僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

大阪国際女子マラソン

2011年01月31日 | スポーツの話題

大阪国際女子マラソンは、以前は何日も前から楽しみにして、毎年、この日曜日だけは予定を入れず家にこもり、熱心にテレビ観戦していた。 また、テレビでは物足りなく、自転車でコース付近を走りまわり、選手たちの力走に沿道から拍手を送ったこともあった。 アイルランドのキャリー・メイという可愛い選手が、先導車のあとからさっそうと先頭を切って現れたときの胸のときめきは、今もよく覚えている。 カッコよかったなぁ。

しかし、当然のことながら、これだけではレースの流れがわからない。 
やはりマラソンはテレビ中継に限る…と思い、それ以来 「実物」 は見ていない。

しかしここ数年は魅力的な選手もいなくなり、ときめくことも少なくなってきた。
いつのまにかテレビを見る習慣も途絶え、その日に外出することも増えてきた。

しかし昨日は寒い1日だった。 しかも風がめちゃくちゃ強かった。
ベランダの洗濯物が、竿ごと風にあおられて落ちるという珍事も起きたほどだ。

寒がり屋の僕としては、極力外出は控え、テレビのマラソン中継を見るしかない。

レースは日本人選手だけの争いとなり、赤羽が伊藤をふりきって初優勝した。

何週間も前から、このレースを中継する関西テレビは、派手な前宣伝をしていた。
出場選手の今回の目玉は赤羽有紀子選手だった。
例のごとくテレビ局がつけたキャッチフレーズは 「最強のママさんランナー」。
端正な顔立ちで、大人の雰囲気を身につけ、美しいフォームで走る。
しかも、昨年のこの大会では、足の故障でレース後半に、無念のリタイアがあった。
夫であるコーチに、「有紀子、もういい!」 と抱き寄せられ、涙を流した。
その映像が繰り返し流され、「30日、大阪国際女子マラソンをお楽しみに!」
そんな宣伝が、連日にわたり、このチャンネルで流されていた。

それからすれば、赤羽の優勝は、テレビ局としては、してやったり、だろう。
レース後半に外人選手ばかりが先頭で優勝争いをしていたら、視聴率も落ちる。
その点、先頭グループはずっと日本人選手だった。
しかもフィナーレは 「テレビ局推奨」 の赤羽の、マラソン初優勝である。
関西テレビのスタッフたちは、万歳~と歓呼の声を上げたに違いない。

しかし、レースが終わるとすぐに赤羽が仮設スタジオのようなところ招かれたのには驚いた。 たった今ゴールしたばかりじゃないか。 赤羽も勝利の喜びに浸る間も何もないだろう。 あまりに早すぎるし、それにまだまだ上位に属する選手たちがゴールインしている最中だ。 観客席もどよめいているはずだ。 それを何も映さずに、急にシーンとした場所に赤羽が連れてこられて、アナウンサーのありきたりの質問に答える…というような場面を、誰が見たいと思うのか。 

僕たちは、次々とゴールする選手たち、そして観客に手を振り感謝の意を表す勝者、ゴールしたランナーたちの喜びや口惜しさのさまざまな表情、そしてファンの声援、そういう光景を見てレースの余韻を楽しみたいのである。 赤羽が終わると次は2位に入った伊藤選手のインタビューが始まり、これまたシーンとした部屋の中での辛気臭いインタビューに、視聴者はつき合わされるのだった。 

インタビューは競技場の観客の前でやれば良いのだ。

それに、解説やらゲストやらなんやらと、出てくる人間も多すぎるような気がする。

スポーツを純粋に伝えず、なんとか余分な演出を加えようとする魂胆があさましい。
 
それと、この大会から、コースが変更された。
これまでのコースは僕も熟知しており、実際に走ったり歩いたりもした。
だから、テレビを見ていても、今どこそこを走っているというのが全部わかった。
そういう楽しみも、このマラソン中継にはあった。
それが一部というか、かなりというか、変更になった。
新聞に新しいコースが出ていたので、それとテレビ画面を見比べる。
ここで右折するのだな、あ、これが玉造筋か、画面右が大阪城で、ここが…おっと、毎年人間ドックを受けているホテルニューオオタニだ。 お、大阪ビジネスパークに入ったぞ…と、選手の走る道の両側の景色を楽しんでいたが、それを邪魔するのがCMである。 

つまらないCMが流れている間に、選手たちは僕にとって目印となる場所を通過してしまい、CMが終わると、どこを走っているのかわからなくなる。 新コースを覚えて、そのコースを走ったり歩いたりしようと思っていた僕も、これだけCMで遮られては詳しいコースがわからない。 新聞のコース地図は大雑把だから、細かいところはテレビを見ながら自分の頭の中の大阪地図と照らし合わせてたどるのだが、大阪ビジネスパークあたりがよくわからなかった。

まあ、それだけでなく、CMの途中でレース展開が大きく変わることもたびたびあるので、いくら民放と言ってもあのCMの洪水は何とかならないものか。 現にサッカーは、試合中は絶対にCMが入らないではないか。 マラソンもそれと同じで、休みなく続いている競技である。 

マラソン中継はNHKのみとする…というような法律を作ってくれよ、民主党。  
 
…と、文句ばっかり言っているけれど、マラソンファンとして、わかりきったことではあるが、これだけは書いておかなければならない。

優勝した赤羽選手のタイムは2時間26分台で、今夏の陸上世界選手権への出場権を、わずかなタイム差で獲得することができなかった。 しかし昨日の大阪は、わが家の洗濯物まで吹き飛ばされる強風であった。 あんな風の中で走ったタイムとしては立派なものだと思う。 マラソンはタイムではなく、いかに勝つかである。 それぞれ条件の違うマラソンを、一律のタイムで選考基準にすること自体に問題がある。 1位の赤羽、2位の伊藤は大健闘だったと思う。

ただし、世界を相手に戦うとなると、2人とも物足りなさが残る。
有森や高橋のような素晴らしいランナーには、もう二度と出会えないのだろうか。

以上、私の大阪国際女子マラソン観戦記でした。
ほとんどレース内容には触れていませんけど…

 

 

 

 

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アジア杯 日本優勝 !

2011年01月30日 | スポーツの話題

オーストラリアは悔しいだろうな~。
試合展開では断然優位に立っていた。
何度も日本のゴールに迫り、決定的チャンスを作り、シュートした。
それを、キーパー川島が “奇跡” とでも形容したい好守で阻止した。
そして延長後半、劣勢をはねのけ、日本が鮮やかにゴールを決めて勝利した。

実に見ごたえがあるというか、恐ろしいというか、背筋が寒くなる試合だった。

                                

昨晩は午後9時に寝た。
睡眠薬を飲まずに寝ると、いつもだいたい3時間以内に目が覚めてしまう。
そういう忌まわしい習性も、たまには利用して役立たせなければならない。

深夜12時から、サッカーアジア杯決勝、日本×オーストラリア戦が始まる。
睡眠薬なしで寝たら、必ず12時までには目を覚ます…はずだった。

ところが、こんなときに限って思い通りにはならず、目覚めたのは12時半であった。

「えらいこっちゃ」
さっそくテレビをつけると、試合は前半23分になるところで、0対0であった。
あ、よかった、まだどちらにも点が入っていない。

しかし、実況を聞いていると、どうも日本は押されているらしい。
現に、いま目の前で展開されている試合も、ボールを支配しているのは敵方だ。

そのあと、日本は何度もピンチを迎えた。
うわっ、もうダメ、と目をつむりたくなるシーンが何度あったことか。

相手と日本のキーパーとが1対1になる絶体絶命のピンチ。
シュート! 低い弾道でボールが矢のように日本のゴールに突進する。
…しかし、川島が右足1本でこれをはじき返した。

ある時、またも相手が日本のディフェンスをかわしてキーパーと1対1。
今度はやられた! と思ったら、川島が飛び込んで、ボールにしがみついた。
天を仰ぎ、悔しがるオーストラリア選手。

またある時は、相手の強烈なシュートがゴール・バーのわずか下のワクへ飛んだ。
思い切りジャンプした川島が、右手の先っぽでこれをはね返した。
頭を抱え込み、しゃがみこむオーストラリア選手。 

さらにまたある時は、ゴール前の混戦で川島が倒れた。
そこへ敵のボールが、ゴールに入った。
…かに見えた。
オーストラリアのベンチの控え選手たちが、思わず立ち上がって小躍りした。
しかし、審判は得点を認めなかった。
ビデオが流れた。 
ボールはラインのギリギリのところで日本選手がクリアしていた。 やれやれ…

延長戦の前半まで、おおむねこんな調子であった。 
日本は相手ゴールに迫ってもなかなかシュートが打てない。
長友が元気に走り回り、クロスを上げ、岡崎がヘディングシュート!
という、絶好のチャンスもあったが、これもシュートが枠から外れた。

しかし延長後半4分に、その長友がまた見事な動きを見せ、クロスを上げた。
ゴール前に、日本の李がいたが、周囲に相手がいない完全ノーマーク状態。
飛んできた来たボールをそのまま蹴り跳ばした李のシュートは素晴らしかった。
ボールは相手のゴールを突き刺した。 キーパーは一歩も動けない。
ついに1点を取ったのである。 ぱちぱちぱちぱち。

