僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

義姉のこと

2013年01月29日 | 日常のいろいろなこと

25日の夜、妻の姉が亡くなった。長年お世話になってきた人だ。

7年前の2月、心臓に近い部分の血管が破裂し、生死の境をさまよう危機に見舞われたけれど、十数時間に及ぶ手術が功を奏して奇跡的に助かり、ほぼ元通りに近い生活が送れるようになった。これまでのように、わが家にも旦那さんと遊びに来てくれたし、僕も大阪市内の義姉宅へ妻とモミィと3人でよく食事を呼ばれに行った。

ところが1年か…もう少し前ぐらいからか、複数の臓器に異常がみられ、入退院を繰り返し始めた。そして去年の秋頃から症状が深刻になり、「今度の入院は少し日にちがかかりそうだ」と旦那さんから報告を受けていた。

入院先は、奇しくも僕が耳鳴りで治療を受けてきた大〇前病院である。7年前の大手術も、そこで行われた。

以前は僕がギャグなどを飛ばすとお腹を抱えて笑い転げていた義姉だったが、12月下旬に見舞いに行った時は、目の焦点が定まっておらず、会話の反応も鈍かった。でも、今月の15日に行った時は、顔色も少しよくなったように見えた。僕が冗談を言うと天井を向いたまま、ケラケラっと笑った。「とりあえず、よかったね」と、病院からの帰り道、妻とそう言い合った。

それなのに…

   …………………………………………………………

25日の午後8時半ごろ、モミィにエレクトーンの練習をさせていた僕が、それを終えて部屋を出たとき、廊下で妻が「今、姉が亡くなったと電話があったわ」と、ポツリと言ったのである。

もちろん、驚いた。「状態が悪くなった」という報ならまだわかるが、いきなり亡くなった…とは。あまりにも急なことである。

それも、旦那さんがついて病床で食事をしている時、義姉は突然物を言わなくなり、すうーっと息を引き取ったのだそうだ。旦那さんはあわてて看護師さんを呼び、看護師さんは急いで医師を呼び、何人もの医師が交代で心臓マッサージを施したが、義姉は息を吹き返すことなく、そのまま旅立った…

訃報を受け、これからモミィを風呂に入れて寝かさなければならない妻は明日行くことにし、とりあえず僕だけ身支度を整えて大阪市城東区にある葬儀会館へ急行した。遺体は、誰もいない自宅ではなく、病院からその会館へ直接搬送されたのである。

会館に着くと、霊安室で旦那さん一人、義姉の遺体の横に座っていた。

ひととおり話を聞いた後、旦那さんは病院からここへ直接来たので、家に帰って、やらなければならないことが沢山がある…というので、「どうぞ帰ってください。僕はここにずっといますから」と言った。

義姉は夫婦2人暮らしであったが、別居している一人息子がいる。しかし息子はその時、仕事で海外出張中であった。急きょ帰国の途につくそうだが、到着は明日の午後になるという。

旦那さんが霊安室を出て行ったあと、深夜近い時刻に、妻のもう一人の姉が旦那さんと共にやって来て僕に食べ物などを差し入れてくれた。「じゃ、また明日来ますから。よろしく頼みます」と言って帰って行った。

霊安室で義姉の遺体の隣に一人座って、僕は線香とロウソクの火が絶えないよう気を配りながら、座ったまま、時々ウトウトして、一夜を過ごした。

義姉に関するいろいろな思い出が、頭の中をよぎった。

  …………………………………………………………

僕が義姉と初めて会ったのは21歳の大学3年生の時だった。40年以上前のことである。

 付き合っていた女性(今の妻です。むろん)のご両親に会って正式に結婚を申し込むため、行ったことのないその家を訪ねようとした。その時、妻から「近所に姉夫婦の家があるから、先にそこへ行って、姉に取りついでもらえばいい」と言われ、僕はまずその姉さんのお宅を訪ねた。

 姉さんは無言で玄関から出てきて、数十メートル先のご両親の家に向かって歩いた。僕も黙って後ろをついて歩いた。

 その間、姉さんはほとんど物を言わなかった。あとから聞くと、その時僕がまだ学生だったことで、妻の親やきょうだいは僕らの結婚には賛成しかねていた、とのことである。姉さんも、その時は僕に気軽に話しかけることをためらった…と、結婚後に笑いながら語っていた。

しかし結婚してからは、義姉は僕たちをしょっちゅう家に呼んでくれ、ご馳走を用意してビールを飲ませてくれ、僕の話にケタケタと笑い転げた。よく笑う人で、笑い始めると止まらなかったり、突如思い出し笑いをして、周りがきょとんとしている中で一人ヒイヒイと涙を流して笑う人でもあった

     ………………………………………………

 亡くなった義姉の顔は、むくれ気味だった入院中の顔とは全然違っていて、とても奇麗だった。亡くなったというより、何十歳も若返った…という感じだった。「あ、来てくれたん?」と、その端正な顔が今にもしゃべり出しそうだった。よく「実感が湧かない」と言うが、まさにそんな感じであった。でも、頬をさわると、氷のように冷たかった。

義姉の美しく、安らかな顔を見て、死ぬことって悲しいことじゃないかもしれない、と思ったりもした。…不思議な感覚だった。

一昨日にお通夜があり、昨日、告別式が執り行われた。

あははは~と、よく笑っていた義姉がこの世からいなくなり、やはり妻も僕も、これから少しずつ寂しさが増してくるのだろうと思う。 

 

 

 

 

 

