僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

石川啄木の歌碑を巡る冒険

2009年08月29日 | ウォーク・自転車

   

   
     昭和44年のチラシです。
    (岩手県 玉山村観光協会発行)

 

八戸市のTさんのことを書いたブログに、仲間の方たちから、いろいろと温かいコメントをいただきました。ご本人のTさんも、ブログを読んでくださっていますが、コメントを寄せることについては、Tさんは…

「東北人ゆえの恥ずかしがり(笑)ゆえか、今、ブログに『くだんの○○と申します』と再登場する勇気はありませんが、また一段落したあたりで書き込みにおじゃましたいと思います」

とメールで書いてこられた。

この文章を見て、僕はとっさに「含羞」という言葉を思い出した。
この言葉を聞くと、青森生まれの太宰治を思う。
「含羞」という言葉がぴったりの作家太宰に心酔していた頃、この「含羞」という言葉に僕も酔っていた一時期があった。

Tさんも「含羞の人」なのかもしれない…などと勝手な想像をめぐらせる。

さて、そのTさんが、6月初旬に、写真つきのメールを送ってくださった。写真は、岩手県の渋民にある石川啄木の歌碑の写真であった。

奥様と北上市のホテルに行かれたとき、途中で啄木の歌碑に寄り道し、写真を撮って僕のところに送ってくださったのだ。

 

 

   

      この2枚の写真をTさんから送っていただいた。

 

    
      これは、昭和44年の旅行での写真

  

Tさんが、啄木の歌碑の写真を僕に送ってくださったのには、理由があった。僕にとってこの歌碑は、格別の思い出のある場所だったことを、ブログを読んで、承知されたうえで送ってくださったのであろう。


僕は旅行中、この歌碑の前で、寝袋にくるまって一夜を過ごした。

それだけなら、どうということはなかったのだが、ここで僕は、一人の年配の自転車旅行の男性と知り合うことになる。

啄木の碑に向う途中の道で、この男性の自転車を抜いたのだが、この人は、ごく普通の格好で、自転車も実用自転車であった。上り坂になると、僕は自転車の変速ができるのでスイスイ上がるが、この男性は、よいしょよいしょと自転車をこぐ。サイクリングというよりも、ひょいと隣村に用事に出かけるといった雰囲気でもあった。年の頃は、60歳近いだろうか。

ちょっと話がしたくなったので、僕は速度を緩めてその人に並び、
「どこから来られたのですか?」と自転車をこぎながら聞いた。
「青森の、十和田でございます」
「どこまで走られるのですか」
「東北を一周しようと思っております」
「はぁ…、東北一周…ですか?」ひょいと隣村へ…ではないのだ。
「昨年は関西と四国をまわりました。一昨年は北海道でございました」
「はぁぁ…。で、来年は、九州かどこかに?」
「はい。そのとおり、九州を考えております」
「いや、すごいです。ほとんど日本一周じゃないですか」
「はい。さようで…」
僕の父親よりも年が上であろうこの人は、淡々と、丁寧な言葉づかいで僕の質問に答えてくれた。

また、急な上り坂になった。
おじさんの自転車は急にペースが落ちる。

「坂道は大変でしょう?」と僕。

「いやぁ、坂なんて大したことありません。いくらでも越えますよ。
 あたしゃぁ、すでに60(歳)の坂も越えちゃってるんですから」

…な~んてことは、言わなかった。 黙々と走っておられる。


そんなことで、お先に~と、僕は啄木の歌碑に到着した。

しばらくして、そのおじさんが到着し、まわりをきょろきょろ見回し、「あ~、今日も写真屋さんはいないんだね~」と、悲しそうな顔をした。

「私がこの歌碑を訪れるのは、この30年間で今日が4度目です。訪れるたびに歌碑の向きが変わっているのですよ。それにしても、写真屋はいつ来ても、いないのです。だから、私はここでまだ写真を撮ったことがないのです」

「あ、それじゃ、僕のカメラで撮りましょう。白黒ですけど…」
僕がそう言うと、おじさんはパッと顔を輝かせて、
「本当ですか? いやぁ、ありがたいです。ぜひお願いします」
「じゃぁ、そこに立ってください。 行きま~す」

 

   
     …と、撮った写真がこの写真です。

 

写真を何枚か撮り終えて、おじさんと住所を交換した。
その人は、羽入さん、と言った。
住所は十和田だったが、勤務しているのは青森県の六ヶ所村というところで、学校の先生をしておられるという。

「大阪に帰ってからになりますが、写真は必ず送らせてもらいますね」
「ははっ。よろしくお願いいたします」
そう言って、羽入さんは深々とお辞儀をして、自転車にまたがった。

「では、気をつけて行ってくださいね」
「はい。あなたも、ご無事で故郷へ帰られますように」

僕はここで野宿するので、羽入さんの後姿を見送った。

大阪に帰り、数枚の写真を羽入さんのご自宅に郵送した。
すると、折り返し、礼状が届いた。
筆で書かれた、まるで時代劇で見るような手紙である。

 

 

 
             

拝啓 いつの間にか秋がやって参りました。
去る十六日急用のため夕方から夜にかけて十和田の実家に帰りましたところ○○さんからの写真が届いておりました。
三十年前から夢にまで見ていたあの場所での写真は全く偶然に知り合った大兄から頂くことになりました。厳に謹んでお礼を申し上げます。カラーでなくても、あの山、あの川、あの場所が好きなのです。本当に有難うございました。
唯、もっと若かったつもりの私が、変に年取った姿で、思わず苦笑しました。九州一周は、四国より更に慎重に計画を進めなければならぬと思い…(後略)

             


そして冬には青森のリンゴを段ボール箱いっぱいに送ってくださった。

さらに、後日談がある。

それから10年以上経った。
僕も30何歳かになり、結婚して小学生の息子が2人いた。

ある日曜日の午後、チャイムが鳴った。
妻が外出中だったので僕が玄関に出た。

玄関先に立っていた人は、僕を見て、
「あっ。あの…あの…、○○さん…ですね?」
と言ったあと、声を詰まらせた。

誰かと思ってよ~く見たら、なんと羽入さんであった。
リュックを担ぎ、ジャージを着ていた。
頭髪が薄くなったが、精悍な風貌は変わっていない。

「は、は、羽入さん、ですか? うっそ~……」

しかし僕が驚いた以上に、羽入さんはもっともっと驚いていた。

なんでやのん…?

「あ、あ、あなたは…、あのときと全然変わっておられない。あれから10数年も経っているのに、あなたがどれだけお変わりになったか…私はいろいろ想像していたのですが…あなたはなんと…あの時のままです。あまりのことに、驚いたのです」

いろんな驚きようがあるものだ。

羽入さんは兵庫県の「壮年マラソン」に出場してきたとのことだった。
もう70歳にはなっておられるはずだが、マラソンとは…元気である。

大阪府内に知人がいて、今夜はそこに泊まることになっているが、住所を見ると、僕の住む町が近くなので寄ってみた、と羽入さんはおっしゃった。

1時間ほど談笑したあと、
「どうも、突然お邪魔いたしまして…。青森にもお越しくださいませ」
そう言って、羽入さんは、細い身体をぺこりと折り曲げた。

最寄のバス停まで羽入さんを案内した。
バスの中から窓越しに、羽入さんは、何度も頭を下げておられた。
僕は、バスが見えなくなるまで手を振った。
たぶん、羽入さんは、バスの最後部の窓からまだお辞儀しておられるはずだったから…。

  …………………………………………………………………………

昨日のことのように鮮やかに目に浮かぶ光景である。
それも、今から30年近く前のことになる。

石川啄木の碑をこよなく愛された羽入さん。
そこで、僕が撮った写真を、終生大切にされていたようで、うれしい。

啄木の歌碑には、

 やわらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに  

という歌が刻まれている。

ここから、美しい岩手山が見える。
反対側にも、姫神山という美しい山が見える。
そして、近くに北上川が流れている。

こういうところが近くにあればなぁ…と、ため息が出る。

八戸のTさんも、
「あそこは私も大好きな場所です。国道4号を通る時は、よほど急ぐ時でない限り啄木公園に寄ってきます」
と、書いておられる。


こんな歌碑のある場所で、彼女と恋を語り合う…というのも、いいよなぁ…。と、当時、歌碑の前で野宿をした僕はつくづく思った。

あのときは、歌碑の前に、男ばかりが何人か集まってきて、それぞれ寝袋で野宿していたので、色気のかけらもなかったのがくやしい(笑)。

ここはあらゆる状況が完璧に整った格好のデートスポットである。
これほど美しい光景は、日本中探しても、めったにない、と僕は今でも思っている。いいなぁ~近くに住んでいる人たちは。

