僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

相手を勘違い 大失敗メール

2011年10月31日 | 日常のいろいろなこと

携帯で間違いメールや勘違いメールを送ったことってありますか?
僕は先日、メールの相手を勘違いして送信し、冷や汗をかきました。
だいたいがあわて者なので、こういうことはよくやってしまうのですが、
今回はもう穴があったら入りたいほど恥ずかしい思いをしました。

   …………………………………………………………

モミィが通う音楽教室から、レッスン日に関するメールが来た。
こんな場合、これまでは先生自身からメールが来ることが多かった。
でもそのメールの発信者は、先生ではなく、僕の携帯未登録の人で、
件名欄には「音楽教室の河内まみ(仮名)です」とあった。

中身を読むと…

レッスン日ですが、来月の△日は先生のご都合が悪いそうですので、
▲日のいつもの時間でいかがでしょうか? ご都合お聞かせください。

とのことだった。

僕のほか、6件のメールアドレスへ送られており、一括送信されたことがわかる。

河内まみさんという名前は初めて聞く名前だけれど、
これは間違いなく、音楽教室の受付にいる3人の女性の中の誰かだろうと思った。

いつも、レッスンの行き帰りに、受け付けの女性とはよく話すし、冗談を言ったりもする。
レッスンの日の調整のメールだから、この3人の受付事務員さんの中の誰かに違いない…。

そう思った僕は、午後9時頃に、馴れ馴れしい調子で冗談半分の返信をした。

 まみちゃん、こんばんは~。メールありがとうございました。
 こんな夜遅くにすみません。日程の件はオーケーで~す。
 お仕事を終えてリラックスされている時にお仕事の話で恐縮でした。
 超過勤務をさせてしまいましたね~。許してチョーダイ~でつぅ。

すぐに返事が来た。
お返事をいただきありがとうございます、という文面のあと、

なるほど、超過勤務ですかぁ~。 また連絡などありましたら、
メールさせていただきますね(ニコニコ絵文字)

しかし、不思議なことがあった。その返信文を読むと…
件名には「河内まみです」とあったのに、メールの終わりには「河内▼▼」という、
漢字2文字の別の名前が添付されていた。 なぜ「まみ」ではないのか…?

あるいは、少し無理があるが、この漢字2文字で「まみ」と読むのか…?

あまりに気になったので、僕はまたメールを送った。

プライベートな質問で恐縮ですが、「▼▼」と書いて「まみ」と読むのですか?

そして、すぐに返事をもらった。

▼▼は私の名前です。 「まみ」はこちらです(と、ハートの絵文字)

こちらです(ハートの絵文字)、という意味がわからなかったが。
それ以上深くは考えず、「では次のレッスン日にお会いしましょう」
と送信して、ひとまず一段落がついた(つもりだった)。 

そして、そのレッスンの前日のことである。

夕方、いつものようにモミィにエレクトーンの練習をさせ、
それが終ってからモミィのカバンの中のテキストなどを整理していると、
1枚の印刷物が出てきた。見ると、「クラス連絡網」というプリントである。

初めて音楽教室へ行った時、何かの用紙に携帯メールアドレスを書いた覚えがある。
子どもの氏名、住所、自宅の電話番号に加えてメールアドレスを書く欄があったのだ。

そのあと、それをプリントしたものをもらったのも覚えている。
しかし、それをモミィのバッグの中に入れたまま、ず~っと忘れていた。
「連絡網」とあるけれど、実際に保護者から連絡が来たこともなかった。

この日、偶然にもその「クラス連絡網」のプリントを見つけ、何気なく目を通したら…

ぎょぇ~~!
びっくり仰天、とはこのこと。

その「クラス連絡網」の中に、「河内まみ」という名前があったのだ。

うぅぅぅ~

大変なことをしてしまった。

「まみ」というのは子どもさんの名前で、▼▼の漢字2文字はママの名前だったのだ。
つまりまみちゃんのママが、レッスン日程の変更のメールを送ってくれたわけだった。

「う~む、まみちゃんなぁ、まみちゃん…」と目を閉じて思い出してみる。
そういえば、レッスン中に先生から「まみちゃん」と呼ばれている子がいた。
懸命に記憶をたぐる。 はぁ、あの子のことなんだ。 可愛い顔が浮かんだ。
そして、いつもその横についているママは、まだ若くて綺麗な人だった。
愛想がよくて話しやすく、教室のママの中では一番多く会話を交わしてきた人だ。

しかし、名前は知らなかった。
その人が河内▼▼さんであり、メールを送ってきてくれたご本人だったのだ。

受付の女性なんてまったく関係なかったわけだ。 さぁ~、えらいこっちゃ。
「許してチョーダイ~でつぅ」 な~んていうメールに、驚かれたことだろう。
「この人、アホちゃう…?」 と思われたかもしれない。 あぁ…

僕はあわてて携帯を取ってお詫びのメールを送った。

てっきり受付の方だと思い、勘違いしてふざけたメールを送りました。
いま、「クラス連絡網」というプリントを見て河内さんのお名前を発見し、
ゲ~~っと驚いて、途方に暮れているところです。えらいこと、しました。
非礼をお詫びいたします。明日のレッスンでは合わす顔がありません。
合わす顔がないので、覆面をしてレッスンに参ります。
でも、ビルの入り口で警備員に捕まりますわ。とほほ~。

そんなメールを送ったら、そのママからまたお返事をいただいた。

メール、面白すぎで、楽しいです。
そうだったのですかぁ。
そんな気になさらず。
覆面で、バレずに教室までいらしてください。
ぜひお待ちしてまぁす。
明日のレッスン楽しみですね。

それぞれの文末に、ニコニコ顔やハート、ウサギさんなどの、
可愛い絵文字がつけられていた。

やれやれ…

翌日のレッスンで、まみちゃんママと顔を合わせたときの恥ずかしかったこと。
ママはニコニコ笑っておられましたけど…。

もう少し、慎重な人生を送らんとあかんなぁ。 …もう遅いか。

 

 

 

 

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京都・大文字山へ

2011年10月29日 | ウォーク・自転車

京都の大文字の思い出を、8月17日のブログに書いた。
幼児の頃まで京都に住んでいた僕は、大阪へ行ってからも、
夏休みになれば必ず京都の実家に遊びに戻ってきた。
8月16日の「大文字」を眺めるのが一番の楽しみだった。

ところが今年は、3月の東日本大震災の津波で倒れた、
岩手県陸前高田市の松の薪を送り火で燃やす計画が出たが、
放射性物質が検出されたのされなかったのという大騒ぎがあり、
燃やす、燃やさない、と実行本部の二転三転の優柔不断の処置に、
日本中の人たちの大きな怒りと顰蹙を買ってしまった。

大文字を愛していた一人として、まことに遺憾な出来事であった。

で、2ヵ月後、その大文字山に登ることになるとは思いもしなかった。

  ………………………………………………………………………………

市役所時代にお世話になった山好きの先輩からメールが来た。
「久しぶりに、京都の山を歩きませんか?
 今回は、山科から大文字山へ行き、銀閣寺を通るコースです」

ここのところ半年以上も会っていない先輩である。
山歩きは長い間ブランクがある。脚力も最近は鍛えていない。
少し不安はあったが「行きます。楽しみです」と返事した。

…ということで先週の土曜日、夜明けまで雨が降っていたがそれも止み、
予定通り、天王寺から環状線で大阪まで行き、そこで新快速に乗り換えた。
JR京都駅の次の駅、山科で降りた。

メンバーは、他に誰か来るのかと思ったが、先輩と僕の2人だけだった。
久しぶりに会ったので、お互いの近況を報告し合い、会話が途切れなかった。

さて大文字山にはいくつかの登山ルートがあるが、
山科から歩くと距離も長いので運動量が増える…
という先輩の「少しでも長く歩きたがる」傾向がここでも出ていた。

たしかに、大文字山は標高500メートルにも満たない低い山だけど、
山科から歩くと、休憩を入れると頂上まで1時間半ほどかかった。
反対側の銀閣寺側から歩くとそこまで1時間もかからない。
その距離は、地図を見ればよくおわかりかと思う。



  
   黄色が大文字山を歩いたコース。山科、大文字山の山頂、銀閣寺。
   黄緑色が京都大学。
   水色が京阪出町柳駅。

 