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駆け込み退職

2013年01月25日 | 議会&役所

つい最近、スポーツクラブ・コスパのサウナで、ジョギング仲間だったI君と顔を合わせた。彼はこの街の市役所に勤めており、今は体育館に勤務。普段は夜にトレーニングに来ているが、午後から勤務がある日は午前中に来るので、時々こうしてバッタリ会うことがある。彼はジム、僕はプールが中心ということで、更衣室などで会っても挨拶を交わす程度ですれ違っていたが、この日はたまたまサウナで隣同士に座ったので、久しぶりに話す機会ができた。

I君は、「この3月で…僕も定年退職になります」と、全身からタラタラ汗を流しながら僕に告げた。「へぇ~。そうですか。それはそれは…お疲れさまでした」と僕が言うと、「しかし、市役所もどんどん厳しくなってきましたね」とI君は声を絞り出すようにして、退職金の話をしはじめた。

それによると、来年度に退職する職員は、退職金が今より150万円以上減額されるそうで、その次の年度の退職者はさらに150万円以上減額され、合計400万近く減らされる勘定になる…というのである。

「僕はこの3月に退職するので影響は受けませんけど、来年以降に退職する者はそんなふうになります。これからは職員もいよいよ大変ですわ」ということだった。そして汗びっしょになった体を起こし、「では、お先に…」と会釈してサウナから出て行った。

僕は市役所を退職してもう4年目だから、そういう話にはとんとウトくなっていて、来年度とその次の年度の退職者に、段階的に400万近い退職金の減額が行われるなんてことは、むろん知らなかった。そんなときに今回、「駆け込み退職」のことが、新聞、テレビ等で大きく報じられたのである。

これは、国のほうで国家公務員の退職金を今年1月から段階的に引き下げる法律が昨年11月に改正されたことに伴い、地方自治体も国からの要請を受けて、あちらこちらで減額の条例が施行されることになったのだが、その地方自治体で「駆け込み退職(早期退職)」が急増しているということであった。

つまり、この3月末で退職すると退職金が約150万円減額されるわけだから、その条例が施行される直前に退職をする…という現象が全国各地で起きているようなのである。とくに、早期退職する警察官や教員が、何となく非難されているかの印象を受けるような報道ぶりだった。

3月末に退職する職員は、退職金減額の条例が3月から施行される自治体では2月末に辞め、2月から施行される自治体では1月末に辞め…という具合である。退職までの残り1、2ヵ月を働くことによって、もらう給料の倍ほどの退職金が減る…というのは、いくら「公僕」の立場にあると言っても、現実問題としてはきつい話であることに違いない。

ある新聞には、「自分の懐より、公務員として公共に奉仕する精神を最後まで全うしてもらいたい」と某大学院教授のカッコイイ談話が載っていたが、むろんおっしゃることに間違いはないのだけれど、それでもねぇ、ちょっと理想論に走り過ぎているのではないか?…な~んてことも思う。

警察官や教員をはじめ公務員も人の子である。家族もあり、退職後の生活設計もあるだろう。「教育や治安に影響が出ないか」と文科省や警察庁がなどが調査を始めた言われているけれど、たとえ世間からとやかく責められたにしても、やはり自分と家族の生活が大切であることに変わりはない。

まあ、長年市役所に勤めていた僕の見たところ、公務員には資産家や地主というのがわりに多く、「こいつ、別に仕事せんかって食うていけるやないか」という人間が周囲にチラホラといた。そういう余裕のある人たちは早期退職をしないかも知れない。でも、ほとんどの職員はそんな楽な生活をしていない。僕には、早期退職する職員の気持ちが、よくわかる。

それより、なぜこれらの自治体が、こういう早期退職者が出るに決まっているような時期に、これを実施したのか。なぜ4月からにしなかったのか、と疑問に思うのだ。そうすれば、冒頭のI君の話ではないが、とりあえず今年3月に退職する職員には影響は出ない。次年度からの減額だと、それなりに職員も受け入れる覚悟ができるだろう。しかしこの3月とか2月あるいは1月に実施されると、退職を目前にした人たちは、いきなりそんなことを突きつけられたら、多額の退職金をみすみす削られる痛みに耐えられず、直前に早期退職に走ることになっても不思議ではないだろう。たしかに「駆け込み」は「駆け込み」だけれど、駆け込まざるを得ない理由というものがあるのだ。

全国知事会の会長でもある京都府知事は「4月実施にすれば1年遅れることになる。駆け込むために職務を途中で引き揚げていくのは残念としかいいようがない」と述べたそうだが、知事さんなんてびっくりするほど多額のお給料や退職金をもらっていますしね。下々のことなど、知る由もなし…ではないか。

ちなみに大阪府はかなり以前から退職手当を見直しているので、この減額条例は4月1日からの実施となっている。したがって来年3月末に退職する職員からそれが適用されるので、I君の場合と同様、この3月末に退職する職員は減額されない。だから早期退職者はいない。これが普通だと思うのだが…。

警察官も、教諭も、その他の公務員も、み~んな生活がかかっているのである。公共への奉仕精神はきわめて大事なことであるが、それとこれとはまた話が別じゃないの?…ということを言いたいのだけれど、「のんさん、あんたも公務員やったんで、身びいきしているのと違う?」な~んて言われそうな気もしながら、あえて今日はこの話題を取り上げてみました。

 

 

 

 

 

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涙なくしては語れない“禁酒”

2013年01月21日 | 日常のいろいろなこと

2ヵ月に一度、持病の心房細動(不整脈)その他の検査・診察のため、隣接市の徳〇会病院に通っている。通い始めて、もう6年近くになる。

その検査結果を見ると、モンダイの心房細動や服用する薬の血中濃度などは良好なんだけれど、肝臓の数値(ガンマGTP→アルコールによる肝臓のダメージ度)が、僕の場合、基準値よりかなり高いのだ。たとえば昨年9月までの検査結果の平均的な数値は130前後だった(正常範囲は「12~49」とある)。

