムースに運ぶなら、事を荒立てることもない…というのは、事なかれ主義だと批判されるかもしれないが、成り行きとしてやむを得ない場合もあるように思う。現実は、行政マンとして命を賭けて職務に邁進する…
というのは、自分がその立場に立ってみると、恐ろしいほど難しい。
言うは易く、行なうは難し、である。

市の職員という立場は、1人や数人では、根本的な改革はできないのだ。

ある種の業者というのは、ヤクザ顔負けの凶暴な態度で、市役所へやって来て、周囲に響き渡る大声を上げて、市の職員を脅したり、聞くに堪えぬ悪態をついたりする。業者は、市の職員は大人しいし逆らわない、と見くびっているので、言いなりにならなければ頭ごなしに言葉の暴力を口汚く浴びせ続ける。言外に「言葉だけでは済まんぞ」という脅しもチラつかせる。

ここでひとつの事件を思い出す。

2001年秋、栃木県の鹿沼市で、環境対策部参事をしていた小佐々守さんという男性職員が、暴力団たちに連れ去られて殺害された事件である。

これは、廃棄物処理業者が、自分たちの言うことを聞かなかった鹿沼市役所の担当職員(小佐々さん)を、暴力団を使って殺害した事件であった。小佐々さんの前任者が、事実上、その業者に便宜を図ってきたらしいのだが、その前任者は、自らの罪の重さに耐え切れなくなったか、自殺をした。

こういうことが、実際に起こっているのである。
これと類似する殺傷事件も、あちらこちらで起きている。

ヤクザ顔負けの業者を相手に、これまで市が何十年と黙認してきたことを、今の、たとえば係長や課長が、「よ~し、悪を懲らしめてやる!」と個人で立ち上がり、「認められないものは認められないのだ~」と啖呵を切る…なんてことはずいぶん難しいだろうし、仮に闘っても、まさに蟷螂に斧…である。犬死さえしかねない。これはもう、一糸乱れぬ組織全体で対抗していくしかないのである。

過去から、市の組織そのものが業者の言いなりになってきたという、不幸な経過がある。何十年と根付いたものは、そう簡単にはひっくり返せない。

組織全体で、本気で立ち向かわなければ、変えることは出来ないのだ。課が違うからオレには関係ない…などと言っている場合ではない。市長以下、職員全体の足並みが揃わないことには、また業者につけ込まれるだろう。

今回の「発覚」は、これまでの市と業者との馴れ合いを絶つ絶好のチャンスでもある。今こそ組織が一丸となって対応する強固な土壌を作るべきだ。

澤井宏文市長のこの言葉を、もう一度ここに記しておく。

「不正を許さない職場風土の構築に向け、不退転の決意で取り組む」

言うは易く、行なうは難し…ではあるが、これだけは必ず実行してほしい。

  

 

 

 

 

 

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いざ、ランニングの世界へ

2010年01月29日 | 読書

今年は国際読書年ということである。
今、この言葉を入力したら、「国際毒初年」と変換された。
相変わらず、おバカなわが家のパソコンである。

さて、最近、ある1冊の本を読んで、どひゃ~んというほど強い刺激を受け、ばし~んっと顔を張り飛ばされたような厳しい気合を入れられた。

その本というのは、黒木亮という人の書いた「冬の喝采」。600ページを超えるぶ厚い本で、著者の若き日の自伝である。つまり、小説ではなく、ドキュメントである。

この本は、僕が自分で買ったのではなく、じゃいさんから送っていただいたものだ。
僕は、そういう本があったことも知らなかったし、黒木亮という作家の存在も知らなかった。したがって、この作家が「え~っ? そういう人だったの?」ということも、まったく知らなかった。この本を読んで、初めて知らされた。

では、どういう人だったのか…?

「冬の喝采」は、北海道出身の著者が、中学3年生から陸上競技を始め、高校1年生の時にインターハイに出場するも、その後、足の故障で何度も挫折を繰り返したあと、早稲田大学に入学、1年生の終わりに長かった故障から抜け出して、競争部に入部し、3年生、4年生の2年間、箱根駅伝に出場する、という感動の実話である。

当時の早稲田大学の駅伝は、知る人ぞ知る、あの中村清監督が率いていた。
そして、その早稲田の長距離のエースが、瀬古利彦であった。
もっとも瀬古は、この頃は早稲田というより、すでに日本のエースになっていた。

著者の黒木亮は、本名、金山雅之、1957年(昭和32年)生まれで、瀬古利彦と同年齢であった。昭和54年1月の箱根駅伝で、早稲田の2区の瀬古が先頭に立ち、3区にタスキを渡す。そのタスキを受けたのが、黒木亮→金山選手であった。

「冬の喝采」は、金山が、瀬古から「頼んだぞ、金山!」とタスキを受けるその場面から始まり、やがて金山の中学生からの回想が始まって、陸上競技一色だった高校・大学における彼の日々が綿々と綴られて行くのである。4年生での箱根駅伝を終え、陸上競技に終止符を打つところで、物語は終わるのだが、エピローグで、著者の両親に関わる驚くべき話が挿入され、読後の感動をさらに大きくする。

600ページ以上ある本だけど、短期間で読了してしまった。

僕はかつて瀬古選手の大ファンでもあったことから、その瀬古が、ごく普通の学生として物語の中に随所に出てくるのが余計に興味深かった。そして、奇人変人そのもの、と言ってもいいほど常識はずれの指導者・中村清の狂気に満ちた言動の描写もすさまじい。著者自身が直接体験したことであるだけに、迫力満点である。

この本は、著者の当時の練習日誌に基づいて書かれたものであろう。
数十年前のことだけど、何月何日に何キロを走る…ということが、延々と細かく綴られているのは、練習日誌がなければでき得ないことである。
比較にならないことは百も承知だけれど、僕もせっせと練習日誌を綴っていた。
今もそれが何冊か本棚に並んでいる。
しかし、当然のことだが、それに命を賭けるような人生は送っていない。
あくまでも、余暇、レジャーのマラソンであった。