さあ、試合終了まであと1分…というとき。
韓国戦で最後の最後に同点に追いつかれ、PK戦にもつれこんだあの試合。
見ていた誰もがそれを思い出していたに違いない。
案の定、ペナルティエリア付近で日本が反則を取られて相手のフリーキック。
絶体絶命のピンチを迎えた。 あぁ、これまた寿命が縮まる思いである。

蹴る、蹴り返す、ぶつかる、もつれる。 黄色のユニフォームがゴールに押し寄せる。

これが平静に見ていられるだろうか。

日本の必死のディフェンスで、なんとかピンチを逃れた瞬間に、
ゲーム終了のホイッスルが、歓声の中で高らかに鳴り響いた。

ドーハで行われたアジア杯。 日本、2大会ぶり4度目の優勝である。 

18年前、同じドーハで、ロスタイムに失点して初のW杯出場を逃した日本。
あのドーハの悲劇の舞台が、今度は歓喜の舞台となった。

午前3時、テレビを見終えて寝た僕は、3時間後の午前6時には目が覚めた。
浅い眠りで、寝ているのか起きているのかよくわからない3時間だった。

真夜中に興奮して見た試合が、なんだか夢のように思える。

いま、午前8時少し前である。

8時からはじまる 「サンデーモーニング」 で、試合を振り返るのが楽しみだ。

 

 

 

 

 

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パソコンで確定申告

2011年01月29日 | 日常のいろいろなこと

長い間市役所に勤めていた割には、税金のことがよくわからない。
税務に関する職場を経験していないこともあり、税制度に疎い。

だから、確定申告をしろ、な~んて言われたら、ぞっとする。 

これまで、収入は役所の給与だけだったから、年末調整時簡単な書類と生命保険などの控除証明書を人事課に提出するだけで、あとは何もしないで済ませることができた。 しかし、2年前、平成21年3月末に市役所を退職した僕は、翌22年から、確定申告をしなければならない立場になってしまった。

つまり、去年、初めて所得税の確定申告をしたのである。 
これが、どうにも、ちんぷんかんぷんだった。

所轄の税務署から送られて来た書類に、わかる部分だけ書き込み、サラリーマンや年金受給者のために藤井寺の市民会館に開設されていた還付申告会場に足を運んだ。
受付で整理番号をもらい、1時間近く待った。

やっと名前を呼ばれて、広い会場の中に入り、机をはさんで藤井寺市の若い男子職員と対面し、用意してきた書類などを見せると、これは必要で、これはいりません。 ここは書かなくていいし、ここは記入しておいてください…などと教えてくれたあと、「では、向こうに税理士さんたちがパソコンの前に座っておられますね。 あそこの横の椅子に座って順番を待ってください」 と言われた。
丁寧でわかりやすい応対だった。 

その男子職員の付けている名札を見て、あれっと思った。 それはとても珍しい名字であり、僕はそれと同じ名字の人を知っていた。 柏原市の前議会事務局長さんで、僕の現役の頃、同じ事務局長同士として、よく飲んだりして、仲の良かった人である。 

男子職員にお礼を言った後、
「めずらしい名字ですね。 僕は同じ名字の人を知ってますよ。 柏原市に勤めておられた…」 
と、僕がそこまで話すと、男子職員は、
「あ、それ、僕の父親です」 と照れながら頭を下げた。

まぁ、そんな話は別にいいのだけど…

僕は彼に言われた場所に行き、椅子に座って順番を待った。
ここでも30分以上待った。

先の人が終わり、「次の方どうぞ」 と僕に声をかけたのは女性の税理士さんであった。
若いし、やさしそうなので、なんとなく安心した。

税理士さんは、僕の書類を見ながら、次々と給与と年金の収入額や社会保険料、生命保険料、地震保険料の各控除額をてきぱきとパソコンに入力して行った。 僕は横に座って、時々質問に答えたり、言われた書類を提示したりするだけで、あとはボーっと眺めているだけだ。 

これにも、結構時間がかかった。 僕は10時過ぎに会場へ着いたのだが、税理士さんが必要事項をすべて打ち込み、「はい、できましたよ」 と、それを印刷して僕に渡してくれた時は、すでに12時を大きく回っていた。 しかしまあ、こんな親切に何から何までしてくれるとは思わなかった。 

僕は税理士さんに作成してもらった申告書を持って、別の受付場所へ行き、申告書を提出した。 すべて税理士さんが作ってくれたのである。 時間はかかったけれど、ありがたいことだった。

そして今年もその時期が来た。 しかし、また同じことを繰り返すのも、芸がない。

あの女性の税理士さんがしてくれたパソコンへの入力を、今度は自分がやってみようと思った。 税務署から来たはがきにも、「自宅で申告書を作成される方は国税庁ホームページ 『平成22年分確定申告作成コーナー』 をご覧ください」 と書かれていた。 

よし、自分でやるぞ~
去年の経験を無駄にしてはならない。 控えも手元にある。

そう決意して、昨日は椛の弁当作りなどの朝の用事とブログを終えた後、パソコンで国税庁のホームページを開いた。 

もちろんその前に、公的年金の源泉徴収票、個人年金の源泉徴収票、生命保険の控除証明、地震保険の控除証明、病院等の領収証を入れた封筒の表に医療費明細を書いたもの、などを用意し、社会保険(健康保険)の去年1年間支払った額や妻の年金受給額などの数字も把握しておいた。

そして、パソコンへの入力だ。

まず、所得税確定申告書作成コーナーの 「申告書当の作成を開始される方」 をクリック。
「作成開始」 をクリック。
パソコン環境の確認をクリック。
住所氏名生年月日などを入力。

そのあと、ようやく申告書がパソコン画面に出てくるので、所定の欄に入力する。
まず収入は公的年金と個人年金の2つだけ。 それぞれの年間受給金額と源泉徴収額を入力するのだが、個人年金の場合は 「必要経費」 という科目もあって、その数字も入力する。
そして次に控除欄へ移る。 

医療費控除欄には、医療費の1年間の総額を入力。
不整脈や耳鳴りで毎月のように病院へ通っているが、かかった医療費は8万円余りだった。
あと、健康保険の1年間の掛け金額を入力。
生命保険や地震保険の支払額も入力。
配偶者の収入欄には、妻の公的年金と生命保険会社からの年金の総額を入力。
大した額ではないので、配偶者控除の欄に自動的に 380,000円の数字が出てくる。
基礎控除欄にも、いつのまにか 380,000円が記入されている。

さすがにパソコンである。
これだけ入力しただけで、後は全部、勝手に計算してくれるのである。
そして還付される金額も、ちゃ~んと数字が出ているのだ。

最後に印刷モードにして、印刷をする。 印刷物は6枚出てきた。

所得税確定申告書の第一表と第二表、「提出書類等のチェックシート」  
「必要書類の添付用紙」 の4枚と、申告書2枚の控えである。
申告書の第一表の氏名欄に、認印を押す。 

僕はその6枚と、添付の書類、参考書類、去年の控えなどを持って、
午前10時過ぎに家を出た。 
「どうせ混雑しているだろうから、家に帰るのは12時過ぎると思うけど」
そう妻に言って、マウンテンに乗って市民会館へ出発した。

案の定、会場はエレベーター乗り場から人でごった返していた。
4階の会場前に着くと、大勢の人たちが順番を待っている。
一人一人に整理券を渡している。

僕はその整理券をもらう場所に行き、窓口の職員に
「もう、申告書、できているんだけど…」 と告げた。
すると職員は、「あ、そうですか。それならどうぞ、中へお入りください」
と、整理券なしで会場の中に入れてくれた。

中にいた係員に、「これはどこで見てもらうのですか…?」
と聞くと、「どうぞ。 そちらです」 と入り口近くの受付テーブルを指さした。

ほかを見渡すと、大勢の人が、職員と書類を前にやりとりをしていたり、さらに奥のほうでは去年僕がお世話になった税理士さんたちがパソコンに入力をしている光景が目に入った。

受付テーブルの職員に、バッグから、今朝がた入力して印刷したばかりの申告書を提出した。 職員は指で数字の部分をなぞりながら、パラパラとめくり、次に僕が出した源泉徴収票や保険控除証明や医療控除明細の封筒などをざっと確認し、「けっこうですね」 とうなずいて、「この申告書の控えはお持ちですか…?」 と聞いた。 持っている、と言って控えをテーブルに置くと、ポンと受付スタンプを押してくれて、
「ハイ、どうもお疲れさまでした。 お預かりいたします」
と言うので、
「え…、もう終わりですか…?」 と思わず聞いてしまった。
「えぇ、終わりです。 どうも~」

その間、約5分であった。

去年は待ち時間を含めて2時間半ほどかかった。

あまりに早く家に帰ったものだから、妻がびっくりしていた。

やっぱり、自分でパソコンに入力して申告書を作ると、こんな早く終わるのだ。

会場へ来ていた人はお年寄りが多く、自分でパソコンを使って申告できる人は少ないのだろう。 あぁ、少しでもパソコンが使えてよかった…と、つくづく思う。

ちなみに、皆さんもご存知だと思うけれど、電子申告納税システムというのがある。 これはパソコンから直接申告内容を送信するシステムで、さらに便利なようだけど、役所で電子証明書などを取得したり、ICカードリーダライタとかいうものを買ったりしなければならないらしく、面倒である。 自転車で5分の会場へ運ぶほうが、てっとり早い。 

