僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

古墳から天満宮へ 桜めぐり

2018年03月31日 | 日常のいろいろなこと

急に暖かくなり、桜もこの陽気に驚いたように一気に満開になりました。今年は特に早いので、うかうかしているとすぐに散ってしまいそうな気がします。で、僕たちも一昨日の29日に「お花見ウオーキング」に出かけました。

まず、世界文化遺産の国内候補になっている古市古墳群のひとつで、わが家の近所にある津堂城山古墳へ。ここは、4世紀後半に、古市古墳群の中で最初に造られた前方後円墳だと言われています。古市古墳群の中では最も北側にある古墳でもあります。

   
  津堂城山古墳の全景(左上が南)。この地図で言うと、
  僕たちは古墳の左側の住宅地に住み、モミィの学校は右側にあります

ここは保育園や幼稚園の遠足としても最適の場所になっている所で、モミィもこの古墳の中を横切って6年間小学校に通っていました。今でも友だちとの待ち合わせ場所にしたり、遊び場所にしたりしています。

この古墳をぐるりと1周する遊歩道があり、ここをウオーキングする人の姿も数多く見受けられます。この道の一部にも、こうした桜並木があります。

  

ここから左側の古墳のほうを眺めると


 

こういう感じです。

この桜の樹の下で、お花見などもよくします。

これは6年前のモミィの入学式の日。学校から帰る途中で撮ったものです。

 


これはさらに小さい頃、お花見に来た時の写真。
2008年の春ですから、モミィはまだこの時は2歳半でした。

 


ということで、わが家では、桜と言えばまずこの津堂城山古墳なのです。

この日は、そこから道明寺天満宮へ向かいました。

途中、小室山古墳というところを通ります。ここでも桜が満開でした。

 
  小室山古墳。


さて、次は道明寺という尼寺です。

昔々、菅原道真公の叔母が住んでいたお寺で、大宰府に左遷される道真がここに別れを告げに来て、
「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」
と詠み、別れを惜しんだと伝えられています。

そのお寺の門の前で撮った1枚です。

 

 

この隣に道明寺天満宮があります。ここは毎年お正月に初詣に来るところですが、今年はモミィの受験があったので、初詣と一緒に合格祈願の絵馬も掛け、無事に合格した後はお礼参りにも来ました。

 

 
 道明寺天満宮の境内で。

 

 
合格祈願の絵馬の記入所。
モミィが合格祈願と合格お礼の絵馬を掛けた場所にも桜がいっぱい

 

 

帰り道、近くの下水処理場を取り囲む桜並木の下を通りました。
ここは、わが家から一番近い「お花見どころ」です。

 

 

 

いいお天気だったので、澄んだ青空と調和して、桜も一段と映えていました。

 

 

 

 

 

 

 

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時代と共に言葉は変わる

2018年03月28日 | 雑記

先日、薬局で順番待ちをしていたときのこと。カウンターで女性の薬剤師さんがお客さんと薬に関するやり取りをしているのが、大きな声だったのでこちらまで聞こえてきました。まだ若そうな女性の薬剤師さんでしたが、その言葉づかいに「ん?」と思ったのです。その女性は、

「これまでのお薬が、効かんくなったんですよね。え~っと、そしたら
と言っていました。

「効かんくなった」とは「効かなくなった」ということでしょうね。最近、わが家でもモミィがこういう言い方を頻繁にするようになっています。

モミィは、「きれいになった」を「きれいくなった」とか、「あかんようになった」を「あかんくなった」などと言ってます。このあいだは、「(ナントカが)でけへんくなった(できなくなった)」な~んて言ってました。

でも、これは子どもが使う言葉だと思っていたのですが、大人の女性、それも一定の資格や地位もあり、きちんとした言葉を使う立場であるはずの薬剤師さんが「効かんくなったんですよね」と言ったのが気になったわけで。

さらにその女性はお客さんにひととおり薬を渡したあと、
「それでよかったでしたか?」と尋ねていた。

「よかったですか?」ならまだしも「よかったでしたか?」って、過去形がふたつ重なってるやんか、と心の中でつぶやく僕でした(笑)。

言葉が時代と共に変わって行くことはある程度仕方ないことだと思います。十数年前に「問題な日本語」という本がベストセラーになり、僕も買って読んだことがあります。そのころ違和感が持たれる新しい言葉づかいとして、「千円からお預かりします」とか「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」とか「こちら和定食になります」というような言い方が「おかしな言い回し」として挙げられていました。

たとえば「こちら和定食になります」と「和定食」がテーブルに運ばれてきたら、「もう、なってるやん」と言いがかりをつけたくなるんですよね。容器だけが運ばれてきて、「こちら和定食になります」と言われたら、はは~ん、これがしばらくしたらパッと和定食になるんやな、なんて魔法のようなことを想像したりしますが、すでに現物が来ているのだから「こちら〇〇になります」なんて言わずに「こちら〇〇でございます」でええんとちがうん? というような話が十数年前には盛り上がっていました。