でも、次に生まれて来た時は、箱根駅伝に出るようなランナーになりたい。そういう夢を見ることはある。苦しいだけのことかも知れないけれど…。

毎日毎日、走ることばかり…
そんな日々を、この本によって疑似体験することのできた僕は、これを読み終えたあと、いや、読んでいる途中から、すでに自分の心の中に、大きな変化が起こりつつあるのを感じ取っていた。

やっぱり自分も、走りたい。今よりも、もっともっと走りたい…
去年の退職後も、時々タラタラと犬の散歩のような超スローペースで、近所の大和川の堤防のコースを走っていたが、それも思いついた時だけである。人から、「好きなことは?」と聞かれて「走ることです」と胸を張って言えるようなものではない。

33歳の時に初めてフルマラソンを走ってから、51歳の時に走った赤穂100キロマラソンまで18年間、マラソンを趣味にしてきたが、考えてみれば、レースに出なくなってから、すでに10年の歳月が経過している。7年前、最初の発作性心房細動(不整脈の一種)が発症してからは、さらに走らなくなった。しんどいジョギングよりも、手軽にできるウオーキングのほうに重点を置きはじめたりした。

でも、やはり歩くことよりも、走ることのほうが自分の性に合っている。

「冬の喝采」から受けた衝撃を大切にしたい。

最近は、走る量をなんとか増やしつつある。
そんな時、アナザービートルさんが、ここのコメント欄で、シティマラソンにエントリーしませんか、と書いていただいたのを、今朝見たところである。嬉しかった。

大会は4月下旬だから、まだ3ヶ月ある。よ~し、がんばるぞ。10年ぶりのマラソン大会への出場をめざして、気合を入れなおそ~。

やはり、日常生活に新鮮な刺激や健全なストレスは必要である。
伸びきったゴムみたいに、手応えのない日々は送りたくないもんね。

走ろう。
記録なんてもちろん望まないし、また望むような歳でもない。
気分だけでも、風のように、軽やかに舞うように、走れるようになればいい。

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

センベイの数だけ幸せがある

2010年01月28日 | ニュース・時事

最近のCMで、「センベイの数だけ幸せがある~」と歌っているのがある。
どこかのおセンベイの宣伝だ。

しかしなぁ…
これって、どこかで聞いたセリフだ。むかし、そういう歌があった。
あ~ん、何だっけなぁ…? 記憶の糸をたぐる。

お、そうだ、森進一が歌っていた演歌の「酒場舟」なんだよ。

 ♪ 女の数だけ幸せがある~
   女の数だけ涙がある~

そんな歌詞だったかな~。
…か、どうか曖昧なので、ネットで「酒場舟」の歌詞を調べてみた(僕もヒマだ)。

1980年というから、30年前の歌だ。
それほどヒットした歌でもなかったように思う。

歌詞は、少し(…というか、だいぶ)記憶違いのところがあった。 

正しくは次のとおり。「酒場舟」のそれぞれの後半部分です。

1番
  ♪ 男の数だけふるさとがある
    男の数だけ初恋がある
    ヤレヤ エンヤラ 酒場舟

2番
  ♪ 女の数だけふるさとがある
    女の数だけ悲しみがある
    ヤレヤ エンヤラ 酒場舟

3番
  ♪ 夜明けの数だけ思い出がある
    夜明けの数だけ安らぎがある
    ヤレヤ エンヤラ 酒場舟

とまあ、こんな具合です。

センベイの数だけ幸せがある~は、このパクリ…じゃ~なくて、パロディなんだろ。

それとも、こういう歌があったとは知らずに、CM作者はこれを作ったのか?
そんなことは、ないだろうね。 メロディも同じだもん。

でもまあ、ナントカの数だけナントカがある~ というのはいかにもノリがいいし、
またどんなCMにでも使えそうで、これをパロった人は、やっぱり、プロだ。

まあ、これに限らず、近頃のCMは、バックに懐かしい曲が流れることが多い。

はぁ~? どこかで聞いたな、この曲…って感じである。

この間は、ザ・ピーナッツの曲が流れていた。
今の若い人、ザ・ピーナッツを知ってんのか…?

しかし、考えてみれば、CMは若い人だけを対象にしているわけではない。
どちらかと言えば、中高年のほうが、モノを沢山買う、いいお客さんであろう。
だったら、むかし流行った曲を流すと、インパクトも強くなる…ってところか。

CMは、一瞬、一瞬が勝負である。

瞬間的に商品をテレビ視聴者に刷り込むには、原体験に訴えかけるのが効果的…
そういうデータがあるのだそうだ。

特に中高年は、過去のことにドキドキすることが多いそうである。
懐かしい曲を聴くと、若い頃の自分を思い出して、脳が気持ちよくなるらしい。
言われてみれば、自分もその傾向が強い。

そして、テレビのそのCMに目が行き、商品が刷り込まれる…

それが、CMに懐メロが使われることが多くなった理由だとか。

なるほどなぁ。 

「センベイの数だけ幸せがある~」を聴きながら、大いに感心する僕である。

しかし、…そのセンベイが、いったい何のセンベイのCMなのかわからない。
見ても聴いても、すぐに忘れてしまう。

このごろ、物忘れが激しい。 

  男の数だけ物忘れがある~ 
  ヤレヤ エンヤラ 酒場舟    ♪  

やっぱり、ヒマか、僕は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日ごと夜ごと

2010年01月25日 | 心と体と健康と

毎日、寒い。寒い。
テレビのニュースや天気予報で映し出される東北や北海道の雪の量…
それってものすごい量だなぁ、そんなところでも、ちゃんと生活ができるんだ。
大阪に住んでいると、雪に埋もれた生活というのがどういうものか、想像もつかない。