しかし来年になると、必要書類やパソコン入力方法を忘れているかもしれない。
近頃は何でもすぐに忘れてしまい、困っているのだ。
その時は、今日のこのブログを読み返すことにしよう。
そうすれば、いろいろと思い出すに違いない。

長々と細かく書いたのも、実はそれが念頭にあったからだ。

毎日せっせと書いているブログも、少しは何かの役に立たなければね~。

 

 

 

 

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忘れてた~ 年賀はがき抽選

2011年01月28日 | 日常のいろいろなこと

新聞を読んでいると、下のほうに小さく、ナントカ宝くじの当選番号というのが出ていた。それを見て思い出したのが、お年玉つき年賀はがきのことである。

「あ、忘れてた~」 と新聞から目を離し、妻に、
「お年玉つき年賀はがきの抽選って、もう終わったよね」 と確かめる。
妻も、「あ、そうだね。 今日はもう27日だもんね。 終わっているわ」

年賀状を出してきて、はがきの下の欄を見ると、抽選日は1月23日と書かれていた。 
もう 4日も過ぎている。 僕も妻も、コロッと忘れていた。

さっそく23日の新聞を探し出して当選番号の記事を切り抜き、当たり馬券…じゃなく当たりはがきがあるかどうか、調べてみた。

1等は6ケタの数字がひとつだけ。
2等は6ケタの数字が3とおり。
3等は下4ケタの数字がひとつだけ。
4等は下2ケタの数字が2とおり。
いずれも、全組共通である。

各当選番号の下2ケタの部分にマーカーを塗って、わかりやすくする。
年賀状の束を1枚ずつめくりながら、下2ケタを照合していく。

「うっ、惜しい」
そう思ったのは、3等で、当選番号は下4ケタ 「8363」 だった。
僕の手元にあった年賀状は 「4363」 だ。
う~ん、下3ケタまで363でぴったり。 あと1歩だったのになぁ。

結局、当たったのは4枚で、いずれも4等のお年玉切手シートだった。

まあ、順当な結果というべきか。

しかし過去に一度だけ、2等に当たったことがある。

2等というのは、6ケタの数字が3とおり。
その3とおりのどれかに当たらなければならない。
これを当てるのは、かなり難しい。
確率で言えば、何10万枚あるいは100万枚に3枚しかないのだから。

もう10年近く前になるだろうか。

当選番号とはがきを見比べているうち、6ケタがピタリと当てはまった時は驚いた。

しばらくして、勤務先の友人からメールが来た。 その友人は、
「のんさんからもらった年賀状の番号が、2等の当選番号とほんの数番しか違わず、
 惜しかった~。 きっとのんさんが出した誰かに2等が当たっているはずです」

それを読んで、思わず頭を掻いてしまった。

この6ケタぴったりの番号のはがきは、実は僕のところへ来たはがきではなかった。
友人のメールのとおり、僕が出すはずの年賀状だったのだ。 ところが…

書き損じてボツにして、手元に残していた年賀状がこの栄光を射止めたのである。

僕は友人にメールで、
「その2等が当たったのは僕です。 書き損じの年賀状がたまたま当選して…」
と返信したら、また相手からメールが来た。
「げぇっ。 そうでしたか… のんさんは、転んでもただ起きない人ですね~」
な~んて書いてあった。  

後日、当選はがきを持って近くの郵便局に行き、窓口の女性に「2等です」と告げると、
「はっ…? 2等…?」
その女性があわてて隣の先輩らしき人に 「2等ですって。 どうします?」
と尋ね、先輩らしき人が、「恐れ入りますが、本局へ行っていただけませんか」
と、丁寧に追い返されたのも、なつかしい思い出である。

それ以来、夢よもう一度…と、お年玉つき年賀はがきの抽選日にはかなり気合を入れたものだけれど、切手シート以外は当たったことがない。 

そして今では、抽選の日すら忘れてしまっている、という始末である。

 

 

 

 

 

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人生が楽になる女たちの名文句

2011年01月27日 | 読書

マリリン・モンローやフランソワーズ・サガン、ライザ・ミネリ、ソフィア・ローレンなど、200人近い女優や作家など、いろいろな分野で活躍してきた女性たちの 「名文句」 がまとめられた1冊の本がある。 これがやたらと面白いのである。

「私だって言ってみたい! 人生が楽になる女たちの名文句」 (講談社、タニア シュリー・編集、フーベルトゥス ラーベ・編集、平野 卿子・翻訳) という本である。

この中の名文句から、特に面白いと感じたものをいくつか抜粋してみる。

まず男より女のほうがはるかに賢い、という現実を知らされる文句。

男と喧嘩したってしかたない。
いつだって向こうの言うことが変なんだから。

女性の分別がわかるほど分別ある男なんかいない。
だから女は無分別だということにされちゃう。

女はばかじゃないの。 ただ、いつもばかをみているだけ。

女がおしゃれをするのは、男の頭が目ほどよくないから。

男はなにをやらせてもできる。そのくせ、なんの役にも立たない
  
な~るほど。 男でありながら、思わず膝をたたいてしまう。
では、女にとって、男とは何なのか…?

男は懐中電灯のようなもの。 明るくはないのに、目をくらます。  

ケチな男のプレゼントは口紅。 だって少しずつ取り戻せるじゃない。

男にとって女は永遠の謎。 だから次の女でその謎を解こうってわけ。

ひとめぼれ? せっかちな男のいいわけに決まってるじゃない。

プレイボーイって、女と遊びたがるだけで、決して共に成長しようとしない男のこと。

女にとっての男? 魚に足がいるかしら。

「魚に足が…」なんて言われたら、男はヘコむだろな~。
女の冷静な眼に、男はハッとしてから、カクンとなる。

結婚によって失うもの。 大勢の男の関心。
手に入れるもの。 たったひとりの男の無関心。

恋とは彼なしでいるより、彼と一緒に不幸でいたいと願うこと。

考古学者こそ理想の夫。 だって、妻が古くなればなるほど興味を持つでしょう?

企業戦士の妻って、まだ生きている男の遺族。

「理想の男性」 って白馬の王子さまみたいなもの。
だれもがそれを口にするけれども、見た人はいないもの。

いつも男がひとりいるほうがいい。 ひとりの男がいつもいるより…

次のような気の利いた文句なども、どこかで使いたい誘惑に駆られる。

人生に新しい経験なんかない。 ただ、新たに古い経験をするだけ。

恋は竜巻。 友情はそよ風。

幸せは音もたてずにやってきて、音をたてて去っていく。

ろくでもない女が責任あるポストについてはじめて、男と女は対等になるのよ。

男が女に車のドアをあけてやるときは、車が新しいか、女が新しいかのどっちか。


まだまだ楽しい名文句が沢山詰まっています。

おヒマな折の、いい時間つぶしになりますよ~。

 

 

 

 

 

 

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日本 PK戦で韓国を破る

2011年01月26日 | スポーツの話題

あぁ、サッカー日韓戦というのは、なんでいつもこうなるのか。

アジア杯準決勝は、1対1のまま、延長戦にもつれこむ死闘。
日本がラッキーなPKを得て、ついに2対1と勝ち越した。

あと1分。
試合終了まであと1分。
勝利の瞬間まであと1分。
…というところで、韓国に同点に追いつかれた。
あぁ、やっぱり…。 
悪い予感がした通りの展開になってしまった。
しかし、なんでこうなるの…?

韓国の驚異的な粘りに、なぜいつも日本は屈するのか。

そしてPK戦。 
勢いづいているだろう韓国と、落胆の色を隠せない日本。
こんな場合、90パーセント、いやそれ以上の確率で日本が負ける気がする。
もうあかんな…とほぼ諦めて、PK戦を見た。

ところが、川島の好セーブで、韓国の3連続失敗。 信じられない展開だ。 
えっ…??? ほんまかいな。
唖然としているうちに、最後は今野が入れて、なんとまぁ、日本が決勝進出を決めた。

しかし、手放しで喜ぶには、神経が疲れ過ぎていた。
試合の後半には、精神安定剤を飲んだほどである。

今、午前1時30分。
日付が変わるまで起きていたのは、むろん今年初めてのことである。

いや~、疲れた。 本当に疲れた。

こんな試合を見ていると、寿命が縮まりそうである。 

 

 

 

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足の向くままランニング

2011年01月25日 | ランニング

連日、新潟や秋田などをはじめ、列島各地での大雪のニュースが流れる。
屋根に上がって雪お
ろしをしている人たちの映像を見ながら、本当に大変だなぁと思う。

一方、大阪 (というか、僕が住んでいる藤井寺市周辺) は雪どころか雨も降らない。 もうどれだけの期間、雨が降っていないだろう。 今年に入り、突然強風と共にバラバラっと降ってきたことはあったが、それもこのごろはない。 全くと言っていいほど雨が降らず、従ってジョギングに出て大和川の堤防から川を眺めると、水量がめっきり少なくなっている。 

しかし、いくら雪が降らないと言っても、今年は寒い。 特に毎日、風が強い。
ジョギングに出ると、堤防はさえぎるものがないので、吹きさらしである。
昨日も堤防コースを走っていると、追い風の時はいいが、Uターン
すると、まともに向かい風を受け、よろけながら走らなければならない。 この日は10キロ走の予定をしていたが、5キロでイヤになり、家に戻った。