…とここまで長々と書いてきましたが、最後に「秘話」を披露します。

Tさんは、実は、この場所で、奥さまにプロポーズされたそうです。

  春分の日。
  真っ白に雪をかぶった岩手山を望み、
  歌碑の前のベンチに腰かけて…というシチュエーションでした。

なんとまぁ…
うぅぅぅぅぅ~ 素晴らしい~。

啄木の歌碑の前でプロポーズとは…。
Tさんも、なかなかやりますね~。

Tさんは現在、高校の先生をしておられます。
その奥さまとの結婚披露宴に、生徒が50人も駆けつけたというのですから、Tさんの教師としての人気ぶりが伺えます。そしてキャンドルサービスのときには、感極まって涙を流している女子生徒たちもいたということで、まだまだ東北には、素直で素朴な高校生たちがたくさんおられるのだなぁ、という印象が持てますね。


このように、石川啄木の歌碑のある場所は、僕にとっても忘れられない思い出の場所だったのですが、Tさんにとっては、それ以上に思い出深い場所であったわけですね~。

そのことをどうしても皆さんにお伝えしたかったので、Tさんのプライベートなお話も、ご了承を得て、ここに書かせていただきました。

Tさんには、改めてお礼を申し上げたいと思います。

 

 

 

 

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110番はしたけれど

2009年08月27日 | 日常のいろいろなこと

めったに遭わない場面に出くわし、めったにない奇妙な経験をした。

昨晩のことである。
夕食を終えて、僕は妻と外へ歩きに出た。

家から藤井寺駅方面に向かい、駅周辺のジャスコやその他の店で買い物をしたりしてまた戻る…という1時間余りのウォーキングは、とても健康によく、これを続けているおかげで、僕も糖尿病の数値が下がったのではないかと思っているほどである。

…といっても2日に一度モミィが「お泊り」に来るので、その日は歩けない。だからモミィのいない日に、食後のウォーキングを続けている。

その、歩いている途中のことだ。

僕たちは、パープルホール(市民会館)の横の、川沿いの狭い道にさしかかった。人間2人がやっとすれ違えるほどの狭い道だ。

ホールの横を小さな川が流れている。
川の横に、その狭い道があるのだ。
道の川側には、転落防止用の金網が張られている。

「ん…? なんや、あれは…?」と、僕は前方を、目を凝らして見た。

暗くてはっきりしないが、金網に人が押し付けられていた。
どうも2人の男がもみ合っているようなのだ。
しかし、中学生か高校生がプロレスごっこでもしてふざけているのだろう、と思いながら、僕と妻はそこへ近づいて行った。

確かに…
2人は遊び半分で、もみ合っているように見えた。

なにせ狭い道だから、身体をのけぞらせるようにして、その2人がいる場所を通り過ぎた。

その瞬間…
「すみませ~ん」と、若い男が僕に声をかけた。

両手で相手の男を首のあたりをギュッとつかみながら、
「警察を呼んでもらっていいですか!」
そう言ったのである。

2人は大声で怒鳴りあっているわけではない。
相手の男は、もう老人と言っていいほどの年齢である。
いったい何が起こっているのか、僕にはわからなかった。

「警察…?」
僕は振り向いて、問い返した。
ややこしいことにかかわるのは嫌だ。
妻は先に歩いて行っている。

この2人はいったい何なんだ…?
ほんまに、犯罪者と被害者なのか…?

「警察を呼ぶの…? ほんまに…?」
と、僕は半信半疑で、また尋ねた。

「はい、お願いします」
まだ20歳前のように見える若い男は、
「こいつ、うちの家に侵入して来たんですわ。泥棒ですわ」

妻の方を見た。立ち止まってこちらを見ている。
う~ん。しゃぁないなぁ~。
僕は携帯を出して、110番に電話した。

横では、年寄りのほうが
「すみません、もうやりませんから」と若い男に謝っている。

「はい、110番の緊急通報ですが…」
警察が、電話に出た。
「あのぉ~、今、パープルホールの横ですが…」
と僕が言うと、
「パープルホールて、どこですか…?」
と、聞き返してきた。頼りない奴やなぁ。

「市民会館ですがな。その東側の細い道で、若い人が泥棒を捕まえたと言って、いまここでもみ合ってますねん。すぐに来てください」

「あなたが被害に遭われているのですか?」
「違います。私は通りがかりの者です。横に当事者の2人がいます」
「え~っと、被害者のお名前と住所を言ってください」

僕は、「逃がさんぞ」と相手の両腕をつかんで奮闘している若い男に、
「名前と住所は? あんたの名前と家の住所を教えてんか」と言った。

「あっ、えっと、○○何丁目何番何号 名前は○○です。ゼイゼイ」
と、息を切らせながら言う。

僕がそのとおりのことを警察に告げると、やや間があって、
「え~っと、その住所に○○さんという家は見当たりませんが」
と、警察が言った。

僕はまた2人の方に呼びかける。
「あのなぁ、兄ちゃん、その住所にあんたの名前はないらしいで」
と、僕もだんだん声が大きくなってきた。

「そ、そんなこと、ゼイゼイ、ありませんわ、ゼイゼイ」

「そんなこと、ない、言うてはりまっせ」
と、僕はまた警察にオウム返しに答える。

「ふ~ん、最近引っ越して来はったんですかねぇ」と警察。

「兄ちゃん、最近引っ越して来たんか? えぇ? どうやねん」

「3年前、ですわ。ゼイゼイ。こら、逃がさんぞ。ゼイゼイ」

「3年前やと、言うてはりまっせ」と僕。

「そうですか…はぁ…」と警察。

「あのね、とにかく早く来てちょうだい。ずっともみ合っているから」

「わかりました」と、警察の言葉を聞いて、電話を切ろうとすると、

「あの~、あなたの名前と住所を教えてくれますか?」
と警察が言うので、さっさと答えて
「早く来てや」ともう1回念を押して、僕は電話を切った。

2人の動きは、ちょっと落ち着いてきた様子であった。
若いのが、爺さんの両手をガチっと握っていた。
爺さんは「すんません。もうしませんから。かんにんして」
と、ぺこぺこと頭を下げ続けていた。

僕はもう早く現場から離れたかった。
「警察はすぐ来るからね」
「はい、すんません、ゼイゼイ」
と若いのが僕に言うと、爺さんも観念したかのように見えた。

「ほんなら、行こか…」
僕は妻を促して、2人から離れ、再び駅の方向へ歩いた。
あとは警察がちゃんと始末をつけてくれるやろ。

すると歩き出して2、3分も経たないうちに、警察官が一人、単車で走ってきた。僕はその警察官のほうに近づき、声をかけた。
「今の○○さんの件で、来はったんですか…?」
「そうです。あなたは…?」
「通報した者です。2人と離れて、ウォーキングに戻ったところです」
「あ、そうですか」警官は、若くて、イケメンであった。

僕は妻とともにUターンし、そのイケメンについて現場に戻った。

現場には、誰もいなかった。
イケメン警官は、
「先に警官が来たのです」
「あ、もう泥棒は逮捕されたんですか」
「いや、逃げたらしいです」

「ゲェっ、逃げた?」

なんでや…?
あのわずかの間に、あの若い男は爺さんに逃げられた…?

「そんなアホな。若い男は力が強いし、相手は年寄りやったのに」
「何歳くらいでした?」
「そうやねぇ、もう70歳近かったように見えたけどなぁ」
「そうですか。それでもね、捕まるのが嫌で逃げる犯人はたくさんいますからね。この川に飛び込んで逃げたかも知れないし…」
とイケメン警察官は推測をめぐらす。

こんな浅い川なんかに飛び込んだら、よけい逃げられへんがな。
だいたい、足も遅そうやし、逃げても若い男にすぐ捕まるはずや。

「ところで…」と僕はイケメンに質問した。
「その若い男はどこへ行ったん?」

「あ、泥棒に遭った被害者ですね。今、別の警察官たちが、その人の家で事情を聴いています」
イケメン警察官はそう説明し、
「また、その泥棒らしき者をみかけたら通報願います、よろしく」
と敬礼したので、僕たちはまた現場を離れ、藤井寺方向に歩き始めた。

…不思議な話だ。
警察が来るまでのわずかの時間に、なぜ爺さんが逃げたのだ。
若い男は、なぜそれを取り逃がしたのだ。…どうも、解せない。

若い男は、泥棒の爺さんをわざと逃がしたのではないか…?
しかし、だったら、なぜ、僕に警察への通報を頼んだのだろう。
疑問だらけである。

もし若い男も追いつかないスピードで走って逃げたとしたら、あの爺さんは驚くべき「俊足」だと言わなければならない。

…しかし、いくら考えても、あの年齢でそんな早く走れるか…?。

この一件を、帰宅してから yukari さんにメールで知らせたら、

~ 爺さんの着ぐるみを着たボルトやったんちがいますか? ~

との返事が返ってきた。

な~るほど。そういうことだったんだ。
先日、世界陸上短距離で驚異的記録を出したジャマイカのボルト…
ボルトが爺さんに化けていた…???