年末の歌謡番組に新沼謙治が出ていて、「津軽恋歌」というのを歌っていた。
その中で、雪には7つの雪がある、と歌っている。
 
 ♪ こな雪・つぶ雪・わた雪・ざらめ雪・水雪・かた雪・春待つ氷雪 ♪

なかなかいい歌詞なんだけれども、こういう一節もあった。

 ♪ 日ごと夜ごと 海鳴りが~~ ♪

それを見て、思わず「海鳴り」の部分が、僕の中で「耳鳴り」に変わった。

 ♪ 日ごと夜ごと 耳鳴りが~~ ♪

あぁ、まったくそのとおりだ。
耳鳴りが発症して、もう3年目に入るっていうのに、
日ごと夜ごと、ず~っと、ず~っと、鳴り続けて止まない耳鳴り。

人はさまざまな運・不運を抱えて生きていかなければならないが、
耳鳴りに見舞われた不運は、長いわが人生の中でもダントツの不運である。

と、ついつい、ボヤきたくなるが、運命として受け止めるより他はない。

しかし、先日職員組合の「新春旗びらき」に出席したとき、もっと不運な人を知った。

K君といって、今年50歳の市役所の職員である。

テーブルでビールを飲んでいた僕の姿を見て、そのK君近づいてきた。
「のんさんじゃないですか。お久しぶりです。どうしてはるんですか…?」
「お、これはK君。 僕はぼちぼちとやってますけど、あなたもお元気そうで」

そう言うと、「元気なことありません。メニエールで大変なんです」
彼は両手で自分の両耳を指差した。
見ると、僕が耳鳴り治療として付けている器具と同じようなものを、
両耳につけているのである。僕は、左の耳だけに付けている。

メニエールとは、めまい、難聴、耳鳴りなどが一度に襲ってくる病気だそうである。

「耳鳴りは、実は僕もあるんだけど…」 と僕が言うと、
「いやぁ、耳鳴りだけだったらいいじゃないですか」
と、K君の顔が、情けない表情になった。

K君は、めまいがして、気分が悪くなるのも大変だけど、
何よりも、人の声が聞きにくい(難聴)のが最も辛い、という。

市役所に来る市民と会話をしていても、相手の声が聞こえなければ仕事にならない。
だから、両耳に補聴器をつけている。
その補聴器と、僕らの耳鳴り治療器とは、ほぼ同じ形をしている。

補聴器を付けていても、やはり、普通より話が聞き取りにくいそうだ。
そのくせ、大きな音がすると、キーンと響く(つまり聞こえすぎる)という。

この「旗びらき」のオープニングセレモニーで、和太鼓の演奏があった。
腹に響くほど大きな音であったが、K君はたまらず補聴器を外したそうだ。

「急に後ろから車がゴーっと走ってきても、耳はキーンと響きますし…」

聞こえにくいわ、聞こえすぎて耳に響くわで、毎日大変な思いで過ごしているそうだ。

「ですから、耳鳴りもず~っと続いていますが、それどころやない、という感じで…」

しばらく昔話などの雑談をしたあと、K君は自分のテーブルに戻って行った。

最初から隣の席にいた先輩のウエムラさんという男性に、
「いろいろな病気があって、みんな大変なんですね。
 その点、ウエムラさんは、どこから見ても健康そのものですね」

そう言ったら、ウエムラさんは、「何を言うてるねん」 と急に表情を変え、
「僕は膀胱ガンになったんやで。 もう普通のおしっこは、でけへんねん」
と、今は人工の装置を前に付けていると言った。
そう言いながら、ウエムラ先輩は、ビールをグビグビ飲んでいたけれど…

いや、まあ、人も、日ごと夜ごと、いろいろな問題を抱えて生きているのだ。

自分ひとりが不幸のように、つい思ってしまうけれど。
まだまだ、これくらいなら、マシな方だと思わなければならない。
自分の運を呪ってばかりせず、感謝の気持ちというものも、ちょっとは持たなければね。


 

 

 

 

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大根の逆襲 … 踏んだり蹴ったり

2010年01月23日 | 日常のいろいろなこと

うぐっ、うぅ… うぅぅぅぅぅ…

うぎゃぁっ、いでででで

一昨日21日の午後、僕は台所で大きな悲鳴を上げた。
そばに妻もいたし、長男もモミィと遊んでいたその時である。

「どうしたの?」 僕の悲鳴を聞いて、妻が飛んできた。
僕の左手親指から、ドロドロドローリと、真っ赤な血が吹き出してきた。

そのとき僕は台所で、大根を切っていたのである。
家事で料理を担当する僕は、野菜を切ったりするのは茶飯事なのであるが、そのとき、長男の友人宅からもらった、丸々と太い、大きな大根を切っていたのである。で、なぜか手元が狂い、包丁が左手の親指をザクッと切った。

うぅぅぅぅ、と強烈な痛みに襲われ、悶えていると、妻が、
「とにかく、指を心臓より上に上げて」と叫んだ。
僕はしゃがんで、自由の女神像のように、指を高々と突き上げた。 

血がしたたり落ちている。やばい。
僕は、脳梗塞の予防のため、血液凝固抑制剤のワーファリンという薬を服用している。いわゆる血液をサラサラにする薬で、これを飲んでいると、血が止まりにくいのである。日ごろから、出血には十分注意するように医師から言われているのに…。あぁ、うかつなことをしてしまった。アホな僕。

かたわらで、モミィが、僕の出血を見て、固まっていた。

妻が、血が止まるように、僕の手首をギュッと強く握った。
血は、すでに手首まで流れ落ちている。

あぅぅぅ、痛~い。 くぅ~ぅぅぅう。

一度止まりかけた血が、再び流れ始めた。
そして、しばらくして、傷口からの出血はどうにか収まったようだった。

それでも、僕はまだ手を上げたまま。
妻は、僕の手首を強く握ったまま。
時間が止まったように、しばらく、そのポーズが続いた。

やれやれ…。
どうやら、これ以上の出血は防げたようだ。
ツメのまわりも血だらけで、ツメの生え際に血が染み込んでいる。

一段落した後、傷口を消毒し、傷バンドを貼り、絆創膏でまわりを固めた。

それにしても、こんな温厚で愚鈍な大根にしてやられるとは…
油断以外の何モノでもなかった。

「大根役者」という言葉がある。芸の下手な役者をあざけって言う語だが、この語源は、大根は何よりも安全な食品で、絶対に当たらない(中毒にならない)という意味から、何を演じても「当たらない」役者を、大根役者と呼ぶようになったのである。それだけ安全で、決して当たらない大根なのに、よりによって大当たりぃ~。大根相手にこんな深い傷を負ってしまうとは、あ~、もう大失態である。