「あかんなぁ。 寄る年波には勝てないということかなぁ…」 と妻の前で言い訳がましくつぶやいたあと、コスパへ行くため、リュックに水着やタオル、着替えなどを詰め込みながら、ふと 「あのこと」 が頭に浮かんだ。 「あのこと」 …とは、間寛平ちゃんが地球一周マラソンで毎日40~50キロを走っていたという、あのニュースである。

寛平ちゃんは61歳である。
僕よりひとつ下だけの年齢だというのに、あれだけのことができるのだ。  

う~~む。 歳のせいにしてはいけない。 努力することから逃れるために、どんなことも歳のせいで片付けてしまうと、そのうち、本当に老け込んでしまう。 体力もズルズルと衰えていく。 むろん無理は禁物だろうけど、それにしても最近はすぐに 「や~めた」 と投げ出してしまう自分がなさけない。 もっと頑張らなければ…

そう思うと、コスパへ行く準備ができた頃には、もう一度走りに出よう、という気になってきた。 妻に 「これからコスパへ行くけど、その前にそこらへんを走ってから行くので、帰りは少し遅くなると思うよ」 と言って家を出た。 そしてリュックを背負ったまま、大和川の堤防を、大阪市内のほうに向いて走り始めた。

相変わらず脚は重いが、普段と違うコースを走ると、疲れ方が少ないように感じる。

トコトコと、歩くのと変わらないスローなペースで走り、いつの間にか堤防から大阪市内に下りて、街の中を走っていた。 足の向くまま、気の向くままである。

街の中を走ると、さらに気分が変わり、リズムが出てくる。 リュックを背負っているせいで背中が汗で濡れ始めたが、周りの景色が変化に富んでいるので、精神的な疲労を感じない。 そのぶん脚もなんとか動いてくれる。 

前方に大型スーパーが見えてきたので、そのまま中に入り、トイレを拝借して、また外に出た。 走り始めて1時間余りが経っていた。 これ以上向こうへ行くのは無理と思い、同じ道を引き返して、また1時間余り走ってわが家の近くを通り、藤井寺駅前のコスパに着いたときは、さすがにヘトヘトだった。 

あぁ…やれやれ。 全部で何キロ走ったのかよくわからないが、休憩は挟んだけれど、これだけ長時間走ったというのはここ数年間なかったことではないか…という満足感で、心が和んだ。

コスパのロッカーで水着に着替えてプールへ行ったけれど、先にジャグジーに浸かり、ふき出すお湯でふくらはぎや太ももをほぐしていると、ふんわりと気持ちが良くなって、泳ぐのが面倒になった。 そのままロッカーに戻ってお風呂に入り、それからジャージーを着て裸足のまま (室内用シューズは持ってこなかったので) トレーニングジムの一角に大きなマットが敷いてあるストレッチコーナーへ行き、30分ほどストレッチをしたりヨガのまねごとをしたりして、最後にもう一度お風呂に入った。 結局コスパでは、何の運動もせずに1時間半を過ごしたのである。

コスパを出て自転車置き場へ行き、自分のマウンテンを探したが、どこにもない。
「あれぇ…? おかしいなぁ…」 とキョロキョロしているうちに、ふと気がついた。
そうだ。 今日はここへ自転車ではなく、ランニングで来たのだった。
そんなことも、もう忘れている。

いくら身体を鍛錬しても、頭のほうがボケていては、な~んにもならんがな  。

 

 

 

 

 

 

 

 

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若く見られるということ その2

2011年01月24日 | 日常のいろいろなこと

年齢が若く見られることについてのエピソードを、さらに思いつくままに書いてみる。

35歳のとき、「小豆島タートルマラソン」 というフルマラソンの大会に出た。
このレースには、参加資格が35歳以上という年齢の規定があった。
35歳未満の人は参加できない。 まあ、マラソンのマスターズ、みたいな大会である。
小豆島の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、僕は気持ちよく走っていた。
そのとき、沿道で応援していた男の人が、僕に 「頑張れやぁ~」
と声援を送ってくれた。 とてもうれしかったが、そのあとの言葉が、
「ボク~、来年もまた小豆島に来いよ~」 だった。
ボク…って、それ、子供に対しての呼び方じゃないの…?
このレースを走っているのはみんな35歳以上だというのに。
張り切っていた気持ちが、これでなんだかガックリきてしまった。
さて、いよいよゴールという地点で、ミス小豆島のお姉さんが待っていてくれ、ゴールした選手ひとりひとりにスポーツタオルを肩に掛けてあげていた。 僕などはゴールして、「ああ、しんど~」 とミス小豆島のお姉さんにもたれ込み、やさしく抱き支えてもらっちゃったので、とてもいい大会のイメージが残ったけれど、 (なんだ、それは?)、それにしても… 「ボク~、来年もまた小豆島に来いよ~」 には、参った参った。


長男が17歳の高校生のとき、夏休みに2人で東南アジア旅行へ行ったことがある。
次男は部活で忙しかったので、結局妻と次男は家に残り、僕たちの2人旅になった。
旅先では、僕と長男は、親子ではなく兄弟と間違われてばかりだった。
マレーシアのクアラルンプール空港へ着いたとき、迎えに来た中国系マレーシア人の男の人がいきなり口にした言葉は、
「アナタガタ ホントニ オヤコ ナノ?」 
「もちろん親子ですがな」 と僕が言うと、
「キョウダイ ミタイネ」 と、僕のパスポートをじっと眺め、
「ワカイ ヒケツ オシエテ オシエテ オシエテヨ~!」 と、すっとんきょうな叫び声を発したことは、今も忘れられない。 
ヒケツも何もあるかいな。 小柄で童顔というだけやないか。 


妻と長男と3人でヨーロッパへの団体ツアーに出かけたときは、同じツアーの人たちからずっとチラッチラッと見られている…という視線を感じた。 数日経ち、皆さんと気心が知れて話をするようになったら、どのグループの人たちも例外なく、「あの~、あなた方はどういうご関係で…」 と聞くのだ。 その時、長男は髭を生やしていたから余計である。 それで 「同じような年頃」 の男2人と女が1人… という組み合わせに見えるので、不思議だったらしい。 
「私らが夫婦で、これ (長男を指差し) は息子です」 といちいち説明しなければならなかった。 
「はぁ…。 そうなんですか…」 と返事しながら、相手はまだまだ半信半疑の様子であった。 


グアムではこんなことがあった。
ある朝、自分たちが泊まっているホテルの1階のコンビニへ行き、部屋の冷蔵庫に入れておくための缶ビールを何本か抱えてレジへ持って行った。 するとレジにいた女性は、「ノー」 と首を振り、ビールは売らないのだ、と英語で言った。 日本語は話せないようだった。 ビールを売ってくれない…とは、ちゃんと店に置いてある商品なのに、なんでや…? と思ったが、ひょっとして、上下ジャージ姿で小柄な僕を未成年と間違えているのではないか…と勝手に推測し、「私は日本人であるが、20歳以上である。 だからお酒を飲んでもいい年齢なのだ。 どうかビールを売ってくだされや」 と、たどたどしく英語で説明した。 その英語が通じたらしく、レジの女性は、「なるほどね~」 という顔をした。 そして、クスッと笑ったあと、机の引き出しから、なにやら書かれている紙を出してきて、僕に見せたのである。 そこには、日本語でこう書かれていた。  
「お客さまへ。 アルコールは、午前9時までは販売しません」
時計を見ると、まだ朝の8時半だった。
長年若く見られてきたある種のコンプレックスが、こういうケースで被害妄想を生むのである。 
あ~ぁ…。 この勘違い。 どれだけ恥ずかしかったことか。 

こんな話、まだまだ、あります。 しつこいようですけど、明日もまた。

 

 

 

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若く見られる ということ

2011年01月23日 | 日常のいろいろなこと

これまでも何度か書いてきたけれど、僕は実年齢よりかなり若く見られる。

といっても、決して 「若々しい」 というカッコいい意味ではない。 ただ小柄で童顔だからそう見られるだけのことである。 そしてこれにちなむ話は、長い人生の中で枚挙に暇 (いとま) がないほどだ。 ほとんど僕にとっては迷惑な話ばかりである。

高校生の頃、体育の先生 … 丸こい顔をしていたので陰で  「ダルマ先生」  とあだ名をつけていた先生が、僕の顔を見るたびに、「お前を見ていたら、うちの子供にほんまによう似とるなぁ、といつも思てるねん」 と目を細めていた。 そして、ある日ダルマ先生は、僕に似ているという子供の写真を持ってきた。 「これがうちの子供や。 どや、よう似とるやろ」 とうれしそうに言いながら見せてくれた写真は、生後6ヶ月だという女の赤ちゃんだった。 オカマか、私は。 しかも、ゼロ歳児だなんて…  

これがケチのつきはじめだった。 

大学生の頃、よくパチンコ屋へ出入りした。
勉強もせず、パチンコばかり打っていた時期があったのだ。
機嫌よくパチンコを打っていると、店員が来て、僕の耳元で、
「あんた、まだ18歳になっていないんと違う…?」 と、ささやくように言う。
僕はムッとして、「もう二十歳を過ぎてます!」 と店員を追い払うのであった。
そんな経験が、あちらこちらのパチンコ店で、一度ならず二度三度…。