しかし僕も新しく生まれてきた言い回しや若者言葉を耳にするたびにだんだん慣れてきて、最近ではモミィに「マジっすか?」なんて言ったりしています(笑)。モミィも、むずかしいことを「むずい」と言ったり、「無理っぽいな」などと「自分たち言葉」を口走っています。

というお話でした。「このごろは、のんさんのブログも面白くないので、ちっとも読まんくなったわ」な~んてことは、どうか言わないでちょんまげ! 
(「~してちょんまげ」は、いくら何でも古すぎるで!)

 

 


 

 

 

 

 

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今度はヘルペスに

2018年03月26日 | 心と体と健康と

良いことってあまり続かないのに、悪いことって案外続くものですね。とほほ。

また体のトラブルです。

先週の日曜日に38度5分の熱が出て、月曜日に医院へ行き、インフルエンザではなかったものの高熱は続き、火曜日にやっと熱が下がり始めたことは前回書いたとおりです。で、その月曜日ぐらい、つまり高熱が出た翌日ですが、唇がムズムズしはじめ、かゆみを感じ始めました。鏡を見ると唇とそのまわりにブツブツと小さな水ぶくれのようなものが出ていて、それが火曜から水曜日にかけてどんどんひどくなり、唇のあちこちにブツブツが広がりました。

自分でもビックリするほど目立つし、我ながら気持わる~い(笑)。

もうこれは放っておけないと、木曜日、妻がモミィを連れてよく行く駅前の皮膚科の医院へ行ってみました。

医院に入り、「初めてなんですけど」と告げて保険証を示し、「じゃ、ここにご記入お願いします」と受付のお姉さんから手渡された問診票に症状などを書き込み、順番を待ちました。待合には、小さな赤ちゃんを抱いたお母さんが3人ほどいました。不整脈で毎月通っているかかりつけの循環器内科は、ほぼ年配者ばかりなので、やはり皮膚科は違うんだなぁ、と妙に感心した次第。

僕は大きなマスクをして、口元を隠していました。

名前を呼ばれ診察室に入った時も、うっかりマスクをしたままで、医師から「マスク、外してもらえます?」と言われて初めてそれに気がつきました。

マスクを外した僕の唇のまわりを見て、医師は即座に、
「あ、ヘルペスですね」と言いました。
「ヘルペス? あ、あのおいしい飲み物の!」と僕が言うと、
「それはカルピスですがな。これはヘルペスですわ」

とまあ、これは僕の作り話です。ハイ。
まさか実際にそんな会話は交わしませんよね、いくら僕でも(笑)。

「実は数日前に38度5分の高熱が出まして、そのあとにこのブツブツが発生したんです」と説明すると、医師は深くうなずき、
「なるほど。その熱が引き金になったことは間違いないですね。高熱が出た時とか、仕事などで忙しくて疲れ切った時なんか、免疫力が落ちますが、そんなとき、ヘルペスのウイルスが発生して発疹ができるんです。私もよくできます。しかし、それにしてもかなり広がっていますね。以前にもありましたか?」
「小さいのはよくできましたけど、こんなひどいのは初めてです」
「そうですか。ま、たしかに、ちょっと症状はきついですよね」

僕の患部をじ~っと見ながら、医師はさらにこんなことも付け加えました。
「特に熱が出たことが原因で起きる場合が多いのです。ヘルペスというのは、俗に『熱のはな』とも呼ばれているぐらいですからね」

はあ? 熱のはな! 

昔々のザ・ピーナッツの歌で

情熱の花

というのがあったのをとっさに思い出しました。

「そうですか? 情熱の花ですか」
と言って、「じょ~ねつの花ぁ~と歌いたかったのを我慢して、黙って医師と向き合っていました(笑)。(なんでこんな時にこんな昔の歌が突然思い浮かんでくるんでしょうね~)

「ではお薬を出しますので」と医師。
「ひとつは軟膏で、1日何回でも塗ってください。それと飲み薬を5日分お出しします。1回1錠、1日3回服用してください。ウイルスの増殖をおさえる薬です。それでも症状が良くならなかったら、また来てください」

そんなことで処方箋をもらい、薬局で薬を出してもらいました。

それが22日の木曜日のことでした。あれから今日で5日目となりますが、その後、何度もカサブタができ、それが剥がれたり血が出たりを繰り返しながら徐々に治ってきて、昨日の日曜日ぐらいから、鏡を見てもさほど目立たなくなりました。そろそろマスクなしで外出できるかな、というところです。まあ、やれやれ、と言ったところでしょうか。

発熱やヘルペスに見舞われて悶々としているうちに桜が咲き始めました。

「熱の花」がやっと散り始めたので、今度は「桜の花」を見に行きます。

 

 

 


 

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38度5分! またインフルエンザ?