その夜は、ズキズキと痛み、睡眠薬を飲んでも、ほとんど眠れなかった。
翌22日。朝一番に、近くの外科医院へ行った。
「松ぼっくり医院」という、初めて行く医院である。

受付窓口で「どうされたのですか?」と聞かれたので、
「包丁で親指を切りました」と答えた。
そしてワーファリンを飲んでいることを伝えた。

診察室に入ると、70歳ぐらいの、ズケズケと物を言う感じの医師が、
「ワーファリン飲んでたら、血が止まらんやろ」と僕の指を見て言った。
「いや、昨日の夕方に一応止まったので、今は出血は大丈夫です」

「ふ~ん。どれどれ、ちょっと見せて。縫わなあかんかも知れんしな」
「縫う?!」ぎょぎょっ。やめてくれぃ。これ以上の痛い目は、困るのだ。

傷口を見て、医師は、
「あ、もう、ちゃんとくっついてるがな。これやったら縫わんでもいいわ」
そして、消毒をして(いてて)、小さなテープを傷口に貼り(いててて)、上からさらにテープを貼ったあと(うっ、もうちょっと優しくしてぇ~)、看護師さんが、
「ちょっと大げさになりますが、外れないために、分厚く巻いておきますからね」と、包帯を、指と手のひらにかけて、グルグルと巻いた。

処置が終わってから、医師は、
「化膿止めを3日間出しておくよ。しばらくは消毒するのに通院するように。日曜日は来なくていいよ。来ても休みだからね。雨や嵐の日は、来たかったら来たらいいし、来たくなかったら、来なくていい」

かなり変わったお医者さんである。
そういえば、周囲を見渡しても、他に患者さんの姿がない。

「ありがとうございました。じゃ、また明日、消毒に来ます」
そう言って、僕は「松ぼっくり医院」を出た。

家に帰ったとたん、ちょっと手を動かすと、あっけなく包帯が外れた。
外れないように、グルグル巻きにしてもらったはずなんだけど…。

どうも、医師も看護師も「ええかいな…?」という医院である。
また、自分で包帯を巻きなおす僕であった。

毎週火曜日と金曜日は、午前中、孫のモミィとソラが遊びに来ることになっており、昼食後に2人を近くのマンションにつれて帰る。午後からは、僕は大和川堤防を約10キロジョギングをし、そのあと、コスパへ言ってウエイトトレーニングと水泳をして、夕飯前に家に戻る…という日課にしていた。

この日は金曜日である。昼食後に2人が帰ってから、左親指を包帯の上からそろりとさすりながら、服を着替え、堤防に出てジョギングをした。帰ってからマウンテンに乗ってコスパへ行った。親指が使えないので、バーを握ったりは出来ない。むろん、プールへも入れないし、帰りの風呂もダメだ。

腹筋や背筋、腰、太ももなどのウエイトトレーニングを中心に、あとはストレッチなど、親指を使わないように、ほどほどに体を動かしていた。

スタッフの女の子がひとり近づいてきて、僕の包帯を見て、
「その手は、どうされたのですか?」と聞いてきた。
「包丁で切ったのです。 野菜を切っていて、間違って、指、切った」
すると、女性スタッフは、
「えぇ! こわい~、痛そうですねぇ。でも、握れなくて不便ですねぇ」
そう言って眉をひそめた。
「うん。料理って、ヤケドしたり、手を切ったり、大変なんだよね。
 あなたは、料理中に包丁でケガをしたことはないの…?」
そう聞くと、彼女は、「ええっ…?!」とのけぞるように、
「あたし、野菜も切ったことないし、お料理もしたことがないんです」
と、苦笑いをした。

「でもオトコは何人も斬ったし、何人も料理しましたわよ。おほほ」
な~んちゃって。
言わない、言わない。そんなこと、言うはず、ないじゃないか。ごめん。


それにしても、年末に高熱を出し、熱が引けば正月早々声が出なくなり、喉痛は長いこと治らず、お酒を飲みに行ったら、酔って転んで顔に怪我をしてズボンは泥だらけ。やっと顔の傷も癒えたと思ったら、今度は大根を切る包丁で指を切る…な~んて、この年末年始はロクなことがない。

もう、踏んだり蹴ったりである。

踏んだり蹴ったり…???

この言葉も、よ~く考えてみると、おかしいのだ。
僕は、何も踏んだり蹴ったりはしていないのだよ。
踏んだり蹴ったり、されたほうなんだよね。

つまり…

踏まれたり蹴られたり…

…が正しいのではないだろうか?

なあんて、つまらないことを言っている場合ではない。
今日の土曜日も、朝から「松ぼっくり医院」に行かなければならないのだ。

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新春旗びらきに招かれて

2010年01月21日 | 議会&役所

昨日、元職場であるM市役所の、職員労働組合の「新春旗びらき」に行ってきた。
「旗びらき」というのは、まあ、労働組合の新年互例会みたいなものである。

保育士さんたちで作る和太鼓サークルの、怒涛のように響く太鼓でオープニング。

植○執行委員長のあいさつに始まり、来賓の人たちのあいさつが続く。
今の世情不安定の中、今年はさらに労働者としての団結を深めていこう…
そんな感じで、激が飛ばされ、セレモニーが終わると立食パーティが始まる。

ゲストに招かれたバンドが、スターダスト・レビューの「木蓮の涙」を歌った。

 ♪ 逢いたくて 逢いたくて
   この胸のささやきが あなたを探している ♪

    
     

 
会場は、にぎやかな空気に包まれていた。

ところで、なんで10ヶ月前に役所を定年退職した僕が、こんな場所に来たのか。
しかも、市議会議員らと並んで、来賓の席にちょこんと座っているのである。 
もちろん、それには理由がある。

10日ほど前、昔から冗談を言い合ってきた植○君から久しぶりにメールが入った。
前述のように、植○君はいま、市職員労働組合の執行委員長をしている。

 「私にとって、執行委員長としておそらく最後の旗びらきになろうかと思い、
   のん様には是非、ご列席賜りたく、メールさせていただきました。
   どうかよろしくお願いします」