同じ頃、友だちから、「成人映画を見に行こう」 と誘われても、映画館の入り口で、
「18歳未満はダメよ!」 と言われそうな気がして、行く勇気がなかった。
本当は、ものすごく見たかったのになぁ…。 とほほ。

僕が結婚したのは22歳の時であった。
結婚式当日、式場で 「新郎」 の部屋に入ろうとしたら、係の女の人が、
「あ、新郎様のご家族ですか…?」 と声をかけてきた。
「いえ、違います。 僕が、その…新郎、ですけど…」 と言えば、相手は目を丸くして、
「へぇぇぇぇぇ~?? 新郎さんでしたか? …ほんとに?」
「ほんとうですがな」 なんでそんなことでウソをつかなければならんのだ。
「へぇぇぇぇぇ~?? そうでしたかぁ。 可愛らしい新郎さんですね~」 だって。 
やめてよ、そんな言い方 … と心の中で抗議する僕であった。

そして家庭を持ち、僕は一家の主 (あるじ) になった。
子供も2人でき、4人家族の、押しも押されもせぬ所帯主である。
ある日、ピンポーンとインターホンが鳴った。
たまたま玄関の近くにいた僕が、戸をあけると、見知らぬ年配の男が立っていた。
「○○新聞を取ってほしいんだけど」
と言う。 つまり新聞の勧誘だった。
しかし、その男は、そう言ったあと、玄関から家の中をのぞきこみ、
「あのね。 だれか家の人はおらんの…?」 と聞いた。
「家の人…?」 僕は意味を量りかねて、問い返した。
「そや。 家の人や。 だれか家の人はおらんのかいな…」
そうか。 要するに、僕では話がわからないだろ…という意味である。
「家の人って、僕が家の人だけど」 と僕が言うと、
「へ…?」 と男は僕の頭の先からつま先まで、じろじろと見た。
「あんた、主人か…?」
「はぁ。 主人だけど…」
男はキツネにつままれたような顔で、
「まあ、ええわ」 と言い残し、そのまま隣家のほうに歩いて行った。

何が 「まあ、ええわ」 やねん。 無礼者めが。

ある時は、同じような新聞の勧誘が来て、出てきた僕を見るなり、
「あ、○○新聞やけど、お母さんかだれか、おらんか…?」
と言った男もいた。 こんなとき、僕のプライドは著しく傷つけられる。
いっそ、その男に
「お母さんは川へ洗濯に、お父さんは山へ柴を刈りに行っております」
と言ってやればよかったな~、と、後になってから思ったり。

外国でも、しょっちゅう若年者と間違われる。 
まぁ元々日本人は若く見られるので、僕など当然といえば当然かもしれないが。
ラスベガスでは、あるホテルのカジノの中を歩いていると、
「ヘーイ、カモ~ン」 という声が聞こえた。
見ると、そこはキッズコーナー、つまり子供専用の遊び場所であった。
金髪の兄さんが僕に向かい、ここへ来て遊べ…とにこやかに手招きするのである。
冗談で言っているような雰囲気ではなかった。 
あまりといえばあまりではないか。 ぐすん。 

万事がこんな調子である。
若く見られるなんてロクなことがない…
というのが、これまでの経験から得た僕の正直な感想である。

 

 

 

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だらだら日記

2011年01月22日 | 日常のいろいろなこと

1月21日。 いつものように朝の4時前に目覚まし時計が鳴り、掛け布団を蹴ってガバッと起き、布団から抜け出すと、相変わらず寒いこと寒いこと。 毎朝、布団の外は氷の部屋である。 

3階の寝室を出て、階段を、転ばないように慎重に下り、2階のリビングに入ってストーブをつけてパソコンを開け、そこから約1時間半がブログの時間。 あと少しで書き上がるところまで来てふと時計を見たら、もう6時前になっていた。 こらあかん、と、あわててパソコンを閉じて、長男とモミィの2人分の弁当作りにとりかかる。 モミィの弁当はのり巻きなども作らなければらならないので手間がかかるが、ついでに長男にも同じものを作ってやっていたりすると、時間は飛ぶように過ぎていく。 

僕は玉子焼きを作るのが得意なのだが、その日によって出来不出来がある。 うまく出来た日は気分も格別だ。 今日は、なかなかの出来であった。 よしよし。

弁当作りの合間に洗濯機をまわす。
6時40分ごろ、長男が車で出勤するのを、ガレージで見送る。
時々、長男の手に弁当がないときがある。
「おいおい、忘れてるやろ~、せっかく作った弁当を!」 と、長男の尻を叩く。

そのころ妻が起き、さらに7時になるとモミィが起きてくる。
ゴミ出しの日は、この時間帯に各部屋のゴミを集めてまとめ、集積場まで運ぶ。

脱水機が止まり、洗濯が完了したらそれを持って3階のベランダへ上がって干す。 風の強い日はバスタオルなどは竿にからみつかないよう、洗濯バサミで裾のほうをはさんでおくことも、最近覚えた。

再びリビングに戻ってバタバタと朝食をとるが、実は弁当を作りながらつまみ食いもしているので、だいたい朝は何をどれくらい食べたのか、はっきり覚えていない。

そうこうしているうちに、妻たちは食事を終え、幼稚園への準備のため、1階のモミィの部屋に行く。 その間僕は、テレビのニュースを見ながら後片付けをしたり、風呂に入ってシャワーを浴び、風呂を掃除したりする。 時間はビデオを早送りしているような猛スピードで過ぎる。 すでに8時を過ぎ、起きてから4時間がたった。

モミィはいつも妻に連れられて8時25分ごろ幼稚園へ出発するのだが、この日、家を出る直前に、 「ウンチしたい!」 と言い出した。 そしてトイレに入ったまま、なかなか出てこない。 ドアの前で待っている妻が時計を見て、「あぁ、もう歩いていたら間に合わないわ。 自転車で送ってくれる…?」 と言うので、もちろん引き受ける。

やっと出てきたモミィを大急ぎで自転車の後部席に乗せ、冷たい風を切って幼稚園までヨッコラヨッコラとペダルをこいで、登園時間ギリギリの8時45分に門の前に到着。 「さ、早く行っておいで」 とモミィを降ろして門まで走らせる。 そこに立っておられた園長先生に、「おはようございま~す」 と元気にあいさつをして中へ入って行くモミィの姿を確認して、やれやれと、帰途に着く。 

家に帰ると9時前。 さあ、早くジョギングに出なければ…と思ったとたんに、まだブログのアップが出来ていなかったことを思い出し、パソコンを開けて、ざっと文章を読み直して 「投稿する」 をクリック。 ハァ…。 今日も無事にブログの更新ができた。 

しかしジョギングに出る時間がなくなり、やむを得ず今日は休むことに。 妻と雑談しているうちに10時になり、僕はリュックに水着、スイムキャップ、ゴーグル、タオル、下着、スポーツドリンクなどを詰め込んで、自転車に乗ってフィットネスクラブ・コスパへ出かける。 途中で気が付いたら僕が乗っている自転車は、いつものマウンテンではなく、モミィを乗せている前後座席付の三人乗り自転車であった。 
「えぇ…? オレはなんでこんな自転車に乗ってるんや~」  とほほ。 ボケてるがな。

コスパのプールでは、一番気の合うおばさんとお姉さんの2人と一緒だったので、その人たちと泳いだりしゃべったりで1時間余りを楽しく過ごす。 昼過ぎに帰宅して、さっそくテレビをつけ、好きなフランスパンを手でちぎり、パクっと口の中に放り込みながら、昨日録画した 「外交官 黒田康作」 と 「告発 国選弁護人」 の2本を見る。 妻は時々テレビに目をやりながら、家計簿などを整理している。  モミィがいないうちにやることは多いみたいだ。 

ドラマを見終えるとすでに2時半。 3時に降園するモミィを自転車で迎えに行く時間が迫って来た。 僕はまた服を着替え、コスパの風呂で洗った髪の毛がバサバサのままなのでドライヤーをあて (なにせ、幼稚園に迎えに来ているのは若いママばかりですからね~。 挨拶されたりもするし…)、 「よろしくね~」 と妻に見送られて、また三人乗り自転車にまたがってペダルをこぎ出し、幼稚園の門で待ち、出てきたモミィを乗せて家まで連れて帰ると、洗濯物もすっかり乾いている時間になった。

モミィは着替えたあと、おやつを食べたり 「プリキュア」 のDVDを見たり、広告の紙を切ったり、なにやら工作をしたり、字や絵を書いたり、ワイワイしゃべったりと忙しいが、モミィのことはすべて妻にお任せで、僕は3時半ごろから部屋にこもり、しばし読書タイム。 「宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短編コレクション」 の続きを読む。 松本清張の短編の中でも特に面白い 「1年半待て」 「地方紙を買う女」 「理外の理」 などをまた読んだが、何度読んでも新鮮で、ゾクゾクする。 松本清張と言えば、昼に見た 「告発 国選弁護人」 の原作も清張だったなぁ。 (今日はこの 「告発…」 のドラマについて書こうと思っていたけれど、織田祐二と田村正和の2つのドラマがごちゃごちゃになってしまい、頭の中で整理するのに時間がかかりそうなので、やめた)。

本を読むとホッとする。 また新たなエネルギーが注入されるという感じですね。
さ~て、気分が改まったところで、夕食の支度にとりかかる…

…という1日でした。

そんなことで夜を迎えたわけだけれど、この日は寛平ちゃんが 「アースマラソン」 のゴールをした日だった。 しかもその瞬間をテレビ中継されていたようだけど、それを知らなかったので見ておらず、今朝の新聞でその様子を知った。 前立腺がんを治療しながら約4万キロをマラソンとヨットで駆け抜けた61歳は、パワーのかたまりだ。 敬服。 そのパワーをちょっとだけでも分けてほしい。 僕も、今年はウルトラマラソンのようなものに出場したい、とマジ思った。

午後10時過ぎからは、サッカーアジア杯の準々決勝、日本・カタール戦があり、普通なら見逃せない試合だったが、これも僕にとっては遅すぎる時間なのでテレビ観戦もせず、10時前には寝てしまった。 (最近寝つきがよくなり、夜中に目が覚めることも少なくなった)。 今朝の新聞で、日本が3対2で辛勝したことを知った。 サウジ戦を除き、大苦戦が続くアジア大会の日本代表。 それでも、負けないところが頼もしい。 次の相手は韓国かイランか…?