肝硬変などの重篤な症状につながることもあり「なるべくお酒は控え目にされるのが良いかと…」と、毎回のように担当医師からチクリと刺されていた。

そこで前回(去年の11月)は、ちょっとセコいやり方だったけど、検査日までの1週間だけ禁酒をした。すると、130前後だった数値が88まで下がった。(単純な体ですわ)

「いいですね、その調子で節酒してください」と医師がほめてくれた。しかし恒常的な節酒がどうしてもできない。要するに意志が弱いのである。昔の歌の文句ではないが「♪わかっちゃいるけどやめられない~」のだ。

そこで…次の検査日は今月の28日(月)なので、今度は2週間の禁酒をすることにした。前回より1週間の延長だ。お酒にだらしない自分に、せめてこれくらいの「体罰」は課さなければね。

そんなことで検査日の2週間前である先週14日から禁酒を始めたのだ。現在、半分とちょっと過ぎたところである。(あぁ、早く28日が来てほしい~)

ところで、この禁酒中に、悲しい出来事があった。
涙なくしては語れない話なのである。グスン(もう泣いている!)

どんな話かというと…

数日前、かつての職場の後輩から僕の携帯に電話が入った。

かけてきたのはケンちゃんという僕よりひと回り年下の大男で、むろん今も現役バリバリで仕事をしている。もう何年も会っていないケンちゃんから、さて何の用件かと思えば、「××会のお誘いですねん」とはずんだ声で言う。

「××会」というのは、昔々に同じ課で仕事をしていた10人前後の仲間でつくった会である。共通しているのはみんな、飲んだくれ、ということだった。その中で一人飛びぬけて若かったのがケンちゃんだった。他のメンバーは、僕も含めて、もう全員が退職をしてしまっている。

以前は毎月のように飲み会をし、年に1度は1泊旅行へ行ってどんちゃん騒ぎをするという、メチャクチャ気の合った××会の仲間たちだったけれど、さすがに退職すると、少しずつ疎遠になり、年賀状で「またみんなで飲みたいですね」と他人行儀な言葉を交し合う程度のつき合いに成り下がってしまった。

その中で、ただ一人現役で仕事をしているケンちゃんが、××会の連中に声をかけ、何年ぶりかで飲んで騒ごうという話をまとめた…とのことだった。

「のんさんも来てくれはりまっしゃろ?」
「へぇ。そらええなぁ。ほんで、日にちはいつやのん?」
「24日ですねん」

「げぇっ~~~!」
24日…と聞き、僕は座っていた椅子から転げ落ちそうになった。

「24日…かいな。う~ん、24日なぁ…」と唸る僕。
「その日、都合、悪いんでっか?」とケンちゃん。
「あぁ、うぅ~」
「どないしはったんですか?」

「実はいま、禁酒中で…」と僕は説明を始めた。
「28日に検査があるねん。肝臓の数値が高いんで、2週間禁酒して検査に臨むことに決めたんで。その日まで、お酒は飲まんことにしてるんや。それ以後やったら、いつでもOKやけど

「へ? のんさん、肝臓の数値が高いんですか? 身長、低いのに」
「ほっといてんか!」

「お酒、飲まんかてよろしぃやん。水の飲み放題サービス、用意しときまっせ。げははは~」
「いらんわ。みんな酒飲んでる横で、水みたいなもん、飲めるかいな」

「そやけど、今回いちおう、のんさんは目玉ですよってにな」
「目玉? なんや、それは?」
「みなさん、会うのを楽しみにしてはります~ということですがな」
「それで僕が目玉…? そんなわけ、ないやろ」
「目玉ですやん。ちっこい目玉やけど」
「やかましぃわ!」

…そんな会話が交わされたのである。

××会の連中と会って酒を飲まない…というのは僕には100パーセント無理なことである。行けば絶対にみんなが酒を勧めるし僕も「ほな、ちょっとだけ」…と、いとも簡単に応じてしまうに違いない。なにせ意志薄弱ですから。

一口飲めば、えぇい、あとは野となれ山となれぇ…で、この連中と交わす酒だ、どうせ“わやくちゃ”になるまで飲むだろう。だからここは我慢しなければならない。妻にも「次の検査まで禁酒する」と約束したことだし…

禁酒をすると、このように、人から飲み会のお誘いを受けたときに断らなければならないのが、いちばん辛いところだ。

僕はダンチョーの思いで「とにかく今回は欠席させてもらうわ」と、涙を流しつつ、ヨダレが垂れるのを我慢しつつ、ケンちゃんにそう伝えたのである。

まあ、そのへんは気心の知れたケンちゃんである。なんやかんや言うても、心情は酌んでくれたようで、最後にはマジメな口調で、

「そらそうですわな。のんさんのことでっさかい。酒飲まんと水だけ…て、無理ですわなぁ。ほな、この次は夏のビアガーデンを計画してますんで、またその時に来とくんなはれ。みなさんに、そう伝えときますよって」

「悪いなぁ。せっかく誘ってもろたのに」
「いえいえ、かましまへん。体、大事にしとくんなはれ。では…」

それで、電話の会話は終了した。

以上です。

…涙なくして語れない話でした。(どこがやねん!)