 「は~い。わかりました。出席させていただきます」

特に支持政党もなく、これまで別に組合運動もしてきたことはなかったが、
僕は、この職員労働組合とは、なんとなく昔から縁があった。

20代後半から30歳くらいにかけてのころのことだ。
ある時期、毎年のように僕はこの旗びらきの司会をしていた。

その頃、僕は友人の結婚式の司会を、よく頼まれていた。
それが市役所の中で知られることになり、職員労働組合からも司会の依頼が来た。
「ええよ」と、そういうことは、軽く二つ返事で引き受ける僕なのであった。

しかし、議会事務局で仕事をしていた僕は、そのことで、ある保守系の議員から、
「旗びらきの司会をしてるそうやが、お前は共産党員か?」
と嫌味を言われたこともあった。
「旗びらきの司会をしただけで、なんで共産党員やねん」
と言い返したかったが、もちろん、その頃はまだ若かったので、黙っていた。

そんなこともあったけれど、旗びらきの司会は楽しかった。

市役所の地下にあった薄汚い食堂で、毎年、当時の「旗びらき」は行われていた。

漫才の横山たかし・ひろしを呼んだこともあった。
「おぼっちゃまじゃ。すまんのう」の、あの漫才コンビである。
なにせ30年ほど前のことだから、当時彼らはまだ無名に近い存在であった。

たかし・ひろしは懸命に漫才をしているが、ガヤガヤとして誰も聞いていない。
みんな、食べたりしゃべったりするのに大忙しである。

そのうち、顔の大きい方(ひろし)が、
「お前ら、ええかげんにせい。漫才、聞いてへんのか。…箸を置け、箸を!」
そういって、本気半分、ギャグ半分で怒鳴っていたのを覚えている。

あぁ、あのころが懐かしいなぁ…

あれから、年月が経ち、僕もいつの頃からか、旗びらきとは縁遠くなった。
おそらく、もう20年以上、ここへは出席していなかっただろう。
それが、植○委員長のお誘いのおかげで、再びこの世界に舞い戻ったのだ。
しかも、退職してからである。

…感慨にふけりながら、目の前の旗びらきの光景を眺めていたら、
「おやおや、めずらしい。○○君じゃないか。 今日はなんで…?」
そう言って近づいてきたのは、僕が司会をしていた頃の執行委員長さんだった。

あぁ、これまた、お懐かしい~

この、昔の執行委員長さんは、僕が旗びらきの司会が終えたら、
「ご苦労さんでした」と、いつも、帰りに近くの居酒屋へ連れて行ってくれた。

「え…? あんた、退職したん…? わしも、もう、後期高齢者やもんなぁ…」
元委員長は、目尻にいっぱいシワを寄せて嬉しそうにビールを飲み干した。

そのあと、いろいろと懐かしい人たちがテーブルにやってきて話しかけてくれた。
ビールを注いでくれたり、樽酒を入れてきてくれたり…。
(いちおう、今、アルコールは自粛しているのであるが…)
それを、ちびりちびり飲みながら、6時から、8時過ぎまで楽しんだ。

自粛している、という意識があったゆえか、あるいは…
久しぶりに結んだネクタイが気を引き締めたのか、
酒を飲んでも、ピクリとも酔わなかった。


 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阪神大震災の1週間

2010年01月19日 | 思い出すこと

一昨日の17日、阪神・淡路大震災から15年を迎えた。

あの日。
平成7年1月17日の火曜日。
午前5時46分に、震災は発生した。

15日(日)が華やかな成人の日で、16日(月)が振り替え休日だった。
まだ成人の日が1月15日と固定され、「振り替え休日」があった頃だ。
だから17日は、3連休が終わり「さあ、また仕事か」という日だった。

僕の住む大阪府中南部地方でも、かなり揺れた。

午前5時台だから、まだ寝ていた。
ガタガタガタっと、雨戸が立てた異様な音で目が覚めた。
かつて経験したことのないような激しい地震だった。
咄嗟のことなので、どうしていいかわかなかった。
ひたすら布団の中で身を硬くし、「早く止まってくれ」と念じていた。                               

二階の台所で、ガチャンガチャンと食器などが床に落ちている音がする。

ようやく揺れが収まり、急いでNHKテレビをつけた。
臨時ニュースで、キャスターが、早くもこの地震を報じていた。
もちろん、地震の詳しく正確な情報は、この時点ではまだわからない。

真っ暗な神戸の街(だったと思うが…)のナマ映像が映し出された。
拍子抜けするほど、平穏である。

現地にいた記者は、
「外に出てみましたが、今のところ大きな被害は出ていないようです」
音声だけだったが、そう伝えていた。

僕は、そこでテレビを消した。

「あぁ、大したことなかったんや。しかし、えらい揺れたなぁ」

そして、僕はそのまま起きて、朝のジョギングに出た。
そのあと、いつものように自転車で、勤務先の市役所へ行った。

その間はむろんのこと、仕事中にもテレビは見ていない。

だから、まさか、後に6,000人を超える死者を出す大災害であったとは…
そんなこと、夢にも思わなかった。

おまけにその日の夜は、12月末に辞めた市の助役の送別会があった。
仕事を終えると、そのまま大阪市内のホテルに行ってそれに参加した。

帰宅したのは夜遅くである。
だから昼はおろか、夕方から夜にかけてのニュースも全然見ていなかった。
夕刊も、帰宅するまで読んでいなかった。

妻が、「すごい被害が出ているみたいよ」と教えてくれて初めて知った。

平成7年1月17日から同25日までの新聞を、今もそのまま残している。
時々、紙袋に入れたそれらの新聞を引っ張り出して、読む。
そのたびに、暗澹たる気持ちになり、身震いがする。

15年を迎えた一昨日も、僕は変色しかけているそれらの新聞を繰ってみた。

地震があったその日の朝日新聞の夕刊で報じられた死者は333人であった。
それが翌日の朝刊では、「死者・不明1017人」となった。
その後、新聞が配達されるたびに、死者の数が増えて行く恐怖を味わった。

当時の新聞を日を追って読んでいくと、それらの記憶が鮮明によみがえる。

 

 