* だらだらとした長話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

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映画 「アマルフィ」 と TVドラマ 「外交官 黒田康作」

2011年01月21日 | 映画の話やTVの話など

普段からテレビドラマはあまり見ないのだけれど、今年に入ってから、NHK大河ドラマの 「江」 をはじめ、何本か楽しみなドラマが始まったので、それらを録画し、時間を決めて数本まとめて見ることにしている。 録画ではCM部分がカットされるので、水をさされることもなくドラマに集中できるのでありがたい。

まず織田祐二の 「外交官 黒田康作」 である。
新聞の紹介文を借りると、
「外国の様々な情報を集め、相手の思惑を探って交渉にあたる外交官」 の物語である。

このドラマは、映画 「アマルフィ 女神の報酬」 の続編という形になっている。 その映画もドラマの宣伝の一環として、先日フジテレビで放映されていたので見た人も多いと思う。 まずは、映画の話から始めたい。

映画の舞台はイタリアのローマだ。  
日本の外務大臣がG8外務大臣会合に出席するためイタリアを訪問する。 この外務大臣に対するテロの予告があり、それを阻止するため、外務省から特命を帯びて黒田康作こと織田祐二がローマに赴任してくる。 

同じ頃、ローマに遊びに来ていた日本人母子 (母親は天海祐希) に悲劇が起こる。 女の子が何者かに誘拐されたのだ。 知らせを受けた日本大使館では、来たばかりの黒田康作に、通訳を兼ねてこの事件を担当することにさせる。 (彼はどこの国の言葉でも話せる…みたいだ)。 

そして黒田は、母親の携帯に掛かって来たイタリア人の誘拐犯人からの要求を聞く…。 外務大臣のテロ予告と、この誘拐事件が、ストーリーを追うごとに、密接にかかわっていることが少しずつ明らかになる…

そんな筋書きであるが、なかなかスリリングな展開で、テレビ画面から目が離せない。

織田祐二のそっけないほどの冷静さと、言葉もわからない国で娘を誘拐され途方に暮れながらも気丈さを失わない天海祐希の熱い演技との調和が見事だ。 そこに、天海祐希に思いを寄せるエリート商社マンの佐藤浩市がからんできて、物語は 「あっと驚く」 展開へと進んで行くのだが、ネタをバラしてはいけないので、ストーリーの紹介はこの辺で置いておくが、僕にとって、もうひとつこの映画の見どころだったのは、観光名所のコロッセオとかバチカン市国のサンピエトロ大聖堂などがふんだんに出てくるローマの街の風景だった。 

12年前、妻と長男と3人でローマへ旅行したときに巡ったいろいろな観光地を、織田祐二や天海祐希らが走り回る。 誘拐犯人が身代金の取引場所として指定する場所が、テルミニ駅からサンピエトロ大聖堂、そして映画 「ローマの休日」 で有名なスペイン広場などと、次々と変更されていくので、そのつど、主人公たちが走って行く先に、それらの光景が広がる。

いっしょに見ていた妻と、「あ、テルミニ駅だ。 この駅前のパスタ店に2回入ったね~」 な~んて話しながら映画を見ていると、大事なセリフを聞き逃してしまい、また巻き戻して同じシーンを見たりするわけだけど(笑)。

この 「アマルフィ」 という映画のタイトルは、イタリアの地名からとっている。
映画後半、イタリア南部の美しいこの港町に、事件の鍵があった…という設定だ。

僕たちがローマへ旅行したときは、バスで、南のナポリやポンペイまで行ったけれど、アマルフィという土地は知らなかった。 いま地図を見ると、そこよりまだ南の港町だ。 映画の画面で見た限りは、美しい入り江と崖のようなところに点々と建つ白い家々は絶景である。 ナポリより、ずっと美しい街だと思った。 

 オールイタリアロケ、というのは、邦画では初めてなんだそうだ。
いつか機会があれば、ぜひアマルフィに行ってみたい…と胸をときめかす。 
ついでに、もう少し足を伸ばせば 「ゴッドファーザー」 のふるさと、シチリア島もある。 
この映画を見て、南イタリアへの憧憬の念が、ほとばしるように胸を突き上げてきた。

さて、その映画の続編が、先週の木曜日から始まった 「外交官 黒田康作」 である。 テレビドラマの第一回目の舞台は、今度はサンフランシスコだった。 とにかく織田祐二扮する黒田外交官は、テロなどの危険性があれば、世界中のあちらこちらへ派遣され、命を狙われたり、危機一髪の場面に出くわしたりするのである。

サンフランシスコが舞台だと、これも、「懐かしいなぁ」 と、テレビを見ながら、また妻と語り合う。 2004年の1月に、サンフランシスコの街を歩いた。 坂の街サンフランシスコを象徴する路面のケーブルカーがゴトゴトゴト~ンと音を立てて走っている風景。 かの有名なゴールデンゲートブリッジ。 そんな風景をバックに、織田祐二が事件の謎に挑む。

この日のクライマックスは、織田祐二が怪しい人物を車で追跡するシーンであった。 

追われる車も追う車も猛スピードを出しているので、それを見つけたパトカーが2台の車を追いかける。 サンフランシスコ市街地の坂道を、他の車を避けながら疾走する数台の車。 このカーチェイスのシーンは、昔、スティーブ・マックイーンがサンフランシスコ市警の刑事を演じた痛快な映画 「ブリット」 のシーンとまったく同じである。 やはり、サンフランシスコにはカーチェイスが似合うんだなぁ、と、若きマックイーンを思い出したりしながら、第一回目の 「外交官 黒田康作」 を楽しく見終えた。 

話は続き物だから、第2回目以降の筋の展開が気になる。
なぜ死んだはずの香川照之が生きていたのか…?
ドジでのろまな女刑事の柴崎コウが、いつ真価を発揮するのか…?
などなど、次回が大いに楽しみである。

…って言っても、その次回というのは、すでに昨日に終わっているわけで…。
今日は午後からにでも、その録画を見ることにしよう。

ついでに、同じく昨日放映された田村正和の 「告白 国選弁護人」 (第2回) も、録画しているので、見てみよう。 昼食後から、モミィを迎えに行くまでの時間で、2本見られる。

このドラマもお気に入りなので、明日、このことについて書いてみます。 

ではみなさん、 チャオ~ (… と、気分はイタリア人)。

 

 

 

  

 


 

 

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座布団乱舞は土俵の華

2011年01月20日 | スポーツの話題

大相撲初場所11日目。
連日無敵の快進撃を続けてきた横綱白鵬が敗れた。
敗れた相手は、またも先場所と同じ稀勢の里だった。
相撲内容も悪く、立ち合いから攻められっ放しで、押し出された。

去年3月の大阪場所から今場所までの1年間で、白鵬に勝ったのは稀勢の里一人だけ。
たった一人で、大横綱の前に立ちはだかる男である。
しかも前日の相撲では、人気は抜群だが衰えの著しい大関魁皇に敗れている。
これぞ、弱きを助け強きをくじく…男の中の男ではないか。

白鵬が土俵を割ったとき、東京・国技館に、座布団が乱れ飛んだ。
座布団の嵐…。 これぞ相撲風景の真骨頂、と言わなければならない。

というのも先場所、つまり昨年11月の九州場所に、不思議な光景を目にしたからである。

あの運命の2日目。 稀勢の里が、破竹の63連勝中だった白鵬を破るという、まさに歴史的快挙を遂げた瞬間である。 テレビを通して見る観客席の様子が、何かいつもと違っていた。 なぜだろう…と少し考え、「あっ、そうだ」 と思った。 この大金星に対して、観客席から座布団が1枚も舞い飛ぶことはなかったのである。 好きな大相撲を長年見てきた僕には、信じられないというか、まことに異様で不気味な現象であった。