 

 

 

 

 


 

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大島渚監督「少年」の思い出 

2013年01月19日 | 映画の話やTVの話など

映画監督の大島渚さんの訃報に接して、真っ先に浮かんだ映画は「戦場のメリークリスマス」でも「愛のコリーダ」でもなく、「少年」という映画だった。

この映画は僕の人生に深く関わっている…といえば、何を大げさな、と笑われるかもしれないが、もう40年以上も昔に見た映画なのに、今も鮮明に思い出すのである。それほど強く心に刻み込まれた一作だった。

僕はこの映画を、20歳の時、大阪~北海道往復の自転車旅行をしている途中、東京の、たぶん新宿だったと思うけれど、「アート・シアタ・ーギルド」という小さなホールで見た。

自転車旅行をしたのは1969年(昭和44年)である。
6月中旬に大阪を出て、石川、富山、新潟、山形、秋田など日本海側の道路を北へ北へと走り、青森からフェリーで北海道に渡り、さらに北に向かってペダルを踏み続け、日本最北端の宗谷岬へ行き着いた。

そこからオホーツク海と太平洋側を走って本州に戻り、東北の東側を走った後、東京に入ったのが8月の中旬だった。大阪を出てから2ヵ月が経っていた。

その東京で何日か滞在していた折に、この映画とめぐり会った。

大島渚監督の作品は、少し前に「新宿泥棒日記」という映画を見ていた。前衛的というか、僕にはちょっと変わった映画だったので、この監督の作品は自分の感性には合わない…と思っていたけれど、「少年」はそれまでの大島作品とは異なる色合いを持った、日本列島縦断ロケを敢行したロードムービーである…ということで、僕もこの時、ロードライフ(←そんな言葉、あるんか?)を送っている身だったので、そこに惹かれるまま、映画館に入ったのだった。

映画のストーリーは、子供連れの中年夫婦が、子供にわざと車に当たらせて運転手から賠償金をむしり取るという、いわゆる「当たり屋」の話で、実話に基づいたものとされている。

最初の頃は、当然ながら車に当たることを拒否していた少年だが、事情を理解し始め、当たったらおこづかいをもらえることにも動かされ、やがて母(小山明子)に、自分から「やろうか? 仕事…」と言うようになる。

そして車に飛び込む少年。実にうまく、車に触れただけで大げさに転倒する。母が半狂乱になって駆けつけ、少年を抱き上げる。父は物陰に隠れている。運転手が出てきて「お金だったらいくらでも払います。どうか示談で!」と顔を真っ青にして懇願する。

一ヵ所で仕事を続けると足がつくという理由で、一家は住む家も持たず、当たり屋で生計を立てながら、転々と場所を変え、旅をする。

スクリーンから滲み出てくる少年の孤独感が、2ヵ月間一人で旅を続けてきた僕自身の寂しさと重なり合い、見ていて切ない気持になった。

さらに、何よりも驚き、息を呑んだのは、一家が転々とする場所というのが、富山、新潟、秋田など、僕が自転車でたどって来たのとそっくりそのままの行路だったことである。映画の中の各地のシーンには、この旅で僕が目にしたばかりの風景が、いくつもあった。

そして一家は北海道に渡り、当たり屋稼業を繰り返しながら、とうとう最北端の宗谷岬まで来てしまうのだ。親子3人が、宗谷岬の「日本最北端の碑」の前で茫然と立ち尽くすシーンでは、思わず身を乗り出し、胸が熱くなった。

つい1ヶ月前に、僕もこの最北端の碑の前に立っていた。自転車旅行のきっかけは、日本最北端まで行きたい、という衝動だった。そして北へ北へとペダルを踏んで、夢にまで見た最北端にたどり着き、北の大地も、そして日本の国も、ここで果てるのか…と感無量の思いで彼方の水平線を眺めたのだった。

映画では、少年が、最北端の碑の前で、これ以上遠くへ旅を続けられないことを悟り、ポツンとこんなことを言う。

「もっと、日本が広ければいいのにね」…と。

この言葉が、今でも僕の脳裏に焼きついている。

1969年の「少年」は、大島渚監督がまだ30代後半という若い頃に作られた映画だった。その後、さまざまな「問題作」を世に送り、何かと論議を引き起こすという、きわめて異彩を放ってきた人であるが、僕にとっては、「少年」という、哀切に満ちた、思い出深い一作を贈ってくれた監督として、これからも記憶の中に残り続けるだろうと思うのである。

 

  


    

 

 

  ↑ 1969年7月。日本最北端の碑。


  ↓ そこで他の観光客の人に撮ってもらった1枚。
    真夏だというのに、寒さが身に沁みました。

  

 

 

 

 

 

 

 

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見当たり捜査員!

2013年01月16日 | ニュース・時事

かつて有名人などが「座右の銘は何ですか…?」と新聞記者らに質問をされている光景をよく見かけた。しかし最近ではこの言葉はあまり使われなくなった。その分この言葉が持つ「常に身近に備えて戒めとする格言」という正確な意味を解さない人が増えてきたのかも知れない。

かなり以前のことだけれど、市役所の広報担当の仕事をしていた頃「座右の銘は何ですか…?」と取材相手に聞いたら…「玉ネギ作りですわ。ワシの作る玉ネギはええ玉ネギでっせ」と答えた人がいた。それ以後、僕はもう誰にもその質問はしないことにした(笑)。

元プロボクシング世界王者の具志堅用高さんは、「座右の銘は…?」と聞かれ「1.5です」と答えたという。それは「左右の目」でしょ。ま、この話はウソかマコトか知りませんけど…。

話はコロッと変わりますが…

以前勤めていた市役所の隣に警察署があった。ある時、僕は何かの用事でその警察署に出向き、カウンターの中へ入り、デスクの間をぬって奥の署長室へ行ったことがある。その途中で一人の男性職員(むろん警察官であろう)が、机に向かって鉛筆で、画用紙のようなものに絵を描いていたのが目に入った。通りすがりにチラッとその絵を見ると、髪の長い若い女性の顔が描かれていた。絵はほぼ出来上がっていたようだったが、僕は「なんだ?仕事中に若い女の絵を描いて遊んでいるのか?」と不審に思った。