そろそろ山に差しかかる時、3人の中高年の女性が歩いておられたので、
その方のお一人に、僕らの写真を撮ってもらうようお願いした。
写真が終った後「どちらまで行かれるのですか?」と、先輩。
「大文字山まで上がって、銀閣寺に下りようと思っています」
「あ、それじゃぁ、私たちと同じですね」と先輩が言うと、
「まあ、よかった。ついて行きますわ~」と女性たちは笑った。

僕は内心ホッとした。
だいたいこの先輩はハードなコースが好きなのである。
何回も山歩きに誘われているが、「大丈夫、大したことないよ」
と言うわりには、実際に行ってみると険しい山だったりする。

今日はまあ、低い大文字山だから大丈夫だろうとは思っていたが、
普通の人が通らないような変なコースの好きな先輩だから、まだ少し不安だった。
最近、運動といえば、ほとんどプールばかりで、長い距離を歩いていないしなぁ…。

でも、この女性たちは、わりに軽装である。
お年もかなり召しておられる。
その人たちと同じコースなんだから、まあ、今日は心配あるまい…
ということでホッとした、というわけである。

山に入ると、雨上がりでしっとりとした森の空気がおいしい。

僕も1時間ぐらいは登り道でも息は乱れなかったが、それが過ぎると、
だんだんと心拍数が上がり、話しても言葉が途切れがちになってきた。

長い間山を歩いていないし、最近はジョギングやウオーキングも量が落ちた。
明らかに下半身の筋力が衰えているのが自分でもよくわかった。

いつもなら、先に先輩の息づかいが荒くなるのに、今回は逆だ。

頂上に着いて、京都の街を一望できるベンチに座ったときは、
あぁ、やれやれ…という気分だった。おなかもペコペコだった。

山科の駅のコンビニで買った助六弁当の美味しかったこと。
しかも、目の前に絶景が広がる。

いなり寿司も巻き寿司も、つるつるとのどに入る。あぁ、うまい!

 

 
   大文字山の頂上から見た京都の街並み。雨上がりでもあり、空気が澄んでいた。
 

やがて3人組みの女性たちが着き、続いて数組の人たちが来て、
それぞれお弁当を広げ始めたので、まわりは賑やかになってきた。

頂上から少し降りると、大文字の送り火を燃やす「火床」へ出た。

街の中でこの山を見上げると、「大」の字がはっきり見えるけれど、
ここでは一つひとつの「火床」がポーンポーンと離れて置かれているので、
それが「大」の字のどの部分にあたるのか、よくわからない。
しかし、「火床」に沿って登山道を下っていくと、だんだんわかってくる。
これが「大」の字の「ノ」の部分なのだなぁ、という感じで…。

 

 
  これが大文字の火を燃やす 「火床」 。 これだけでは全体像はわかりませんが…

 

  
    出ました、おじゃまムシ。 火床の前で記念撮影。

 

ここから、わりに急な坂をどど~っと下って行くと、
普通の狭い道路に出て、登山道はこれでおしまい、ということになる。

その普通の狭い道路をほんの10秒ほど歩くと、
いきなり左右に道が現れ、驚くほどの人が歩いている。

ここがすでに銀閣寺だったのである。

大文字山を下りたところにいきなり銀閣寺があるとは…知らなんだ。


  
   このすぐ横が大文字山の登山口になっていたとは。
   京都には詳しい僕であったはずなのにぃ…

 

下り道でまた両足の筋肉を酷使し、かなり疲れた。それが表情に出たのか、
先輩は「もうちょっと、歩くで」と、僕に気を遣うように言うので、
「ここから出町柳まで歩いて京阪電車に乗りましょう。
 そこは始発駅だから、大阪まで座って帰れますもんね」
と僕が言うと、
「ピンポーン。そうやで、ここから出町柳まで歩くんや」

京都大学の前を通り、出町柳駅へ着いた。

駅の前をそのまま通り過ぎて、加茂川の橋を渡った。

この橋から、今登って来た大文字山の写真を撮るためである。

 
  加茂川から大文字を。今行ってきたばかりなので、親しみを感じる。

 

写真撮影を終えて、出町柳駅へ戻り、帰途に着いた。

帰りの電車の中で先輩が、
「今日は、本当の計画は、銀閣寺で終わりではなくて…」
と話し始めた。
「銀閣寺から比叡山の方へ歩いて行く予定だったんやけどなぁ」
「えっ? このコースだけでもクタクタなのに…」と僕はうんざり…という気で聞く。

実は、明け方まで雨が残っていたので、今日は決行するのかどうか、
今朝の6時の時点で連絡をもらうことになっていた。
前日までの予定では、午前7時半に阿倍野で待ち合わせることになっていたが、
この日の午前6時にかかってきた先輩からの電話では、、
「こんな天気やから、コースを一部変更するわ。待ち合わせ時間も9時にしよう」
と、7時半から急きょ9時に変わったのである。

帰りの電車で先輩が漏らした言葉には、そういう背景があった。

先輩の計画では、大阪を早い時間に出て、山科から大文字山へ登り、
銀閣寺に下りて、さらに比叡山の方へ歩いて行く…

という計画をしていたそうなのである。
久しぶりの登山でバテバテだったのに、もし天気が良くて、
計画通りのコースを歩くことになっていたら…と、考えただけでも恐ろしい。

僕と先輩は、かつて大阪~明石大橋往復100キロウオーク大会を一緒に完歩した。
先輩は、僕の今の体調を知らないので、僕がどこまでも歩けると踏んでいたようだ。
だからこの日、他の人を誘わず、「タフなはず」だった僕だけに声をかけたのだろう。
それだけハードなコースを、この恐ろしい山好き、歩き好きの先輩は計画していたのだ。

やっぱりなぁ。 そうだったんだ。
朝まで雨が降ってくれたことで、僕は救われたのだ。
今日のコースは、どちらかと言えば初心者向きである。
でも、最近脚力が弱くなっている僕には、これが精一杯だったもんね。

それにしても、銀閣寺に着いてやれやれ、と思ったところへ、
さあ、これから比叡山へ行くで~と言われたら、これはもう…

げぇっ、ヒエイザン! ヒエー」 と悲鳴を上げるしかない。

 

 

 

 

 

 

 

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北杜夫、亡くなる

2011年10月27日 | 読書

昨日、昼食の用意をしながらテレビのニュースをかけていると「作家でエッセイストでもあった」という音声が聞こえたので反射的にテレビを見た。老人らしい顔が写っている。目の悪い僕には、とっさにそれが誰かわからなかった。すると次の瞬間、僕は持っていた包丁をあやうく自分の足元に落とすところだった。

「作家でエッセイストでもあった、北杜夫さんが2日前に亡くなられました」

「えっ?」と驚いてテレビの音量を上げたけれど、次のニュースに変わってしまった。キッチンに来た妻に「北杜夫が死んだ」と伝えると、妻も絶句した。付き合い始めた頃から、僕が北杜夫が大好きだったことを妻も知っている。

大学時代、ある楽器のクラブに所属していた僕は、高校からずっと、内外の古典文学というか名作しか読まない学生だった。その楽器のクラブに後輩が入ってきて、彼は僕が本が好きだというと、「北杜夫は読んではりますか?」と訊いた。「キタモリオ? 読んだことない。外国ならドストエフスキーやスタンダール、モーパッサン、フローベル、マーク・トゥエインとか、日本なら太宰治、漱石、芭蕉の奥の細道とかやなぁ」

つまり、現在生きている作家の本など、ごく一部を除いてほとんど読まなかった。「世界文学全集」や「日本文学全集」以外の本を読んでいるヒマなどなかったし、なにか現代作家というのは軽い気がして、ほとんど手を出さなかった。北杜夫も、もちろん読んだことがなかったが、名前だけは、知っていた。「どくとるマンボウ」などと馬鹿げた名前をつけた作家など、ロクでもないと思っていた。

しかしクラブの後輩は、「僕は北杜夫と囲碁が人生の生きがいなのです」と言う。「とにかく、読んでくださいよ。どの本も面白いですよ。お願いします」

そこで僕は「どくとるマンボウ昆虫記」という本を買ってきた。昆虫には興味はなかったが、その文章がとても面白かった。続いて「どくとるマンボウ青春記」を買って読んだ。こんな愉快な本がこの世の中にあったのか、と思った。ここから僕の北杜夫中毒が始まった。

「航海記」「小辞典」「途中下車」「おもちゃばこ」などのマンボウシリーズで大笑いし、シリアスなデビュー作「幽霊」や芥川賞の受賞作「夜と霧の隅で」などにしんみりし、大作「楡家の人々」では、著者の父、斉藤茂吉の出身地から出た蔵王山という大相撲の力士を応援する描写にお腹を抱えて笑ったり、とどめは「怪盗ジバコ」で、僕は完全に北杜夫に傾倒した。