不思議だなぁ、座布団が飛ばないはずはないのだが…。 なんでやろ…? 
ずっと疑問に思っていた。 
すると最近、どこかの新聞記事に、その理由が書かれてあった。 

その理由とは、九州場所が行われている福岡の体育館は、桝席の座布団が投げられないように床に固定されている、ということであった。 

ふ~む、な~るほど。 それで、あれほど喝采を浴びた一番であったにもかかわらず、座布団が1枚も舞わなかったのだなぁ、と知った。 おそらく、土俵の近くに座っている観客に当たると危険である、という配慮からだろうが、座布団が飛ばないと空気が盛り上がらないことも事実である。 だいいち、あんなやわらかい座布団が当たったくらいで、怪我なんかしないだろう (…と思うんだけど)。 

で、昨日の一番では、白鵬が敗れた瞬間、館内に座布団が乱れ飛んだ。

…ということは、東京の国技館は座布団が固定されていないということで、これは暗黙のうちに、「投げてもよろしい」 ということに違いない。

「座布団を投げないでくださ~い!」 という館内放送も、一種の予定調和であろう。 
これがあって初めて大相撲の大番狂わせというものの雰囲気を満喫できるのである。

たぶん、3月の大阪でも、7月の名古屋でも、桝席の座布団は固定されていないと思う。
11月に行われる福岡だけ、投げられないように固定されているのだろう。

そこで、福岡に住んでおられるてつおさんにお願いします。
なんとか福岡体育館に掛け合って、座布団の固定を外すように言ってくださ~い。
そして、他の場所と同じように、やわらかい座布団を1枚ずつ敷いてほしいのです。

座布団の乱れ飛ぶ風景は、大相撲に欠かせない土俵の華ですから。

 

 

 

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彼女がくれた餞別とは…

2011年01月19日 | 思い出すこと

久しぶりに散髪へ行き、長かった髪を短くしてもらった。 

だいたい、2ヶ月に1度くらいのペースでしか行かない。 散髪というのは面倒である。 できたら、散髪というものをせずに一生を終えたい、と思っているのだけれど、世間さまは、ぼさぼさ頭でいると 「おいおいおい、散髪ぐらい、行けよ」 と渋い顔で忠告するわけで、人並みの生活を維持するためには、嫌でも散髪には行かなければならない。 学生の頃には、近所の散髪屋さんと家族ぐるみで付き合ったほど親密だったので、そこでいつも髪を刈ってもらっていた。 しかし、35年前に引っ越してきた藤井寺では、近所の散髪屋の親父は、ぶしつけに僕のプライベートなことを聞いたり、あれこれ世間話を持ちかけてきたりして、うるさいことこの上ない。 ゆっくり居眠りでもしながら…というこちらの希望など、叶うべくもなかった。

煩わしかったけれど、まあ近所だし、他にいい店があるという保証もないので、藤井寺に住んでから何度かその散髪屋行った。 しかし、ある日、僕がその店に入った時、大柄な男性客が散髪を終えて、お金を払って店を出て行くところだった。 そのすぐあとで、散髪屋の親父と若い店員の2人がひそひそと、そのお客の悪口を言い始めたのである。 聞けば、その大柄な男性は、地元のプロ野球・近鉄バファローズの控え捕手だったようだ。 そのお客がいなくなってから、 「あれは太りすぎで動作が鈍そうや」 「近鉄のキャッチャーには梨田や有田がおるんやから、近鉄におっても出番はないで。 どうせ補欠で終わるやろ」 などと好きなことを言いながらヒッヒッと笑っていた。 そのことがあってから、僕はその店に行くのは止めた。 

それから僕は、駅前の大衆理容に行くことにした。
理容組合に入っていないので、値段も低額だし、月曜日でも営業している。
椅子の数も店員の数も、町の理髪店とは比べ物にならないほど多い。
土・日曜日は込んでいるが、朝の早い時間なら待たずにしてもらえるのでてっとり早い。

大衆理容…というのに最初は少し抵抗があったが、いっさいお客に話しかけてくることもなく、何から何まですべて事務的な流れ作業で、しかも速い。 おまけに安い。 さらに仕上がりも悪くない。 もっとも僕は、あまり髪型にはこだわらない人間だし、要するに、何でもいいわけだ。 その点では、僕におあつらえ向きの店といえた。

ここなら余分な気を遣うこともなく、気楽である。 かれこれ30年以上も前から、この大衆理容に通い続けているが、むかしは店のお兄さんたちも態度が横柄で、サービスも悪く 「安い値段なんだからがまんしろよ」 みたいな雰囲気も漂っていたが、年月が経つと共に職人さんもどんどん入れ替わっていき  (ここは全国チェーン店らしい)、 最近は平均年齢が20代か30代かと思われる若い人たちが多く、接客態度もびっくりするほど親切になってきた。

髭を剃るとき、湯気の立った蒸しタオルを口の周りにふわりと置き、置いてから 「熱くないですか?」 と、やさしく聞いてくれる。 まあ、置いてから聞いても仕方ないけど。

洗髪のとき、首を伸ばしてお湯のシャワーを髪にジャーっと浴びるのだが、浴びてから、 「お湯、熱くないですか?」 と丁寧に聞いてくれる。 まあ、浴びてから聞いても仕方ないけど。

たまに、「おみやげはどうします…」 と聞かれることがある。
「おみやげ…? おみやげまでくれるの」 と初めて聞いたとき、驚いた。
「おみやげねぇ…。 どんなものがあるの…?」 と尋ねると、
「いえ、あのぉ、普通でいいですか…?」 と言うので、
「あ、そうね。 普通でいいよ」 と答える。
「じゃ、普通にしときますね、もみあげ」
おみやげ、じゃなくて、もみあげ、だった…。 


散髪にまつわることで、一度、珍しい体験をした。

僕は大学を卒業してすぐ、ある百貨店の楽器売り場の店員をしていた。
しかし、いろいろな事情があって3ヶ月で辞めることになった。

今日で百貨店の仕事が終わるという6月末日のこと。
僕は、ひと気のない売り場で、一人ポツンと立っていた。

「のんさん、ちょっと」 と、うしろから声がした。
見ると、となりのピアノ売り場のお姉さんだ。 僕より2、3歳年上の、小柄でぽっちゃりした美人のお姉さんが、ちょっとこちらへ、と手招きをしている。 僕はお客さんが誰もいないのを確認して、お姉さんの方に歩いて行った。 

「ちょっと、ここへ入ってくれる」
売り場の裏の、品物が積んである倉庫のような薄暗い部屋の中へ、彼女は僕を招き入れた。
「は…? 何ですか…?」
なんとなくドキドキして、僕は薄暗い空間で戸惑っていた。

「もうすぐお別れね。 あなた、髪の毛が伸びてるわ」 と彼女は意外なことを口にした。
「わたしは美容師をやっていたの。 餞別は何もできないけど、その髪の毛、切ったげる」
そう言って、彼女はポケットから鋏を取り出し、手に持っていた白い布を僕の首から肩へ、手際よく広げて掛け、髪の切れ端が直接服にかからないように準備した。

「動かないでね」 そう言って、彼女は僕の背後に回り、髪を裾のほうからジョキジョキと切り始めた。 まわりにダンボール箱が山積みされていて、薄暗く狭い部屋の中で、鋏の音だけがシャカシャカと響いた。 妙な感じだった。

5分くらい経っただろうか。 
「はい。 できあがりよ。 これできれいになったわ」
僕の頭を眺め回しながら、彼女はうれしそうに言った。
「いなくなったら寂しいけど、時々こちらにも遊びに来てね」
「ありがとう。 また、近くに来たら必ず寄ります」
「じゃぁ、これが私の餞別よ。 お元気でね」

髪の屑が散らばった床を掃除して、彼女は隣のピアノ売り場へ戻って行った。

これまで、いろんな人からいろんな餞別をいただいたが、散髪の餞別というのは、後にも先にもこれ一度っきりである。 あのお姉さん、今頃どうしているんだろうな~。


 

 

 

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禁酒の日 その他 ナントカの日

2011年01月18日 | 日常のいろいろなこと

一昨日の1月16日は 「禁酒の日」 だったそうである。

禁酒…。 いま、僕の五感が最も敏感に反応するのは、この言葉に対してである。

まあ自分のことはさておき、5月31日が 「世界禁煙デー」 であることは比較的知られているけれど、「禁酒の日」 って、あまり耳にすることがない。 それに、なぜ1月16日が禁酒の日なんだと思うわけだけれども、この日は、アメリカ全土で禁酒法が施行された日なのだそうだ。 それがいつの話かと言えば1920年のことで今から90年以上も昔のことだ。 それでも禁酒法といえば、酒の密造・密売、ギャングにマフィア、アル・カポネにエリオット・ネスのアンタッチャブルの世界なんかを連想する。 ケヴィン・コスナーやロバート・デ・ニーロやショーン・コネリーが競演した映画が懐かし~い。

ところで最近、このナントカの日、というのがやたらと多いように思う。 
数え上げればキリがないほどである。

毎月の記念日にしても、8日が米の日、 22日が夫婦の日、 23日が文 (ふみ) の日 、などはよく知られているところだ。

他にもいろいろ面白いナントカの日がある。

毎月18日は 「頭髪の日」。 1 (とう) 8 (はつ) の語呂合わせだそうで、全国理容環境衛生協同組合連合会が制定したというのだけれど、何だか苦しい語呂合わせのような気もする。 それに頭髪の無い人は、この日はどうなるんだ、と思ったりしてしまうが、それは余計なことか。