あのボルトなら、誰が追いかけても捕まらないであろう。

僕はそれ以上悩むことなく、安心して眠りにつくことができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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民主党は大丈夫か…?

2009年08月26日 | ニュース・時事

高校野球は、注目していた東北の雄、花巻東も力尽きて準決勝敗退。
県岐阜商も、9回裏、あと一歩のところで決勝進出を逃した。

中京大中京の一方的な展開となった決勝では、驚くべき終盤が待っていた。

最終回、新潟の日本文理が6点リードされ、二死ランナーなしといところまで追い込まれながら、7人連続の出塁で5点を取った。10対9となり、あと一人。…あと一人が打てば同点あるいは逆転の場面で、次打者が強烈なライナーを放ったが、それが三塁手の正面をつき幕となった。
ためいき。…やがてそれが大歓声に変わり、甲子園の夏は終わった。

「中京大中京」と言われてもピンと来ないけれど、昔の「中京」だ。
僕の生まれ故郷・京都には「平安」という伝統校があったが、これが今は「竜谷大平安」である。どうも校名に余計なものがついて、子どもの頃に応援したときのイメージとは異なるのが困る。

大阪のかつての強豪校「浪商」も「大体大浪商」になり、同じく「北陽」も「関西大北陽」に変わった。

今大会にも、東農大二、山梨学院大付、九州国際大付、旭川大、長崎日大、日大三などの校名が目立ったが、高校の上に大学名がつくのが増えたのは、これも時代の流れかもしれない。

そういえば…
こういう校名が出始めたのは、今から45年ほど前、近大附属高校が甲子園に初出場したころだったように思う。甲子園での「○○大学附属高校」という名前の「はしり」は、実はこの「近大附」ではなかったか。

う~ん。僕の母校である近大附である。
これではね…あんまりね~、文句言われへんわ。

まあ、そんなことはいいのですが…

しかし今回の高校野球の終盤戦は、僕はほとんど、これらのTVのニュースを見たり新聞を読んだりして知ったわけで、リアルタイムで高校野球をTV観戦をする余裕がなかった。ほかのことで時間を使っていたのである。


先週から英語の勉強により集中するため、「図書館通い」を始めた。
自宅ではどうしても気が散るし、雑事にも追われる。ここなら勉強だけに集中できる環境がある。

僕が行く近所の図書館には「自習室」があり、ひっそりと静まっていて、クーラーがよく効いている。中・高校生から大人まで、そこで静かにそれぞれの勉強に熱中している。中には机に伏して寝ている人もいるけれど、その場に入ると、気分が引き締まり、いかにも、さあ勉強をやろう…という気分になる。

9時45分の開館時間に合わせて出かける。
ECCのテキストや自分の参考書などを持って行く。

21日から昨日の25日まで、病院へ行った24日を除いて4日間、図書館へ行った。しかし閉館の5時15分までいたことは、まだない。

あるときは、図書館にいると、妻から「もみじが市民プールに連れて行ってほしいと言っています」というメールが来たので、12時半に帰り、もみじを自転車に乗せて市民プールへ連れて行った。そんな日もある。

「図書館にいても、用があればどんなことでもメールするように。すぐに帰ってくるから」と妻には言っているので、図書館通いといっても、そのへんは柔軟にして、家のこともある程度手伝わなければならない。

しかし、図書館での勉強はいいなぁ、ほんと~に。

定年退職して図書館に通うのは、昔からのささやかな夢だった。

まぁ図書館と言っても今は英語の勉強に必死だから、自習室にこもり、図書の閲覧室にはほとんど行かないが、あと1ヶ月、英語の集中勉強が終わったら、また、好きな本の中でひと時を過ごしたいと思っている。


 …………………………………………………………………


ところで、話が変わるが、あと4日で衆院選がある。

テレビは酒井法子と押尾学の報道にてんやわんやで、前回の「郵政民営化」が焦点となった選挙時から見ると、選挙に関する放送時間は約半分だという。

のりピーも押尾も、とんでもない側面から国政に影響を与えているといえる。

それにしても、高速道路の無料化というのはなんじゃいな…と思う。

僕はペーパードライバーで、車には乗らない。
長男の車に便乗して高速道路を走ること…くらいである。

「タダになったらうれしい」という声が、テレビから聞こえてくる。

国民の声を平等に聴くはずのテレビ局は、なぜか高速道路無料化については、高速道路のサービスエリアでインタビューをしていることが多い。現に利用している人にコメントを求めても、「無料になるのはうれしいです」という声が大半であろう。もっと街の中で、車を使っていない人たちにも聞け、と言いたい。

高速道路の受益者負担…という大原則を無視した目先に走った政策には大いに疑問がある。僕はこの話が出た当時から、腑に落ちなかった。なんで、高速道路を使わないものにまで、使用料を負担させるのか…

しかし最近の世論調査では、「無料化は好ましくない」という意見が6割以上を占めるようになってきたのは慶賀すべきことである。民主党は、この声に、謙虚に耳を傾けなければならない。

民主党だけではない、他の党も、何でも無料化だとか、子どもたちへの給付金を上げるだとか言って票を獲得しようと躍起だが、消費税は上げない…なんて言ってたら、わが国を存続せしめているあらゆる制度がぐちゃぐちゃになりまっせ。

といっても、僕は自民党を支持しているわけではない。

自民党議員は自分のことだけしか考えていない傾向が、他党に比べて圧倒的に強い。「自民党と違う、自分党や」と言っている人もいる。

僕は長い間市役所の議会事務局にいたけれど、自民党の市会議員だけは箸にも棒にもかからないアホ議員が多かった。それらのアホ議員たちの延長線上に自民党が成り立っているとしたら、これはもう、情けないとしかいいようがない。

これも、ずっと長い間政権を取ってきた弊害であろう。
その意味では、他党に存在を脅かされて一から出直すのも必要だろう。 

マスコミは、すでに民主党が政権を取ったという前提で、これからの日本国の行方を占う…という気の早い番組を流している。

本当に民主党に政権が移るのか…? 移って大丈夫なのか…?

自民党には任せておけないが、民主党にも大きな不安がある。
いざ、民主党が政権を取ってみたら…
政治の中身は自民党と変わらない、ということも十分考えられる。
ほんまに大丈夫なのか…?

耳鳴りがどこの病院へ行ってもなかなか治らないのと同じで…
この国も、どの政党が政権を取っても治らないのではないか。

今の各党の様子を見ていると、そんな気がする夏の終わり…である。



 

 

 

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八戸の 「奇跡」

2009年08月22日 | ウォーク・自転車

僕は近畿大学附属高校から近畿大学へ進んだ。

自転車旅行をしたのは、近畿大学の3年生の時である。

大学と高校は同じ敷地内にある。

大学生になっても、僕は時々、附属高校の職員室へ遊びに行った。

「今度、自転車で北海道まで往復しようと思てますねん」
職員室で、顔なじみの先生たちにそう言うと、ツカハラという先生が、
「だったら、八戸も通るのか?」と声を上げた。
「はちのへ? どこですねん、それ…?」
「おまえ八戸も知らんのんか。そんなんで自転車旅行できるんか?」

     当時の八戸はそれほど有名ではなかった。
    「美人すぎる市議」もいなかったしなぁ         

で、ツカハラ先生は、手早くメモ書きをした紙を僕に手渡して、
「この八戸の住所は、ワシが生まれた家や。青森県の八戸やで。連絡しておくから、この家を訪ねなさい。そして。ワシは元気にやっとるからと、家族のみんなに伝えてくれ」というようなことを言われた。

こうして僕と八戸との「縁」が生まれた。

そして、僕は自転車旅行に出て、本州の日本海側を走って北海道へ渡り、広大な大地をぐるりと回った後、再び本州に戻って、青森県の八戸にたどり着いたのだ。

先生に教えられた場所には「ツカハラ時計店」という看板がかかっていた。

「こんにちは。大阪から自転車で来ました〇〇というものですが…」
「はい。聞いています。どうぞ」
家から出て来られた女性は、ゆったりと、やさしさのこもった応対で、僕を家の中に案内してくれた。