2018年03月21日 | 心と体と健康と

日曜日の朝にこのブログをアップし、しばらく経った後、体調が少しおかしいことに気がついた。何となく体がだるい。昼前に布団に入り、少し眠った。数時間後に目を覚まし、起きると体が熱っぽい。体温計で測ると38度5分だった。

高熱が出たせいか、眠る前よりもさらに体がしんどい。そのまま再び布団に入って、夕方に軽くものを食べただけでその一夜は過ぎ、翌月曜日、朝一番に体温を測ったら、38度7分とさらに上がっていた。熱だけでなく、お腹や太ももの筋肉がキリキリッと痛んだりもした。

うぇ~~。去年の元旦に休日急病診療所へ行き、インフルエンザと診断された時も39度前後の熱が出ていた。今年もまたインフルエンザにかかったの?

妻がお医者さんに行かなければね、と言うので、インフルエンザかどうか検査してもらうため、かかりつけ医に行きました。診察の順番が来る前に、受付で熱を測ったら、そのときは37度台に下がっていました。

診察室に呼ばれ、今朝まで高熱が出ていたことを説明すると、医師は「咳は出ませんか?」と聞くので「喉は少し痛いですけど、咳は出ません」と答えました。医師はまず肺炎を疑ったようですが、咳が出ないと答えたのでそれはないと思ったのでしょう。「じゃインフルの検査をしましょう」ということになりました。

インフルエンザの検査をしたことのある人ならお分かりでしょうけど、「はい、あごを上げてください」と言われ、上を向くと、綿棒のようなものを鼻の穴の奥にグチュっと突っ込まれる。ほんの一瞬ながら「ぎゃっ!」と叫びたくなるような痛みが走る。あぁ、いま思い出すだけでも鼻がムズムズして、クシャミが出そうです(笑)。

いったん診察室から出て、10分程度待ったあと、再び名前を呼ばれて診察室に入り、結果を教えてもらったところ「インフルエンザではありませんね」とのこと。医師が、A・B・Cの3つのうちの「C」のところに印がついているものを見せてくれ、A型でもB型でもなく、Cというのは陰性ということです、ということでした。

結局、熱冷ましの薬を処方してもらって、医院を出ました。

しかしお医者に行ったからといってすぐ熱が落ちたわけではなく、その日は依然として高熱が続きました。そして昨日の火曜日になって、やっと37度から36度台へと戻ってきました。体もかなり楽になりましたが、無理はせず、のんびりと読書などをしながら1日を過ごしました。

そして今日を迎えたわけですが、今日って祝日だったんですね。先ほどカレンダーを見るまで気がつきませんでした。モミィは卒業したので当然いまは完全フリー。毎日友だちのところへ遊びに行ったり、今日は塾の先生に誘われてどこかへ行ったりしているのでね~ モミィは毎日休みだわ、自分は熱にうなされるわで、曜日とか祝日とかが分からなくなりますね(笑)。

そんなことで、日曜日から昨日の火曜日まで3日間「病人状態」でしたが、今日はもう大丈夫みたいです。ブログも更新できましたし。

でもあまり根を詰めることをするのは避けて、のんびりと過ごします。
(毎日のんびりでしょって言われちゃいそうですけど)

 

 

 

 

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卒業式を終えて

2018年03月18日 | 日常のいろいろなこと

3月16日。朝から雨が降り続く中、モミィの小学校の卒業式が行われた。場所は体育館。妻と並んで保護者席に座ると、同じ体育館で、同じ保護者席から見たモミィの入学式が、ついこの間のことだったような気が…。
あれからもう6年も経ったのですね。


 
 体育館の飾りつけ

思えば長男も次男もこの小学校を卒業したわけですが、平日だったこともあり、父親である僕は2回とも卒業式には出席していません。今回のモミィが初めてということになります。

さて、その保護者席に座っていたら、知っているお母さんたち何人かが声をかけてくれました。お互いに「卒業おめでとうございます」と言い合って挨拶をし、モミィが私立中学校に進学することも皆さんよくご存じのようで「中学校は別々になりますが、またモミィちゃんも時間のある時はうちの子と遊んでやってくださいね」などと言ってくださった。

席の配置は、前列に6年生。真ん中に見送る5年生。後ろに保護者席。

まず5年生がひとかたまりになって入ってきて着席したあと、体育館の後ろのドアが開き、6年生が一人ずつ、一定の距離を置いて入場してくる。保護者から拍手が送られる中、児童らはみんないささか緊張した面持ちで(あるいは澄ました顔で)、背中をピンと伸ばし、姿勢よく前の席の方へ歩いて行く。