  
  大震災の第一報となった1月17日(震災当日)の夕刊。
  中ほどに「68年ぶり震度6」という見出しが出た。
  しかし…、数日後になって震度7と判定された。
  1面の写真は、地震で脱線した阪神電車と燃える住宅。

  

 
 同じ17日夕刊の社会面。
 高速道路が途中で折れて、バスが落ちかけている写真などもあった。
 こんなことが、近隣地で起こったことに大きな衝撃を受けた。


 

  
  翌18日(水)の朝刊。
  地震発生から半日が過ぎても燃え続ける神戸市街の写真だ。
  社会面では、体育館などに避難する人たちの様子が報じられている。
  「とにかく食料、水」と市民の悲痛な叫びも…。



  
  同18日の夕刊。
  激しい地震で家が倒れ、焼け野原になった神戸市内の写真。
  新聞の見出しを見るたびに、死者の数が増えていく。

  

  
  1月19日(木)の朝刊。災害の全貌が、徐々に明らかになっていく。
  が、混乱は、まだまだ続く。
  写真は、活断層が動き、地表に生じた亀裂が一直線に延びたさま。



 
 1月19日の夕刊。
 19日になっても、三宮中心街の高層ビルで火災が発生した。
 (写真は、煙に包まれる高層ビル)
 救助に当たった自衛隊や機動隊は、生存可能者を優先した。
 生き埋めになった遺体の捜索・搬出まで手が回らないので、
 それらを、地元住民の手で行なった地域も少なくなかったという。

 

  
  1月20日(金)の朝刊。
  写真は、倒壊したビルの中から57時間ぶりに救出された子ども。
  この9歳の小学生男児は、救出された瞬間「まぶしい」とつぶやいた。
  新幹線の新大阪~京都間は、この日から運転が再開された。
  

 

  
  1月21日(土)の朝刊。
  当初、震度6と発表されていたが、気象庁の詳しい調べで、
  神戸の三宮地区と淡路島北部は震度7だったと判定された。
  昭和24年に震度7の震度階が設けられて以来、実際に
  震度7が確認されたのは、観測史上初めてだという。
  

 

  
  1月24日(火)朝刊。震災から1週間が経った。
  死者はついに5,000人を超えたと報じられた。

 

一昨日、昨日と、新聞・テレビ等で、阪神大震災の特集が組まれていた。
震災で家族を亡くした人たちもインタビューに応じていた。
その人たちが共通して口にした言葉は、
「この震災を、決して風化させてはならないと思います」
という言葉であった。

それを聞いて、僕は保存していた当時の新聞を引っ張り出し、
それを自分1人で読むだけではなく、新聞の写真を撮り、
このブログに載せよう…と思い立ったのである。

この震災で命を失われた方々の数は、最終的には6434人にまでのぼった。

改めて、心より御冥福をお祈り致します。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

泥だらけの酔っ払い

2010年01月14日 | 日常のいろいろなこと

あぁ、自分はなんてバカな人間なんだろうと、改めて思う。
酒を飲むと、酔ってメロメロになる。毎度のことである。
僕はやはりアルコール依存症だ。間違いない。

先日、新聞でアルコール依存症が疑われる人に対する自己診断が載っていた。酒に関するいろんな項目があり、該当する個所に丸印を打つ。その自己チェックを試してみた結果、僕はデータ的には100パーセントのアルコール依存症であったのだ。

そして、今年初めての「飲み会」に出かけたのがこの12日だった。

在職中から親しくおつき合いをいただいている紳士・淑女のお2人と、楽しく飲んだ。
生ビールを飲み、瓶ビールを飲み、焼酎のお湯割りを飲み、また瓶ビールを飲み…と、
ペースはどんどん上がって行った。そうして、挙げ句の果てが…

お2人と分かれたその後、1人になったところから問題であった。
家まで歩いて帰れる距離のところだ。
そのまま、すんなりと自宅に戻っていればいいものを…。

お2人とは、どこでどうして分かれたのかも覚えていないけれど、ところどころの断片的な記憶をたどると、そのあと、これまで何度か行ったことのあるカラオケスナックへ、フラフラと1人で行ったようだ。かすかに、0・1ミリぐらいの微小な記憶が頭の中に残っている。でも、そこで誰と話をして、何をしたのやら、さっぱり覚えていない。

気がつけば、朝の9時過ぎだった。
僕はTシャツとパンツの姿で、自分のベッドの中にもぐっていた。
いつ、どのようにして家までたどり着いたかは、不明である。

重い目をこすりながら、よろよろと起き上がり、リビングに行くと、ふだん何も言わない妻が、「そんなになるまで、飲まなければいいのに」と、珍しく、強い口調で言った。
「玄関を見てよ。泥だらけよ。それに、その顔…」
「ん…? 顔…?」

鏡で自分の顔を見て驚いた。
右目の下のあたりが赤く腫れている。さわると、いてててて。打ち傷だ。
あぁ、どこかで転んで顔を打ったのだろうなぁ。覚えていないけれど。

玄関に降りて行くと、床に、かさついた泥が散乱している。
靴も言うまでもなく、泥だらけ。
風呂場の前に荒っぽく脱ぎ捨ててあったジーンズも、泥だらけ。
ベルトまで泥まみれだ。

昔、吉永小百合と浜田光夫の「泥だらけの純情」という映画があったが、このていたらくは「泥だらけのアホタレ」と言うしかない。ぐすん。

しかし、この泥まみれぶりは、単に転んだ程度ではないようにも思える。
田んぼか、畑の中か、それともドブ溝へでも落ちたのだろうか…。
あるいは、その日は夕刻まで雨が降っていたので、道路脇の水たまりにどど~っと顔ごと全身を突っ込み、プールと間違ってクロールの姿勢で悶え苦しんでいたのかもしれない。いずれにしても、人に見られたら、気が狂ったとしか思えない所業であったに違いない。

夕方に長男の嫁さんに会ったとき、彼女はこう言った。
「昨日の真夜中にピンポーンと鳴りました。誰かが来たようです。怖かったので出ませんでしたけど」
すまん。許せ。
それは、たぶん、…というより、間違いなく僕である。
いったい、何を考えてそういう行動をとるのであろうか? 
何も思い出せない自分がこわい。