僕はここで、ツカハラ家の方々に大変親切にしてもらった。

久しぶりに味わう家庭の雰囲気に、心身ともに癒された。

そこで2泊させていただき、出発の時が来た。

「記念写真をとらせてください」
と、みなさんに頼んで撮らせてもらった1枚の写真がこれである。

 

      
      先生のご両親、お兄さん夫婦、お姉さん夫婦、
       妹さん、弟さんたち。(昭和44年8月)

 

まあ、こういう話は自転車ブログに詳しく書き、この写真も掲載したわけだけれど、それを読まれていた八戸在住のTさんという方が、ご自分が住んでおられる街の話だけに、特に興味を持たれた。

「ツカハラ? ツカハラ?」

Tさんは、写真の風景も、どこかで見たような記憶があったと

それが数年前のことだった。

Tさんは、僕に初めてくださったメールで、以下のように書いておられます。

ずっと気になっていたこと。つまり、写真のツカハラ家の所在地
親戚の方たちにいろいろと尋ねられた結果、その場所が判明した。

さらにTさんの高校時代に英語の先生で、レスリングの大家でもあったツカハラ先生という方がおられ、おそらくその先生の実家がこのお家であろう、と確信を持つに至ったということで、その場所へ、僕のブログ写真をプリントしたものを持って、車で出かけられた。

しかし、かつてのツカハラ時計店は、すでになくなっており、駐車場になっていた。Tさんは、その隣の洋菓子店で詳細を尋ねた。そして、ようやく、現在ツカハラ家の方がおられる場所を知ることが出来た。

ここからTさんの文章を、そのまま引用させていただきます。 

          

私はもう躊躇することはありませんでした。
隣家(ツカハラ家)に写真を持って参上しました。
出て来た若い奥さんによると「大家さんかな?」との由。
隣家は貸家のようで、その奥に大家さんの「ツカハラ家」があるようなのです。改めて奥の家に「ごめんください」と入って行きました。

とにかく、話すよりも写真を見てもらった方が早いので、
「私は〇〇と申しますが、実はこういった写真を手に入れまして」と、
応対した70才前後と思われる女性に、プリントした写真をお見せしました。
開口一番「うわ~! 懐かしい」大変な感激ぶりです。

そこで私は、
昭和44年の夏に、この家出身の先生で近大附属高校に勤務された方がいて、当時の教え子で近大の学生が来訪したらしいこと、2泊ほどされたらしいこと、これはその時の写真であることをお話しました。

女性のお話しぶりは、まるで昨日のことのように覚えていらっしゃるようで、
「うん、来た来た。近大のね、付属高校で。今も(あの先生は)大阪にいるんだけど(教員は)もう退職したの。うん。そう、2泊ぐらいしたかな。あぁ、鮫とかも行ったかもね…」
内容は正確すぎるほど正確に合致します。

「お持ちすれば喜んで貰えるのではないかと思いました」
と私も興奮を抑えきれずお話すると、
「いや~ほんとだ。懐かしい。ここのね、ここに写ってるのが私」
この女性は写真の右端に写っている方だったのです。

「この方、どうしてるの? 」
(「のんさん」は現在どうしていらっしゃるの…?)

差し出がましくて本当に申し訳ないのですが、折角の機会ですから、わかる限りをお伝えするのが良かろうと思い、ブログ等での聞きかじり、見かじりの情報をいただきつつ、
「大阪の〇〇市役所を、明日御退職のようです」
と申しあげておきました。

「まぁ、もう、そんなに…」
暫く感慨深げな表情をされていました。

       (後略)

          

これがTさんから最初にいただいたメールの内容であった。

Tさんが、ツカハラ家の女性の方と会われたのが、3月30日のことで、僕のところにメールを送ってくださったのが、翌31日である。

僕が市役所を退職したその日に、このメールをいただいたわけだ。

Tさんがお会いされた女性は、たぶん、僕が自転車で行ったときに、最初に僕を出迎えてくれた女性だったと思う。ツカハラ先生の一番上のお兄さんのお嫁さんで、Tさんも書いておられるように、写真で言うと、一番右に黒っぽい服装で写っておられる方である。

タイムマシーンで過去に引き戻されたような気持ち…
というのは、こういう気分のことを指すのだろう。

その女性の方が、僕のことを覚えてくれていた…というのが、何よりもうれしかった。読むうちに、涙でパソコンの画面がかすんでしまった。

Tさんは数年前に僕の自転車のブログを読んだその時から、ずっとツカハラ家のことが気になっていた、と書かれていた。

そして、「ツカハラ家の懐かしい写真が残っていることを、ツカハラさんにお伝えし、喜んでいただけたらという思いが最近になって日に日に増すようになり」今回の「探訪」へとつながった。

Tさんは、ツカハラさんと会われたあと、こういうふうにご自分の心境を綴っておられる。

   帰りは、胸のつかえがなくなったような、
   積年のもやもやが一挙に解消したような、
   しばらく味わっていなかったそういう感情を抱きながら、
   自宅へと車を走らせました。 

 

 

 

 

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湧別…なつかし~い!

2009年08月21日 | ウォーク・自転車

昨日のブログでご紹介した男性の方は、青森県八戸市にお住まいのTさんである。僕の自転車旅行記を、ずっと読んでくださっていた。
Tさんは、今年の3月27日のこのブログに「jk0178」というお名前で、コメントをくださった。それ以来、何度かメールをいただき、昭和44年の僕の自転車旅行にちなむ土地を巡られたときは、そのご報告などをいただいていた。

中でも驚き、感動したのは、僕が旅行中、八戸でお世話になったご家族を、ブログを読まれたTさんが訪ねて行かれたときの話であった。読んでいて、涙が流れた(次回に紹介させていただきます)

  ………………………………………………………………

 


その40年前の自転車旅行。
北海道のオホーツク海岸のデコボコだらけの道を、北西から南東(網走方面)へ向けて走っていると、向こうから女性のサイクリストが走ってきた。真っ黒に日焼けしていたので、最初は男だと思っていたら、
「あら~、こんにちは~」
と可愛い女性の声だったので、びっくりした。

彼女も僕と同じ20歳で、しかも大阪に住んでいる子だった。

道端で立ち話をしている間に意気投合して、彼女は、今夜は僕のテントに泊めてくれ、と言った。僕はテントで野宿をすることが多かったが、彼女は、さすがに女性だけに、すべて旅館に泊まっていた。

「でも、一度野宿がしたかったの」というわけだ。

僕たちはすぐそばの海岸で、乳牛が草を食んでいるのを横目で見ながらテントを張り、近くのよろず屋で食糧を買い込んで、夜にはビールを飲み、キャンプファイアーをした。

翌朝、彼女は「もう1泊したい」と言ったので、また買出しに行き、その日は一日中、オホーツク海を眺めながら、とりとめのない話をした。

彼女は日本一周をしていた。
20歳の女性が、日本一周ひとり旅である。すご~い。

何ヶ月か後、無事に日本一周を終えた彼女は、その世界ではちょっと有名になり、ある自転車雑誌に彼女の特集記事が載った。

それを読んでいると、インタビューの中で、
「最も印象に残ることは…?」
という、記者の問いかけに、彼女は、
「北海道で出会った大阪の男の子と、一緒にテントで泊まったこと!」
と言っていたので、思わず笑ってしまった。

その「大阪の男の子」も、今は60歳である(…ためいき)。

…当時の自転車旅行には、こんな珍妙な思い出がヤマほどある。


さて、次の朝、彼女と分かれて、再び一人で網走方面を目指して走って行った僕である。

夕方近く、湧別というサロマ湖の手前にある小さな町に入った。

たまには旅館に泊まって、お風呂に入りたいと思ったが、こんなところに旅館があるのかどうか…?