それまで、ドストエフスキーや太宰治や漱石にかぶれ、その後は開高健、小松左京、村上春樹などにかぶれたけれど、この時期の北杜夫ほど大きな影響を受けた作家は、後にも先にもいない。

北杜夫が旧制松本高校時代に、テストに書いた珍答案が「青春記」に載っていた。僕は実際に、大学の何かのテストの時、これを真似した珍答案を考えて書いた。それを読んだ先生が僕に「う~む。卓越しとるね」と言った言葉が忘れられない。

書き始めればキリがないほど、北杜夫をめぐる思い出は多い。

「どくとるマンボウ航海記」で北杜夫は、
「肝心なこと、大切なことは何も書かず、くだらないことだけを書いた」
と、あとがきで述べていたが、僕はいまだにこの文章が忘れられず、自分もブログにくだらないことだけ書けばいいやろ…と思ったりしている。

しかし、ここ10年ほど、ほとんど北杜夫を読まなくなった。一人娘の斉藤由香のエッセイで消息を知るぐらいだった。

それでも、これまで読んだ北杜夫の作品は、僕の体の中にしみこんでいる。

その死は、大きなショックだ。悲しい。

5年前の夏、妻と信州を旅行したとき、
「どくとるマンボウ青春記」ゆかりの、旧制松本高校へ行った。

北杜夫を追悼しながら、その時の写真を掲載します。

 

   
ここが旧制松本高校の跡地で、この奥(写真左)の方に記念館が建っている。



  
   門の前で。
   「青春記」の舞台となったところだ。
  

  

 
  旧制松本高校の記念館へ入る。

 

 
 館内にはいろんなものが展示されていた。
 旧制松本高校出身の著名人はわりに多い。
 中でも北杜夫は最も知られた人ではなかったか。
 展示品の中にも、北杜夫に関するものが沢山あった。

 

 
  北杜夫の書。

 

開高健や小松左京が亡くなったときも大きなショックだったが、
「あぁ、好きだった作家が亡くなったんだなぁ」という思いだった。

でも、北杜夫が亡くなったと知ったときは、肉親を失ったような気がした。

 

    

    これも記念館に展示されていたものです。

    慎んでご冥福をお祈りいたします。
         

    (これらの写真は2006年=平成18年=8月10日に撮影したものです)

*北杜夫のことは、今年8月のブログに詳しく書いています。

                  


http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/34f6a232814963ec7b728c468d829291

 

 

 

 

 

 

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タイから来た葉書

2011年10月25日 | 旅行

昨日のタイ、バンコクに関する記事の中で、
ノム君という若い現地ガイドが、空港へ迎えに来てくれたことを書いた。

それだけ書いて、あとはノム君のことには何も触れなかったけれど、
バンコク旅行を振り返ったとき、このガイド君の存在は忘れがたい。

まだ20歳前後ではないかと思われる、なにか学生アルバイトのようなふうだった。
彼が最初に空港に姿をあらわしたとき、「本当にガイドなの?」と疑ったほどだ。

余談だが、僕が中学生ぐらいの時、壮絶なボクシングの試合に酔いしれたことがある。
それは、ファイティング原田が無敵のチャンピオン、ポーン・キングピッチに挑戦し、
圧倒的な攻撃をみせてKO勝ちをし、日本人2人目の世界チャンピオンになった時だ。
あの時は日本中が狂喜乱舞し、僕もテレビの前で何度も踊りまわった。
ポーン・キングピッチはタイの選手であり、その国最大の英雄であった。
(今ネットで調べたら、1962年=昭和37年にその試合が行われていました)

僕は車の中でノム君に「ポーン・キングピッチを知っていますか?」と尋ねた。
いくら昔の選手でも国民的英雄だったはずなので、知っているだろと思ったら、
ノム君からの答えは 「しりません。どんなひと、だったのです、か?」 だった。

「なに? タイの人間でキングピッチを知らないのがいるのか…」ぶつぶつ。
うむ。やっぱり世代がこれだけ違うのだ、と当時40歳だった僕は思った。

しかし、ガイドにしては若すぎるようなノム君だったけれど、
案内してもらっているうちにその誠実な人柄に惹かれていった。

彼の日本語はたどたどしい。

しかし、一生懸命考えて言葉を伝えようとする態度が、実に健気だった。

あるとき、ノム君は僕に、「ウシ、ありますか?」と唐突に訊いた。
「牛? いやぁ、うちでは牛は飼っていないんだけど…」と言うと、
ノム君は怪訝な顔をしてこちらを見ながら、「ウシですよ、ウシ」と言う。
どうも、変である。話の前後からみて、動物のウシではないみたいだ。

あ、そうか! とやがて気がついた。

うし(牛)ではなく、うち(家)のことを訊いているのだ、と思った。

「家を持っているか?」という質問である。
「あ、うち、ねぇ。うちは、まあ、いちおう持っているけど…」

ノム君は、自分は将来家を建てるつもりなのだと、目を光らせた。
そのために、もっともっと勉強して、えらくなりたい、とも言い添えた。

「いつか、にほんに、いきます、つもり、です」

旅行中、ノム君の写真も何枚か撮ったので、
日本に帰ってから、それらをタイへ送った。
するとノム君から、お礼状のような絵葉書が届いた。

それを、ここに紹介したいと思います。

22年ぶりに一般公開します(笑)。

 
             ↓

 

 

さて、ちゃんと読めましたでしょうか…? ほほえましい文章ですね。

「末筆ながら ごけんこう ごかつやく ごはってんを おいのり申しあげます」
には、思わず笑ってしまいます。

こんな楽しいハガキがタイから届いたというだけで、
僕のタイという国へのイメージがぐ~んとアップしました。

今もまだその感触が、心に残っています。

…それでは、このブログをお読みいただきました皆さま方、
末筆ながら、ご健康、ご活躍、ご発展をお祈り申しあげ、
今日はこれくらいにさせていただきたいと思います。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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タイ、バンコクの思い出

2011年10月24日 | 旅行

タイのバンコク周辺で、洪水被害が広がっているというニュースが、気になる。
そう言えば、ここには川が「街のストリート」になっているようなところもあった。

バンコクの川の風景は、今でも僕の頭の中に鮮明な映像記憶が残っている。

バンコクへ旅行したのは1989年(平成元年)で、もう22年も昔の話である。

空港に着くと、ノム君という若い現地ガイドが迎えに来てくれていた。

空港から、窮屈なワゴン車に乗せられて、夕食の場所に向かった。
道路は大混雑・大渋滞だ。それでも、どことなくのんびりしていた。
ソウルでもよく似た光景を見たが、クラクションの音でとても騒々しかった。
しかしバンコクはいくら渋滞していても、クラクションは聞こえず、静かだった。
(まあ、昔のことですから、今はどうか知りませんが)

チャオプラヤ川沿いにあるホテルに泊まった。
部屋の窓から見るチャオプラヤ川の美しい風景は、僕にとっては意外だった。
タイという国をいささか誤解していたようで、風光明媚な場所が多かった。

ただホテルは立派な建物で部屋も広く豪華だったが、バスルームのお湯は赤く濁り、
いくら出し続けても透明にはならず、午後10時になると水自体が出なくなった。
このあたりが、やっぱりなぁ、という思いを新たにさせる「タイ国らしさ」だった。

旅行中、最も印象に残ったのが、水上タクシーと呼ばれる小さな舟に乗った時だ。

「乗客」はわずか5~6人で満員になるような舟である。

むき出しのディーゼルエンジンを積み、轟音を撒き散らしながら、
チャオプラヤ川を猛スピードで進む舟に、最初は恐怖を感じたほどだ。

しばらくして、支流に入り、エンジンの轟音もしなくなった。

映画「地獄の黙示録」に出てくるようなジャングル風の川岸風景から、やがて、
川の両側に民家が並ぶところに出てきた。川が各家庭の「裏庭」なのである。

裸のお尻をこちらに突き出している女性もいたし、
水浴びをしている子どもたちや洗濯をする主婦たちなど、
なまなましい生活の姿を、川の側から見せてもらった。
この人たちにとって、川は毎日の生活に絶対に欠かせないものなのだ。

ところで、雨で川が増水したらこういう家はどうなるのだろう…とも思った。

しかし、そんな増水の恐れがないからこそ成り立つ家並みだったはずである。

今回の洪水被害のニュースを見て、何か複雑な思いに駆られた。

 