6年生は2つのクラスがあり、モミィは1組。それぞれ出席番号順に入って来るのですが、その番号もモミィは前の方なので、すぐに入って来たのであわててカメラを構えました。モミィが着ている服は、洋裁学校へ通っている妻が、この日のために手作りで縫い、仕上げた服です。


 
 入場し、自席へ向かうモミィ


一人ずつ卒業証書の授与が行われ、モミィも校長先生から証書を 


 
卒業証書を授与されるモミィ

 

ついでに、これは幼稚園の卒園式のモミィです。
 

 

そして、5年生からの言葉、6年生からの言葉などがあり、そのあと校長先生のあいさつ、教育委員長のあいさつ、などが行われたのですが、この大人たちの挨拶がかなり長いんですよね~

まあ仕方ないとは言いながら、通り一遍の語句を並べているだけで、聞いていて何の感興も湧いてこない。こういう挨拶も卒業式では不可欠なものだから、やめてよ、とは言わない。でも、もう少し短くならないものかと思うんですよね。

そう言っている僕も、市役所の議会事務局で仕事をしていた時は、いろんな行事に出席する市議会議長の挨拶文を作っていました。なるべく短くするよう心がけていましたが、実際には、自分が作った挨拶文を議長が読み上げている間、聴いている人たちに「長いな、早く終われ」と思われていたのかも知れませんね(笑)。

さて、最後は6年生全員が前に出て合唱し、そのあと退場となりました。今度は前に座っていた順番で退場して行くようで、先導する1組の担任の先生の次、つまり児童の中で一番先に歩いて来たのがモミィだったので、またまた慌ててカメラを向けました。


 
先導役の先生の後ろに最初に歩いて来たのがモミィでした。

式が終わり、まだ友達と一緒に過ごしたいというモミィを置いて、僕たちは一足先に帰宅しました。「やれやれ、よね」と妻はホッとした表情でした。

この6年間、モミィもずいぶん手がかかりました。特に下級生の時は、夕方になるとほぼ毎日、習い事に連れて行ったりしていたので僕自身、しんどい思いもしましたけど、あれもこれも、今となっては楽しい思い出かなぁ、と。

モミィは卒業式終了後、友だちと電車に乗って阿倍野へ行き、串カツ食べ放題の「串家物語」という店に入ったそうです。そして昨日の土曜日は別の友だちと2人でマクドナルドに入って盛り上がったとのこと。

4月に中学校に入学するまで、短い間ですが、モミィにとっての「何もない」毎日は夢のような楽しい時期なんだろうと思います。

僕はもう、ず~っと、何もない毎日を送っていますけど、もう少しその有難味を味わいながら過ごさなければもったいないなぁ、とモミィを見ながら思っている次第です(笑)。

 

 


 

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モミィ最後の授業の日 そして石巻からのハガキ

2018年03月15日 | 日常のいろいろなこと

モミィも卒業式を明日に控えて、今日はランドセルを背負って登校する最後の授業の日となりました。今朝も、前回のブログに書いたように、ピンポーンと鳴って、ター君が来て、そのあとモモちゃんが来て、3人で元気に学校に向かって歩いて行きました。その姿を2階の窓から写真に撮りました。

思い出してみれば6年前の4月、大きなランドセルを背負い、同じ1年生のモモちゃんと、モモちゃんのお姉ちゃんで4年生だったユミちゃんと一緒に、3人で学校へ向かうところを、3階のベランダから写真に撮ったことがあります。モミィとモモちゃんにとって、初めての授業を受ける記念すべき日でした。

それがこの写真です。 

  
左がモミィ、真ん中がモモちゃん、右がモモちゃんの姉のユミちゃんで、3人が手をつないで登校して行きます。1年生のモミィとモモちゃんのランドセルは、体の半分ぐらいの大きさがありますね。よく言うように「ランドセルが歩いてる」みたい(笑)。(2012年 <平成24年>4月10日撮影)


そして今日の朝に撮った写真がこれです。

 
左がモモちゃん、真ん中がター君で、モミィは右側です。1年生の時と同じランドセルを背負っていますが、体が大きくなった分、ランドセルもかなり小さく見えます。


そして明日、いよいよ卒業式ですが、天気予報では雨とのこと。明後日の土曜日からまた晴れるのだそうです。つまり雨が降るのは明日のみ。う~ん、残念。せっかくの日なのに。6年前の入学式の日は桜が満開の中、雲一つない快晴で最高のお天気だったのにね~。まあ、仕方ないか。