後に警察の人にそれを話すと、「あ、それは、似顔絵の練習をしていたのでしょう」と言った。事件・事故などの際、目撃者の話を聴いて、特定の人物の似顔絵を描いたりすることもあるという。それを専門に日ごろから訓練をしている警察官もいるので、たぶんその男性もそうだったのでしょう、ということだった。

警察にはいろんなことをする人がいるんだなぁ、と感心したものだが、先週、新聞に小さく載っていた記事を見たとき、その話を思い出した。

その記事は…

まぶたのほくろ…容疑者だ!
通勤中の電車内 見当たり捜査員が逮捕

という見出しで始まっていた。

兵庫県警の巡査部長(30)が9日、通勤中の電車内で窃盗の常習犯の疑いで指名手配されていた男に気づき、逮捕したというのである。

巡査部長は容疑者150人の顔を覚え、街の中で捜す「見当たり捜査員」で、その時、電車の座席で居眠っていた男の右のまぶたのほくろに見覚えがあり、逮捕に至ったという。

僕は「見当たり捜査員」という言葉を、寡聞にして知らなかった。顔見知りの女性との雑談の中でその話をすると、「見当たり捜査ナントカというテレビドラマもあったようですよ」いうことだった。ふ~ん、そうか、ドラマにもなっていたのか…。なら、その存在を知っている人も多いのかもしれない。

それにしても、警察の人にもいろいろな仕事があるのですね~。

日ごろからせっせと似顔絵の練習をしている警察官もいれば、150人からの指名手配犯の顔をじ~っと眺めてその特徴を頭の中に叩き込み、繁華街などで見つけ出すという警察官もいる。な~るほど、そういう地道で執念深い(?)仕事が僕たちの知らないところで行われているのだなと思うと、警察の人たちに敬意を表したくなる。

仕事とはいえ、大勢の顔を覚えるというのは並大抵のことではないだろう。それも実際に会って覚えるのではなく、写真を見るだけである。新聞記事に出ていた捜査員も、電車で居眠っている男の顔をみただけで、よくわかったなぁ、と感心する。それだけでもすごい「特技」ではないか。

しかしまあ、街を歩きながら、道行く人々の顔を次々にジロ~ッと眺めながら、「うっ、似てるぞ、いや、違うか…?」なんてことを繰り返す毎日ってどんなんだろうな、とも想像してしまう。

…で、こういう「見当たり捜査員」の人に、「座右の銘は何ですか…?」と尋ねたとしたら、どんな答えが返ってくるだろうか…?

言うまでもなく…

「そりゃぁ、あなた、“人を見たら泥棒と思え”ですわ」

…という答えでしょうね。きっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

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風邪と共に…去らぬ耳鳴り

2013年01月14日 | 心と体と健康と

体調がおかしくなったのは1月8日の午後からだった。

前日の7日、年末年始の運動不足を解消をしようと朝のジョギングをしたあと、今年初めてスポーツクラブ・コスパへ行って、水泳と筋トレをかなり長い時間をかけてした。8日も朝ジョグとスポーツクラブで4~5時間体を動かした。

この急な「頑張りすぎ」が体調不良へのきっかけとなったのだろう。夕方、モミィを音楽教室に連れて行く直前からクシャミが出始め、ハナが詰まりだした。身体も何となく重いし熱っぽい。音楽教室内ではマスクをし、モミィたちのレッスンはそっちのけで息を凝らし、じっと耐えていた。

その夜、38度以上の熱が出た。僕の平熱は35度9分程度だから、これは、かなり体にこたえた。一晩中、熱にうなされた。

翌9日は僕の誕生日だった。モミィは「お誕生日おめでとう!」と言いながら踊り回ってはしゃいでいたが、僕自身は1日中ベッドで過ごす情けない日となってしまった。それ以後3日間ほどシャキッとしない日が続き、外出も控えた。

昨日の13日(日)には、音楽教室で、レッスンを受ける生徒たちの次年度のクラス分けのための昇級試験があり、モミィには僕が付き添わなければならなかったので、それまでには治ってほしかったのだが、なんとか間に合った。あぁ良かった~。ホッと一息つくことができた。

しかしまあ、1月というのはロクなことがない。

去年は首、肩に激痛が走り、診てもらった医師から「頚椎ヘルニア」だと診断された。一昨年こそ何もなかったけれど、その前の年の1月には、大根を切っていた時、左手親指の先を思い切り包丁で切ってしまって血が噴き出し、大騒ぎしたことがある。

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20120124

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20100123


ところで、今回の風邪でダウンしたとき、それでなくても最近大きく感じ始めた耳鳴りが、さらに大きくなった。じっとしていると、耳鳴りが頭中で鳴り響くのである。耳鳴りというのは、体調不良の時に大きくなる。つまり弱みに付け込んでくるヤツなのだ。テレビを見ていても本を読んでいても、耳鳴りばかりが響いてくるので、テレビも本もちっとも楽しめない。ぐすん。

風邪は去った今も、大きくなった耳鳴りはそのままである。ほとんど耐え難い状況…と言ってもいいほどだ。TRT療法での耳にはめる器具(TCI)は、電池を入れ替えてもすぐ音が消える状態で機能しないので使えない。が、幸い、以前yukariさんにいただいた「耳サプリメント」(モーツァルトの音楽や波の音などいろいろ入っている)というCDをウォークマンに入れていたので、それを聴いて耳鳴りをはぐらかせている。今もこのブログを打ちながら、耳にはイヤホーンをつけたままだ。

こういう耳鳴りを増幅させないためにも、日ごろの健康管理は大事だと、改めて思うのである。今回は正月が明けてすぐ5日、6日とユニバーサル・スタジオ・ジャパンなどへの1泊小旅行をし、その翌日からいきなりきついトレーニングを始めたことが原因になったことは、ほぼ間違いないと思う。