   
  ピンボケ写真ですが、この写真しかないので掲載します。
  舟から川岸の民家の様子を写したものです。
  洗濯か、何か他のものを洗っているのか、わかりませんが、
  川が裏庭になっていることは間違いないでしょう。
  今回の大洪水で、こういう家々はどうなったのだろうか…と。 



さて、いつの間にか、僕たちの舟のまわりに、物売りの舟が近づいてきた。
舟に乗っているのは、ほとんどオバさんかお姉さんである。

この人たちは舟に品物を積んで一人で乗っている。
そんな舟があちらこちらに浮かんでいる。

僕たち観光客の舟を見ると近づいてきて、強引に両手で舟を引き寄せ、
これを買ってくれと、物を売りつけてくるのである。
僕らの乗る舟の方も、その時は停止して物売りをサポートする。

最初に来たのが麦わら帽子を売るお姉さんで、こちらの舟にしがみつき、
身を乗り出し、お客の頭に、その麦わら帽子をひょいとかぶせるのだ。
びっくりするお客に、手を出して、これはいくら…と代金を請求する。
その仕草といい、タイミングといい、絶妙のワザであった。

麦わら帽子のほかにも、バナナとかマンゴーの実とか装飾品とかいろいろだ。
日本人と見ると、「〇〇円デイイヨ、ヤスイネ~」などと叫ぶ。

  

 
 舟にピタリとくっついてきて、帽子を売るお姉さん。
 このあと、身を乗り出してお客の頭にいきなり帽子をかぶせました。



そんな「流し」の物売りの襲来に一段落がつくと、次は水上マーケットだ。
喧騒に満ちたみやげ物売り場群で、各国からの観光客がたむろしている。

タイは世界中から来る観光客たちによって潤っている国だという。
(それだけに、今回の洪水被害は観光面でも大打撃を受けているようだ)

10歳ぐらいの男の子が、僕の顔を見て、店頭の像の置物を差出し、
「コレ、センエンデ、イイヨ」と日本語を使い、買ってくれとせがむ。

「流し」の物売りたちも、水上マーケットも、熱気に満ち溢れていた。

…というバンコクでの一風景だったが、むろん他の場所もいろいろ観光した。
しかし、やはりこの川をめぐる風景に、今も強烈な印象が刻み込まれている。

バンコクの中心部が浸水したニュースに接するたびに、思い出す風景だ。
水が引くまでには4週間から6週間かかるそうである。

あの、川岸に並んでいた民家の人たちは、どうなったのだろうか…

 

 

 

 

 

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モミィも6歳になりました

2011年10月21日 | モミィの成長日記

 
運動会の翌日、道路で、偶然に幼稚園の園長先生とすれ違った。
園長先生はわざわざ乗っていた自転車から降りて、こちら側に来られ、
「モミィちゃん、鉄棒でよく頑張りましたねぇ。思わず涙が出そうになりました」
と、感極まった表情で話してくださった。

また、幼稚園が始まって、モミィを迎えに行くと、担任の先生とお会いした。
「モミィちゃんは前の日まで、鉄棒の逆上がりができなかったんですよ」
と、担任の先生は打ち明けてくださった。

「てっきり前まわりをするものと思っていたんですけど」と先生。
鉄棒の前まわりは最近、出来るようになったと本人も言っていたし、
本人だけなら、時々見栄を張ってホラを吹くからあやしいものだが、
担任の先生からも「前まわり出来ましたよ」と教えてもらっていた。

しかし、逆上がりはそれまで出来たことがなかったという。
それが、ぶつけ本番で、失敗を繰り返しながらも最後は成功したのだ。

鉄棒の横についておられた先生も、よく我慢していただいたことだと思う。
うしろから次の園児が来て、モミィが終るのを待っているというのに、
先生は、モミィのお尻を押して回転させることを我慢された。

担任の先生の話によると、あのとき、横におられた先生が、モミィに、
「先生が手伝おうか?」と言って、お尻を押してあげようと思ったら、
モミィが「自分でやる!」ときっぱり言い切ったという。

「へぇ…? そうなんですか?」と僕は驚いた。
「そうなんですよ。モミィちゃんが自分でやるって言ったそうなんです」
担任の先生も、あのシーンはすごく感動しました、と言ってくださった。

日頃はおっとりしているのだけれど、モミィにも意地があるのだなぁ。
そんな根性を持っていたとは…、恥ずかしながら僕も認識不足だった。
家での甘えん坊の様子を見ていると、つい甘く見てしまいがちなのだ。

そんなモミィだが、今日(21日)は遠足である。秋は行事の連続だ。
モミィを自転車に乗せて駅まで送って行き、今帰って来たところである。

いいお天気に恵まれた中、子どもたちは電車に乗って元気に出発した。

さて、あれもこれもで目まぐるしいことだけれど、
つい先日、モミィは6歳の誕生日を迎えた。

2005年(平成17年)の10月。
僕が初めてブログというものをやり出してから数ヵ月後にモミィが生まれた。

その0歳から先日の6歳の誕生日までの7枚の写真を並べてみました。

 

     
    生まれたてのモミィ。名前はまだありません。
    枕元には母親の名前の下に「ベビー様」と書かれていました。

 

 
  1歳です。 この写真を見ても、このころモミィがどんなだったのか、
  あまり記憶にありません。年のせいか、すぐ忘れてしまうのです(笑)。

 

      
    2歳。 隣接市にある大型商業施設の中にあるキッズコーナーで。

 

  
   3歳。 家の近くの城山古墳公園というところでのショット。
   菖蒲で有名なのですが、秋になるとコスモスが咲き乱れます。
   実は毎日、この公園内を通って幼稚園に通っています。
   ちょうどこの景色のように、今、コスモスは真っ盛りです。


 

 
  4歳。 淡路島へ一泊で旅行へ行った時の写真です。 
  ゆかた姿がうれしそう。 やっぱり女の子ですね。

 

   
   5歳。いよいよ幼稚園に通い始めました。
    去年のブログに掲載した運動会の1シーンです。

 

      
    そして今年6歳の誕生日。
    妻と2人で作ったお誕生ケーキを前に、うれしそう。

 

 2005年の秋から今年の秋までの6年間…。
 僕の6年間など知らぬ間に過ぎ去って行った感じですが、
 こういう写真を並べてみると、時の流れが胸に沁みます。

 このブログをお読みいただき、モミィを温かい目で見てくださる皆さまには、
 改めて、心から感謝申し上げます。 ありがとうございます。 

 これからもよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

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モミィの運動会

2011年10月18日 | モミィの成長日記

10月15日(土)に予定されていたモミィの幼稚園の運動会。
しかし当日は雨のため、翌日の日曜日に延期となりました。
その日曜日も明け方まで雨で、あやうく2日連続延期か…?
というところでしたが、7時頃から晴れて無事開催されました。

園児たちの最大のイベント、運動会でのモミィのフォト日記です。



  
  年長児の最初の種目は「ミッキーマウスマーチ」で踊りました。
  左端がモミィです。



 
  次は「BORA★BORA」 
  「ボラボーラ」は南の島ボラボラ島のあいさつ (ほんまかいな…?)
  みんな、衣装を着けて楽しそうに踊っています。 (モミィは右端)

 
年少児のかけっこの時、関係ないはずの年長児のモミィが、
先頭で入場行進してきたので、「え~? なんで?」と思いました。
様子を見ていると、ゴールのテープを持つ役をするということでした。


   


「私たちは大きい組さんやから、小さい組さんのお手伝いをするの」
事前にそう言っていたモミィですが、こんな役とは知りませんでした。
先生からご指名を受けたそうです。 先生、ありがとうございました~
(しかも僕が立っている目の前だったので、いい写真が取れました)

 ………………………………………………………………………………

さて、最も僕たちが期待の…というより、最も心配な種目、
「ザ・チャレンジ」が始まりました。 年長児の種目です。

ひとりずつ順番に、マットのでんぐり返り、平均台、鉄棒、とび箱、そして
最後は大縄跳びに入って跳ぶのですが、去年、年長児のこの競技を見て、
果たして来年の運動会で、運動神経では他の子よりかなり劣るモミィが、
こんないろんな動きができるのだろうかと、1年前から心配していました。

担任の先生は、夏頃から会うたびに、こうおっしゃってくださいました。

「モミィちゃんは鉄棒が、もう少しで、できるようになってきましたよ」
「とび箱の3段を、きょう飛べたんですよ。ほめてあげてくださいね」
「モミィちゃんは、一生懸命頑張っていますよ。コツコツ型ですよね」