 ………………………………………………………………………………

今日はもう一つ、記しておかなければならないことがあります。

去る11日、東日本大震災から7年となりました。今も7万人以上の方々が避難生活をされているということです。

宮城県石巻市に住む「大将」ことニシジマさんから毎年、近況のハガキが届きますが、今年も先日、ハガキをいただきました。ほぼ毎年紹介していますので、今年もそのまま掲載させていただきます。 


  

 

震災当時、石巻で奥様と花屋さんを営んでおられたのですが、あの日の壊滅的な打撃から少しずつ復活をされてきました。毎年、その様子をハガキで知らせていただいています。

ニシジマさんとは自転車で北海道を旅していた時に、帯広駅前で出会い、そこから襟裳岬~苫小牧~函館~青森と2人で旅をし、八戸で右と左に分かれたのですが、僕より少し年上で、豪快な男性でした。当時は新宿に住んでおられ、そこから自転車で日本一周をしていたことから、僕はその人を「新宿の大将」と呼んでいました。いまからもう49年前のことになります。

やがて石巻の女性と結婚され、ご自身もそこへ移り住み、石巻の天神というところで花屋さんを始めたということでした。そこで津波のため、家屋が潰されてしまうという被害に遭われました。

2011年3月11日のあの大災害のことを、僕たちは決して忘れてはならないのだと「大将」からのハガキを見る度に改めて心に刻み込んでいます。

 

 

 

 

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もうすぐ卒業式

2018年03月13日 | 日常のいろいろなこと

毎朝、7時40分ごろにわが家のインターホンが「ピンポーン」と鳴る。

モニターを見ると帽子をかぶってランドセルを背負った子が映っている。モミィと同じクラスで近所に住む男の子のター君か、女の子のモモちゃんのどちらかで、妻がドアを開けると玄関に入って座る。モミィもそばで待っていて、その子と雑談をする。

そうこうしているうちに、もう一人の子がやって来て「ピンポーン」を鳴らし、それを合図に玄関に座っていた2人は外に出て、妻に見送られ3人で学校に向かう。僕は時々2階の窓からのぞくのだが、3人が肩を寄せ合って何かをしゃべりながら仲良さそうに歩いて行く姿が見える

という日課がず~っと続いていたわけですが、それも今週で終わり。モミィの小学校生活も、あと3日となりました。16日(金)が卒業式です。

モミィが1年生になり、小学校へ通い始めた頃、近所の上級生の子や同級生たちに囲まれて学校へ向かう後ろ姿を、3階のベランダから、少し心配な気持ちで眺めていたのがついこの間のことのように懐かしく思い出されます。それがもう、卒業とはねぇ。

今日は学校で卒業式の「予行演習」があるそうですが、先日は全学年の児童が集まって体育館で行われた「お別れ会」という催しで、舞台の上に置かれたオルガンで「情熱大陸」を弾いたと言っていました。弾いたのは4人でしたが、モミィはエレクトーンを習っているので、その一人に選ばれたということでした。

そんなことで、いよいよ卒業式が迫って来ました。僕もその日は久しぶりにスーツとネクタイ姿で参加することになりますが、ネクタイなんてもう長い間締めていません。締め方を忘れていないかな? 

念のため、事前に「練習」しておかなければ。

 

 

 

 

 

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47年目の結婚記念日と47年目の離婚

2018年03月08日 | 日常のいろいろなこと

先日、僕たちの結婚記念日だったのですが、今日はその話題で。

結婚したのは22歳の時。一応まだ学生でした。新婚旅行から帰って数日後に卒業式があり、そこで久しぶりに会ったいろんな友達に「ボク、結婚してん」と言ったら、ほとんど笑われ、信用してもらえなかったのを覚えています。

知り合ったのは夜間の速記学校でしたが、妻はお兄さんが院長をしていた大阪市内の病院で、事務員として勤めていました。僕はまだ学生ですから無収入です。結婚式の時は就職先は決まっていましたが、それも小さな和楽器店だったので、今になってみれば、お互いの両親、特に妻のほうの両親が、そんな将来どうなるかわからないような学生との結婚をよく許してくれたもんだなぁと思います。もし僕が相手の両親の立場だったら、反対していたかも知れませんね~(笑)。

結婚するまで1年半の交際期間がありましたが、どこの喫茶店やレストランに入っても、たいてい妻がお金を払ってくれました。ま、僕はヒモですわ(笑)。結婚式の費用や新婚旅行のお金や当面の生活費は、うちの親に出してもらいました。あはは。(これ、笑うところか?)