そこに1軒の小さな駐在所が目についた。

僕は中に入って、おまわりさんに、「どこか旅館はありませんか?」 
と訪ねた。すると、そのおまわりさんは、
「ここへ泊まりなさい」と、親切に言ってくれたのである。

おまわりさんは、そこそこ年配の人であったが、家族と離れてここで一人で暮らしているという。

その夜、僕はこの駐在所で、一宿一飯の恩義にあずかった。

翌朝、おまわりさんは僕に昼食用のおにぎりを作ってくれた。

「ありがとうございました」
僕は心からお礼を言って、その駐在所を後にした。


この、ほぼ、夢の中に埋もれかけていた記憶を、呼び起こしてくれたのが、今月16日にいただいたTさんからのメールであった。

Tさんは北海道旅行に行かれ、この湧別の駐在所を訪ねられたのだ。

Tさんからのメールには、

  北海道に出かけて帰ってまいりました。
  摩周湖と湧別の駐在所の写真を送ります。
  当時、○○様(僕のこと)が泊まられたという駐在所も、
  小奇麗な感じに建て直されて
  今は若い駐在さんが家族と住んでいるという雰囲気でした。
  残念ながらだれもいませんでしたが…

そう書かれていた。
そして、摩周湖の写真と共に、湧別の駐在所の写真が添付されていたのである。

湧別の駐在所 ……!

なんとまあ、懐かしすぎるではないか。

僕は、しばらく唖然として写真を眺め続けた。



  
   Tさんが送ってくださった写真。
   「遠軽警察署、湧別駐在所」とある。
   モダンな建物になっていたが、なんとなく面影がある。

   

   
   昭和44年当時の同駐在所。
   「遠軽警察署、湧別警察官派出所」とある。
   なんとなく面影は…う~ん、ありませんかね~?

 

40年経ってから、こういう写真を送ってくださる方がいらっしゃろうとは…

旅行は、1回1回が、それぞれ単発ドラマである。
しかし、こうした出会いがあると、40年の歳月を経て、あの自転車旅行が、今も続いていることを思わないわけにはいかない。

単発ドラマを、大河ドラマに変えていただいたことに、心から感謝したいと思っている。

 

 

 

 

 

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三沢高校の思い出

2009年08月20日 | スポーツの話題

高校野球、真っ盛り、である。

昨日は第1試合で大阪のPL学園が出ていたが、僕は朝から大手前病院の診察があったのでTV観戦はできなかった。診察を終え、病院のロビーのテレビを見ると、7回裏を終了して6対3でリードされていた。
「な~んや、これは」
チラッと見ただけで、病院を出た。
そのまま6対3で試合は終わった。

まぁ、仕方ない。
相手はのこたんさんの地元の県岐阜商である。夏の大会出場回数は、京都の平安高校に次いで2番目の27回目だ。17回目のPL学園でもまだまだ及ばない伝統校である。

県岐阜商の準決勝進出は実に31年ぶりだそうだが、その31年前、準々決勝で当たった相手がPL学園で、その試合は1対0でPLが勝ったという。県岐阜商は、今回、その雪辱を果たしたわけだ。

ところで、この高校野球選手権大会では、まだ東北勢の優勝がない。

惜しかったのはダルビッシュがいた時の宮城県・東北高校だったが、決勝戦で敗れた。それ以外でも、何度かあと一歩のところで優勝を逃してきた東北勢であるが、僕ら団塊世代にとっては、何よりも忘れられないのは、昭和44年夏の青森県・三沢高校の活躍である。

決勝戦で松山商業と延長18回の死闘の末、引き分け再試合となり、翌日の試合で力尽きて敗れた三沢高校は、2試合を1人で投げ抜いた太田幸司の人気と共に、高校野球史に燦然と輝く伝説を残した。

昭和44年8月18日。
そのとき僕は自転車旅行中で、東京に一時滞在していた。

夕方から、かねてから憧れていた後楽園球場に行き、長島・王を初めてこの目で見る幸福に浸った。

しかし、ナイターの試合が始まる前に、あちらこちらの観客たちが、ラジオの野球中継を聴いていた。それがずっと耳に入っていたので、いったいこんな時間に何の野球をしているのだろうと、隣のおじさんに聴いてみたら、高校野球の決勝戦を聴いているのだと言う。

もう夕方の5時か6時である。 なんでこんな時間に高校野球の決勝が行われているのだと聞くと、「ミサワとマツヤマが互いに一歩も譲らず」試合がここまで延々と続いているのだということだった。

それが、三沢高校と松山商業の「伝説の延長18回」の試合であった。

僕は、三沢高校、と聞いて…
あ、あの三沢高校か!
と、2週間ほど前の出来事を思い出した。

2週間ほど前といえば自転車で青森県内を走っていたときだ。途中で自転車ごとトラックに乗せてもらった。その運転手のお兄さんが、…今年の高校野球は、俺たち地元の三沢高校がいいよ、太田というすばらしいピッチャーがいるんだ…と、自慢していたことを思い出した。

そのあと僕が、岩手、仙台、福島、茨城、千葉、東京と自転車で走っている間に、甲子園での大会が始まり、知らぬ間にその三沢高校が決勝まで進み、今まさにこの時間に、初優勝をかけて延長戦の熱闘を繰り広げているのだった。

あぁ~、このとき勝っていれば、東北勢の高校野球の歴史もずいぶん変わっていたのになぁ、と、ついつい今でも思ってしまう。

…そんな事情で、甲子園に夏が訪れると、必ず思い出す三沢高校のことであるが、あの昭和44年から、今年で40年の歳月が過ぎた。

  ………………………………………………………………


数年前、僕はこの昭和44年当時の自転車旅行のブログを掲載した。

それを読んでくださった青森県在住の40歳代前半の男性の方から、3月末にブログにコメントをいただき、さらに丁寧なメールをいただいた。

そして、その男性の方は、その後、僕が自転車でたどった青森県や岩手県、それに北海道などの各地の様子が、40年後の現在ではどうなっているかということを、文章や写真で、何度も送ってくださったのである。

それを見るたびに驚いたり、感慨にふけったり…。
時には、その文章を読ませていただき、涙が出ることもあった。

遠い遠い昔の自転車旅行が、こんな形でよみがえるとは…。


その方から7月にいただいたメールの中で、40年前の三沢高校に関連した次のような新聞記事を教えていただきましたので、紹介します。

http://www.daily-tohoku.co.jp/news/2009/07/15/new0907150903.htm

お会いしたこともない方なのに、僕と自転車旅行と三沢高校とのつながりを知っておられる方からこういう記事を送っていただく…ということが、なんだか不思議である。

これだけではない。
僕はこの方から、何度も、奇跡のような情報を与えてもらっていた。

                                  (続きます)

 

 

 

 

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プレスリーも不整脈

2009年08月17日 | 心と体と健康と

朝日新聞の生活欄に、「患者を生きる」という千回を超えている長期連載記事がある。

これを読んでいると、世の中には、ふだん僕たちが耳にしたこともないような難病・奇病を含め、実にさまざまな病気で、生命と戦っている人たちが、こんなにも多いのか…ということに驚くとともに、普通の生活が出来る健康のありがたさを、ひしひしと身に感じる。

その欄で今月11日から「心筋焼灼術」というシリーズが始まった。

「心筋焼灼術」とは、カテーテルアブレーションと呼ばれる不整脈の治療法のひとつである。

この記事には、横浜市在住の男性の例が紹介されてあり、男性は、発作性の心房細動などで苦しみ、カテーテルアブレーションを受けることになる。…その様子が詳しく紹介されている。

同じカテーテルの手術を受けたことのある僕は、この記事を切り抜いて、何度も繰り返し読みながら、自分の経験とダブらせている。この手術自体、成功率はさほどに高くなく、さらに、かなりの危険も伴うものだということも、これを読んで、よ~くわかった。

この取材記事は、さまざまな示唆に富んでおり、僕自身の今後の不整脈治療を考える上でも、とても参考になりそうな内容であった。

…ということで、今日は不整脈とカテーテルアブレーションについて書こうと思っていたが、その前に思い出したことがあった。

エルビス・プレスリーのことだ。

昨日、8月16日は、エルビス・プレスリーの命日であった。

1977年のこの日、彼は42歳の若さで帰らぬ人となった。
心臓発作による急逝だった、ということである。

いま押尾学やのりピー事件で「薬物の害」が改めて強調されているが、プレスリーの急逝の原因も「薬漬け」ではないかと言われていた。

ただしそれが「麻薬」のたぐいだったのか、睡眠薬の乱用だったのかはよく覚えていないが、いずれにしても「薬」が彼の身体を蝕んでいたことは、間違いなかったことのようである。