本当に、運動神経が鈍くて、不器用そのもののモミィなのです。
でも、まあ、本人がそれをあまり気にしていないのが救いです。
僕も妻も、「できなくてもいいから、一生懸命やったらいいねん」
と言い、モミィも、こういうのも何ですがまじめ一筋の子なので、
先生がおっしゃったように、コツコツと練習してきたと思います。

「できなくてもいいから」とは思いながらも、やはり晴れの運動会。
多くの「観衆」の前で、無事に各種目をクリアできたらいいなぁ…
と思うのは当然ですよね。そうこう思っているうちに、モミィが出てきました。

   まず、マットでのでんぐり返しです。

   

        よっこらしょ~

 

     
    あぁ、できた~

   
2回まわりでいいのに、合計3回まわったモミィ。
「2回まわったら、まだマットが余っていたからもう1回まわってん」
と、後ほど、このときの「心境」を述べておりました。

次は平均台です。いつのまにか両膝にバンドエイトが貼られている。
どうしたんだろ? 僕らの見ているところでは転んでいなかったけど…
(後で聞くと、体操の退場後に友だちとぶつかって転んだらしい)


  

   さあて、そろりと登ります。 先生が心配そうに身を乗り出します。

 

   

  ここで、片足を上げて、はいポーズ。 おっとっとっと。

なにせ危なっかしいモミィのことですから、先生も心配そうですね。
他の子どもたちの時は、先生もここまで近づかなかったのですが…  

そのあとが、最大の難関、鉄棒です。
スイスイと逆上がりをする子がたくさんいました。
みんな上手だなぁ、と感心しました。

で、モミィが鉄棒にやって来ました。

よいしょっと上がろうとしますが、お尻が重いのか、なかなかできません。
勢いをつけてもう一度…。 でも失敗。 もう次の子が来て、待っています。  


 
 
また、次も失敗。その次も、その次も…。
がんばれぇ、と父兄の方たちがみんなモミィに注目し、応援してくれました。


    

  そんな声援の期待に応えられず、失敗失敗また失敗のモミィ。

  もうそろそろ、先生がお尻を押してフォローしてくれてもいいかな~
  …と思っていたら、あ~っ、今度はいける、いけるぞ、がんばれぇ~

 やりました~。 とうとう、自力でまわることができました。

 


保護者席からも、子どもたちからも、モミィに大きな拍手が送られました。
見ているこちらは、ついホロリ…でありました。
最後まであきらめず、よくがんばったと思います。


次はとび箱。
5段、4段、3段の3種類が置かれています。
モミィはもちろん3段を選びましたが、なかなかのフォームで飛び越した!

…と、この写真では見えますが、実はこのあと、上で尻もちをつきました(笑)。

 

 

最後の種目は大縄跳びですが、まわっているところへ飛び込むのはできないので、
先生がいったん縄をとめて、モミィが来てからまわしてくれました。
これもなんとかクリアして、無事に全種目を終えたモミィでした。

いやぁ、やれやれ…。 胸をなでおろす僕と妻でした。

見ているほうが、ぐったりと疲れます。

 
  
  モミィの目は、真剣そのもの。 縄跳びも、よく跳べました~


  次は保護者といっしょにやる騎馬戦です。

 

真ん中(ゼッケン2)がモミィのパパ、つまり僕の長男ですが、
背中のモミィはこのあとすぐに帽子をとられてしまい、早々に「退場」でした。

 

最後は「呼び物」のリレー。モミィは自慢ではありませんが、足も遅いのです。
あわてて、すべって転んだりしなければいいのですが…


 

 前走者からバトンのリングを受けるモミィ。 転んだりしないでね。
 
 

しかしモミィは思っていた以上に力強く、きれいなフォームで走り、
次の子にタッチすることができました。 よかった、よかった。

 

…ということで、途中から暑いくらいの晴天になり、絶好のコンディションのもと、
予定通り、すべてのプログラムが終了しました。

モミィのことばかり書きましたが、年長児と年少児あわせて約60名の園児たちが、
所狭しとばかり走ったり踊ったりする光景は、本当に楽しいものでした。

園児の数が少ないので、みんな出番が多いのがまた楽しかったですね。
モミィがわが家に連れてくるお友達もいるので、僕も知っている子が多いのです。
ですから、モミィだけでなく、他の子どもたちにも大いに楽しませてもらいました。

ちなみに長男と次男もこの幼稚園を卒園していますが、当時の運動会は、
幼稚園単独ではなく、隣にある小学校と合同で行われていたので、
幼稚園児の出番は全部で2回ほどで、あとはみんな小学生でした。
それにくらべると、今回は、他の子同様、モミィがどんどん出てくるので、
それだけ見ごたえがありました。

モミィは去年は年少児だったので、お遊戯とか簡単なかけっこだけだったのですが、
年長児になった今年は、かなりハードな競技があったので、
さて、みんなについていけるのか? と、ずっと心配していました。

でも、いつか先生が言ってくださったように、モミィはコツコツと練習したようで、
僕たちが思っていた以上に、運動会の舞台では逞しい姿を見せてくれました。

やっぱり、運動会って、見ていて興奮しますね~

最後になりましたが、今日はモミィの誕生日です。

満6歳になりました。

来年の今ごろは、小学校1年生での運動会のことを書いているのでしょうね。 

 

 

 

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いざ英語検定へ

2011年10月14日 | 日常のいろいろなこと


来年1月の英検準2級の「受検」に向けて、ぼちぼちと勉強を続けている。
これまで受けたことのない英語検定をなぜこの年齢になって受けるのか?
…と自分自身に問いかけても、明快な答えはない。ただ何となく、である。

22歳で社会人になった時から、僕は英語にあこがれ続けていた。
好きな洋画を字幕なしで見られたらどれほど素晴らしいだろうか…
海外旅行先で現地の人たちと直接話せたらどんなに素敵だろうか…

そんな思いを抱きながら、何度も英語を勉強をしかけたが、
つい他のことに関心が移ったりして、どうも長く続かない。
こういうものは、いったん途切れると、また一からやり直しである。
何度も何度も、英語の勉強をやり直しては途中で投げ出した。

あぁ~、中学、高校、大学と、勉強する時間はふんだんにあったのに、
なんでその時に一生懸命勉強しておかなかったのだろう、と悔やんだ。

「35歳から始める英語」
「40歳からでも英語はマスターできる」
「今からでも遅くない。中高年の英語チャレンジ」

本棚を見ると、自分の英語の「挫折史」をそのまま示すかのような本が並ぶ。

「奇跡の英単語」とか「秘伝の英熟語」とか「英会話110番」とか、
「起きてから寝るまで<英会話>まるごと練習帳」とか、
本棚に並ぶ英語本の数々は、ため息なしでは眺められない。

「奇跡」に頼り、「秘伝」に依存し、「110番」に願いを託し、
「起きてから寝るまで」頑張ろう…と、あがくのだが、身につかない。

何十冊とたまった英語の教材が、虚しく本棚に並ぶだけであった。

中途半端のまま歳月だけが流れて60歳になり、定年退職した。

仕事から解放されてフリーの身となり、よ~し今度こそ…! 
と、張り切って、駅前のECCの英語教室へ通いはじめた。

しかし、外国人との会話も、そこそこの英語力がついてこそ楽しめる。
フリートーキングでは冷や汗をかくだけで、ちっとも楽しくない。
何人かが集まるレッスンでは、形式的な「授業」しかやらない。

もちろん僕の努力不足がすべてだけれど、
行くのが億劫になり、半年でやめてしまった。

やっぱり、英語の基礎力を高めることが第一である。
まず独学で「継続」して頑張り、すべては、それからの話である。
僕にはこの「継続」の力が欠けていた。なんとか克服しなければならない。

いま、中学の文法書をいちおう卒業し、
「高校3年間の英語を10日間で復習する本」というのを繰り返し読んでいる。
もちろん散歩やジョギング時にウォークマンで聴くことも日課に入れている。
「英検準2級総合対策教本」というのを読んで、試験への対策も練っている。

これがもう自分の人生で、最後のチャレンジになることは明らかである。
後に悔いの残らないよう、この努力を継続したいと考えているところだ。

    …………………………………………………………………………

かつて職場でいっしょに仕事したことのある女性が、
50歳近くなってから英語を勉強しはじめ、英検にもチャレンジし、
準2級に合格して今も勉強を続けている。まだ現役の公務員である。

最近、彼女に「僕も英検を受けるつもりです」とメールを送った。

返信には「さすがっ。のんさんですね」と、合格もしていないのにほめてくれ、
「私も退職したら、ECCジュニアの先生をしたいので頑張ります」と書かれ、
「良き先輩のんさんも英検合格目指して頑張ってくださいね~」と励ましてくれた。

またブログで以前から少しだけ存じていた「アスタさん」という女性の方が、
通訳ガイドの資格を持っておられるということを、最近になって知ったので、
その方にコメントを送ったところ、実に懇切丁寧なお返事をいただいた。

僕がお礼のコメントを返すと、また英語に関するアドバイスをいただき、
数回にわたりさまざまな心構えを詳しく教えてくださり、励みになった。
(それらはひとつのファイルにまとめて印刷し、何度も読んでいる)

そんなことで、徐々にモチベーションが高まりつつあるこの頃である。

ところで、万が一にでも英検に合格したら…
それで、その資格をどう生かしていくの…?