たぶん僕は、ある意味では自分の体力に自信を持ちすぎているのだ。

お正月を迎え、誕生日が過ぎ、またひとつ年を重ねた。

もう少し「程度」というものをわきまえて、無理のない生活をしなければ…とマジメに反省するこのごろである。

 

 

 

 

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ユニバーサル・スタジオ・ジャパンへ

2013年01月08日 | 日常のいろいろなこと

5日と6日、1泊でユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)へ行った。わが家から電車を乗り継いで1時間程度のところにあるので、宿泊をするほどのこともなかったのだが、USJの入り口にある高層ホテルに泊まりたいという妻とモミィの希望もあって1泊することにしたのである。もっとも、USJで遊んだのは最初の日だけで、翌日は大阪市内のあちらこちらをウロウロした。穏やかな晴天が続いたので、快適に過ごせた2日間であった。

しかしこのUSJという名称がなかなかややこしい。パソコンに差し込むのはUSBだし三菱東京銀行と合併した銀行はUFJだ。USJ、USB、UFJ…とまぎらわしい。この3つがごちゃごちゃになって、USJ…という名称がスンナリと口から出てこない。

で、今日はそのUFJ…じゃなかった、USJでの一日の様子を、写真を中心にしてお届けしたいと思います。

 

  
  USJに到着。この向こう側に入り口があります。


USJでは7日まで「ユニバーサル・ワンダー・クリスマス期間」として、パーク内はクリスマスムードで満ち溢れていた。この巨大ツリーはそのシンボルで、入り口に立つと、真正面の遠くの方にそそり立つ姿がいきなり目に飛び込んでくる。そばへ行けば、多くの人々がツリーを見上げ、感嘆の声をあげていた。
 

  

 

このUSJは2001年にオープンしたが、その当時、妻と2人で来たことがある。「バックドラフト」や「ジョーズ」、「ウオーターワールド」「ターミネーター」などをはじめとする様々な映画のシーンの再現などを楽しんだものだけれど、今は当時と比べてずいぶんお子様用の遊園地ふうになった。

  

  園内には、スヌーピーや…

 


 スノーマンらのキャラクターが子どもたちを楽しませていた。
 

  

 


ここへ来る何日も前から、妻がモミィと相談しながら本やネットで見たいもの、行きたい場所などをピックアップして、大方の予定は立てられていたので、僕は順次その場所を地図で探しながら歩いて行くだけだった。

 

モミィは怖がりなので人食い鮫や火事のシーンなどは見たくないようで、まずはメリーゴーランドやカップの乗り物に乗って楽しんだ。

  

 

 



午前中でモミィが一番見たいと言っていたのが「ハローキティのラン・アフター・ドリーム」というものだった。これだけだと何のことやらわからなかったが、地図に示された場所で待機していると、やがてキティちゃんたちが乗ったピンクのバスがやって来た。キティちゃんや、可愛い日本人の女の子たち、ちょっとお年を召された外国人女性たちがバスの上から、あるいはバスから降りて賑やかに演奏を始めた。

 
 
 

 

 子どもだけでなく、大人も十分楽しめましたなぁ。


 

  

 
次に行ったのが、イマジネーション・プレイランドというところ。

これはいわば屋内遊技場で、どちらかと言えば小学生未満の幼児が多く、いろいろな遊び道具が揃っている。雨の日などは超満員になりそうである。

その中で、奥のほうにあるステージが始まったのでモミィが覗くと、お姉さんが「いらっしゃい」と手招きする。モミィは他の子どもたちと舞台に上がって、お姉さんの踊りを真似て踊る。日常でダンス教室に通うモミィなので踊るのは大好きだ。喜んでお姉さんの振り付けを真似て踊っていた。

 


 

 この場所で、サンドイッチなどの昼食をとった。

 

 

怖がりなモミィが「行きたい」と言ったひとつが、意外にも「ジュラシック・パーク」の中にある「アメージング・ダイナソー」というものだった。ダイナソーと言えば恐竜のことであるが、モミィはそれを知ってか知らずか、とにかく行きたいと言うのでそちらへ連れて行った。

 

    

ジュラシック・パークの入り口ではご機嫌だったけれど…

そこへ出てきたのが、この恐竜だった。「こわ~い!」と、モミィはあわてて妻にしがみつき、どんどん離れて行った。喜んでいたのは僕だけでした。
 

 


そしてパレードが始まった。東京ディズニーランドのパレードのような大規模のものではないが、やはり華やかである。

  

   

 パレードが終わった時「写真撮影をどうぞ」と言われたので、モミィを行かせて撮ったのがこの1枚。いかにも「ワンダークリスマス期間」という雰囲気。

  

 

一応、予定していたものは回ったので、あとはブラブラ歩いた。

「スパイダーマン」の中に入ろうとすると、モミィがまた「こわ~い」と言うので、「売店に入るだけやから…」と手を引いて連れて入った。
 

 

そこで、こんな商品を見つけた。カップ麺だけど、その名も…

「すぱいだぁ麺」。あはは~ 

 

ハリウッドスターたちの手形も展示されていた。モミィが手のひらを合わせているのは、キャメロン・ディアスの手形だ。 

 


歩いているうちに「サンフランシスコ・エリア」にやって来た。ふと見上げると、丸の中にカニの絵が描かれたポールがあった。忘れられない光景だ。僕は妻にそれを指差しながら「あれ覚えている?」と聞いた。妻は「あら~。覚えてるわ!」と目を輝かせた。
 

  

9年前、妻とサンフランシスコへ旅行した時、海辺のフィッシャーマンズというところで昼食にカニを食べたことがあった。そのとき、このポールが立っていたのだ。妻も旅行を思い出して、嬉しそうに眺めていた。