そんな背景の中、2年前の8月16日の新聞を見てびっくりした。

「プレスリーは実は不整脈で亡くなった」という記事が載ったのだ。

「不整脈」といえば、どんな記事でもむさぼり読む僕だ。
「えぇっ! プレスリーが不整脈…?」

かつてのアイドル歌手・甲斐智枝美さんが自殺した原因も「不整脈に悩んでいたから」と報道されていたことを思い出す。

こういうふうに見ていくと、不整脈もやはり「死に至る病」のひとつなんだなぁ…と思ってしまう。

「大丈夫です。不整脈では死にませんから」
と、僕の以前の主治医は、笑顔で口癖のように言っていた。
それはそれで、患者を安心させる言葉であり、ありがたい。

しかし、あの、頻脈性の心房細動が起きたときの猛烈な苦しさを医師自身が経験していないから、そう言えるのであろう。

不整脈といっても、出ているか出ていないかわからない不整脈が多いので、医師もそれと同じような程度だと思って、そう言うのである。

耳鳴りも、医師には患者の本当の苦しさがわからないのと同じである。

不整脈も、種類によっては非情に危険なのである。

僕は3年前の夏に、不整脈が原因で心臓に血液が滞留して固まり、その破片が脳血管にまで飛んで詰まって右半身が麻痺するという、一過性脳虚血発作という軽い脳梗塞状態になったことがある。

長島前巨人監督が脳梗塞になったのも、不整脈が原因だ。

それだけに、不整脈の薬と血液凝固抑止剤(ワーファリン)は、僕にとって欠かせない薬である。

このプレスリーのように、死因が不整脈だった、というようなこともあるのだから、不整脈を決して甘く見てはいけないのだということを肝に銘じたのが、その新聞記事が出た「2年前の8月16日」であった。

折も折。
…その数日後。
僕は某大学付属病院に入院し、不整脈の原因となる部分を焼き切ってもらうため、カテーテルアブレーションを受けることになっていた。

入院直前に、プレスリーの死因・不整脈の記事を読んだので、
「う~ん。不整脈で死んだらえらいこっちゃがな」

ちょっと、ビビッた。

早くカテーテルアブレーションをして、不整脈を根治し、心安らぐ生活を送りたい…。

そんな期待をもって臨んだ手術だが、手術中に不都合なことが起こって中止され、期待は無残にも裏切られたのである。

あ~あ。ショック。

そのショックが尾を引いたのか、翌月に、耳鳴りが発症した。
まったく、踏んだり蹴ったりである。

あれからしばらく、カテーテル…と聞くだけで、目をそむけ、耳を塞いでいた僕であった。

しかし、時が経つとともに、最近は、カテーテルに対しても客観的に向き合えるようになった。

そんなときに、朝日新聞で不整脈とカテーテルの連載が始まったのだ。

これを読みながら、僕の場合、結局は失敗に終わったが、カテーテルアブレーションに積極的にチャレンジしたことがよかったのか? 手術にどれだけのリスクがあったのか? もう一度、受けることについてはどうか? 手術がたとえ成功しても後日また不整脈が出たという症例がこの記事に書かれていたが、僕の場合はどうなのか…? などと、冷静に考える時間を持つことができた。

やっぱり、いろんな治療にチャレンジすることは大事だと思う。

先日、山城新伍さんが亡くなったが、糖尿病の悪化で歩けなくなり、車椅子生活を送っていたという。まだ70歳だったのに…。

僕も糖尿病を持っている。
放置しておくと、これも死に至る病だ。

新聞やテレビで、こういうさまざまな病気や逝去の報に接していると、考えさせられることが多い。もはや「ひとごと」ではないのだ。

 

 

 

 

 

 

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ヤケクソと病気の因果関係

2009年08月15日 | 心と体と健康と

急に左手の人差し指の付け根が痛み出したのは、7月の中頃だった。
左手をどこかにぶつけたわけでもない。
その部分に特に無理な力が加わった…ということもない。
何もしていないのに、突然痛み出したのだ。

これは、ひょっとして痛風の症状ではないか…?
…と、過去に足首の痛風の発作に見舞われた経験のある僕は思った。

でも、おかしい。そんなはずはない。
痛風というのは尿酸値が高くなると出る症状だけど、僕はもともと尿酸値が高いので、1日2錠、尿酸値をコントロールする薬を飲んでいる。

主に不整脈を診てもらうため、月に一度通っている病院での血液検査では、薬の効果があってか、毎回尿酸値は正常範囲内である。

では、いったいこの痛みは、なんだろう…?

おまけに、同じ左手の小指の第一関節のあたりも痛い。

前にも書いたと思うが、左手の人差し指や小指を使わない生活というのは、はなはだ不便である。何より、缶ビールのふたを開ける操作ができない。

今まで無意識にしていたことだったが、僕は缶ビールのふたを開ける場合、右手でビールを持ち、左手の人差し指で、缶のツメの部分をこじ開けるというふうなやり方をずっと続けてきた。それ以外の開け方を、たぶん、やったことがなかったのだろう。他の指を使ってツメの部分をこじ開けようとしても、要領がわからず、かたくて開けられないのだ。

缶ビールのふたを開けるのがこれほど難しいものだとは…思いもしなかった。これからどんどん年を取り、握力も弱くなってくると、缶ビールすら開けられなくなるのかと思うと、先行きが不安である。

その後、右手で開ける訓練を積み、なんとか開けられるようになった。
やれやれ…。あやうく「ビール欠乏症」で死ぬところであった。

左手指が痛み出してから1週間経っても良くなる気配がないので、仕方なく近所の整形外科医へ行った。初めて行く医院である。

「初めてなんですけど…」
受付でそう告げると、問診表を渡され、そこへいろいろと記入する。

これまで入院・手術の経験は…?
不整脈の治療のために、カテーテルアブレーションという一種の手術を受けたことがあるが、それは内緒にして、「なし」に○を打つ。

現在医師にかかっている病気等は…?
不整脈、高尿酸値、そして今は改善されているが糖尿病。
「耳鳴り」は書かない。たいていの医師は耳鳴りというものを「病気」だとは、真剣に考えていない。だから、書いたって無駄なんだ。

服用中の薬は…?
不整脈のシベノール、脳梗塞を防ぐためのワーファリン、尿酸値に効くアロチーム、の3種類。本当は、安定剤のデパスや睡眠導入剤もほぼ毎日飲んでいるが、こことは関係ないやろ~と、これらは書かないでおく。

名前を呼ばれて診察室に入る。
「どうしたん?」
40歳前後の、ヒゲを生やした、妙に馴れ馴れしい態度の医師だった。
「左の人差し指の付け根が痛くて。それと、小指の第一関節もちょっと痛いので」

「ふーん?」と言いながら、医師は僕の左手指をひねくりまわし、
「これはどう…?」とか、「ここは…?」とか聞いてくる。
僕は「そこは痛くないです」とか「うぅ、いてててて!」と叫んだり。

ひととおり触りまくった後、ヒゲの医師は、急に目を輝かし、
「あ、これはなんともないわ。大丈夫や」と、きっぱり言った。
「なんともありませんか…? でも、痛い」と僕。

「なんともない、ということを証明するために、写真を撮るわね」
医師が笑いながら、隣のレントゲン室へ案内してくれた。

そして、ついでだからと右手も入れてレントゲン写真を撮ってもらい、また診察室に戻り、左手の写真を見ながら説明を受けた。

指の骨や関節は、医師が言ったように、すべて異状なしだった。

そして、医師の所見は、
指の骨や関節を包み込んでいる靭帯が痛むのだろう。つまり使い過ぎによる靭帯の、いわば筋肉痛のようなものだろう、ということであった。

「使い過ぎ…? 指の使い過ぎですか…?」と僕は医師に聞き返した。
「うん。使い過ぎやねぇ。仕事は何をしてはるの…?」
「仕事…? …もう退職しましたけど、以前は事務をしてました」
「そんなに力仕事とかじゃ~ないよね」
「ボールペンより重いモンは持ったことがありません」
がははは、と医師はまた笑う。

そして…「う~ん」と少し考えてから、
「まあ、なにせ、とにかく使い過ぎ、ということやね」
と同じことを繰り返し、今回は湿布薬を出すので、左手を休ませ、それで様子を見るように、と言われ、診察は終わった。

診察室から出ようとした時、医師が背後から、
「あ、○○さん。退職って…ひょっとして定年退職ですか?」
と言葉をかけてきた。

振り向いた僕は、「そうですよ。3月に定年退職しました」
医師は手元の僕のカルテを見て、
「あ、ほんまや、ここに60歳て書いてあるわ。どうも、失礼しました」

何が失礼だったのか知らないけれど、ヒゲの医師はそう言って、「お大事に~」と急にやさしい態度に変わり、Tシャツとジーンズ姿の僕に、愛想笑いを投げかけて見送ってくれたのである。…なんのこっちゃ。

あれから3週間が経った。

2週間ほど、せっせと左手に湿布を張って過ごした。
人と会うときは、「どないしはったんですか?」と訊かれるので貼らないけれど、それ以外は、マメに貼り替えたりしながら回復を待った。