…と聞かれても、これまた明快な答えはない。

英語が好きだから…というだけである。

まぁ、もしそうなったら、思いもよらぬ人生の展開があるかもしれない。
何もしなければ、何も展開しないだろうしね~。

未知の世界へ飛び込むスリルを味わいたい、ということでしょうか。

…と、格好のいいことを言っていますが、
ホンネはボケ防止のためにやっています、なんちゃって。

 

 

 

 

 

 

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老後の楽しい過ごし方!

2011年10月12日 | 日常のいろいろなこと


いよいよチョー高齢社会である。どんどん年寄りが増えていく。

僕は団塊世代の最後の年の昭和24年生まれで、62歳である。
あと10年すれば、団塊世代の先陣は75歳に到達する。

そんな世情だから「老後の生き方」みたいな本がよく売れているようだ。
新聞の下の本の宣伝欄を見ても、「老い」に関する本が目白押しである。

僕も時々そういう本を読むのだけれど、どの本にも例外なく書かれているのが、
「今のうちに友だちを作っておこう、老後の楽しみは人との会話から生まれる」
というようなことだ。
まぁ、ひとり、あるいは夫婦2人で家に引きこもっているのは体に悪そうだ。
やっぱり、友だちとのおしゃべりが、脳を活性化させたりするのだろうね~。

じゃあ誰とでも友だちになれるかといえば、もちろんそうではない。
好き嫌いってものがある。当り前の話だけど。
また、ひとりのほうが気が楽…ってこともある。

よく、どういうお友だち(あるいは恋人)がいいですか…?
という質問があるけれど、これに対する、最も多い答えは、
「いっしょにいて楽しい人」だそうである。

ところが、この間、上野千鶴子さんのエッセイを読んでいると、
「いっしょにいて楽しい人」というのは話題の豊富な人だけど、
要するに、自分からしゃべってばかりいる人の代名詞だから、
こういう人が好かれるわけがない…。

…ということが書かれてあり、へぇ~、そっか、と感心した。
さすが~、京大を出てコロンビア大学などの客員教授を歴任し、
東大の大学院・社会学の研究科の教授をされてきた女史である。

というわけで、この上野千鶴子女史に言わせると、
「いっしょにいて楽しい人」というのは、換言すれば、
「きらわれる人」なんだそうである。

自分は話題豊富で人を楽しませている、と思い込んでいる男も女も、
一方的に自分のことばかりしゃべるので実は相手からきらわれている…
ということを、自覚すべきである、ということですよね。

あはは~… と、笑ってはいられない。  実は僕も、そんな人間だべ。

少なからずショックを受けた僕は、ではどんな人がいいのだ? と思う。

上野千鶴子さんは、「いっしょにいて気持ちのいい人」だという。

いっしょにいて「楽しい人」と「気持ちのいい人」の違いは何なのだ?
単に言葉の遊びだろ、という野暮な質問はこの際やめておきましょう。

で、「気持ちのいい人」とはどんな人なのかというと、
寡黙で、穏やかで、他人の話をよく聞く、
そして要所でぴりりと反応を入れたりする、
そんな人なのだそうだ…。

要はきちんと相手の話を聞いてコミュニケーションがとれるということ。
一方的に自分の話ばかりする人はきらわれる…ということ、ですよね。

高齢者の集まりでも、自分の自慢話ばかりする人、他人の過去を詮索する人、
説教癖のある人などは、たいてい仲間はずれにされる、ということである。

さらに理想を言えば、打てば響くような才気、ことばへの鋭敏な感覚、
ズラシやトボケなどの「芸」が、会話の中に入れられる人…が最高である。

…と、これは僕が言っているのではなく、上野千鶴子さんが、
「おひとりさまの老後」という本で書いていらっしゃる。

老後を楽しく過ごすというのも、なんともむずかし~いことなのだ。

 

 

 

 

 

 

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プールのお笑い芸人?

2011年10月09日 | モミィの成長日記


昨日のモミィのスイミングに関するおはなしです。

駅前のスポーツ施設「コスパ」に大きなプールがあって、
僕は休館日を除くほぼ毎日、そこへ通っています。

モミィの水泳は土曜日だけで、そのときは3人で出かけます。
モミィの姿を、妻は見学席からガラス越しに見ています。
僕はモミィと同じプールで、泳いだりモミィを眺めたりします。

プールには、全部で8つのレーンがあります。

こどものスイミングは手前の第1レーンと第2レーンを使っています。

その隣の第3レーンからは大人の会員たちが使用しているわけですが、
子どもたちのすぐ隣に「50mを休まず泳ぐコース」が2レーンあり、
次に「25mを休まず泳ぐコース」があり、その隣が「水中ウォーク」のコースです。
ウォークは人気があるので、2レーン使っていますが、ここが一番「盛況」です。
そして、一番端っこにあるのが「25メートルを休憩しながら泳ぐコース」です。
見学席から見て、一番遠い場所ですが、僕はもっぱらここで泳いでいます。

コスパで水泳を始めて2年経ちますが、最初は25mを一気に泳げませんでした。
途中で1回か2回立ち止まり、また泳ぐ…というようようなドタバタ泳ぎでした。

しかし、さすがに2年間も通っていると、25mは楽々泳げるようになりました。
(僕の場合、クロールばかりですが)

別にレッスンなどは受けていませんが、僕の泳ぎを見て、
これまで見知らぬ何人かの人たちがアドバイスをしてくれました。

もう少し腕を長~く伸ばした方がいいよ、
軽くローリングすればバランスが良くなるよ、
…など、親切に教えてもらったことを心がけながら泳いでいると、
いつのまにか息継ぎも自然にできるようになり、「しんどい」と感じなくなりました。

それでも「休憩しながら泳ぐコース」で泳ぎ続けているのは、仲間がいるからです。
いつもそのレーンで泳いでいる何人かのおなじみさんと、話す楽しみがあります。
おなじみさんたちは「あなた、うまくなったわねぇ」と僕をほめてくれたかと思うと、
「早くあっち(休まず25mを泳ぐコース)へ行きなさいよ」などと向こうを指差す。
「あ、追い出すつもりですね。でも、そうはいきませんよ」と言って笑い合う。

そんな「お友だち」が増えたので、これからもこのレーンで楽しむつもりです。

しかし、土曜日に限ってですが、ひとつ困ったことがありました。

それは、僕のレーンが一番端っこで、モミィのいるレーンが反対側の端っこで、
お互いに遠く離れているので、僕の場所からモミィの姿がよく見えないのです。

そこで、昨日、僕はついに大きな決断をしたのです。(ちょっと大層やなぁ)

モミィが泳いでいるところから2つ隣のレーンが「50m休まず泳ぐ」コースです。
そこだと、モミィの姿を間近に見ることができます。

よし、今日は思い切って行ってみよう、「50m休まず泳ぐコース」へ!