ところで余分ですが、その時の「現地」での写真です ↓

  

 


…ということで、夕方になったのでUSJを出ることにした。

東京ディズニーランドは一度出てもまた入れるけれど、USJは一度外に出ると戻れないシステムになっている。夜にもイルミネーション華やかな催しがあるのだけれど、日暮れが近づくと寒さが増してきたので出ることにした。

モミィも堪能したようだった。

僕もいい気分転換だった…と満足してUSJを後にした。

  

  

写真右側の建物が僕たちが泊まった京阪ホテル。部屋からの眺めもよかったし、大阪の街もなかなかのもんだ、と改めて思った次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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悶え苦しむ「いろはカルタ」

2013年01月04日 | 日常のいろいろなこと

お正月のある日、モミィが妻に買ってもらったいろはカルタを出してきて「ねぇ、カルタ取りしようよ」と妻の前にパラパラとカルタを広げて座り込んだ。妻も特に用がなければモミィの相手をする。僕はそばで眺めている。
…とまあ、そういう場面でのお話である。

カルタを読み上げるのは妻の役だ。しかし、小学1年生には平仮名は読めても、ことわざの意味を理解するのはむずかしい。

たとえば、妻が「割れ鍋にとじ蓋」と読み上げると、モミィは「え~っと、え~っと」と「わ」を探す。妻かモミィか、どちらがその札を取っても、モミィはことわざの意味も気になるわけで、そこで、「われなべにとじぶた…ってどういう意味?」と質問をする。すると妻は必ず「のんちゃんに聞けば…?」と僕に振るのだ。

「それはね…うぅっ」と僕は言葉に詰まる。本来の意味は、ひび割れた鍋にもそれ相当の蓋があるように、どんな人にもそれ相当の妻(あるいは夫)があるもんだ…という「それなり夫婦」のことを言うものだけれど、まさかそんなことをモミィに説明するわけにはいかない。「そうしたら、のんちゃんは割れた鍋か?」なんて言われかねない。仕方なく、「まあ、また大きくなったらわかるわ」と、ゴマかして次に進むのである。

「犬も歩けば棒に当たる」と聞けば、「なんで犬が歩いたら棒に当たるのん?…猫が歩いても棒に当たらんの?」と言うので、僕はあはは~と思わず笑ってしまったが、そのあと少し考えて「何かをしたら、こわいこともあるけど、やってみたら良いこともある、という意味や」と説明したけれど、モミィはわかったようなわからないような…。ま、僕自身も、わかったようなわからないような…

「目の上のたんこぶ」と聞けば「なんで目の上にたんこぶができるん?」と首をかしげるので、「自分が何かをするのに、邪魔になる人がおったら、その人のことを『目の上のたんこぶ』言うねん」と説明するのだが、まだそういう知識を植え付けるのは早いのかなぁ…と少し反省した。

「総領の甚六」と聞けば、「なんのジンロクやて…?」と聞き直す。「そうりょうのじんろくや」と言うと「どんな意味?」とまた聞く。総領とは長男・長女のことで、この人たちは大事に育てられたので弟や妹よりお人好しで愚かだ、というような意味であるが、まさかそんなことを7歳児に言うわけには行かない。そんなことを言うと「じゃぁ(兄である)パパはダメな子で、(弟である)〇〇叔父さんはかしこい子ということ…?」と言うに決まっている。

「憎まれっ子世にはばかる」では「はばかるって何…?」との質問。
「えぇっと、憎まれたり嫌われたりする人が、まあ、世の中で、のさばるって言うか幅をきかすって言うか…」と言うと、「はばをきかすって…?」との再質問。これもなぁ…。ぱみゅぱみゅ~っとはぐらかして、ゴマかす。

「芋の煮えたもご存じない」では「なんでご存知ないのん…?」との質問。
「まぁ、その、芋だけと違って、何も知らん…みたいな意味や」

「知らぬが仏」では「仏さんは何も知らんの…?」との質問。
「違うねん。知らんかったほうが気持ちが楽…ということや」

そして「背に腹はかえられぬ」では「意味、ゼンゼンわからん~」と言われ…

ふ~む、なんとかモミィのわかる範囲で…と懸命にやさしく説明しようとするのであるが、どうも言葉が浮かんでこない。「つまり、背中とお腹と入れ替えができないやろ…。ま、そういうことや」な~んて、まったくもう、自分でも何を言っているのだか。

「もう、のんちゃんったら~。ますます、わからんわぁ」とモミィ。

いろはカルタでモミィからこんなに質問攻めに合うとは…

だれか代わって~

 

 

 

 

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ぱみゅぱみゅな年末年始

2013年01月02日 | 日常のいろいろなこと

皆さま、明けましておめでとうございます。

大晦日と元旦はいかがお過ごしでしたか?