しかし、ちっともよくならない。
左手の人差し指の付け根と小指は、相変わらず痛む。
しかも、湿布をしていると、ますます生活が不便である。

パソコンが、スムースに打てない。

そして、僕の「得意」のクッキングもままならない。

左手指に湿布を貼り付けたまま玉ねぎをみじん切りにしたり、キャベツを千切りにしたり、エビの皮を剥いたりするのは、至難のワザである。

ここで、ふと気がついたのだが、医師が言った「左手指の使い過ぎ」というのは、退職してから、我が家のクッキングの大半を僕がするようになったことと関係しているのではないか…。

なるほど~。そ~か。これで、なんとなく謎が解けた。
台所仕事というのは、実に両手を頻繁に使うものだし、力もいる。

妻は「手が痛い間は何もしないほうがいいのでは…」と言うのだが、料理をするのは僕の大きな楽しみの一つでもあるのだから、ついつい、手が痛くてもしてしまう。

先日、このことをある人に伝えたら、
「今までやらなかったことを、急にするからやん」と言われた。
当たっているなぁ…。そのとおりでしょうね~。

湿布は、2週間貼り続けても効果がない。

あほらし。

ここ数日、湿布を貼るのを止め、「素手」の生活に戻した。

料理もしているし、こうしてパソコンで長い文章も打っている。
何をしても痛みが取れないんだったら、少々痛いのをがまんしてでも、
普通の生活をしたほうがいい…。そう考えた。

不思議なことに、湿布を取ってから、徐々に痛みが薄れてきた。
痛むことは痛む。しかし、痛み方が緩和されてきたみたいなのだ。

医者に行っても治らないしつこい疾患も、時には開き直りやヤケクソで治ってしまうことがある。

「気にしてもしゃーない」「勝手にせい!」みたいなヤケクソの境地になったとき、なぜか症状が改善される病気がかなりある、ということなのでしょうね。僕の場合は、腰痛も、あんまりしつこいので最近ずっと「無視」していたら、いつのまにか、良くなってきている状態です。
人のカラダとココロの不思議さ、とでも言いましょうか…。

まあしかし、「気にしない」という方向へ気持ちを動かしていく…ということも、なかなか難しいですけどね~。

現に耳鳴りに関しては、開き直ろう、ヤケクソになろう、気にしないで無視しよう…と努力するのですが、まったく通じず、耳の彼方の奥深く…で、今もジーンジーンと絶え間なく鳴り続けています  

 

 

 

 

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あぁ…のりピー

2009年08月13日 | ニュース・時事

少し体調を崩し、10日間ほど、ブログを休んでしまいました。

ちょうどブログもお盆休みということで、まあええがな…
と自分に言い聞かせ、お盆休みを終えて今日から再開します。

でも「お盆休みを終えて」は、おかしいなぁ。

本格的なお盆休みというのは…今日からである。
「帰省ラッシュも今日がピークです」とテレビのニュースが告げる。

どうも、仕事を辞めるとそういう感覚が鈍くなる。

この4月から毎日が「お休み」の状態なので、テレビで「今日からゴールデンウィークですね~」と言ってるのを聞いてもピンと来ないのと同じで、世間はいつ頃からお盆休みに入っていつ頃仕事に戻るのか、今の僕にはよくわからない。

もっとも現役当時、僕は市役所に勤めていたので、お盆休みというのは経験がない(当然ですが、お役所にお盆休みはありませんのでね~)。朝の通勤の時、なんだ、なんで今日はこんなに人影や車が少ないのだ…と不思議に思って、よ~く考えると、世の中はお盆休みに入っていた、というような調子だ。(われながら気楽な人生である)。


それにしても、ブログを休んでいる間、いろんなニュースがあった。

今頃こんな話を書くのも遅すぎる話だけれど、押尾学の薬物事件が起こったとたんに、酒井法子の夫が覚せい剤容疑で逮捕され、同時に、のりピーが失踪し、やがて本人にも逮捕状が出て出頭するという、日本国中大騒動の合間に、大原麗子が亡くなったり、豪雨で大勢の人々が被害を受けたり、地震が起きて東名高速が通行止めになったりと…衆院総選挙を控えて日本国の行方はどうなるか…なんてことはすっかり忘れてしまうほど、衝撃的なニュースが次々と伝えられた。

そんな中でも、ダントツに報道が集中した事件は、言うまでもない。

連日、朝から晩まで、テレビはどのチャンネルをつけても酒井法子の話である。「また、これか」と思っても、やっぱり見てしまうのは、この事件があまりに多くの「気になる要素」をはらんでいるからであろう。

酒井法子のアイドル時代の映像が、繰り返し放映されるのを見て、過去のことはもういいから、今、どんな進展があるのか…ということを、知らせてくれ~と、思ったりして、この事件のテレビ報道にはかなりイライラさせられた。余計な報道が多すぎるのである。それでも、つい身を乗り出してテレビを見てしまう僕なのであった。

押尾学の事件は、彼といっしょにいた女性が死亡するという、もしかしたら殺人事件に発展するかも知れないほどの重大事件のはずだけど、酒井法子の騒動にまぎれ、かすんでしまった感がある。押尾とその関係者は「ええぞ、ええぞ~。もっと、もっと、のりピーで騒いでくれぇ」と思っていることだろう。(といっても、警察の捜査はむろんそんなことで左右されないよね。しかしこの押尾事件については不思議なことだらけで、警察の発表も、あいまいで煮え切らない。捜査上の理由から、何か重要な部分をマスコミに隠しているのではないか)。

でも、まあ、いろいろな意見はあると思うけれど、こういう事案については厳しく罰せなければならないと思う。

報道を見ていると、押尾が使った錠剤も、酒井法子が夫と使った覚せい剤も、比較的簡単に入手でき、しかも錠剤を服用したりストローで吸引するだけだったりするので、誰にでも出来そうである。それで、ものすごくいい気分になれるのなら、一度経験してみたいものだ…と、思う人も出てきても不思議ではない。

これまでそういう存在に何の関心もなかった若者が、この一連の報道を見て、逆に関心を持ち、「やってみようか…?」と思うかも知れない。

薬物の撲滅どころか、それを宣伝しているみたいな印象を受ける。

そのうえ、酒井法子の場合は、不起訴か、あるいは裁判になっても執行猶予が付く可能性が大きいというのだから、な~んだ、その程度の罰則かということになれば、ますますその傾向が強まっていくのでは…。

その意味でも、厳しく罰せられなければならないと思うのだ。

世の中には、恵まれない人々がゴマンといる。

今回の2人は、そういう人たちとは比較にならないほど富も名声も得ていたはずなのに、それでも、薬物に走ってさらに大きな快楽を求めていく…というのは、人間の欲望には限りがない…ということを、改めて示したものなのであろうか。

でもね~。
こんな偉そうなこと書いてますけど、僕は、のりピーのファンでした。

がっかり。

 

 

 

 

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花火と雷と耳鳴りと

2009年08月02日 | 日常のいろいろなこと

…なんだか、不思議な気がした。

昨日8月1日(土)の午後3時前後。

僕が住んでいる藤井寺のあたりはバケツをひっくり返したような豪雨が襲来し、雷はゴロゴロ鳴るわ、雨は窓を叩きつけるように降るわの大荒れの天気だった。窓の外は、雨で景色もはっきり見えないほど。

しかし、テレビで見ていた全国高校野球選手権大阪大会の決勝戦は、雨が降っているどころか、青空である。

自分の周囲は土砂降りの雨なのに、同じ大阪での野球の試合が晴れた空の下で行われている…というのが、なんだか不思議な気がしたのである。

試合は応援していたPL学園が初回から一方的に関大北陽をリードし、8回裏を終えて10対0となり、間もなく終わろうとしていた。

ふ~む。なんでや…?

面積の小さな大阪なのに…
南大阪は豪雨で、大阪市内は晴れ。
なんでこれだけ空模様が違うのか…?