もちろん初めて入るコースでしたが、男性が2人ほど泳いでいるだけでした。
25m泳いで、くるっとターンしてこちらへ泳いでくる姿は、さすが~と思います。

僕はゆっくり疲れないように泳ぎ、25mでターン…は、やり方がわからないので、
無茶苦茶な姿勢で壁を蹴って方向を変えてまた泳ぎ、元の場所に戻りました。

この日、2年目にして初めて、休まず50mを泳げたのでした

いやぁ、うれしかったなぁ。

モミィに近づくために恐る恐る入った最もレベルの高いコースでしたが、
無事に泳ぎきれて、ちょっとした感激も覚えたほどいい気持ちになりました。

そこで休憩しながら、間近にコーチの指導を受けるモミィを見ることができました。
最近、めきめきと上達したモミィは、今のクラスでは背泳を教えてもらっています。

水に潜るのもいやがっていたモミィが背泳とはなぁ…。 感慨もひとしおです。

コーチの号令で子どもたちがプールサイドから背泳の体勢でザブンっとプールへ…
そのまま背泳で進んで行くのですが、みんな上手に泳いでいます。

そして、いよいよモミィの番がきました。
モミィはスタート体勢は一流の背泳選手のようで、なかなか格好いい。
コーチが「は~い、モミィ!」と声を上げると、パッと両手を放して壁を蹴り、
勢いよく頭から水中に入ったのですが…。仰向けのままブクブク沈んでいきました。

固唾をのんで見守っていた僕は、「ありゃありゃ」とズッコケました。

ガラスの向こうでも、妻が大笑いをしているのが見えました。
僕も、見学席の妻と顔を見あわせ、お互いに大笑いしました。

水泳選手のような勇ましい姿勢から、ボチャ~ンと水中に沈んでしまうなんて…

50mを休まず泳ぐコースに入ったおかげで、モミィの思わぬ「芸」を見せられた。

 モミィよ、あんたは、プールのお笑い芸人か?

 

 

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絶 対 音 感

2011年10月07日 | 旅行


モミィが通うエレクトーン教室は、4歳~6歳の「幼児科クラス」である。
7~8名の幼児たちが、毎週火曜日の夕方に約1時間のレッスンを受ける。

ま、「エレクトーン教室」というのは僕が勝手に名付けているだけで、
実際の名称は「音楽教室」であり、レッスン内容もエレクトーンだけではない。

むしろ幼児たち全員が先生の周りに集まって、いっしょに歌を歌う練習が主である。

「幼児の頃は音楽を聴く耳を作ることが大切なのです」と先生はおっしゃる。

「はい、ド・レ・ミ~♪」と先生がハリのある美声を上げる。
先生を囲んで、子どもたちがそれを真似て「ド・レ・ミ~♪」と歌う。

先生は僕と同世代と思われる女性だけれど、歌いながら、
「〇〇ちゃん、声が小さいよ」とか、
「〇〇ちゃんどうしたの、今日は姿勢が悪いよ」とか、
「〇〇ちゃん、髪の毛をいじりながら歌っちゃだめよ」
などと、てきぱき注意することも忘れない行き届いた先生である。

「次は、はい、ミ・ファ・ソ~♪」と先生。
「ミ・ファ・ソ~♪」と子どもたちも声を出す。
「み~んな、もっと口を大きくあけてね」
「は~い」
「では、次は、ソ・ラ・シ・ド~♪」
まるでオペラ歌手のような朗々とした声が教室中に響く。
「ソ・ラ・シ・ド~♪」と追随して子どもたちが声を上げる。

このあたりになると、ずいぶん高い声を出さなければならない。

最後に「ド~♪」と歌う先生の声は、ソプラノの音域に入っている。

子どもたちの最後の「ド~♪」は、それぞれ高さがバラバラだ。
先生と同じ高い声で「ド~♪」と歌う優秀な子どもたちもいれば、
かなり調子のハズれた低い声で「ド~♪」と歌う子どもたちもいる。

その、調子ハズれの低い声…の代表的存在が、モミィなのである(とほほ)。

「モミィちゃん、もうちょっと高い声を出せるように頑張ろうね」
と先生からよく言われているのも、仕方のないところだ。

モミィは、俗に言う「音痴」というものではないか? と思っている。
先生とはよくメールのやりとりをするので、そのことも当初に告げた。
「大丈夫です。練習しているうちに音感がついて、必ずよくなります」

まあ「浪花のカラオケ王」と呼ばれた僕の血を引くモミィのことだから、
いつまでも音痴が続くってことはないと思うが…(誰がカラオケ王や?)
先生の言葉を信頼して、モミィの音感が良くなることを願うばかりである。

それにしても、いつも感心するのだが、先生はピアノを弾かなくても、
ドレミファ~と歌う音程が、ピアノと寸分狂いのない正確な音程である。
こういう人を、いわゆる「絶対音感」の持ち主、というのだろう。

僕らは、実際に音を聴かなければ、たとえば「ド」がどんな音程かわからない。
でも絶対音感とは、他のものとの比較によらずに楽音の高さを識別できる能力である。

これは天賦の才能なのだろうか。それとも努力で身につけられるものなのだろうか。

最近に読んだ、養老孟さんの「養老訓」という本に、
この「絶対音感」についての興味深い記述があった。

それによると、人間は動物と比べると音痴なんだそうだ。

人間で絶対音感の持ち主というのは非常に少ない。
ところが動物は、人間のように、概念でなく感覚でモノを捉えているから、
音に関しては敏感で、彼らは絶対音感の持ち主である。

…ということで、たとえばウグイスが「ホーホケキョ」と鳴く声は、
全国どの地方のウグイスであっても、同じメロディで鳴いている、という。

これを読んで、パッと僕の頭に浮かんだのが、2年前の旅先でのことだった。

退職した直後の4月、「青春18きっぷ」で妻と鈍行列車の旅をした。
その途中、宮城県の松島駅で途中下車し、松島見学をして駅に戻った。

JRの松島駅というのは、有名な地名のわりには小さな駅だった。
次の列車が来るまでの間、僕はホームにぼんやり立っていた。
妻のほかに人の姿はなく、ひっそり静まり返った空気の中で、
「ホーホケキョ」という可愛い鳴き声が、静寂を破った。

ホームの目の前は、もう山である。
そこから聞こえてきたウグイスの鳴き声にうっとりと耳を澄ましながら、
僕は突然、おかしなことを思いついた。

大阪近郊の山道で聞く鳴き声と、松島で聞く鳴き声がまったく同じである。

当たり前といえば当たり前だが「ホーホケキョ」はナマっていない。

「標準語」である。

「ふ~む。ウグイスにお国なまりはないのか…?」と考えてみた。

たとえば、ここは東北だから「ホーホゲギョ~」と東北ふうに鳴くとか、
京都のウグイスは「ホーホケキョどすえ」、高知は「ホーホケキョぜよ」とか、
まあ、そこまではいかないとしても、多少地方によって鳴き声のニュアンスが、
違っていてもいいのでは…というような、たわいもないことを考えたのだった。

しかし、そういえば、ニワトリの「コケコッコー」も…
どの土地で聞いても、まったく同じメロディである。

なるほど。 彼らは絶対音感の持ち主というわけか。

松島のウグイスも、絶対音感だから、同じメロディなんだね~。

モミィの音楽教室の先生の話から「絶対音感」について考え、、
それにちなんだ養老孟さんの著書の「絶対音感」の話を思い出し、
そして、さらに思い出したのが鈍行列車旅行中の松島駅でのウグイスだった。

話が三段跳びになってしまったけれど…

松島駅のホームでの、あの静寂が、今でも忘れられない。
そこへ流れてきたホーホケキョ~の「絶対音感」のあのメロディ。

東北が、まだ、平和で穏やかだった頃のことである。

 

 

 

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「顔見知り」 急増中

2011年10月05日 | 日常のいろいろなこと


昨日の午後、モミィを幼稚園に迎えに行くと、門のそばにいた女性が僕に会釈した。

「はて… 誰だろう?」

どこかで見たことがあるが、園児を迎えに来ているママではない。
視力が弱い僕は、門に近づいたところで、その女性が誰かわかった。

モミィが通うヤマハ教室で、同じクラスの女児のお母さんだ。
レッスン中、いつも隣り合わせにいる人だから、近くで見ればわかる。

女性から先に「エレクトーン教室の、モミィちゃんのお家の方ですよね」
と言われる前に、僕もそれとわかった。

彼女は、教室で子どもに付き添うママたちの中でも、キュートで愛想のいい人だ。
帰り道が同じ方向で、レッスンが終った後、道でまた会う…ということも、よくある。

その人が、モミィの通う幼稚園の門の前で、自転車に女児を乗せて立っていたのだ

「あ、こんにちは~。どうしたのですか? 今日はなぜ、この幼稚園へ…?」
と僕が聞いたら、
「この子が来年この幼稚園に入園なので、今日は入園申し込みに来たんです」
「あ、そうですか…?。へぇ~、同じ園区だったんですね」
自転車の座席の女の子も、僕を覚えているらしく、笑って手をふってくれている。