26日と27日にモミィの好きな箕面へ1泊で旅行した。バイキングに目のないモミィなので、僕もネットで大阪近郊のバイキング&和室宿泊プランを探すのだけど、なかなか見つからず、今のところ、明石大橋のたもとの神戸舞子ビラ、大阪千里中央にある千里阪急ホテル、そして箕面観光ホテルの3つくらいで、そこへ最近は繰り返し訪れている。中でも箕面は、往復5キロ以上ある遊歩道を歩いて滝を見に行くのが妻や椛も大好きで、おまけにこのホテルはバイキング料理の内容が格段に良い。

その箕面へ行った2日目の27日夜、僕は夜に阿倍野で元役所の人たちの忘年会に招待してもらっていた。そこで、夕方、妻とモミィを先に帰らせ、僕だけ阿倍野に残り、忘年会までの時間をつぶすことになった。そこで、年末なのでひとつデパ地下でも歩いてみるか…と行ってみたが、まともに歩けないほどの多くの人びとで大混雑していた。

最近は元旦からスーパーが開いていたりするので、昔のように年末にまとめていろんなものを買い込む必要も特になくなったと思うけれど、やはりそれでは世間は盛り上がらないのだろう。

年末に配達される新聞からドサッと出てくる各スーパー派手なのチラシを眺めていると、カニや数の子やタイの姿焼き、黒豆、田作り、栗きんとん、ロースハム、かまぼこ、エビ、各種お造り、煮物用のれんこん、ごぼう、里芋などいろいろと載っている。いやぁ、見ているだけで「お正月ぅ!」という気分になってくる(まぁ、見るだけで済んだらいいんですけどね~)

そんなことで、昨日の元旦は、次男夫婦も昼前に3歳のケイを連れて来たので、僕は昼からチューハイ、日本酒、ビールなどを飲みながら、昨日録画しておいた紅白歌合戦をテレビで見て、聴いたことのない歌やなじみ深い歌の数々に耳を傾け、いい機嫌になっていた。つまらないバラエティ番組より、録画でも紅白歌合戦が流れているほうがはるかに楽しい。

さて、その紅白歌合戦だが、大好きだった水森かおりが去年までの小林幸子を思わせるびっくり仰天衣装を着て歌っていたのが気に入らなかった。こんな衣装を着ずに、普通に歌っていてこそ水森かおりの持ち味が出るというのに、なんでまた…? もう、そんな大仰な衣装(装置?)はやめてくれぃ。

ところで、前年の紅白では「トイレの神様」という歌が話題になった。孫がおばあちゃんとの思い出を切々と歌ったもので、このときは画面に釘付けになった。紅白が始まって以来、最長かとも思われるほど長い歌だったが、会場がシーンと静まり返り、見ている僕も、モミィと妻の姿が重なったこともあり、涙が止まらなかった。

そして今年もまた長い歌があった。美輪明宏のヨイトマケの歌だ。

この歌を初めて聞いたのは僕が中学生くらいだったから、もう50年ほど前の話になる。当時は「美輪」でなく丸山明宏といい、今のように女性の姿はしていなかった。ただ「おかま」という感じはした。その「おかま」っぽい若い男が、テレビのモーニングショーのようなところで出てきて「今週の歌」としてスタジオで「ヨイトマケのを歌」ったのである。

父ちゃんのためならエンヤコラ
母ちゃんのためならエンヤコラ
もひとつおまけにエンヤコラ

女性のような美形の丸山明宏(まだ20代だったろうね)が、こんな俗っぽく荒々しいエンヤコラを力強く歌い初めた瞬間から、テレビから目が離せなくなった。聴き終えて「なんという変わった歌なんだ!」と思うとともに、「父ちゃんのためならエンヤコラ。母ちゃんのためならエンヤコラ!」とは、僕らが子どもの時から力仕事をするときに、面白半分で挙げていたかけ声だった。だから、それを一風変わった美形の歌手が野太い声で絶叫する姿には強烈な印象を受けたのである。

それがどのような紆余曲折を経たのか、半世紀も経ち、もはや彼も77歳になり、女性姿で霊能者として人生を極めたのか…と思いきや、ほとんど忘れかけていた歌を紅白で、男の恰好で、しかも去年の「トイレの神様」同様、フルコーラスを歌うなんて信じられなかった。なぜ今ごろ、ヨイトマケなのか…?

なんでも歌詞の中に「土方」といい言葉が出ているので、当時その言葉は放送禁止用語となっており、そのためしばらく埋もれていたそうだ。でも「土方」って禁止するような言葉なのだろうか。一節太郎は「浪曲子守唄」で「土方渡世のおいらが賭けた~」と懐メロ番組で歌ってきていたはずだしね~。なんでそんな言葉のためにこの歌が一時禁止になったのだろうかと不思議に思う。

それを言うなら、一昨日の紅白ではゴールデンボンバーの「女々しくて」という題名の方が現代の女性差別ではないのか…とも思うのだけれど…

まぁ、それぞれの時代に生きてきた言葉を今の価値観で単純に「差別」だと決め付けてしまうのは、世の中を危うくするだけだどね。

ところで、今回の紅白でいちばん爆笑したのは、きゃりーぱみゅぱみゅが出て来た時だった。

司会の堀北真希ちゃんのところへスマップの中居君がやってきて横に並んだ。掘北さんが「では次はきゃりーぴゃむ…ぱむ…さんです」と言い、中居君も名前を言うのに舌をかみそうになっていたが、そこへ、きゃりーぱみゅぱみゅと同じ恰好をした大柄な女がチャカチャカと走り出て来た。

その怪しげな人物は「きゃりーで~す」とかわい子ぶるのだが、顔を見ただけでは誰が扮装しているのか全く分からない。すると中居君がそばへ行き「稲垣だろ」とささやいたのである。

そのキャリーは、スマップの稲垣吾郎が扮装していたのだった! でも名前を明かされてもまだ稲垣とはわからないほどものすごいメークだった。結局、稲垣吾郎がきゃりぃぱみゅぱみゅを紹介したのだったが…

「それでは、きゃりー、ぱ、ぱぷ…ぴゅ…さんで~す。どうぞ~」

まったく言いにくい芸名をつけたもんだ。もっとも、きゃりーぱみゅぱみゅさん自身の舞台はなかなか楽しく、ご本人も可愛かったけれどね~

   ……………………………………………………  

…まぁ、今年もこんな程度のブログですけど、よろしくお願いしま~す。

ぱみゅぱみゅ~ 

 

 

 

 

 

 

 


 

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