夜に行われる南大阪の富田林のPL花火大会は、雨天なら決行だけど、「荒天」の場合は中止である。今の状態は、明らかに「荒天」である。この調子だと、花火大会の開催も、かなり危ういのではないか。

富田林の産婦人科病院に入院中の次男のお嫁さんにメールを打つと、やはり「こちらも雷と雨です」…と返事があった。

しかし、大阪市内に住んでおられるyukari さんにメールをすると、雨どころか「暑い日差しが照りつけています」とのことであった(yukariさん、お忙しいときに失礼しました~)。

ふ~ん? やっぱり、それだけ違うのだ。

この日は、午前中にもいきなり大雨が降り、1時から始まる高校野球も「この雨の中で大丈夫かな~?」と心配していたが、試合は晴天の下で開催され、PL学園が待望の5年ぶり17回目の夏の甲子園出場を決めるといういい結果に終わって、これはまあ、願ったとおりだった。

    

 

 

でも「祝砲」になるはずの夜の花火大会の開催が心配だった。

…だが、さすが~。さすがにPL教団である。

祈りが天に通じたのか…
あれほど荒れていた南大阪地域も、夕方には一転して穏やかになり、花火大会が始まる頃は、ごく普通の空に戻っていたのだから、すご~い。

「どどどど~ん」

夜。花火の打ち上げられる音が、家の中まで聞こえてきた。
だけど、その音といい響きといい、日中の雷とそっくりである。
地鳴りのような轟音。

「あれ…、カミナリと違うん…?」

そう思うほど、見分け(聞き分け?)がつかない。でも、窓の外を見ると、雨は降っていない。その音は正真正銘、花火の音だった。

でも結局、僕はPLの花火を見ることが出来なかった。

昨夜はモミィの「お泊り」の日で、妻がモミィをお風呂に入れ、僕が身体を拭いてやったり寝る前の絵本を読んでやったりしなければならないので、せめて外に出て、建物の「すきま」からでも花火をひと目見よう…と思っていたことも実現できず、ずっと家の中にいたまま。
とうとう最後まで、花火を見に行く機会はなかった。

そして…

花火は完全に終わったはずの時間になっても、まだ…
「どどどど~ん」という轟音が、家の中に響いていた。

寝る頃にも、どどどど~ん、ゴロゴロゴロ~、とけたたましい。

…本物の雷である。

花火の間はカミナリ様も遠慮していたようだ。
終わるとまた暴れ出したのである。
バチバチバチ~っと、強い雨の音が、窓を打つ。

ゴロゴロゴロ~

一晩中、鳴っていたような…
うつらうつらしながら、夜中に何度も目を覚ました。

まあ、眠れないのは雷のせいではありませんけどね。

雷よりも、耳鳴りの方が、やっぱりうるさいのです。

睡眠導入剤を半量飲んで寝ているのですが…
やはり、すぐに目が覚めてしまう。
相変わらずのことだけど。


あれだけの雷雨も、開始時間前にはピタリと収まった花火大会。

野球でPL学園が甲子園出場を決めた日に、中止してたまるか!
…というPL教団の強い信仰力の前に、自然の力すら屈したのか…?

この、花火より雷よりうるさい耳鳴りを、カミナリ様をものけぞらせたその偉大な力で、なんとか治してもらえないものだろうか…?

こうなると耳鳴りも「神頼み」である  。

 

 



 

     

 

 

 

 

 

 

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花火大会と P L学園

2009年08月01日 | 日常のいろいろなこと

昨日も妻とモミィといっしょに病院へ行った。
近鉄南大阪線で、藤井寺駅から富田林駅までは10数分である。
富田林駅から路線バスに乗った。

初めて乗る路線バスである。

これまでは、息子たちの車に乗せてもらったり、タクシーに乗ったりして病院へ行ったので、バスだと、病院のある停留所までどのくらい時間がかかるのかもわからない。降りる停留所名だけしかわからない。車を運転しない僕は、道路や方角には、まるで弱い。

ただ、バスはPL教団の本部前を通り、PL病院のそばを走って行った。それでだいたい、バスが走っているコースの見当はついた。

このあたりは、昔はPLランドという遊園地や大きなプールがあり、よく子どもたちを連れてきた(今はなくなっているが)。

またPLと言えば、高校野球の桑田、清原の母校でもあるPL学園が有名である。…と、そんなことを思いながらバスに揺られ、10分余りで病院の最寄の停留所に着いた。


病院では、うちの赤ちゃんはガラスの向こうで、他の6、7人の新生児たちと並んでベッドに寝転んでいた。ちょうど、袖で顔を隠すようにして眠っていたので、こちらからは頭と眉毛しか見えなかった。他の赤ちゃんたちははっきり顔が見えるのに、うちの赤ちゃんだけは、顔が見えない。カメラを持って行ったのに、ざんね~ん。

次男のお嫁さんは病室でまだ点滴をしていたが、いい顔色だった。

ただ、笑うと手術跡の傷口が傷むので、僕が何か言うと、
「あいたたたたた…。お父さん、笑わさんといてくださいよ」
と、お腹を押さえていた。

あ、ごめんごめん。でも…
別に笑わすような話はしていないと思うんだけどね。

次男のお嫁さんは、ひとしきり笑った後、
「お父さんは、テレビに出てくる小日向さんに似ていますね~」
と言った。

コヒナタさん…?
あ~。よく、テレビドラマに出てくるあの俳優さん。
キムタクの「ヒーロー」に出ていたなぁ。
それでもボクはやってない」という映画では裁判官役をしていた。

似ているかなぁ…? ↓ 

  http://www.fathers.jp/profile/kohinata.html


「感じですよ。あのやさしそうな感じがねぇ、とてもよく似ています」

「やさしそうな感じ」ですか…?
ということは、ほめてもらっているわけですね。ありがとう。

先日は、高知から出てこられた彼女のお母さんから、
「お父さん(僕のこと)は、仕草が水谷豊とよく似ちょるね」
…と言われた。いろんな人が登場してきますけど…。


 ……………………………………………………………………


さて、今日8月1日は、PLの花火大会の日である。

正式には、PL教団が世界平和を祈念して打ち上げる宗教行事ということだが、一般の僕らには、ワクワクする超娯楽的花火大会である。これは、日本全国の花火大会の中でも、最大規模と言われている。

打ち上げ数は2万発。
昨年の人出は25万人だったという。

僕たち南大阪地域の住人は、8月1日と言えば、
「きょうはPLの花火やねぇ」
というのが挨拶代わりになっているほどだ。

近辺を車で通勤している人は、この日は昼から早退したりする。
南大阪全体に、車が大渋滞するので、夕方には帰れないのだ。

日本全国から、PL教団の関係の人たちが何百台(?)のバスを連ねてやって来る。もちろん一般観衆も大挙して富田林方面に殺到する。近鉄南大阪線も、始発の阿部野橋駅には切符を購入する人で長蛇の列ができ、電車内はあふれんばかりの人である。とにかく、8月1日といえば、このあたりは大変な人出なのである。

この花火、数年前までは、わが家のベランダからよく見えた。
しかし近くに高層の府営住宅が建ってから見えなくなった  。

それでも、僕のジョギングコースである大和川堤防に上がると、10キロ以上先のPLの花火が、鮮明に見える。ドドドドーっという地響きもする。ものすごい迫力である。今日も、見に行かなければならない。

http://www.citydo.com/hanabi/kinki/15013.html


その花火が打ち上げられるPL教団本部のすぐ近くに、赤ちゃんが生まれた病院がある。今日は病院の周辺の道路は通行止めだ。だから今日は僕たちも病院には行けない。

昨日は、次男のお嫁さんに、

「明日はPLの花火やから、このベッドも地響きで揺れるかも…。
 お腹が痛くならんように、気ぃつけてね。明日は来られへんからね」

そう言って別れた。

 ……………………………………………………………………

昨日、全国高校野球選手権大阪大会の準決勝が行われた。
1試合目に、PL学園が登場した。
PLは、延長12回の激闘を制し、決勝進出を決めた。

今日、午後1時からPL学園と関大北陽で決勝戦が行われる。

PL学園が、5年ぶり17回目の夏の甲子園出場を果たせるか?

地元・南大阪のPL学園に、ぜひ勝ってもらいたい。
勝てば今夜の2万発のPL花火大会もいっそう威勢がよくなるだろう。
そして、このPLのすぐそばで生まれた赤ちゃんが大きくなったら…

「お前が生まれた夏は、病院の近くのPL学園が、PLの花火大会のその日に甲子園出場を決めたんだよ」

と、教えてやることができたら、いいだろうなぁ。さらに…
もし甲子園で優勝でもしたら、どれだけいい思い出になるだろうか。

がんばれ、PL学園。

 


* 追伸

PL学園のことについてブログを書いたことを思い出しました。
よかったらご覧ください。

  http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20080406 

PL学園が夏の甲子園大会で「奇跡の逆転優勝」を遂げた話です。

そのときの、決勝戦の対戦相手が高知商業。

高知商業は、なんと、次男のお嫁さんが卒業した学校でした。

 

 

 

 

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