「モミィちゃんは、ここの幼稚園に通っておられるのですか?」と聞かれたので、
「えぇ、そうです。毎日迎えに来ています。モミィは来年から小学校です」
「あらぁ、じゃあウチの子と入れ替わりなんですよね~」

しばらく雑談した後、モミィが他の園児たちと並んで門から出てきたので、
「じゃぁ、また夕方に教室でお会いしましょう」と言い合って別れた。
火曜日だったので、午後4時半からエレクトーンのレッスンがあった。

で、夕方、またその母子とエレクトーン教室でいっしょになった。

 ………………………………………………………………………………………

こんなふうに、このごろ、いろいろな「顔見知り」の人が増えてきた。
町を自転車で走っていると、挨拶をされることが多くなってきた。

狭い道を自転車同士すれ違うとき、
若い女性の方から「こんにちわ~」と声をかけられる。
こちらもあわてて、あ、こんにちは~と笑顔で返すが、
知っている人もいれば、「ん…? だれだっけ…?」という人もいる。

この場合、ほとんど、モミィと同じ幼稚園のママであることが多い。
園児数としては年少組と年長組をあわせて60数人いる幼稚園だけど、
園児を送り迎えするために、1日2回、保護者たちは幼稚園に行く。
朝の送りのときは、そう多くの人と出会わないけれど、
迎えのときは、園児が出てくるのを待つ時間がある。
だいたい5分から10分ぐらいは待たなければならない。
僕は特に話し相手もいないので、ひとりぽつんと立って待っている。

迎えに来ているのは大半がママで、男は1人か2人しかいない。
どうしても目立ってしまい、他のママたちから顔を覚えられることになる。

こちらは、知っている顔より、顔を覚えられないママの数の方が多い。
(ただでさえ、人の顔を憶えるのは僕の苦手とするところである)
だから道ですれ違うと、相手は知っているが、僕は知らない…という場合がよくある。

幼稚園のお母さんたちと、エレクトーン教室のお母さんたち。
ほとんどが30代の女性であり、僕から見れば娘みたいな年齢の人たちである。

他にも、毎朝地域をパトロールされている高齢者の方々とも顔見知りになった。

まあ、そういう人たちから、町のあちらこちらで声をかけてもらえるのは、
正直に言えば、嬉しいものである。しかし、モンダイもある。

最近は、スーパーへの買い物は、なるべく妻に行ってもらうようにしている。
駅前のジャスコでも、食料品売り場をうろついていると、知っているママとばったり会う。
また顔を憶えていないママはもっと沢山いるので、どこで見られているかわからない。
特に近所の小さなスーパーとなると、必ずといっていいほどママたちの誰かと出会う。
ひとりスーパーで買い物をしているところを見られるって、ちょっと照れくさいわけで…。

この間は、僕が買い物のカゴを持ってビール売り場の前に立っていたら、
園児が走って近づいてきて、「モミィちゃんのおっちゃんや!」 と大声で叫ばれた。
恥ずかしかったわ~。

スポーツジムからの帰りは、たいていジャージを着てリュックを背負っているので、
そのままの格好でスーパーへ行くと、ママたちと会うと奇異な目で見られたりする。

だから、スーパーへ行くときは、なるべくきちんとした服装で行くことにしている。

また、先日はこんなことがあった。

僕は顔を覚えていないけれど、その人は僕のことを知っているというママから、
「駅前のコスパのプールで泳いでおられましたよね」と言われ、びっくりした。
「え、あなたもプールへ行かれてるんですか?」と問い返すと、
「いえ、子どものスイミングを見学していたら、その近くで泳いでおられたから」
と言われて、さらにびっくりした。
「あ、あれはモミィちゃんのお父さんだわ、と連れの人に言ってたんですよ~」

まあ、万事がこんな調子である。

ほんとに、どこで誰が見ているかわからないのである。

幼稚園やエレクトーン教室だけではない。

スポーツジムのプールで知り合った人も10人以上いる。
顔だけ知っている人の数も入れたら数10人になるだろう。
その人たちも大半が女性である。
(ただし、こちらは年配の方がほとんどですが…)

この人たちとも、町かどでバッタリ会うことが多い。
モミィを連れていると、「いやぁ、娘さんですかぁ?」
などと近づいてくるので、「いえ、孫ですねん」と説明する。
相手はのけぞり返り、「えぇ! お孫さん、いてはったん?」
と、大げさに驚いた表情をされると、こっちは冷や汗が出る。

まあ、こんなことで、この1年くらいで「顔見知り」の人たちが急増した。

ちょっと外出すれば、必ず知っている誰かと会う、と言っていいほどで、
勤めていた頃は、町の中にこれだけの「顔見知り」はいなかった。

楽しいといえば楽しいが、一方では、気を抜けないなぁ、とも思う。

友人のドイロンが、かつてこんなことを言っていたのを思い出した。

のんさん。世間は狭いですよ。誰が見たり聞いたりしているかわかりません。
気をつけてください。 よく言うでしょう、 「壁に耳あり 障子に白アリ」 って。

 …ということで、今日の話はこれでおしまいで~す。

 

 

 

 

 

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運動会と絵画展

2011年10月03日 | モミィの成長日記

 

  


10月に入り、本格的な運動会の季節がやってきた。

モミィの幼稚園の隣にある小学校でも、昨日が運動会だった。
幼稚園の運動会は10月の15日なのでまだ少し先だが、
昨日はモミィを連れて3人で小学校へ運動会を見に行った。

ここは来年4月にモミィが入学する小学校で、
かつて長男(モミィのパパ)と次男も、この小学校で6年間を過ごした。

運動会の雰囲気は、熱気、真剣、活発、可愛さなどに満ちていて、とても楽しい。
ちょうど5年生のリレーが始まったところで、懸命に走る児童たちに声援を送る。

児童たちの入退場の際にAKB48の曲が流れている。 さすがに今ふうである。

リレーが終ると、1年生と2年生によるお遊戯というかダンスが始まった。
モミィに「来年はあんなダンスをするんやで。よ~く見ときや」と言うと、
モミィは、真剣なまなざしで運動場の児童たちを眺めていた。

芦田愛菜ちゃんの歌が流れる中、まだあどけない1、2年生が踊る。
チアガールが持つボンボンを両手にピョンピョン跳ね回る姿が可愛い。

隣で大きなカメラを向け、ずっと撮影を続けているパパらしき人もいる。

運動会は、児童や先生たちも、見学する保護者たちも、みな楽しげである。
僕も、こういうのを見るとなんだか血が騒ぐような高揚感をおぼえる。

だが自分が小中学生のときの運動会に関しては、いい思い出は何もない。

そもそも運動会自体が嫌いだった。毎日の練習が退屈でしょうがなかった。
先生に命じられるまま、ロボットのように一律の行動をさせられるのイヤだった。

僕は小柄なので前の方に並んでいるから少しふざけると先生の目について、
「コラ、ちゃんとせんかい」 と時には名指しで怒られたりするのだけれど、
背の高い後ろのほうの連中はもっと乱れているのに先生は知らん顔である。

こんなことって、不公平だと思いません?

競技の方も、身が軽かったせいか鉄棒の懸垂だけは得意だったが、
その他はまるで駄目。 足も遅いし、腕力もないし、体も小さいし…

早く運動会なんか終ってくれ、とそればかり願いながら過ごす毎日だった。

やっぱり運動会はやるものじゃなくて観るものだと、この日改めて思った(笑)。

  ………………………………………………………………………………

運動会見物を途中で切り上げ、その足で3人で駅前のスーパーへ行った。
市内の各幼稚園児たちが描いた絵が、そのスーパーで展示されているのだ。

去年も見たけれど、モミィは年少さんだったので、絵は貼られなかった。
ここに展示されるのは、年長さんが描いた絵だけである。

で、ことし年長さんになったモミィは、他の幼稚園児たちの絵と共に、
スーパーの中の、毎年同じ場所の通路に、貼り出されていた。



    

   市内の各幼稚園の園児たちが描いた絵が並ぶ。

   テーマは「家族の顔」である。

 

   

   モミィたちの幼稚園児が描いた絵のコーナー。
   上段の左から2番目がモミィの描いた絵です。
   
    

   

   これがモミィの描いた絵のアップです。
   どれが誰なのか、モミィに解説を求めたら、
   上の大きい顔がパパでその右側が自分、
   下の左側が僕で、その右側が妻とのこと。
  
   パパが手に持っているのはビールだそうです。
   僕はリンゴを持っている、らしい。
   顔がなんだか、たまごっち、みたいだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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