まあ、何も覚えていない…というのは神様のご配慮かも知れないが。
覚えていたら、自分の行動を思い出すたび、ぎゃぁ~と叫んで顔から火が出て、そのへんをのたうち回らなければならないだろう。
(だから懲りずに同じことを繰り返す…とも言えるのだろうけどね)。


ところで、僕がぐでんぐでんになって、自分が何をしていたのか覚えていない頃、わずか2~3キロほどしか離れていない場所の居酒屋で、ライフル銃が発砲され、店の経営者の女性と、20代のアルバイト男性、そして店に居合わせた49歳の男性の3人が死亡するという事件が起こっていた。犯人は49歳の男。大阪市職員で、泥酔してライフル銃を発砲したという。そしてその犯人も、銃で自殺をした。

この朝の新聞で、その事件は、1面で大々的に報じられていた。

二日酔いのボケた目でその記事を見つけたとたん、酔いがどこかへ吹っ飛んだ。僕がいたところから近くの場所で、しかも居酒屋という僕がもっとも親しんでいる空間で、血も凍りつくような凶悪事件が起きていたことに、強い衝撃を受けた。

しかも、殺された女性経営者は、かつて羽曳野市議会議員だった人である。
僕はその、とびきり陽気で明るかった女性市議のことを、よく知っていた。
驚きはまさに倍増し、しばらくの間、凍りついた。

なんということであろうか。

3人を撃ち殺したライフル銃の犯人は、泥酔していた、というのである。

泥酔…
僕も同じその夜、泥酔していた。

泥だらけになって家に帰ってきたのだから、文字どおり「泥酔」である。

もう、ここまで泥酔するような自分に、酒を飲む資格はないのだと、悟った。

飲みかけるととことん飲まなければ気が済まない…という、やっかいな性格なのだ。

こんなことを続けていると、いつか、酒で命を落とす日が来るに違いない。

ショッキングな事件を伝える新聞を、食い入るように見つめながら、そう思った。

 

 

 

 

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地デジTVやブルーレイもいいけれど…

2010年01月09日 | ニュース・時事

テレビが来年の7月から「地デジ化」するという話はイヤというほど聞かされてきたが、
「それがどうしたん…?」 というのが、これまでの僕の感覚だった。
地デジ化という言葉の意味も、イマイチよくわからなかったしね。

しかし、現実はそうも言っていられなかった。

わが家のテレビはいずれも20年前に今の家を建てたときに購入したものだから、かなり古くなってきている。それと、このDVDの時代に、ビデオテープを録画・再生する機械しか家にはない。レンタルビデオ店へ行けば、今やほとんどDVDである。仕方なく、借りてきた映画をテレビではなく、パソコンで見なければならない。

「新しいテレビを、買わなくてはね」 と妻が前から言っていた。

おととし、一度テレビを買いかけた。
しかし、その店のスタッフが、最後に一言「映るかどうかは…保証が出来ないのです」
そう言ったので、買う寸前でやめたことがある。

なんだ、それは…? 地域によって映らないところもある…ってか?

ところが、去年の夏ごろ、お向かいのお家で新しいテレビを買われ、
「ちゃんと映りますよ」ということであった。

僕たちは安堵し、1年前に買いかけた地デジ対応のテレビを改めて購入することにした。

そして、同じ電機店に行き、店員さんが勧めてくれた薄型テレビを2台買った。
以前から見て、ずいぶん安い価格になっていたのに驚いた。
おまけに、エコポイントとかいうのが、ついている。

最初は録画機能付きテレビを…と思ったが、店員さんがあまりお勧めはできません、と言ったので、テレビと同時に、同じメーカーの録画機も2台買った。

この録画機が、ブルーレイ・レコーダーというのだそうだ。

ブルーレイという存在は知らなくもなかったが、DVDと何がどう違うのかわからない。
円盤状の外見を見ると、DVDと一緒ではないか…?
しかし、このブルーレイが、今の時代を代表するディスクだという。

わが家はずっとビデオテープだったのに、DVDを通り越して、いきなりブルーレイとは…?
はやりすたりが、激しすぎるのではないか。
まあ、ブルーレイといっても、聞いてみるとDVDも見られるので安心した。

そんな経緯で、去年の秋に新しいテレビとブルーレイ・レコーダーがわが家にやってきた。

ブルーレイレコーダーを使ってみると、なるほどこれは便利である。
見たい番組を予約するのも、画面に出る番組表を見て、ボタンひとつ押すだけ。
1週間先まで、いくつも、いくつも、本体の中へ予約ができる。
ビデオテープのように、そのたびに入れ替えたり、巻き戻したりしなくていい。
再生して見るのも、ごく簡単な操作でOKだ。
見終われば、これもボタンひとつで消去するだけである。
へぇ~、デジタルとは、こ~ゆ~ものであったか…と、実感した僕である。

年末年始に風邪を引いていたものだから、普段よりテレビをよく見た。
紅白歌合戦も、他のことを何もせずに、じっと見続けたのは久しぶりである。

正月も、正月が終わってからも、鼻をかみながら、テレビや録画した番組を見続けた。

しかし…

テレビ画面も鮮明で見やすくなり、録画機も操作が簡単・便利になったにもかかわらず、テレビ番組の低劣さは相変わらずで、何の変化も進歩もないのである。

特に、バラエティ番組はひどい。 いつものことだが、あまりにひどすぎる。

去年、ナントカ機構の放送倫理検証委員会というところが、最近のバラエティ番組の問題点を5つあげたけれど、それは…

①性的表現などいわゆる「下ネタ」
②いじめや差別
③芸人同士の内輪話やバカ騒ぎ
④わざとらしい笑い声など見え透いた手法
⑤死を笑いごととして扱うなど生きることの基本を粗末に扱う

というものであった。
ついでに、「このあと…あっと驚く展開です。このあと、すぐです」
と言いながら、コマーシャルを入れ、さらに番組が始まってもすぐにやらない、という、いやらしいというか卑怯というか、下劣というか、品のない手法を性懲りもなく使い続けるテレビ局の神経も、わからない。