結婚し、就職して、その和楽器店が入っているアベノ近鉄百貨店に出向の店員として働き始めましたが、もちろん百貨店だから日曜日も休めないし、1日中ほぼ立ちっぱなし。おまけにお客は少ないし、ちっともやる気が出ず、家に帰ることだけが楽しみの毎日でした。そんなとき、妻が「お役所を受けたらいいんじゃない?」と勧めてくれました。僕は元々、自分は公務員タイプではないと思っていたのですが、妻にそう言われて、じゃぁ考えてみるか、と思いました。

そして、しばらくして、たまたま新聞の求人欄に松原市役所の職員の募集というのが載っていたので、8月、そこを受けて運良く入ることができました。最初の就職先はわずか3ヵ月余りでやめたことになります。

おかげでその後、市役所で、配属された部署に恵まれた幸運もありましたが、議会事務局や広報係などの仕事は結構楽しんでやれたし、いい上司や仲間にも恵まれました。定年退職まで無事に勤めることができて、まずまず満足のいく生活を送ることができたのも、やはり妻のおかげだったと思っています。

でもねぇ、結婚してから47年もの歳月が経ったとは。

あっという間ですね~ 早いです。

と思っていたら、先日、テレビのワイドショーで「47年目の離婚」という報道が飛び込んできました。なんだ、それは? 47年目ってのが気になるでしょ。

すると僕が大のファンだった「橋幸夫」という名前が出てきて、どうやらこの人が結婚47年目で離婚したということでした。僕はファンだったから、彼がJALのスチュワーデスさんと結婚し、当時は大きなニュースになったこともよく覚えています。お名前を凡子さんといい、「なみこ」と読むこともその時に知りました。でも、結婚したのが僕たちと同じ年(1971年)だったというのは、記憶から消えていたので、へぇ、そうだったのか~という感じ。まぁ、だから同じ47年目ということになるんですよね。

今日の週刊誌の広告によれば、74歳の橋幸夫は離婚して、またすぐ再婚したそうです。テレビで芸能レポーターが「相手の方は50代できれいな女性」と言っていました。「きれいな女性」って、なんだかイージーな表現ですが、数年越しのつき合いというんですから、それが離婚の原因だったのか、とも思えますよね。

でもねぇ、橋さん。何も僕たちの47年目の結婚記念日の時期に、「47年目の離婚」がニュースになるなんてこと、やらないでほしかったよね~

ほっておいてくれ、関係ないやろ、と言われそうですけど(笑)。

 

 

 

 


 

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仙台の似顔絵画家 うめももさん

2018年03月05日 | 日常のいろいろなこと

一昨日の夜、このブログに匿名のコメントが届きました。タイトルには「お知らせ」とあったので、何かの宣伝かな~と思いながら、コメント欄を見ると、文章は一行もなく、URLがひとつ貼り付けてあるだけ。時々、こういう、ブログの記事とは関係のない宣伝コメントが入ることがあるので、いつもチラっと見て削除します。今回もその類だろうと思いながら、取りあえずそのURLをクリックしてみました。それが、これでした 

http://www.kokuchpro.com/event/765761e1495ceb6c45bcb93fa1b23eb1/

う~ん。思っていたようないい加減な宣伝ではないようでした。間もなくあの東日本大震災から7年が経ちますが、それに関して、ある方の仙台での絵画の個展開催を知らせるページでした。そこで目を通してみたのですが…

「ハハトコ ~3.11 復興への祈りの母子似顔絵展~」というタイトルで、一つの絵が大きく載っています。そしてその下にこういう文章がありました。

「失った命をみつめるのではなく、授かった新たな命を見つめ、生きる希望をみつけよう!  今を生きる被災地の母子を取材し、似顔絵を描きました。うめももの初個展です」

これを見て、僕はハッとしたのです。ここにある「うめももの初個展です」という「うめもも」というネームに目を奪われたのです。その理由というのは、話せば長いことながら、なるべく簡単に説明しますと

僕が初めてブログと言うものに手を染めたのが2005(平成17)年の7月でした。今からもう12年半前になります。7月下旬に「僕のほそ道」という、今とは別だけどタイトルだけは同じブログを始めました。始めてすぐの8月初旬に「フィレンツェ奇々怪々」という話を載せました。それは、その年の1月に妻とイタリアのフィレンツェに旅行した時、フィレンツェ行きの飛行機に乗ったところ、着いた空港がフィレンツェではなくボローニャだったことで起きたドタバタ騒動を書いたブログでした。

その時、同じような飛行機に関するトラブルを書いたブログはないかと検索したところ、そこで偶然に見つけたのが「うめもも」という人のブログでした。そこには飛行機の中で黒人男性が急に「怖い。降ろしれくれぇ」と叫んで暴れた光景を目にしたことが書かれていました。文章がとても面白かったので、そのブログへ僕がコメントを送り、それ以後「ネット友だち」になってお互いのブログにコメントをし合うようになりました。

「うめもも」さんは仙台在住の方ですが、そのブログには日本全国から沢山の人たちがコメントをしていました。で、その人たちが僕のブログにも訪ねてきてくれ、多くのコメントを寄せてもらいました。そこで僕もその人たちのブログにせっせとコメントをする、という具合。見たことも会ったこともない大勢の人たちと、こんなに楽しい交流ができるんだ、と、改めてネットの面白さを味わったものです。

ということで、「うめもも」さんとはもちろんお会いしたことはありませんが、僕のブログ人生はすべて「うめもも」さんから始まったと言っていいほど強いインパクトを持っていました。

その後、僕はそのブログをやめ(今は削除済み)、2007年の12月に新たに今のブログを始めたのですが、それ以降「うめもも」さんとは交流が途絶えています。が、彼女のブログは時々のぞいていました。そこへあの東日本大震災が起き、仙台在住の彼女は、復興をめざしていろんな活動に力を注いでおられることがブログに書かれていました。しかしそのブログも、それからしばらくして途絶え、今もそのままです。

それらがだんだん遠い過去の話になりつつあった時に、今回、思わぬことで「うめもも」さんの活動の一端を知ることができたわけです。元々多才な人で、特に絵がじょうずで、ブログでも楽しい絵を披露してくれていましたが、今の肩書をみると、「似顔絵画家」とあります。プロになったんですよね~

 久しぶりに「うめもも」さんの消息を知るとともに、得意の絵で被災地の復興に尽力されていることを知らされ、感慨もひとしおです。

それにしても、

一昨日のコメント欄に匿名でこのことを「お知らせ」してくれた人は、どなたなんでしょうか。「うめもも」さんはこのブログの存在をご存じないはずなので、ご本人でないことは確かですが

どなたなのでしょう

 

*2005年8月「うめもも」さんが、ご自分のブログにこういう記事をアップされました。ここに出てくる「ほそ道」というのは、僕の当時のネームです。懐かしいので掲載させていただきます。

https://blog.goo.ne.jp/thankyou123goo/e/087db4f4e0b2f66ec375a0efa9ce6c1b

僕もここにコメントしています。

「うめもも」さんは、ブログを始めたばかりの僕に「先輩」として、
「ブログ、がんばってくださいね~」と励ましてくれていました。

は~い、「ほそ道」は「ほそぼそ」と、がんばっていますよ~



*震災が起きる前後の「うめもも」さんのブログも併せてご紹介します。

https://blog.goo.ne.jp/umemomo123goo

 

 

 

 


 

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3月3日に生まれて

2018年03月03日 | 日常のいろいろなこと

今日は3月3日。ひな祭りですね~

食い気一本のモミィが妻に「ちらし寿司が食べた~い」と言うので、朝から妻がすし飯を作り、上に乗せるお造りを買ってきたりして料理していました。僕は錦糸玉子を作ってから、モミィを連れてエレクトーン教室へ行き、ちょうどお昼頃に帰宅し、3人でちらし寿司を食べました。モミィはとにかく、ひな人形よりも、ちらし寿司なんですね。このあいだ、2月の節分の時も、豆まきには関心を示さず、手作りの恵方巻を作ってくれとせがむモミィでした。ホントに食い意地が張っているのです(笑)。

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さて、本日のタイトルは、むかしのトム・クルーズ主演の映画「7月4日に生まれて」のもじりです。(わからない人も多いでしょうけどね~)

その3月3日にちなんだ話題です。

このブログにもコメントをくださっている知人女性Gさんの話ですが、その方の誕生日が、昭和33年の3月3日なんです。単に3月3日というだけでなく、昭和33年ですから、3がズラ~っと4つも並ぶんですよね。初めてそれを聞いたときは、へぇ~珍しい~とびっくりしたものです。

僕はこの「3」という数字がまた好きなんですよね。小学生の頃から大ファンだった巨人軍の長嶋茂雄選手は、背番号3で三塁手。デビュー時は3番バッターで、とにかく3づくし。そういう昔のこともあって、3がこんなに並ぶのはとても素敵だなぁと思っていました。

そして、さらに驚くべきことに、今度は平成3年の3月3日に、Gさんは33歳の誕生日を迎えられたのでした。平成3年3月3日に33歳の誕生日。今度は3が4つではなく、5つのオンパレードです。う~~~~ん。

繰り返しますが、
昭和33年3月3日生まれで、平成3年3月3日に33歳の誕生日!

まぁ、昭和64年が1月8日から平成元年に変わったので、昭和33年生まれの方は当然、み~んな平成3年には33歳になるわけですが、その誕生日が3月3日だという「3づくし」がすご~いめぐり合わせなんだなぁ、と思います。

それから言えば、昭和22年2月2日生まれとか、昭和44年4月4日、昭和55年5月5日とかの誕生日の人も多くいらっしゃると思いますが、昭和33年生まれのように、平成となったあとの誕生日の年齢にまで同じ数字が並ぶことはありませんよね。

これに限らず、誕生日にちなむ話は、人それぞれにいろんなめぐり合わせがあるかと思います。むかし、市役所の議会事務局に勤務していた時、公明党のTさんという市会議員さんは、昭和10年11月12日の生まれでした。10・11・12という、なかなか面白い数字ですよね。これも珍しくて覚えやすい誕生日だなぁ、と思っていたのですが、やはりGさんの「3づくし」には及びませんね。Gさんは3月3日の今日、お誕生日を迎えられたわけですが、それも記念すべき還暦のお誕生日ということだったので、このブログで取り上げさせてもらいました。

60代は人生で一番楽しい年代だと、僕は思っています。その60代も僕はあと1年で終わってしまいますが、Gさんには、新しい年代の人生をさらに思い切り楽しんでもらいたいですね。

改めて、お誕生日、おめでとうございます。

 

 

 

 

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カー娘人気やら 伊調選手パワハラやら

2018年03月01日 | スポーツの話題

平昌五輪も終わり、何となく落ち着かなかった日々ともお別れです。実際に競技を見ている時は力が入りますが、テレビはその期間中、オリンピックに関連した(あるいは無理に関連させた)話題ばかりで、いくらなんでもあれだけ同じようなものを見せられると、いささかうんざりの感もありましたからね。

貴乃花親方騒動から平昌五輪へと流れが変わったテレビのワイドショーも、五輪閉会で一段落。ずっと続いて来た「目玉商品」が無くなって、さて次はどんなネタを持ち出すのか、と思っていたら、また大相撲春場所が近づいてきたことで、「貴乃岩と貴乃花親方が沈黙破る」なんていう番組欄の文面も目に付きます。「また相撲ネタかよ」って感じですが、今日はそれよりもっと視聴者が興味を持ちそうな新ネタがひとつ出てきました。

五輪の女子レスリングで、前人未到の4連覇を成し遂げた伊調馨選手が、あの全日本女子レスリングのコーチとして有名な栄和人氏からパワハラを受けていたという話です。今日発売の週刊文春の広告には、
「伊調・悲痛告白 恩師(栄和人)からの陰湿パワハラ」
という見出しがデカデカと載っています。

それを受けて、今日のワイドショーの番組欄にはもうこの話題が載っています。これまたオリンピックに関する話題のひとつですよね。平昌五輪が終わって視線は東京五輪へという矢先のびっくりニュースですが、栄和人氏といえば、金メダルを獲った吉田沙保里選手にその場で投げられたりして、とても好印象の人だったし、顔を見れば誰もが知っている人だと思いますが、その分レスリング界の権力者でもあったそうです。内部ではいろいろあるんですね~。 


   
   栄和人氏は、みんな知っていますよね

 

さて、話は平昌五輪に戻りますが、選手団が帰国して会見を開いたり、あちこちの番組に出たりしていますが、羽生選手は別として、やはり女子選手たちが華やかさもあるし、大活躍もしたことから注目を浴びていましたね。選手団の主将を務めた小平さんは話が上手でした。決して雄弁と言うわけではないのですが、少しずつ間をおいて、考えながら話す言葉は、しみじみと心に響きました。

それと、やはり人気の的はカーリングの選手たちでした。
「カー娘」とか(モー娘を思い出します)、「そだね~ジャパン」とか呼ばれ、大人気。あの松岡修造が「『そだね~』は今年の流行語大賞決まりですね!」と、はしゃいでいましたが、まあ、今年はこのあとがまだ長いし、また別の流行語がいくらでも出てきそうだし、カー娘もすぐに忘れられる可能性もあるので、大賞決定とまでは言いきれませんよね。そんなうわべの人気より、僕たちが今大会で感じたカーリングの勝負の深い味わいを、いつまでも忘れないようにしたいものです。

思えば日本で初の冬季五輪が開かれたのが、1972(昭和47)年2月の札幌五輪でした。この年の4月にわが家では長男が誕生し、五輪の開催中は妻が大きなお腹をかかえていました。あれからもう45年以上経ったとは

そして、夏季の東京五輪となると札幌よりさらに8年前の1964(昭和39)年に開催されたのだから、もう54年も前のことになります。僕が15歳の時でした。テレビの前で、いろんな競技を息を飲んで見ていたのが、つい最近のことのように思えます。

で、2020年の東京五輪まであと2年半ですが、何やかやと言っているうちに、これもあっという間にやって来そうですよ。

で、最近ふと気がついたのですが、その東京五輪の年には、モミィが15歳になるんですよね。

つまり

前回の東京五輪の年は僕が15歳で、今回の東京五輪ではモミィが15歳。

不思議な巡り合わせだな~と、心の中でクスっと笑っています。

 

 


 

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