20日はワインの日。 なぜ20日なのかと言うと、フランス語で 「20」 の発音がワインに似ているから、とのことで、日本ソムリエ協会が制定したそうだ。 フランス語で 「20」 をどう発音するのかは、知らないけれど…といつかどこかで書いた時、わがメル友・じゃいさんが、「フランス語でワインは vingt (ヴァン) でござるよ」 と教えてくれた。

にわかに信じられないのが、24日の 「かつお節の日」 だ。 
なんのこっちゃ、という感じである。
「ふ(2)し(4)」 の語呂合わせだという。 でもなぁ…。
「ふし」 をカツオだけが独占しまっていいのか。 
「ふし」 がつくのは 「かつお節」 だけには限るまい。 
たとえばの話だが、青森県はこの日を 「津軽じょんがら節」 の日にしたいだろうし、浪曲協会は 「なにわ節」 の日にしたいと考えているはずだ。  山伏同好会はこの日を 「ヤマブシの日」  にしたいと目論んでいるに違いない。 コンドロイチン友の会は 「節々の日」 の制定を望んでいるだろう。  (そんな会があるかどうか知りませんけど…)

さらに1月と2月にある、ちょっと変わった記念日をいくつか上げてみたい。

1月8日は 「勝負事の日」 だそうである。 一(イチ)か八(バチ)かの勝負の日、とのことだ。 う~ん。 なんだかね~。 ほんまかいな…? と思うような話だ。

ついでに、このイチかバチかという語源だけれど、「丁」 と 「半」 の字の上部をとったものが「一」 と 「八」 になり、それで 「丁か半か」 という意味で 「一か八か」 が使われた…という。 何かの本に、そう書いてあった。

1月15日は 「アダルトの日」 となっている。 そんな日もあるんだ。
昭和22年の1月15日、東京新宿で日本初のヌードショーが開演されて話題になったという記念日なんだそうである。 まあヌードといっても、裸の女性が額縁の中に入って、ただ、じっとしているというだけ、という慎ましいものであったらしい。 現在では笑い話のようなことだけれど、それはそれで、見てみたい気も、ちょっとする。

ちなみに、この1月15日といえば、現在は第2月曜日に変わってしまったが、以前は 「成人の日」 であった。 それと同じ日に、そんな記念日があったというのは何か因縁めいたものを感じる。 つまり、この日は実は 「性人の日」 だった…とかね。 (すみません)。

しかし、数ある記念日を調べていて、最も驚いたのは、バレンタインデーの前日の2月13日である。 この日は、銀行強盗の日とある。 銀行強盗の日って…どんな記念日なんだ。

記録によると、1866年2月13日に、「西部のロビン・フッド」 と言われたジェーシー・ジェイムズ兄弟というのが、初めて銀行強盗に成功した、というのである。 正式には、アメリカで白昼に起きた初の銀行強盗事件、だという。 「ロングライダーズ」 という映画にもなり、ヒットしたらしい。 で、この日が銀行強盗の日と相成ったそうである。 しかし何のための記念日なのか…。 銀行強盗をやるんやったらこの日にやりなはれ…というわけでもあるまいし。 

…と、脱線を重ねてきたけれど、最後に話を自分のことに戻そう。

昨日、徳○会病院へ定期的な検査と診察を受けに入った。

検査結果は、糖尿病の HbA1c やワーファリンのINR、尿酸値、あるいは抗不整脈薬の血中濃度など、気になる数値はほぼ基準範囲内であったが、たったひとつその範囲を超えた高い数値が出ていたのが、案の定ガンマGTPであった。 つまり、アルコールによる肝機能のダメージ度が、相変わらず高いのだった。

年末年始のお酒の飲みすぎで不整脈の出る回数が増え、原則1日2錠服用する抗不整脈薬を3錠に増やしたことが多かったので、薬のストックが底をつきかけていた。 昨日はその薬、 シベノールを1日3錠分、処方してもらった。 まあ、お酒さえ過ぎなければ、1日3錠も飲む必要はないのだけれど。

1月16日の 「禁酒の日」 だけでなく、毎日を禁酒の日にしなければ。

 

 

 

 

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タイガーマスクがマラソン大会で出遭った不幸な出来事

2011年01月17日 | ランニング

~ フルマラソンで初めて4時間を切った日 ~

タイガーマスクといえば、忘れられない思い出がある。

それはタイガーマスクの全盛時、僕が30代だった頃の話である。

僕はその頃、マラソンに熱を上げていた。 
それまでフルマラソンに3回出場したが、タイムはいずれも4時間台だった。

なんとかして4時間の壁を破りたいと練習に精を出し、よ~しこんどこそ、と挑んだ4度目のフルマラソンのことである。

「大阪・高槻フルマラソン」 というような名称の大会であった。

大会といってもきわめてローカルなもので、参加者数は100人前後。 淀川の堤防コースを何度も行ったり来たりするコースで、周辺に選手と係員以外はほとんど人影もない、まあ、かなりアット・ホームなレースであった。

ほんの2ヶ月前に1万人以上が参加したニューヨークシティマラソンを走ったばかりだったので、そのギャップの大きさに戸惑いながらも、ひたすら4時間の壁を破るため、他のランナーたちとともに、黙々と堤防コースを走り続けたのである。

そこに、この地味な空気とはかけ離れたランナーが一人いた。
その人は、すっぽりとタイガーマスクの仮面をかぶって走っていたのである。

42キロを走るのに、そんなマスクなんぞ付けていたら大いに邪魔になるだろう…と他人事ながら心配したけれど、彼は堅実な足取りで、走り続けていた。 

「あの人はね…」
と、僕の横を走っていた知らない男の人が話しかけてきた。
「この界隈では有名なサブスリーランナーなんですよ。 時々ああいう扮装をして、レースに出ているんです」
と、説明してくれたのだった。

えっ…? サブ・スリーだって。
サブ・スリーとは、3時間を切るタイムで走ることを言い、サブフォー (つまり4時間を切るランナー) にすらなっていない僕などとは、月とスッポンほどの大きな実力差がある。

へぇ~、そうだったんだ。 すごいランナーなんだ。 そういう実力者だからパフォーマンスを楽しむ余裕があるのだろう。 今日はタイガーマスクの姿で、楽しみながらお遊びで走っているに違いない。 なぜなら、彼の走るペースは、僕とほとんど同じだったから。

さて、黙々と走っているうちに、疲労が重く脚にのしかかってきた。

刻々と時が過ぎ、僕は時間との戦いを強いられていた。 
いま、タイムは何時間何分…? 
残りは何キロ…? 
果たして4時間を切ってゴールできるのか…? 
なんてことを考えながら、消耗しきった体にさらにムチ打って走っていた。

そんなとき、近くで突然 「ワンワン!」 と犬の鳴き声がした。
…ん? なんだ…?
どこからか野良犬が1匹堤防のコースに紛れ込んできて、タイガーマスクに向かって吠えはじめたのである。

その犬は、他の選手には見向きもせず、タイガーマスクに歩調を合わせて走りながら、吠え続けている。 犬にしてみれば、走っている人間たちには吠える気はなかったのだろうけど、タイガーマスクは、まあ、ちょっと異様である。 怪しいモノを見たら吠える…というのは、犬として真っ当な行為に違いない。

「 ワンワン! ワンワン! 」
「 こら、シーッ、シーッ。あっちへ行け 」
タイガーマスクは威嚇して犬を追い払おうとする。
それでも、犬は彼から離れようとしない。
僕は、ゼイゼイ言いながら、すぐ前方のその光景を眺めて走っている。

「 ワンワン! ワンワン! 」
「やめろ、オレは怪しいモンじゃない」
「ウ~ゥ、ワンワンワンワン!」
「むーっ。 こいつ。 オレを怒らせるなよ」

ついにタイガーマスクは立ち止まった。
「そうか、やるのか。 いいんだな…。 いくぞ! う~ぅ、おりゃぁ! 」
と、彼は吠える犬の前足をつかんで羽交い絞めにして抱え上げ、得意技のタイガー・スープレックス・ホールドでうしろにびゅ~んと投げ飛ばした。
…というのは冗談ですけど。 
  
犬に吠えられているタイガー・マスクを眺めながら、僕は僕で重大な局面を迎えていた。 
もう、ゴールが目前に迫っていたのである。

そして、僕はヨレヨレになり、欲も得もなく、へなへなとゴールへたどり着いた。 

「は~い、お疲れさまでした。ゴールで~す」 
とボランティアの女子高生が飲み物を僕にくれ、正式なゴールタイムを教えてくれた。

「タイムは、3時間59分2秒で~す」

念願達成。 僕にとって記念すべき瞬間であった。 
マラソン4回目にして、初めて4時間が切れたのだ。 
ゴールのすぐ横にへたり込み、しばらく動けなかったが、胸は高鳴った。

ふと、コースの方を見ると、タイガーマスクがゴールに近づいてきた。
しかし、まだ犬がピョンピョンと跳ね回りながら、吠え続けている。

「ワンワンワンワン!」
「しつこい奴だな。 あっちへ行けったら。 シーッ、シーッ」

初めて 「サブフォー」 になった日の、なつかしい思い出であり、
タイガーマスクの名を聞くたびに浮かぶ、楽しい回想でもある。

 1983年 (昭和58年) 12月のことだった。

 


 

 

 

 

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