それにしても、バラエティ番組は、年末年始には特番を長時間流すので、余計目立つ。
全部が全部、劣悪だとは言わないが(僕も元々お笑い番組は大好きである)、なんであれだけ大人数がズラッと並んでギャアギャアと騒ぎ立てるのか?
どのチャンネルを回しても、同じようなタレントが顔を出している。
そして、自分たちにしかわからない楽屋話や、同じギャグの使いまわし。
それしかないのか、と言いたい。

こんな番組、ずっと見ていると、間違いなくアホになる。

それと、もうひとつ気になることを言うと…。
たとえば…
アイドル歌手をアフリカの原住民の中に同居させて 「ヒューマンドキュメント」 などと銘打ち、最後はアイドルが涙ぐんで現地を去る…という、シラけた企画ものも絶えない。見ていて恥ずかしくなってくる。このわざとらしい「お涙頂戴モノ」の裏にあるのは、製作側の「人々を感動させるはずだ」という自己陶酔だけだろ。

こうしてさまざまに見ていくと、今のテレビ界は、民度の低い人間に迎合した、手間も金もかからない番組でちゃっかり視聴率だけ稼いで、世の中に与える悪影響などまったく気にもかけていない…というふうに思えてくる。中には、こんなバカげたことで金を稼ぐタレントにアホらしくなって、まじめに働く意欲を無くす若者もいるだろう。

地デジ化でテレビを買い換えた(あるいはこれから買い換える)人も数多くいるはずだ。


テレビ局(主に民放)は、中身のないバラエティ番組ばかり放映せず、テレビ本体や録画機能の進化に合わせて、番組内容の改善・進化について、もう少し真剣に取り組んでもらいたい…と思うのである。

 

 

 

 

 

 

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風邪 引いたらいかんぜよ

2010年01月06日 | 心と体と健康と

みなさま。 今ごろ、ナンですけれども、明けましておめでとうございます。

          

ずっと、風邪を引いて、しけこんでおりました。

12月29日未明から急に熱が出て (たいてい熱というのは急に出るのだが…)、
その日一日は起きてトイレに行くのがやっとという状態。
インフルエンザか…? と思ったけれど、医者へ行く体力がない。
もともと僕はお医者嫌いであるうえ、近所の開業医は年末年始の休業に入っている。
心配する妻を尻目に、このまま死んでもええわいな…な~んて、ひたすら寝ていた。

夜になると、解熱剤が効いてきたのか、熱はやっと下がり始めた。
翌30日も、熱は下がったが、体がだるかったので、寝ていた。

大晦日。 世間は慌しく走り回っているというのに、僕はまだ部屋でゴロゴロ。
熱はすっかり引いたけれど、今度は喉が痛み始めた。 鼻もグスン、グスン。

元旦。
朝、目を覚まし、咳払いをしようとしたら、声が出ない。
喉がつぶれた…というような感じ。
あへあへあへ。ヘホヘホヘホ。

この日、長男夫婦や次男夫婦が、子どもを連れて遊びに来る日であったが、中止。

届いた年賀状に目を通すが、出していないところへの返礼を書く元気が出ない。
来月くらいに、改めて寒中見舞いでも出させてもらおう。

妻に話しかけようと思っても、ほとんど声が出ないので、勝手が悪い。
よほど必要なことは、妻の耳元で、かすれきった声でひそひそと小さくささやく。

あぁ、なさけない  。

しかし妻にとっては、これほど 「静かな」 正月は、かつてなかったのではないか。
「これから、毎年、お正月には声が出なくなってほしいわ~ん」 という顔をしている。
「別にお正月だけでなくってもいいのよ」 という顔もしている。 んぎゃぁ~。

2日午後には、長男の学生時代の友人たちが、それぞれ家族を連れて遊びに来た。
これも、毎年の恒例行事で、こちらは中止はできない。
朝からジャスコへ買出しに行ったのが、5日ぶりの外出であった。

1月3日になっても、4日になっても、声が満足に出ない。
唾を飲み込むと、喉が痛い。 げえげえ。
せっせとうがい薬でうがいをしているのだけれど…。

昨日の5日。まだすっきりしない。外は寒そうだから、家の中から一歩も出ない。

テレビを見ていると、すでに、世間は正月を終え、ふつうの生活に戻っている。
そうだ。 僕だって、去年までなら、1月5日から仕事なのである。

翌6日午前は、耳鳴りのTRT療法の予約を取っている大○前病院へ行く日である。
しかし、こういう心身の状態では、外に出ようという気持ちにはなれない。

夕方、僕は大○前病院に、キャンセルの電話をした。
担当の先生につないでもらい、「もしもし、○○ですがぁ」 としゃがれた声を絞り出す。

「は…? その声…。体調、…悪そうですねぇ」
「へぇ、風邪を引いてしまいまして…。明日、9時半からの予約なんですけど…」
「あぁ、無理でしょうねぇ」と、先生が、先に言ってくれた。
「はぁい。すみませんが…」

本来であれば、6日の今ごろは、病院に向かって家を出ているところである。

29日に熱が出てから、今日で9日目である。
やっとのことで、朝から、声が少しまともに出るようになった。
鼻もグスグス言わなくなった。 ほぼ、治ったに違いない。
…が、どうも、体がシャンとしないし、気持ちが奮い立たない。

そこで、ちょっと冷静になって自己分析をしてみると…
これは要するに、仕事を辞めて気楽な環境に甘えている…と言えるのではないか。
これまでのように1月5日から出勤なら、僕ももっと真剣に治していたことだろう。
たぶん、退職をして 「年がら年中、正月」 ってことで、気分がだらけているのである。
あぁ、だめだなぁ、僕は…。

まっこと、まだまだ修業が足りんっち。
今年も、悔やんでばかりの1年になりそうな…そんな予感がするぜよ。
(あんたは坂本龍馬か? …誰が福山雅治やねん!  )

ところで、この風邪は新型インフルエンザだったのか…?
結局、医者へ行っていないので、何だかわからずじまいでした 

そんなことで、今年もよろしくお願いいたしますぜよ (もう、ええわ!) 

 


 

 

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする